特集● 新自由主義からの訣別を   

歴史のなかの新自由主義

それはどのように登場し、何をもたらしたのか

市民セクター政策機構理事 宮崎 徹

いうまでもなく歴史はいつも変化するものだ。しかし、ある特定の時期に画期、ターニングポイントのようなものがあることも見て取れる。近過去についても、大きな、あるいは小さな転換が歴史にアクセントをもたらしている。

さて、戦後の福祉国家の後を襲った新自由主義という統治方式が大きなほころびを見せてからこのかた、いまだその先は杳(よう)として見えてこない。それぞれの国家とその相互関係の運航も漂流している。加えて、今回の新型コロナの世界的蔓延が、行き先不明の変動を加速している。その意味では、今はある新たな地平への大いなる転換期だとみなすほかないだろう。

だから、われわれは「どこから、どこへ行こうとしているのか」、自らの立ち位置をできるだけはっきり知っておかねばならない。当面、喫緊の課題は、揺らぎつつある新自由主義とは何であり、その先はどうなるのか、何に替えるべきか、ということであろう。新自由主義は単なる経済思想や政策ではなく、ある時代全般を領導する統治の理念であり、国家と社会の運営方式である。もっと抽象的には、人と人との関係やふるまい方を秩序づける様式であり、人々の価値観にまで強く作用している。それだけに、深くて包括的な分析が必要である。

本稿では、そうした分析の前段として、やや長期的な、すなわち世紀をまたぐ歴史的な変遷を概括し、現在地を再確認しておきたい。歴史や経済問題に通じている人には周知のことばかりであろうけれど、若い人を念頭に頭の整理に役立つことを期待したい。

1.それなりに安定していた19世紀システム

大きな変革期、転換期という問題を考えるに当たって、経済人類学者ポランニーの問題提起に倣いながら、どのように局面が転換していくのかということを整理してみよう。その作業をできるだけ簡明に図式化したのが図表である。

変遷のイメージ図

図表  クリックで拡大

図式化するということは、いろいろと大事なことを切り捨ててしまうので、問題が多いが、現実や歴史はあまりにも複雑だから、単純化・モデル化して、頭の中に入れておこう。

図表は100年単位で描いてあり、左の19世紀システムと書いてあるところから、右のほうへずっと時代が河のように流れていく。それで、途中に大きな断絶と、小さい、といってもそれなりに歴史的な意味のある断絶がいくつかあるという整理の仕方である。ポランニーは、第二次大戦後すぐに亡くなっているので、両大戦間期に大きな歴史的な転換があったという整理で終わっている。それ以降については筆者が彼の考え方に倣って延長してみた。

そのポランニーの整理の基本視点は、まず19世紀文明は4つの制度の上に成り立っていたというものである。4つの制度とは、国際、国内、経済、政治、それぞれに対応している。19世紀の文明社会は、いろいろトラブルがあったが、大まかにみて安定した1つのシステムとして成り立っていた。まず国際関係からみると、政治のほうでは「バランス・オブ・パワー(勢力均衡)」。これは列強間、強国間の力の均衡の上で、いちおう国際政治の安定は保たれていたということである。そして、国際経済のほうは各国民経済が金で貿易の決済をするという形(金本位制)でつながる秩序ができていて、それなりに安定していた。

一方、国内に目を向けると、経済は「自己調整的市場」という考え方で回されていた。これは、要するに、経済のことは経済に任せておけば、問題はいずれ解決するから、政府がいろいろと手を突っ込むなという考え方である。例えば失業が発生したときに、失業者が増えていけば、労働力の需給関係から賃金がどんどん安くなり、それなら雇おうという人がいずれあらわれるのだから、失業問題は時間をとれば解決してしまう。経済のメカニズムというのはそのように働くのだから、政府が関与しなくていいというのである。しばらく前まで声高にいわれた「全ては市場に聞け」とか、「市場に任せよ」という考え方の根っこはここにあるともいえる。

それから国内政治は「自由主義国家」である。政府は街の夜警のような役割をしていればいいという夜警国家論で、軍事、防衛、司法、警察だけをちゃんとやり、経済や社会に手を突っ込むべきではないという考え方である。このように国際と国内、そして政治と経済の4つの制度(基本軸)で、それぞれ問題はありながらなんとかバランスがとれていたので、19世紀文明はそれなりに安定していたということになる。

2.両大戦間期における大転換

ポランニーがいうところの「大転換」はそういうバランスが大きく崩れたことから始まった。両大戦間期に経済社会のシステムは大きく変わらざるをえなかったのである。図表下段にあるアメリカの1929年の大恐慌が大きなきっかけになった。GDPが大幅に減少し、株価が10分の1になってしまうという大恐慌が起きたのだ。その時の最大の問題は大量の失業が発生したことである。先の19世紀的な自己調整的市場観では、放っておけば経済のメカニズムで自動的に解決するとされてきたが、大量の失業が現実に長期にわたって発生しているのに、そういう考え方でよいのかが政治問題になってきた。

さらに、長く続いている経済のスランプを説明できないような自己調整的、調和的な経済理論でいいのかという疑問が起きた。その結果、経済政策思想が大きく転換しはじめた。それ以前の「市場に任せておけばいい」という考え方は支持を失う。やはり政府が関与しないと、経済の不均衡は回復しない。たしかに、普通の時には市場の調整能力が働くだろう。しかし、いったん不均衡になれば、市場経済はその不均衡をむしろ拡大するのであって、自己調整力がいつもあるわけではないということが分ってきた。それで、ルーズベルト大統領のニューディール政策が行われ、公共事業などで雇用を創出していく政策が実施され、大恐慌は7年、8年をかけながら克服されるにいたった。

このように政府が経済過程に関与して、景気の波をコントロールしないと、経済スランプ、とりわけ大失業問題が起きるのだという理解が広がった。自由放任の経済思想から政府が経済過程に関与すべきだというふうに、つまり、アダム・スミス的な考え方からケインズ的な考え方に変わった。

戦争について一言触れれば、この2つの大戦によってそれまでプロ中心だった戦争が、いわゆる総力戦になった。それは国民経済を総動員し、一国丸抱えで戦争状態に入っていくということで、国際政治、戦争の問題についても大きな転換となった。

3.第二次世界大戦後の福祉国家体制

2度の戦争以降の先進諸国の国内政治と経済は、基本的には、経済成長と福祉国家という考え方に基づいて運営されるようになった。政府が金融政策や財政政策を駆使しながら、景気循環の波、すなわち、必然的に起きてくる経済の好不調を調整しながら、安定的に成長を維持していく。そして、福祉国家を標榜する制度と政策は、所得の再分配によって中産階級化を促進する。豊かな中産階級は消費活動を活発化し、高度大衆消費社会となり、経済も成長する。経済成長すれば税収が増え、その潤沢な税収を元手にして福祉政策も展開できるという形で、福祉と成長が車の両輪のようにうまくかみ合ってくる。そういう時代が2,30年続き、それが福祉国家体制の黄金期だった。

そのとき、ポランニーの考え方に沿って、国内、国際、経済、政治の軸はどうなったかをみると(図表下段)、まず国際政治はアメリカとソ連という資本主義と共産主義の二人の親玉がいて、その親玉同士の緊張関係はものすごくあった。しかし、親玉が自分の配下を取りまとめていたので、親玉同士の力のバランスがとれているかぎりでは国際政治全体は結果的に安定する。そういう国際政治構造のことを二極集中型冷戦構造といっていた。

国際経済では、いわゆるブレトンウッズ体制が構築された。戦争の経済的要因の1つとしてブロック化があった。イギリスならイギリスの植民地をまとめながら、アメリカはアメリカ圏でまとまって閉鎖化し、国際経済が分断されはじめた。それぞれが自らの経済的利益だけを至上目的として高い関税や通貨切り下げ競争を繰り広げた。これは近隣窮乏化政策ともいわれるが、ブロックの中だけの経済的な発展を追求したことが戦争の大きな要因になったのだ。その反省から、第二次大戦後は自由、多角、無差別を原則として経済交流、自由貿易体制をつくろうということになり、各国がアメリカのブレトンウッズに集まり、戦後の国際経済の運営ルールが作られた。

戦争直後はアメリカの経済力が圧倒的だったから、アメリカが主導権をとった。その経済力を背景にドルを国際通貨として使うようになった(金ドル本位制)。金1オンス=35ドルという換算レートでいつでも金と交換するので、通常は便利なドルを国際決済に使うようになった。また、金やそれと堅くリンクしたドルで貿易決済していると、ドルが足りなくなった場合、それらを裏づけとしているその国の通貨量が減って経済がデフレになる。つまり、貿易の赤字がすぐ国内経済の困難に反映するようになってしまうので、金と貨幣量の一対一的対応を緩め、ある程度貨幣を裁量的に発行できる制度にもなった(管理通貨制度)。各国中央銀行は金保有に縛られることなく貨幣を発行できるようになり、当時大きかった国際収支面からの成長制約を緩和した。

そして、国内の経済については、ケインズ型の経済政策の展開、すなわち財政・金融政策を駆使しながら、経済の安定と成長を図るという形になった。一方、政治は福祉国家をめざす。福祉を単なる施しや慈善事業ではなく、人々の社会権、生存権に裏打ちされたものとして福祉政策を広く展開する。先の夜警国家=小さな政府とは違う、大きな政府になっていく。

4.福祉国家体制の行き詰まりと新自由主義 

このような仕組みが20年、30年、続いている間に大きな困難が出来してきた。そして先の大転換に比べれば小規模ではあるが、1971年に1つの断裂が生じた。同時に、この頃から福祉国家が行き詰まりはじめるのは、経済成長が鈍化して、税収が十分にあがらない一方で、福祉政策は非常に展開しているということで財政赤字がそれぞれの国で大きくなってきたためである。成長の傾向的鈍化は、イノベーションと新製品の開花という戦後的発展条件の食い尽くしによる。

また、戦後におけるアメリカの圧倒的な経済的なパワーがだんだん弱くなってきた。日本、ドイツなどの競争力が強くなってきて、アメリカが相対化されはじめた。アメリカはしだいに貿易赤字が増えて、ドルをため込んだ国が、金に換えてくれと持ってきたときに、先の交換レートで対応できなくなった。そこで、やむをえず金とドルの交換性を停止せざるをえなくなったのである。

そのときのアメリカの大統領がニクソンだったので、ニクソン・ショックといわれる。それまでは固定相場制という国際通貨制度だった。これは日本に即していうと、1ドル=360円の固定相場でいつもドルと円は交換されていた。赤字が増える一方の国、逆に黒字がたまる国というふうになってくると、固定相場でのドルとの交換はできなくなってきて、今日のような変動相場制に移行した。このときに戦後経済体制の1つの転換があったとみなせるだろう。

このように福祉国家体制を支えた政治と経済のシステムが限界を露呈する中で、経済社会運営の新しいコンセプトなりポリシーが求められ、それが新自由主義、新保守主義の登場となった。

これはイギリスのサッチャーが10年以上政権を維持していて、その中で展開した政策に代表される。それは、福祉国家が経済に負担をかけているとみて、それを取り除くべく大きな政府から小さな政府へ転換しようというものである。経済の重荷になっていたものをはずせば、経済そのもののダイナミズムをもう一回復活させられるという考え方だ。福祉国家から新自由主義へという政策理念の変化は、同じような問題に直面していた国々に広がり、アメリカのレーガン、日本の中曽根政権もその文脈の中にあった。

そのときの国際政治の力関係は、アメリカとソ連だけではなく、多極化しつつあった。国際秩序の担い手がいろいろ出てきはじめたのだ。91年にソ連が崩壊した時には、これで社会主義の親玉がいなくなったから、アメリカが好き放題できるということでアメリカ一極集中の時代だともいわれた。しかし、アメリカの力が全体的には落ちてきて、ドイツ、日本などが台頭してきたので、多極的な国際政治秩序ができはじめてきた。

図表下段の国際経済は、「惰性としてのブレトンウッズ体制」とあるが、これは自由貿易主義でいこう、自由な貿易によって各国が潤うようにしようということをそれなりに維持していたからだ。ところが、リーダーがアメリカだけではなくなっていく。アメリカ、イギリス、フランス、日本、ドイツがフランスのランブイエに集まり、国際経済を共同管理しようとなり、その後G5、さらにG7として定着していく。

もう一度確認しておくと、国内経済は市場原理を中心に運営する。代表的には公社公団の民営化と広範な規制緩和である。それに対応して政治のほうは新自由主義、新保守主義化が進む。新保守主義は結局のところ、市場原理に即応する自己責任の原則が大手をふるい、福祉政策は後退していく。

5.新自由主義の破綻と新たな社会経済構想の模索

ところが、新自由主義、新保守主義の時代のさなか、2008年に小さいながら強烈な断裂があった。リーマン・ショックである。これは、特に金融経済の規制緩和を大胆に進め、マネーの動きが活発になりすぎ、あげくバブルの崩壊に至ったものである。100年に1度といわれるような大きな金融破綻が生じた。

要するに、新自由主義でやってきたが、金融破綻をきっかけとして経済は行き詰り、経済格差や不均衡の問題も出てきて、新自由主義や新保守主義の矛盾や限界が明らかになってきた。ではどうするのか。この10年、いやその前からずっと模索が続けられながら、その明快な解答はまだ出てきていない。

しかし、希望的な観測ながら、大まかな方向は予想できるのではないか。たしかに、昔のようなバラマキ的なことはできないが、ニューバージョンの福祉国家体制に、あるいは環境も必須であることを踏まえて、福祉と環境、両方に目配りしたような経済社会構想になるのだろう。福祉国家という歴史的体験を踏まえれば、さまざまな形をとるとはいえ、人々の生活(環境を含む)が第一、ないし福利厚生の改善をめざさないことには一国の統治は成り立たないであろう。政権ももたない。その意味では、世紀をまたぐ歴史の大河では福祉なり福利という目標に沿う流れが主流である。それゆえ、図表では新自由主義の時代はやや脇道、傍流とイメージした。

さて、この時代の国際政治をみると、図表下段にあるように、極が微弱になってしまった。リーダーシップをとる極がない。それは裏からいうと、全員参加型の国際政治秩序になりつつあるといえるかもしれないが、これは楽観にすぎよう。しかし、たしかに国際経済運営ではG5、G7ではなく、いまではG20といわれている。中国をはじめ新興経済諸国が参加してきて、徐々に全員参加型になり、参加という面では評価できるが、かえって混乱は起きやすいかもしれない。一面では経済的な覇権争いも強まっているのが現実だ。

国内経済は、市場と社会のバランスをどうとるのかということが課題になっていて、その解答はまだ鮮明ではない。つづめていえば、新版福祉国家をどうつくるのかが課題になっている。 加えて、こうした政治経済の100年単位の流れのもっと基底のところで、この図表最上段にあるように、資源問題、エネルギー問題、環境問題(特に最近では生態系変容と絡む感染症問題)などが重大化してきていて、これからの社会経済構想を考える際にはこれらを十分配慮しなければならなくなっている(持続可能な経済社会)ことも銘記しなければならない。

みやざき・とおる

1947年生まれ。日本評論社『経済評論』編集長、(財)国民経済研究協会研究部長を経て日本女子大、法政大、早稲田大などで講師。2009年から2年間内閣府参与。現在、本誌編集委員、生活クラブ生協のシンクタンク「市民セクター政策機構」理事。

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