コラム/百葉箱
小日向白朗の謎(第5回)
炭鉱街に潜伏後、戦後政治の裏舞台へ
ジャーナリスト 池田 知隆
蒋介石と再会
満州馬賊の総司令として、軍事諜報(スパイ)や特務機関員として暗躍した中国大陸を離れた小日向白朗。中国共産党によって制圧された上海の港から小船で脱出し、舟山列島の大陳島に逃げこんだ。そこに国民党海軍総司令官・桂永清大将が巡洋艦でじきじきの救出に訪れた。一時、高雄の国民党海軍総司令部に軟禁されたあと、1950(昭和25)年4月に台湾の省政府に移された。
そこで蒋介石が白朗を待っていた。二人は1936(昭和11)年12月に西安事件が起きる直前に会って以来のこと。それから13年余の月日が流れていたが、白朗の軍事的経歴をよく知る蒋介石は言った。
「国民党軍の最高軍事顧問に就いてほしい」
南京軍事法廷で白朗と同房にいた支那派遣軍の岡村寧次は、蒋介石により最高顧問格として留用されていたが、前年の1月、日本に帰国していた。岡村と入れ替わるように根本博(陸軍中将、注1)が国民党軍の軍事顧問を担っていた。根本は内モンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官だったが、いったん復員後、占領下の日本から台湾に密航し、金門島の戦いを国民党軍中将として指揮していた。さらに岡村は、日本軍将校からなる軍事顧問団「白団」(ぱいだん、注2)を派遣し、国民党政権に協力していた。
白朗は、岡村が共産軍に対抗するために国民党軍に出した「軍事建議上申書」に参画。「日本人ではなく、国民党支援に役立つ地下
組織を率いる元馬賊王」として南京軍事法廷で無罪放免されたものの、国民党は忠誠の対象にはなりえず、共産党軍との戦いに加わる意思を失っていた。
「争いは民衆だけを犠牲にする。アジアはひとつではありませんか。民衆は平和を望んでいるのです。この大事を成し遂げられるのは蒋閣下、あなたですよ」
白朗はこう言って軍事顧問就任を断った(注3)。中国大陸に残してきた妻子のこともあってか、戦争の早期終結を蒋介石に勧めたというが、それもいささか唐突な釈明として聞こえなくもない。
ともあれ、白朗は同年5月10日ノルウェーの貨物船(軍艦という説も)で横浜港へと送り出され、同月下旬に日本への帰還を果たした。朝鮮戦争が始まる前月で、白朗はすでに50歳になっていた。
炭鉱景気の喧噪のなかへ
日本に帰国を果たしてからの5年間、白朗は足跡を消し、<空白>の時代となっている。いったん、故郷の新潟県三条市に帰郷し骨休めしたあと、すぐに姿をくらました。炭鉱景気でにぎわう三池炭鉱(福岡県大牟田市)の喧噪の中にもぐりこんでいったのだ。
どうして福岡で、それも炭鉱街なのか。白朗は後に、たまたま棒を倒したら、そっちの方角を示した、と答えているだけだ。三池での暮らしについても何も語ろうとはしない。
当時の日本の状況について少しふれておこう。
帰国直後の5月30日、皇居前広場で日本共産党指揮下のデモ隊と占領軍が衝突した人民広場事件が起きている。GHQ(連合国軍総司令部)最高司令官のマッカーサーは「共産主義の脅威」を公然と語り、日本を「反共の砦」にする戦略に転換していたものの、戦争犯罪をめぐる世間の空気はまだ冷めてはいなかった。
日本の戦争犯罪を裁いた極東国際軍事裁判(東京裁判)で、白朗と親しかった土肥原賢二、板垣征四郎、東條英機ら日本軍指導部はA級戦犯としてすでに処刑(1948年12月23日)されていた。BC級戦犯は世界49カ所の軍事法廷で裁かれ、被告人約5700人のうち約1000人が死刑判決を受けたとされる。中華民国では南京軍事法廷(28裁判)を含め全605裁判(被告総数884人)が行われ、馬賊の伊達準之助や関東軍に手を貸して諜報活動していた「東洋のマタハリ」、川島芳子はすでに銃殺刑に処せられていた。
大陸で多くの殺戮にかかわってきた白朗の行動は当然、戦犯の対象とされてもおかしくない。かろうじて処刑をまぬがれ、日本に帰国したが、中国大陸で悲惨な体験をした多くの人々がどこでどう眼を光らせているかわからない。白朗はひたすら人目を避けようとした。
朽木寒三の『馬賊戦記』には、こんなくだりがある。
「終戦後、白朗は九州の大牟田でばったりと加藤万次郎に出会った。
『小日向さん、小日向さんじゃありませんか。おれはあんたをそりゃ探しましたぜ。ああ生きていたんですね。あんたの行方をさがそうとして新聞広告でも出そうと思っていた』
白朗自身は、一切の知人友人の眼をさけて潜伏中の身であった。名前さえ全く、別の名を名乗っていたぐらい……」
加藤万次郎は、白朗が馬賊の頭目だったときに配下だった老馬賊だ。だれにも知らせずに、変名を名乗り、どうして福岡に隠れていたのか。福岡に拠点を置く玄洋社の総帥、頭山満の人脈を密かに頼ってのことなのか。頭山は終戦前に亡くなっていたが、白朗が張学良率いる東北軍閥の拠点・奉天城の襲撃計画(1929年)を立て、逮捕されたときに強力に弁護し、救出してくれたからだ。
白朗は大牟田市内でトラックの運転手として働き、生活の糧を得ている。5年ほど暮らすうちに勤務先の社長の妹、10歳下の杉森芳子と結婚することになる。
ちなみに白朗はその生涯で3度結婚している。最初は1936(昭和11)年2月、相手は北海道出身の杉坂ミヨ(美代子)、白朗36歳のときだ。次が上海時代の1940(昭和15)年、中国人女性の張孟声で、その翌年に長男明朗が生まれた。激動する中国大陸に残してきた妻子を慮り、杉森芳子を入籍したのは1968(昭和43)年、68歳になってからだった。
労働争議を見つめながら
白朗の生涯の映画化を企画中の港健二郎監督は、白朗が大牟田に潜伏していたことを知り、心を躍らせた。港監督(1947年生まれ)の故郷も大牟田市だ。かくいう筆者(1949年生まれ)も大牟田の隣町、熊本県荒尾市の生まれ。筆者の記憶にも炭鉱景気に沸く街のにぎわいが鮮やかに刻まれている。幼少期の、それもほんの一時期とはいえ、白朗と同じ空気を吸っていたことになり、筆者にも白朗が身近に思えてきた。
当時の三池炭鉱の状況にも少し触れておきたい。
この三井三池炭鉱は、戦争で虐げられた人々の国際的な「るつぼ」でもあった。敗戦前、この地にいた戦争捕虜は1737人。三井の9つの捕虜収容所に、米国人730人、オーストラリア人420人、オランダ人332人、英国人250人、それに他の国籍の55人が収容され、鉱山労働者や港湾労働者として使われていた。敗戦とともに、炭鉱労働者の姿は激変した。45年6月、24466人いた労働者は、敗戦後の11月には10283人と、いったんは1万人そこそこにまで減ったが、翌年12月には28130人に激増している。いわゆる「傾斜生産方式」という石炭・鉄鋼・肥料産業に資金や資材、労働力を集中させる国の政策が採られ、海外からの復員軍人を含め全国各地から労働者が殺到した。経営者側も審査らしい審査もせず、どんどん採用した。多くの新住民が流れ込み、新たな労働者による「コミューン」が形成されていく。
やがてエネルギー源は石炭から石油へと変わっていく。石炭需要が落ち込みを見せ始めるなかで53年、労働者の指名解雇によって労働組合がストライキに突入。会社側は指名解雇を撤回し、「英雄なき113日間の闘い」として三池労組は一躍その名を高めた。そして「総資本」対「総労働」の闘いといわれる三井三池争議へと発展していく。
その三池の街に白朗はどんな足跡を残しているのだろうか。朝鮮半島の戦乱でかつての配下だった馬賊集団が中国人民志願軍に混じって遊撃戦を展開し、白朗は九州から彼らと連絡していたとの伝説も聞いたことがある。いかにも白朗らしい噂話だが、その根拠はどこにもない。それでも白朗を知る人が生きているかもしれないと、かすかな希望を抱き、港監督と筆者は地元紙「有明新報」に協力を依頼して白朗に関する情報を募った。すると、思わぬ反響があった。
三池山のふもとで年金生活しているNさん(88歳)から「元福岡銀行大牟田支店に勤務していましたが、1950年当時、たしかに小日向さんに会い、口座も作りましたよ。上海時代に阿片を介して蒋介石と渡り合っていた……と話していた記憶があります」との情報が寄せられた。たしかに白朗は大牟田にいたのだ。
そのうちに国内では戦犯赦免運動が広がっていく。52年には衆議院本会議で「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」が可決され、54年には極東軍事裁判で戦犯として処刑された人々も「公務死」と認定された。やっと世間に姿を現す機会が訪れたと、白朗は感じた。
1955(昭和30)年夏、5年間に及ぶ潜伏生活を切り上げ、上京する。敗戦から10年。1人当たりの実質国民総生産(GNP)が戦前の水準を超え、経済成長の始まりとなる「神武景気」の幕が開いた。翌年には経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書で記し、日本は驚異的な経済復興を果たしつつあった。
「耽黙洞」の看板を掲げて
上京した白朗は、新宿・百人町のアパートの一室に白朗は「耽黙洞」という表札がわりの看板を吊るした。沈黙に耽(ふけ)って洞にこもり、戦争の残影を避けながら政治の動向を見つめようとしていたのだろうか。
その一方で戦前の知人たちを訪ねて回り、『日本人馬賊王』の執筆にかかる。馬賊仲間で秘書的存在だった野中進一郎宅で作家、川合貞吉とこの自伝をまとめたことは連載第2回で触れた。戦前のコミンテルン(ソ連共産党の国際共産党組織)に所属しゾルゲ事件で検挙された最左翼の川合と、最右翼の白朗との接点に疑問を抱いていたが、戦前に二人は別件で満州・新京(現・長春)の警察署に留置され、そこで肝胆相照らす仲になっていたという。偶然がもたらす人間の縁は実におもしろい。
波瀾万丈の自叙伝『日本人馬賊王』が刊行されたのは1957(昭和32)年11月。義理人情に篤い元馬賊王として白朗は戦後社会にデビューを果たす。後に小説『夕日と拳銃』で知られる直木賞作家檀一雄との対談(「せまい日本にゃ住みあきた」雑誌「人物往来」1966年1月号)でこう語っている。
小日向 俺は馬賊の頭目だった、という人に、日本に帰って来てから通算二百人近く会っている。調べてみると軍の工作のために山賊や匪賊を帰順させて、諜報謀略のためにやっていた連中が多いんですね。特務機関に属していて金や物品を補助されている。山猫作戦とかドブネズミ作戦とかの映画に出てくるあれです。ひどいのになると、俺は〇〇王だとか、××竜だとか称して、軍部の偉方のところへ行って、”尚旭東、よく知っております。元気のいい青年で、私の配下でよく活躍してくれます”などと言ってまわるんですね。馬賊の名を借りて生活の道を開いているんでしょうから意に介さなかったけれども。(平塚柾緒編『満州事変』「目撃者が語る昭和史5」新人物往来社)
さらにNHKの人気テレビ番組「私の秘密」(1955年4月~1967年3月)にも出演する。「事実は小説より奇なりと申しまして……」と、司会の高橋圭三アナウンサーの名調子で始まり、珍しい体験や才能を持った人が次々に登場し、解答者たちがその「秘密」を当てる番組だ。我が家にテレビが入ってまもなく、同番組にゲスト出演した俳優、笠智衆の友人として筆者の伯父さんが登場し、親戚中で盛り上がったことも懐かしく思い出される。残念ながら、その白朗の出演日を確定できなかったが、白朗のその出演以降、自称馬賊たちは急に姿を消していったという。
ついでに言えば、白朗のいうドブネズミ作戦は、岡本喜八監督の『独立愚連隊』『独立愚連隊西へ』と続く『愚連隊シリーズ』の第3作目『どぶ鼠作戦』(1962年、東宝)。佐藤允らが演じる型破りな兵士たちを描いた戦争アクション映画だが、中学生だった筆者もその痛快な活躍に胸を躍らせた。満州、中国での日本軍の姿を皮肉っぽく描いた勝新太郎の映画『兵隊やくざ』シリーズも欠かさず見た。喧嘩っ早い本能まるだしの勝新太郎演じる初年兵が、インテリで平和主義者の上等兵(田村高廣)と反抗して暴れまわる痛快な活劇だが、一種の「反戦映画」ともいえるのだろう。そのころから日本人に日本軍の内実を少し距離を置いて見つめる余裕が生まれてきたともいえる。だが、中国の側からの視点はそこにはない。
さらに中国での日本軍の残虐行為の事実を多く書いた五味川純平の小説『人間の条件』(1956年~58年)がベストセラーとなった。中国において戦犯として裁かれ、釈放された日本軍人の告白を記した『三光』(1957年)も刊行され、日本国民の間でも日本軍が中国で犯した戦争犯罪の実態が少しずつ知られるようになった。
ちなみに筆者が、戦争を初めて意識したのは56年公開の映画『ビルマの竪琴』(竹山道雄原作、市川崑監督)で、小学生のころに見た。元日本兵の青年僧(水島上等兵)が日本兵収容所の柵越しに聞こえてきた唱歌『埴生の宿』に竪琴をかき鳴らして伴奏し、『仰げば尊し』を弾いて森の中に去っていくシーンは忘れられない。日本に帰る船に届いた水島の手紙に涙ぐむ兵士たちの上で、水島が残したインコが「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶ最後の場面に胸を締めつけられた記憶がある。
海外の戦地に残された日本軍の死者たちを「追悼」した『ビルマの竪琴』、日本軍内部の「不条理」を描いた『兵隊やくざ』などの戦争アクション映画、日本軍の「侵略性」「残虐さ」を問いかけた『人間の條件』など数々の映画によって、直接に戦争を知らない筆者は戦争観を形成してきた。しかし、それらの映画は上面で感傷的だと、自ら過酷な戦争をくぐりぬけ、痛快な武勇伝として語る白朗は一蹴していたかもしれない。
『日本人馬賊王』で自らを「日本軍国主義の運命の蔭に躍った一つの影法師に似たもの」と記している。しかしながら、白朗自身は戦争責任の自覚を深めているように思えない。日中の戦争における膨大な死者についての言葉も聞かれない。激烈な戦争体験に伴っても人格にさしたる変化は見られず、戦争責任の問題がその脳裏に浮上することもなかったのではないだろうか。波瀾の時代を生き抜いた強靭な精神への自負と、徹底したプラグマティスト(実用主義者)としての姿が浮かんでくるだけだ。
「合気会」顧問に
白朗が戦後のネットワークに広げていく糸口の一つに合気道開祖、植芝盛平(注4)との交流がある。
二人が出会ったのは1924(大正13)年春。植芝は新宗教「大本」の聖師、出口王仁三郎(注5)と蒙古に向けて旅をしており、馬賊の頭目だった白朗は聖地・千山の葛月譚老師から王仁三郎に会うように勧められたのだ。
王仁三郎は、関東大震災(1923年)で来日して救援活動をした中国新宗教団体「道院(世界紅卍字会)」(中国版赤十字)と接触して以来、大陸への関心を強めていた。第1次大本事件(1924年)で出獄中に「神の国を建設して失業問題と食料問題を解決する」という構想をたてた王仁三郎は信者でもある植芝らを連れて来ていた。王仁三郎一行には盧占魁(ろせんかい)という馬賊の頭領が付き添い、軍閥・張作霖からも内外蒙古の匪賊討伐委任状を受け取っており、白朗が深くかかわる余地はなかった。
ダライ・ラマやスサノオを名乗り、天衣無縫な王仁三郎。だが張作霖は、王仁三郎一行が全モンゴルの統一と独立を目指していることを知って怒り、討伐軍を派遣した。6月20日、パインタラ(現在の通遼市)で捕虜となった盧は処刑され、王仁三郎らも銃殺されそうになる。その処刑直前に日本領事館(日本軍)の介入で解放された。
この事件について『馬賊戦記』では、
「白朗が参謀として同行していたら、もっと平和裡に終始し得たかもしれない、すくなくとも張作霖軍の一撃をまともにくうようなヘマはおかさなかったであろう。
ともあれ教団の記録には、小日向白朗についてこう記されている。
『しかし、ここで特に附言の必要を感ずるのは、王仁三郎の入蒙当初に、すでに内蒙古、華北、熱河最大の実力者であり、今日に於いてもその波瀾万丈の半生と仁侠気骨の故に日本人馬賊王とうたわれる小日向白朗の背後からの援護があったという事である』」
と書かれている。
植芝は、満蒙での死線を越える体験を通して霊感を研ぎ澄ませた。翌1925(大正14)年、「突如大地が鳴動し黄金の光に全身が包まれ宇宙と一体化」した「黄金体」体験によって心眼を開かれたという。「武道の根源は神の愛である」と悟った植芝は41歳。真の合気道はこのときをもって出発したとされる。
白朗は植芝との再会を喜び、植芝が主宰する「合気会」の顧問・理事に就任する。武道関係者や大本とも独自に交流を深めていく。大本は現在、規模が縮小しているが、大本から生長の家、世界救世教などが分派し、生長の家から白光真宏会、世界救世教から世界真光文明教団などが生まれ、多くの新興宗教と呼ばれるもののルーツとして知られる。
日本の右翼や民族派団体の間で存在感がすこしずつ大きくなっていった白朗のもとに、こんな話が持ち掛けられた。
「池田首相のもとで右翼対策をやってみないか」
1960(昭和35)年の夏、日米安全保障条約が改定されたころのことだ。
「児玉誉士夫(注6)らが政界に食い込み、国家を危うくするまでになっている。右翼嫌いの池田はこうした連中と決別したいのだ」
岸信介前首相や河野一郎らと組み、政界で暗躍している児玉のことは白朗も耳にしていた。戦争中、海軍航空本部のために物資調達を行い、終戦時までに蓄えた物資を占領期に売りさばいて莫大な利益を得た児玉。この豊富な資金を使って、戦後分裂状態にあった右翼を糾合し、鳩山一郎など大物政治家に政治資金を提供し、「政財界の黒幕」、「フィクサー」と呼ばれていた。
しかし、敗戦前の上海時代、陸軍の特務機関とのつながりが深かった白朗は当時、児玉のことを何も聞いたことはなかった。
「お安い御用です」
白朗は池田首相の私設調査機関に参加した。
注1 根本博(ねもと・ひろし、1891~1966、中国名:林保源)福島県生まれ。日本の陸軍軍人及び中華民国の陸軍軍人。最終階級は共に陸軍中将。栄典は勲一等・功三級。陸士23期。陸大34期。終戦後もなお侵攻を止めないソビエト軍の攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在していた在留邦人4万人を救ったことで知られる。
注2 白団(ぱいだん)。蒋介石の要請により台湾の国軍を秘密裏に支援した旧日本軍将校を中心とする軍事顧問団。1949年から1969年までの間、団長富田直亮(陸軍少将、中国名:白鴻亮)以下83名にのぼる団員が活動した。
注3 関浩三『日本軍の金塊―小日向白朗の戦後秘録』から。
注4 植芝盛平(うえしば・もりへい、1883~1969)和歌山県生まれ。柔術・剣術など各武術の修行成果を大本や神道などから得た独自の精神哲学でまとめ、合気道を柔道・空手道などに次ぐ国際的武道に育てた。
注5 出口王仁三郎(でぐち・おにさぶろう、1871~1948)京都府亀岡市生まれ。強烈な個性と魅力とカリスマを持ち、「国家神道」と相容れない教義を展開。危険勢力として政府の弾圧を受け、その思想と布教方法は戦後の新宗教に大きな影響を与えた。
注6 児玉誉士夫(こだま・よしお、1911~1984)福島県生まれ。日本の右翼運動家。自称CIAエージェント。田中角栄元首相らが逮捕されたロッキード事件で、賄賂受け渡しの中心にいたといわれ、「戦後最大のフィクサー」と呼ばれた。
いけだ・ともたか
一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
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