コラム/温故知新

「統一労働組合」の可能性と挫折

下町の労働運動史を探訪する(10-終回)―敗戦と労働組合再建

現代の労働研究会代表 小畑 精武

1.敗戦日から労働組合再建へ行動開始―西尾末廣

1937年の盧溝橋事件以降、日本の労働組合は風前の灯となっていく。1940年7月7日に最後まで労働組合の旗を守ってきた東交(東京交通労組)が解散に追いやられ、翌8日には総同盟中央委員会が自発的解散を決議するに至った。松岡駒吉会長は「当局が解散を命ずるまでは、あくまでも総同盟を死守する」との決意を最後まで持っていたがついに息が切れた。その時まだ組合数50、組合員2万人が残っていた。総同盟28年間の歴史に幕が引かれた。

西尾末廣著『大衆とともに』

松岡会長と共に最後まで総同盟を守った右派の西尾末廣(大阪砲兵工廠見習工からスタ―ト、職場を転々とし友愛会入会、争議指導、28年の第1回普選に社会民主党で当選、「東の松岡、西の西尾」といわれた。戦中は非推薦の翼賛議員。戦後労働組合再建、社会党結党をすすめ、社会党内閣の時に官房長官、左右分裂で民社党委員長となる)は大政翼賛会非推薦の議員であった。

西尾は「戦時国会では、積極的に何もすることはない。私は毎回の議会で産報の批判をくりかえし、労働者の自主性強化を主張しつづけた。・・・中央並びに地方の指導機関に半数以上の労働者代表を参加させるべきであると主張した」(西尾末廣自伝『大衆と共に』)とただ一人産報批判をくりかえした。この西尾はこれらのことを「戦時下においても労働運動を闘ってきた。終戦直後最初に労働運動再建のために起ちあがったのも、決して偶然ではないのである」と自賛している。

西尾は日本の敗戦必至とみて、ソ連への終戦工作を時の外務大臣重光葵に打診した。重光から「賛成であるが、入国の方法がない。研究しよう」で終わった。さらに、45年2月ころ開かれたロンドンでの国際労働会議(ILO)記事に、中華民国代表による「終戦後の日本処理については労働組合を再建させるべきだ」とあるのを読んでいる。西尾は日本の敗戦が必至とみるとともに「日本は決して滅亡しない」と確信を深め、日本の再建は「労働組合運動者、無産政党運動者の双肩にかかっている」と責任を痛感している。

敗戦と再建を必至とみたのか大阪にいた西尾は、奇しくも8月15日に定期預金2000円(約1,000万円)を引き出しに銀行へ行き、銀行で天皇の放送を聴いている。

2000円を基に活動開始。さっそく敗戦日15日午後、家に帰らず京阪電車で京都の水谷長三郎(労農党活動家、弁護士、大政翼賛会非推薦議員、戦後右派社会党書記長)に会いに行った。「日本の再建はわれわれの双肩にかかっている。そのためには労働組合、農民組合の再組織、社会主義政党の創立が不可欠」と西尾の構想を訴えた。

翌16日には総同盟大阪の幹部を訪ねた。「翌日」といえば、賀川豊彦も過去の関東大震災の翌日に神戸を発ち船で東京へ救援に向かっている。

西尾は17日の夜行で出発、大井町駅から松岡駒吉の自宅へ赴いた。「私は社会主義政党を作ることに専念するから、君は労働組合の再建をやってもらいたい」と松岡に言った。松岡は「急にやっては、戦争に負けるのを待っていたと思われるから、しばらく様子をみよう」と慎重な態度。西尾は「そんな暢気なことを言っている時ではない。かつて労働運動をやったものが、今どうすればよいかの区別もつかずに、虚脱状態におかれている。この際全国の同志に方向を与えて奮起させることが急務だ。そのためには一日も早く労働組合再建準備会の旗を挙げる必要がある。声明を発表してもらいたい」と勧めた。しかし松岡は躊躇したままだった。西尾は敗戦の日に早くも「労働組合再建」の烽火を揚げたのだ。

2.巨象のような「大統一労働組合」を―高野實

西尾より早く1945年(昭和20年)5月から6月ごろに、東京の空襲で焼け出された中間派(合法左翼)といわれてきた荒畑寒村、高野實、山花秀雄たちは芋がゆを食べながら「戦後の労働運動」を話し合った。

高野實著『日本の労働運動』

やがて敗戦の色が濃くなり下北沢の高野の家には特高も憲兵も来なくなった。見張りもいなくなった。代わりに旧い仲間の交流の場になっていく。横須賀、横浜などの情報も入ってくる。8月になると空からB29による「日本軍隊は、完全に武装を解除せられ・・・」「一切の戦争犯罪人に対して厳重な処罰を加える・・・」などのビラがまかれた。

「東西南北、職場という職場をかけめぐり始めた。徹夜してはビラをつくった」「ビラを持って、就業時間中の工場へ、やおら、ちんにゅうする。そこで、職人にわたりをつけて、演説をはじめる。さっそく要求書をつくってやる。団体交渉に立会う。数日にして、何々従業員組合が旗上げされるのである」(高野實『日本の労働運動』)

組合の結成は日に二つ、三つない日はなかった。荒畑も山花も、高野も、馬車馬のように駆けめぐっても間に合わなかった。それでも、めしをかみかみ出掛けた。労働者は奴隷じゃない!人間だぞォとほえて歩いた。

高野は金属機械関係が多い南部での活動が大半だったが、製缶機械などが多い東部地区には9月中旬オルグに入った、蒸気機関車を製造してきた洲崎(江東区)の汽車会社だ。高野はその様子を『日本の労働運動』に書いている。

【組合組織化オルグ ①汽車会社】

「若い守衛に『組合はできたか』とたずねると『あの職人にきいてくれ』といった。見ると50歳がらみの旋盤工だ。奴は、18尺のハンドルをつかんだまま、会釈した。バンコのうえには雨が、じゃぶじゃぶ、おちていた。バンコの向かい側の小僧が番傘をさしかけながら、バイトと一緒に動いていた。労働組合の旗上げをしろ。第一に屋根をつくろえ。雨ざらしの機械をはこんで、みがけ。本工の職人が町に逃げだした(大工はすごく払底だったし、賃金もとり放題だった)のなら、青年部は特攻隊をつくって、本校の見習いになれ・・・こんな具合の演説をしたはずだ。まもなく、関東金属労働組合汽車会社支部が結成された。例の50がらみのおやじが、支部長になった」

同時に、高野實は山花秀雄と相談して今後再建されるべき組合運動のあり方について話し合いを始めた。そこへ松岡が労働組合の旗上げをするとの聞き込みが入る。「放っておけば、左右二つの労働組合になる」高野、山花らが使者となって“巨像のような大統一労働同盟”設立を松岡に申し入れることになった。

3.疎開して助かった―山花秀雄

山花秀雄(左)島上善五郎(右)

山花秀雄全評(日本労働組合全国評議会)書記長は関東大震災後、賀川豊彦の後を追って上京し下町で活動を始め、地域の東京帝大セツルメント(墨田区)の労働学校で学び、労農党の活動に入った。当時本所業平橋(現在スカイツリ―が聳え立つ)に住み、治安維持法違反で獄中に入って39年に保釈出獄、公判闘争が始まった。山花一家6人は空襲を避けるため、42年春大田区北千束の黒田寿男(戦後、労農党主席)宅へ。45年6月には下北沢の高野宅に荒畑とともに寄宿した。

銀座で仕事に就いた時の住まいは本所業平橋1丁目だったが、黒田宅(大田区北千束)へ転居、さらに世田谷区下北沢の高野宅に転居。そこには荒畑も集まり、高野の家には一時5世帯が身を寄せた。3月10日の東京大空襲で業平橋の山花が住んでいた一帯は一面焼け野原になった。疎開せずにもし住んでいたら家族全員(後の社会党委員長で長男の山花貞夫を含む)が亡くなっていたかもしれなかった。敗戦後、山花が罰せられていた治安維持法は10月4日に廃止となり、公判もなく免罪もなく晴天白日の身となった。

山花は、9月には銀座で焼け残ったビルに事務所を設け「戦災者に家を与えよ!」「労働者にパンを与えよ!」「失業者・帰還兵士・引揚者に仕事を与えよ!」と宣伝ビラをまき運動を始めた。

同時に、旧全評の高野たちと「今後再建されるべき組合運動のあり方についてとにかく戦中の七花八裂のような労働運動はこれからはやめよう。戦前・戦中のようなお互いに仲間で喧嘩するようなことは多少のイデオロギ―の相違はあってもやめようではないか」と反省した。

こうした反省にたって、先輩である荒畑は、以下の新しい労働組合運動再建の三原則をまとめた。

①労働組合は経済利害の一致に基づく組織⇔政党のようにイデオロギ―に左右されない単一の包括的な組織(統一労働総同盟の建設)

②工場、職業単位でなく産業単位で 産業民主主義の基盤づくり

➂政党加入の自由(特定政党の従属機関にしてはならない)

この原則に基づき3人は松岡と話に入った。松岡も賛成したが「戦後これから一体どうするのか、戦争前のお互いの悪口の言い合いも一切水に流しましょう」ということになった。45年10月10日に「労働組合組織懇談会」を開く招請状が松岡駒吉の名で旧総同盟、旧全評、旧全国労働、旧交通総連合ら、旧産報運動に積極的に参画した者を除いた180人余に出された。ここに巨大な統一労組をめざす船出が始まった。

【組織化の現場② 全金精工舎】  

他方、山花は墨田区錦糸町にあった精工舎での組織化を「山花回顧録」で紹介している。服部一族が工場長をしていた。事務所に「これからお宅の工場で労働組合を作りますと組織化の挨拶」。工場長は「世の中変わりました、どうぞ。私もサラリ―マン重役ですから。勤労者と同じです」と挨拶をして、1000人ほどの全従業員を集め組合を結成した。その時、共産党の神山茂夫が乗り込んで行き共産党との競合となった。共産党系の中心活動家は戦前労農党の東京府会議員候補になった活動家で山花と面識があったので、初代の組合長は共産党系が、2代目は課長出身者に落ち着いた。組合結成を訴えるビラも戦前は守衛室に突き出され没になったが、世の中が一変し、従業員も皆あげて労働組合をつくるようになった。

4.「分裂」か「統一」か―島上善五郎

東交の島上善五郎は、山花と同じ人民戦線事件で逮捕され獄中入りし、未決で1年半、出獄後同じ東交の支部長から紹介され日本生命の臨時社員、映画撮影所の進行係、1943年9月からは39歳で葛飾区青戸の大きな軍需工場の徴用工となる。

職場での統一  東交右派との統一

8月15日は工場広場で天皇のポツダム宣言受諾・無条件降伏放送を聞いた。気持ちは複雑だった。右翼、軍人が騒擾を起こすのではないかという不安、その反面、「いよいよ立ち上がるとき」だと胸躍る思いが交錯した。島上は工場残留をきっぱりと断り、労働組合再建の志を胸に、焼け跡、廃墟と化していた自由の新天地へと飛び立った。

敗戦後2~3日で高津正道(早大で建設者同盟を組織、共産党を経て労農党、人民戦線事件で検挙、戦後社会党創設に参加)が島上宅を訪問、色々と情報を教えてくれた。話し合いの結果、高津が社会主義政党の結党に向けて、島上は労働組合の再建に歩みだすことを誓い合う。

戦前東交本部での同僚だった北田一郎を訪ね二人で東交職場周りを始めた。北田は城西・城南地区を、島上が城東・城北地区を雨の日も傘を持たずにびしょ濡れになりながら回った。職場で休憩し栄養失調気味の従業員に声をかけるとその顔は明るく輝いた。一回りした後、目黒の職場に集まって「東交再建準備会」をつくることを全職場にビラで知らせることを決めた。

ところが、戦時中に労働組合を解体させ、戦争協力を労働者にすすめた「産業報国会」の理事をしていた重盛寿治たちを中心にもう一つの「東交再建準備会」がつくられ、東交分裂の危機が訪れる。「同じ企業に二つの労組をつくってはならない―これは戦前の東交が味わった分裂の苦い経験である」(島上善五郎)。二つの「準備会」は胸襟を開いて話し合った。その結果「交通局内に一つの労働組合」の原則でまず一致。「社会主義を民主的に実現する」政治方針についても一致。運動方針、組織方針は分担して起草した。

準備会は一本化し、11月20日に戦後労働組合のトップを切って東京交通労働組合再建大会が神田共立講堂で開かれた。11月2日の社会党結党に続いた。だが議論では「社会党の旗の下で」が問題となりはげしい論争になった。荒畑寒村がまとめた再建3原則にある「政党加入の自由」に反するものだったからである。三原則の「統一労働組織」としては46年8月1~3日に統一総同盟が86万人で結成される。東交の「産別組織」としては46年4月25日に「日本交通運輸労働同盟―日交同盟」が結成される。

他方、共産党系の産別会議は46年8月19~21日に163万人で結成された。「三原則」の統一は「総同盟」の左派と右派の統一として46年8月かろうじて実現した。だが思いもかけなかった共産党系産別組織の出現により「大統一労働組織」はついに日の目を見ずに挫折していく。

その後、官公労の生活防衛47年2・1ゼネストが準備される。総同盟、産別会議、中立労組による「全国労働組合共闘会議」が結成され、島上も常任として参加した。参加人員260万人と推定された。政府と全官公との間の溝は中労委あっせんでも埋まらないでストライキは決行される直前まで行ったが、占領軍司令官マッカ―サ―からスト中止命令が発せられ。共闘の伊井議長の涙の「ストライキ中止!」により不発に終わった。

島上は、総同盟の松岡会長らがストライキに批判的であったと「批判」し、高野や島上は協力を惜しまなかったとしている。

島上は、共産党の指導が「経済要求を二の次にし“吉田内閣打倒、民主人民戦線樹立”に主眼をおくのは行き過ぎであり、冷静な大局的判断のもとに、労組の闘争としての“妥結の努力”が必要との意見も、革命前夜と錯覚した共産党フラク(労働組合など運動団体のなかにつくる党員グル―プ)には全然顧みられず、マッカ―サ―司令部の正式命令の壁に突き当たってしまった」と批判的総括をしている。

総同盟結成大会スロ―ガン
1、健全強固なる同盟体の実現      1、生管弾圧・労調法反対   
1、産業復興は我等の手で        1、婦人労働者の封建的差別排除
1、資本家の生産サボ禁圧        1、全国的産業別組織促進   
1、馘首反対・失業対策樹立       1、世界労働組合連盟への参加 

5.伊藤憲一と工代会議

伊藤憲一著『南葛から南部へ―解放戦士列伝』

『南葛から南部へ―解放戦士列伝』の著者・伊藤憲一は戦後東京南部大田区から共産党議員(衆議院、区議会)になるが、戦前は「女工哀史」や争議で有名な南葛地区の東京モスリン亀戸工場に働いて争議を指導した。柳島の東京帝大セツルメンント市民学校に通った(山花は労働学校)。無産青年同盟の活動家で治安維持法違反により逮捕された。結核となり江戸川病院で療養、敗戦は南部の石井鉄工所で迎えた。石井鉄工復職者同盟、石井鉄工所従業員組合を組織し委員長、賃金6倍を闘った。職場の全員を組合員化する戦後の組織化の典型であり、産別会議に結集する新たな運動モデルといえよう。

伊藤は高野の著書『日本の労働運動』(岩波新書)で高野が荒畑寒村、高野、島上、山花たち総同盟左派と共産党の野坂、徳田、春日正一、伊藤律、伊藤、長谷川浩などの幹部が野坂を座長に議論した。そこでは「左翼労働組合主義を清算して、統一労働同盟を建設しよう。その内部で組合民主主義の徹底をはかっていこう」という主張と「あんなダラ幹どもとは決戦すべきだ。今日の問題はバクロだ!手を切れ・・・」という主張の争いだった。

これについて伊藤憲一は「でたらめを書いている」「戦後の労働組合運動を分裂にみちびいた根本原因はその色合こそちがうが、高野君や松岡、西尾らの反共主義にある」と総同盟の「統一労働同盟」に反対し、「何よりも共産党と手を組むべきであった」と主張している。

さらに個人的にも荒畑寒村と徳田球一は「犬猿の仲」で、二人が「統一」を話し合っても話がまとまるはずがなかった(山花秀雄)。

産業別組織と工代会議

共産党は戦後第1回の全国協議会を45年11月に開いた。伊藤は農民部長兼労働組合部長になった神山のもと部員となり南部を担当、東部は長谷川が担当した。「地域に共産党の労組組織オルグ団を配置し、職場に組合をつくり、その力で総同盟に対抗する左翼労働組合を作ろうとしたのではない」と伊藤は主張している。「あくまでも職場に組合を作り、その力で総同盟に組織されたものまでふくめて工場代表者会議を組織して、産業別に単一の労働組合を組織しようというのが、私たち(共産党)の意図だった」のだ。

こうして、東京南部での労組組織化をすすめたが、「経験のないわたしどもには、工場委員会と労働組合の単位組織である職場の労働組合組織がどうにもわからなかった」のが実態だった。そして職場の組織は賃上げ闘争の過程で企業組合として従業員全体を構成員とする従業員組織となっていった。ここに今日の戦後の企業別組合をみることができる。地域の工代会議には職場の委員長など役員が参加する企業(職場)労組代表者組織となって、名称も地域労働組合協議会になっていく。

この自然な流れは日本では本格的な単一産別組織が形成されないで、企業別組織の連合体にとどまった日本的産別組織と日本的企業別組合による地域共闘(工代会議)に整理されていったといえよう。この産別組織と地域共闘はタテヨコの団結により、日本的企業内労組の弱点を補うものとして定着していった。

6.統一労働同盟の構想と挫折

敗戦とともに構想された「統一労働組織」の構想は、荒畑、高野、山花、島上など総同盟左派によって推進され、一時は成立するかにみえた。しかし、共産党系が産別会議を結成して二つのナショナルセンタ―(統一労働組織)が生まれてきたこと、さらに、自然発生的な労働組合結成が燎原の火のように全国に広がっていったことにより、崩れ挫折する。

産別会議は最盛期で170万人、総同盟は120万人に達した。しかし、2・1ストの弾圧・挫折により自然発生的な盛り上がりは限界に達し「産別民主化」の流れが生まれてくる。共産党のフラクションによる組合支配、大衆引き回し主義は破綻していった。産別会議の中からも批判の火の手があがり、1948年2月13日(2・1ストから1年後)には「産別会議民主化同盟」が結成され産別会議は崩壊していった。そして、新たな「統一労働組織」日本労働組合総評議会(総評、議長武藤武雄〈炭労〉)が作られていく。「統一」を進めてきた島上善五郎が1950年結成の総評初代事務局長になった。

だが、この「統一」もまた分裂への始まりであった。課題はまた残された。1989年結成の連合ははたして「統一」の姿なのだろうか?

◇◇◇「下町労働運動史を探訪する」を終わるにあたって

10回にわたって掲載してきた「下町労働運動史を探訪する」は「敗戦をもって終わる最後」ではなく「戦後の始まり=労働組合の再建」で終わった。この時の日本労働運動の歴史的課題である「労働組合の再建」は総同盟、産別会議を問わず瞬く間に燎原の火のように広がった。しかし結果は「挫折」であった。なぜ挫折したのか?1989年の連合による「統一」も「排除」の論理によって、結果的には完全統一にはならなかった。「労働運動の統一」という歴史的課題は「歴史的課題」として残されたのである。

そして、かつて激しい争議が闘われた下町の大工場は今や団地やショッピングモール、高層マンション、IT企業、ホテル群に姿を変えている。そこではコロナ時代に苦闘する「新しい働く人々」による「新しい労働運動」が課題として求められている。

【参考文献】

西尾末廣『大衆と共に―私の半生の記録』世界社、1951

高野實『日本の労働運動』(岩波新書)岩波書店、1980

島上善五郎『昭和史の証言 島上善五郎のたどった奇跡』図書新聞、2013

山花秀雄『山花秀雄回顧録 激流に抗して60年』日本社会党中央本部機関紙局、1979

伊藤憲一『南葛から南部へ 解放戦士列伝』医療図書出版社

おばた・よしたけ

1945年生まれ。東京教育大学卒。69年江戸川地区労オルグ、84年江戸川ユニオン結成、同書記長。90年コミュニティユニオン全国ネットワーク初代事務局長。92年自治労本部オルグ・公共サービス民間労組協議会事務局長。現在、現代の労働研究会代表。現代の理論編集委員。著書に「コミュニティユニオン宣言」(共著、第一書林)、「社会運動ユニオニズム」(共著、緑風出版)、「公契約条例入門」(旬報社)、「アメリカの労働社会を読む事典」(共著、明石書店)

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