論壇

宗教は高校でどう教えられているのか

新科目の「公共」教科書を読む

河合塾講師 川本 和彦

「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、安倍晋三を射殺した山上被告人についてはその反対、「人を憎んで罪を憎まず」という思いが私にはある。

山上被告人の思考は新自由主義に汚染されていると言うべきか、神奈川県相模原市のやまゆり園で、障害者を多数殺傷した植松死刑囚に通じかねないものを感じた。だから減刑嘆願運動などに参加する気持ちは少しも、まったく、かけらもない。だが安倍射殺のおかげで、統一教会と自民党のズブズブな関係が浮かび上がったのであるから、結果的に「功績」である。

これをきっかけに、宗教が高校でどのように教えられているのかを見てみたい。

ここでは、新科目「公共」の高校教科書をベースとして考えることにする。この科目は25%が倫理分野、75%が政治・経済分野という構成になっている。倫理と政治・経済を関連づけて学ばせようという姿勢が見られる。あまり成功していないようであるが。

教科書は実教出版、東京書籍、数研出版、第一学習社(これはリベラル度が比較的高い順)の4社が発行しているものをとりあげた。

なお蛇足ながら一言。こういう文を書くときには「テロには反対だが」「暴力はいけないが」というフレーズを添えておくのが一般的のようだ。今回はこれを省く。テロをやりましょう!と煽っているのではない。テロや暴力がすべて否定の対象なら、伊藤博文を暗殺した安重根は極悪非道の人なのか? ロシア軍に対するウクライナ軍の反撃は、全面的に否定されるべきなのか?

そういう疑問を残したまま、惰性で慣用句を使うのは控えたい。

取り上げる宗教に偏りがある

宗教の教義については解釈が分かれることもあり、高校教科書レベルで深く触れることは難しい。日本史・世界史における文化史の一環のような扱いにとどまるのは、致し方ない面があろう。というより、当然とも言える。

仏教・キリスト教・イスラーム(この語句自体に「イスラムの教え」という意味があるので、本稿では「イスラム教」という言い方はしない)という、世界三大宗教について、開祖やおおまかな教義の説明をすることに異論はない。

とはいえ、ユダヤ教を紹介しているのにヒンドゥー教に触れないのは、いささか不公平であろう。

ユダヤ教に関してはキリスト教の母体という側面があるので、キリスト教を取り上げた以上、ユダヤ教も取り上げるのは自然である。

だが中国を抜いて人口世界一になるのが目前の(いや、既に中国を上回ったという指摘もある)インド、そのインドで人口の7割前後が信じているヒンドゥー教は、信者数では世界でトップレベルである。

日本に伝わった大乗仏教にしても、ヒンドゥー教の影響をかなり受けている。

文化の雑種性という「多様性」を見る上でも、無視すべきではない。

三大宗教のそれぞれの説明にも、物足りなさを感じる。キリスト教はカトリック・プロテスタント・正教を主要宗派とするが、ロシア・東欧に信者が多い正教については、どの教科書も触れていない。ウクライナを侵攻したロシアについて理解を深めるという名目でもいいから、一言触れることが望ましい。

イスラームは多数派のスンナ派、少数派のシーア派に分かれるが、そのことにも言及がない。シーア派が少数といってもイランやイラクでは多数である。同じイスラームでも、スンナ派が多い国とシーア派が多い国の関係は良好とは言い難い。国際政治の理解を助けるためにも、両派についての説明は簡潔であっても載せるべきだ。

神道の位置付けがあいまいである

一方で日本の神道に関しては、文部科学省検定を経たわりにはそっけない。

「神道」の2文字が出てくるのは、実教出版版のみ。それも、「豊かな恵みをもたらす一方で厄災をもたらすこともある神々を祀る儀礼として、神道が成立した」というレベルの記述にとどまる。確かに、歴史的事実に反するものではない。

しかし考えようによっては、この記述自体が曲者である。戦前の日本では皇室祭祀・神社祭祀は「祭祀」であり「宗教」ではないという位置付けであった。この位置付けを悪用して、国家が国民を戦争へ動員する道具にしていたのだから。

戦後においても、この流れが断絶したわけではない。東京書籍版に説明がある津地鎮祭訴訟では、最高裁判所が地鎮祭は世俗的行事であり宗教活動にはあたらないという判決を下している。憲法の政教分離原則に反しないというわけだ。

政教分離に関して言えば、教科書に載っている訴訟は「津地鎮祭訴訟(合憲判決)」と「愛媛玉串料訴訟(違憲判決)」である。靖国訴訟の記述はない。1985年、当時の首相である中曽根が靖国神社へ参拝したことに対して、訴訟が起こされた。「岩手県靖国神社訴訟」と「愛媛県靖国神社訴訟」では、1992年に高等裁判所が違憲判決を出している。このうち「愛媛県靖国神社訴訟」においては、1997年に最高裁判所の判決も出て確定した。

玉串料は載せて公式参拝を載せないというのは、大学入試対策上もまずいのではないか。

カルト対策に触れていない

民法改正で成人年齢が引き下げられたことにより、若者に対する消費者教育の重要性が指摘されている。であるならば、統一教会における宗教2世のような犠牲者を出さないために、また2世が自らを解放するために、カルト宗教にどう対応するのかを教えるのも、公教育の責務であると考えられる。

もちろん、何がカルト宗教であるのかという定義は容易ではない。ひとつ間違えれば、信教の自由を弾圧することになる。

この点で参考になるのは、カルト規制法を持つフランスであろう。1995年には国民議会の委員会が、カルトの法的な定義はできないとしつつも、危険な宗教としての基準を10カ条にまとめている。

1 精神の不安定化

2 法外な金銭要求

3 元の生活からの引き離し

4 身体に対する加害

5 子どもの加入強要

6 反社会的な言説

7 公序に対する脅威

8 訴訟を多数抱えている

9 通常の経済流通経路からの逸脱

10 公権力への浸透の企て

これを日本でそのまま採用する必要はないが、参考として教科書に載せてもいいのではないだろうか。旧統一教会などは、かなり当てはまる気がする。

消費者教育に話を戻せば、教科書には悪質商法の例がいくつか示されている。最も充実しているのが数研出版版で、ネガティブ・オプションやキャッチセールス、アポイントメントセールス、マルチ商法の説明がある。だが、霊感商法に触れているのは東京書籍版のみだ。大学入試には出題されたこともあるので、政治とは無関係に載せるべきではないか。多くの若者が標的にされてきたのだから。

伝統的な祭りが無条件に賛美されている

村おこしという観点もあってか、教科書は地域の伝統的な祭りには好意的である。東京書籍版は福島県の早乙女踊りに参加する高校生の取り組みを、写真つきで掲載している。

これ自体は必ずしも悪いことではない。大人による強制でなければ、科目名でもある「公共」空間への参加は、自発的に行動する市民への第一歩である。

とは言うものの、問題は残る。高校生は、いや、周囲の大人たちもこれが宗教活動という自覚はほとんどない。むしろ、伝統文化を守るものだという意識だろう。ただ五穀豊穣を祈願する以上、神事ではある。高校生の中に三大宗教信者がいた場合、参加をためらうかもしれない。外国籍の子どもであれば、迷惑に感じる可能性もある。

郷土を愛する素朴な心情はしばしば、近代国民国家へ統合される。中央主権的な国民国家への忠誠心が十分でない場合、郷土を愛する心情がそれを補強することもある。その可能性に対して、私たちはもっと警戒心を持つべきであろう。

社会貢献活動が無視されている

ここまで書いてきて誤解されそうなので説明させて頂くが、宗教そのもの、あるいは宗教団体をすべて否定的に見ているわけではないのですぞ。

宗教団体による社会貢献活動は、日本においてもかなり行われている。各地で展開している子ども食堂の中には、仏教の寺院やキリスト教の教会によって担われているものがある。ホームレス支援なども同様である。

大竹文雄・大阪大学教授の研究によれば、子供のころ近所に神社があったという人は、人から恩を受けたら返したいという互恵性を持っている可能性が高いそうだ。一方で、お寺かお地蔵さんが子どものころ近くにあった人は、一般的に信頼、互恵性、利他性のいずれも高い傾向がある。

因果関係は明確ではないが、高校生の研究課題としてこういう話題は載せてもらいたいと考える。

規模が大きい活動としては、条約推進がある。残念ながら日本が参加していない核兵器禁止条約を発案したNGOであるICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)には、世界宗教者平和会議と創価学会が協力した。

宗教団体の宣伝になっては問題がありそうなので、教団名などを教科書に載せる必要はない。だが、「ある宗教団体がこういう活動に取り組んでいる」といった記述は、一部でも載せることが望ましい。ばらばらの個人と剥き出しの国家権力の間に位置して個人を守るのが社会、中間団体であるとすれば、宗教はその一翼を担うことができる。少なくとも可能性はあるはずだ。

宗教の可能性や問題点には触れず、文化の一部としてしか紹介しない現行の教科書は、果たすべき責任をかなりの程度、放棄していると言えるだろう。

それを補う高校教員の授業に期待したい。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。日本経済新聞記者を経て現在、河合塾公民科講師。著書に『政治・経済講義の実況中継』(語学春秋社)など。

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