論壇

「河合文化教育研究所」という予備校のささやかな冒険

予備校にあった生き生きとした可能性はどうなった

「河合ブックレット」元編集者 加藤 万里

奇妙な研究所

河合文化教育研究所は、この2023年3月末をもって1980年代半ばからの実質40年に満たない活動を終えると、そのサイトだけをweb上に残し、そのまま消滅した。

その時からわずか1カ月、いまやその研究所の母体であった予備校河合塾そのものが、この研究所の存在を、つねにすでになかったもののようにしてさっぱりと忘れ去ろうとしている。あたかもずっと前から準備されていたようなこの忘却の速さは、いったいどうしたことなのだろうか、と思う。

河合文化教育研究所は、一応研究所とは名のつくものの奇妙な研究所であった。母体が河合塾とはいえ、ここには予備校という受験産業を彷彿とさせるものはいっさいなく、とにかく何をするのも何を批判するのも自由で、主任研究員をはじめとしてこの研究所に関わった全員が形にならない夢を追っているような研究所だった。いまとなっては信じられないことだが、1980年代半ばの創設当時は、河合塾の経営陣ですら、必ずしも同床異夢とばかりも言えない、何かふわふわとした雲をつかむような夢をこの研究所に託していたのである。

河合塾は、ある時期から、数年に一度は、河合塾講師の代表だか有志だかの人々によって経営陣に対する厳しい「大衆団交」が行われるような、予備校としてはやや特異な風土を持つところである。ここでは、教育の問題、人事の問題、内部留保の問題から果ては、なぜ河合塾の理事長が世襲制なのか、といった問題まで、生々しいことを含むさまざまなことが問われ、常に講師陣から厳しい追及がなされてきた。

だが、それは河合塾が比較的開かれていたからできたことであり、少なくとも最低限の信頼関係が当事者間にあったということを示してもいたような気がする。でなければ、そもそも批判といった形でのコミュニケーションすら成り立たなかっただろう。こうしたことができるようになったのは、1970年代半ばごろからいわゆる全共闘世代の講師たちが河合塾に次々にやってきて、新しい風が入るようになってからのことだと言われている。

こういう風土が一面で出来上がっていたからこそ、その後、予算は出すが内容については決して口出ししないという河合塾の側が徹底的に腹をくくった、ある意味自由で理想的な研究所がつくられたのである。後述するように、この河合文化教育研究所の設立に尽力したのも、主にこうした講師たちだった。

予備校とは、そもそも戦後のある時期までは、受験地獄をもたらした元凶ともみなされるようなマイナスイメージのところである。そうした社会的にいかがわしい、裏街道の存在としてあった予備校を、彼らが変えていったのである。

私自身は、河合ブックレット・シリーズを出すためにここにきたのだが、この37年の日々をあらためて思い返してみると、夢や幻に賭けようとしたこの研究所の宙ぶらりんな豊かさとでもいえるものが、まず心に思い浮かんでくる。同時に、にもかかわらず、本来なら何かの萌芽になるはずのそうしたものを、想像をはるかに超えるスピードで追い抜いていった、この間の時代の異様な変化についても思わずにはいられない。この30年で、何か肝心なものが根底から変わってしまったのである。

河合文化教育研究所とは結局のところ何だったのだろうか、と考え始めると、それと背中合わせになっている「予備校文化」とは何だったのかという問いもおのずと出てくる。この2つはセットとして多くの関係者の中で認識されているような気がするのだが、これらは単なる時代のあだ花にすぎなかったのか。それともいまだ見えない未来に架けた虹のようなものだったのか。

あるいはかつて蓮實重彦氏が語ったように、「河合塾のような予備校が、日本の中で作り上げている不気味なアナーキスム」が、「21世紀、22世紀の人々にとって、1970年代80年代の日本を分析する場合にどうしても考えておかなければならない、あるいは何かの形でインプットしておかないと、その時代の文化の相貌が把捉しがたくなる」という「要素の一つ」(蓮實重彦『映画からの解放』河合ブックレット、1988)だったのか。

さまざまな人の見果てぬ夢が微妙にずれながらも何重にも折り重なったような、どこにもない研究所ではあったが、こうして終わってみると、そのことについての感慨やまして感傷めいたものはいま身中からわき出てはこず、ただ、主任研究員をはじめとしてそれに関わった講師など多くの関係者が、この数年のうちに思いがけず鬼籍に入ってしまったいま、この研究所の末端で、最初から最後までそこに立ち会った者として、解かねばならないやっかいな宿題だけが残された気がしている。

この報告は、そのような研究所についての、まだ先の見通せない暫定的なスケッチである。

「公教育」と予備校の逆転

予備校とは、受験産業である。ことの最初から市場の論理に貫かれた存在である。端的に言えば、予備校の講師による授業とはまずは何よりも商品であり、予備校生とその親はそれを選択して買う消費者である。したがって自明なことながら、公的な性格を持った大学と高校のはざまにありながらも、それらとははじめから根を異にする存在である。

だが、逆に言えば、商品になるかならないかの問題さえクリアすれば、社会の周縁に過ぎない存在だからこそ、あとは縛りのない自由な場所として、高校や大学などではできなかったさまざまな可能性を追求することができたともいえる。

1970年前後に全国の大学で吹き荒れたいわゆる「全共闘」運動なるものが終焉したのち、大学から拒否されたか、あるいはみずから大学に見切りをつけた優秀な研究者や大学院生が、前述したように、予備校に雪崩を打つようにして入ってきたときに、予備校というものの存在と意味が根底から大きく変わりはじめたといわれている。大学闘争時に社会の諸矛盾を批判しただけでなく、自らが大学にいることの特権性までをも自己批判したこれらの人々は、予備校の現場に来ると、ここでも教師と生徒の権力関係が前提にされた「学校教育」とは何か、さらにそもそも人間にとって「教育」とは必要なのか、必要だとしたらなぜなのか、という原理的な問いを掘り下げていった。

おそらくこうした原理的な問いをどこまでも論理的に掘り下げていけば、最後にはどうしても国民国家批判、資本主義批判、近代批判に行きつかざるを得なくなるだろう。ところが、同時にそうした原理的な問いを追究しようとしている自分自身の立っている位置は、当の批判対象である資本主義市場の論理が貫徹した受験産業の中でしかない。

おそらく、河合塾の講師に限らず予備校の良質な講師はすべて、このジレンマの中にあり、それを自覚していたのではないかと思うのだが、まさにこのジレンマの自覚こそが、予備校にたえざる緊張と自己反省を生み出し、それが逆に予備校に大きなエネルギーをもたらしたといえるのである。ざっくり言えば、制度の中でルーティーン化し、硬直化した公教育と、常に矛盾に晒されながら教育とは何かを考えてきた予備校では、社会に向き合う深度が違ってきたともいえよう。ここから予備校と公教育の逆転が起こってくる。

かつては受験技術を教えるのが予備校で、本質的なことを教えるのが高校だと思われていた時期もあったのだが、ある時からこの関係は逆転し、予備校が本質的な授業を教え、高校は受験技術を教えるだけの場所になったと世間で言われるようになった。原理的な問い直しがないところで本質的なものは生まれない、ということなのだろうか。

河合文化教育研究所とは、1980年代半ばに予備校がそういう新しい地平を拓いていく中で誕生したものだが、それは、ちょうど、この国の18歳人口がピークを迎える1992年に向けて、予備校が駆け上がっていこうとした時期であった。

河合文化教育研究所とはだれか

河合文化教育研究所には多くの人が関わっていたが、その主体は、まずは主任研究員である。この研究所は主任研究員として、数学基礎論の倉田令二朗氏から始まって作家の小田実、哲学の廣松渉、精神医学の木村敏、東洋史学の谷川道雄、フランス18世紀思想の中川久定、生物学の長野敬、近代思想史家の渡辺京二、そして最近では科学哲学の野家啓一氏などの錚々たる人々を擁してきた。同時に、その背後には、裏方に徹しつつこの研究所をゼロから創り上げたコアな河合塾講師の一群がいた。前述した、主にいわゆる全共闘運動後、大学に残らず河合塾にやって来た人々で、それぞれの主任研究員をこの研究所に招いたのもこの講師たちである。

彼らは、「近代公教育」、つまり排他的な国民国家を支えるための国民の養成機関としての「近代公教育」を問い、戦後民主主義を問い、さらには近代のあらゆる自明性を問い直すことによって、結果として河合塾の「予備校文化」なるものを創り上げていった人々である。特にこの20年間、小泉政権下の「国立大学独立法人化」や、第二次安倍政権の「高大接続」の教育改革といったこの国の一連の新自由主義的教育改革に対しては、教育を根底から否定するものとして真っ向から批判していった。

こうした講師たちの中には、ハラスメント防止委員会をどこよりも早く河合塾に立ち上げた青木和子氏、戦後三大教育裁判の一つである伝習館裁判の原告として闘った茅嶋洋一氏、評論家・劇作家としても知られる菅孝行氏や、かつて共通一次試験で国語の問題を的中させて有名になった牧野剛氏などが含まれる。彼らこそが、自らがこれまで果たせなかったある種の変革の夢を、予備校というこの独特の教育現場で実現しようとして、さまざまな知恵と方法を駆使し、実質的にこの研究所を創り、担ったのである。

河合文化教育研究所の主任研究員とは、客観的な基準をもとに招かれたのではなく、あくまでこれらの河合塾の講師たちの個人的な人脈と深い思い入れによって、個別に1人ずつ招き入れられたというところに、その大きな特色がある。つまりこの研究所の軸は、それぞれの講師と主任研究員の個人的な人間関係と思想的信頼関係で出来上がっている、といっても過言ではないのだ。にもかかわらず、この個人的な人選が、恣意的なものに陥らず、周囲の人々の一定の同意と共感を獲得することができたのは、どの主任研究員にもある種の異端性と変革の志があったと認められたからだろう。それが当時の河合塾の基調に漂っていた反体制のエートスと親和的だったのである。

主任研究員となった人々は、そもそもすでにそれぞれの分野で一家をなしていた人々である。河合塾が創った研究所などという、何の権威もないどころかいかがわしくさえ見えるところにやってくる義理はなかったともいえる。それでも、それぞれの講師たちの熱い説得に乗って彼らがやって来たのは、彼らの方にも、現在の制度化され細分化された学問に対する根底的な批判と、それについて何の構想力もなく、ただ重箱の隅をつつくような研究をしてそこそこの業績を上げて上昇すればいいと考えている研究者たちに対して、ほとんど絶望に近いような憤懣と大きな危機感があったからである。主任研究員の側にも講師の側にも、この閉塞する状況を何とか変えたい、この鞏固とした近代に風穴をあけたいという志向において、漠然とした共通の夢があったのである。

渡辺京二氏をはじめとする主任研究員の異端性

主任研究員の異端性ということについていえば、一般的には、60年代半ばにアメリカのベトナム戦争に反対して「ベ平連」(「ベトナムに平和を!市民連合」)を立ち上げた小田実氏や、1970年前後の大学闘争時に「造反教官」として名古屋大学を退官した(のちに東大に復帰)マルクス主義哲学者の廣松渉氏は、その体制批判から異端ぶりが見やすいが、実は精神医学者の木村敏氏も脳機能の病変のみに注目して人間を見ようとしない、今や主流となったアメリカ型の精神医学を痛烈に批判し続けたいわば「反科学者」の側面を持った人であり、また東洋史学の谷川道雄氏は唯物史観を応用して事足れりとする戦後の東大系の東洋史学の主流の歴史観を批判し、「共同体論争」を起こした人である。

数学基礎論の倉田令二朗氏はそもそものその異端ぶりで九州大学をみずから脱して、この研究所で思い通りの数学講座などを開いたが、フランス18世紀思想の中川久定氏にいたっては、意匠を変えながらも中身は相変わらず輸入学問に依存しているこの日本の学界と研究者に愛想をつかして、フランスで論文も著作も発表するという有様であった。2019年からここに来た野家啓一氏も、リスクとしての近代科学を批判的に問い直している科学哲学者である。

中でも渡辺京二氏は、欧米を中心とする世界の資本主義に参入することだけを目指した明治維新以降の日本近代総体を包括的論理的に批判するというその根底的な思想性だけでなく、60年代末に石牟礼道子氏とともに「水俣病を告発する会」を立ち上げると、チッソと国のみならずその背後にひかえるこの近代総体を敵に回して、水俣病の一部患者とともに実際に体を張って大立ち回りを演じ、水俣病の補償処理委員会を阻止するために厚生省を不法占拠した廉で逮捕されるというその過激さにおいて、主任研究員の中では実はだれよりも異端であった。ある時の主任研究員会議で、「河合文化教育研究所は運動体である」と言った彼には、この研究所は、何よりも世界に向けての変革を目指すものでなければならない、という思いがこもっていた。

要するに、河合文化教育研究所には、そうした思想の屈折が濃く、さまざまなレベルで体制批判を持つ人々が主任研究員として講師によって招かれていたことになる。ここではある時期から年に一度主任研究員会議が開かれるようになったが、その会議はこうした異端めいたものを孕んだ個性がぶつかる場になり、主任研究員同士の間にも毎回目に見えない緊張が走っていた。

とはいえ、ここにはまた、彼らのあいだで不思議に響きあうものもあった。

一例をあげると、木村敏氏――彼は主任研究員であると同時に2000年代からはこの研究所の所長でもあった――は、「あいだ」を軸にした独自の「自己論」で内外に大きな衝撃を与えた人だが、彼の最後期の生命論は、「ビオス」と「ゾーエー」という個的生命とそれを背後から支える不定形の大きな生命の二重性が考えられている。実は、渡辺京二氏にも「生命現象をもそのうちに含む自然過程」なる発想が一貫してあり、まさにビオスにあたる「社会生存」とゾーエーにあたる「天地生存」の二重性が考えられていた。ここをもう少し掘り進めていけば、個的生命が分節化して出てくる前の宇宙的生命とでもいうべき共通の基盤が二人の間であらわになるはずであった。

宇宙も自然も人間もその他の生き物もすべて含んだ目に見えないそうした大きな生命の流れの発想は、人間中心の近代的思考を揺らがすものになったと思うのだが、こうした思想の響き合いは、木村敏、渡辺京二の両氏の間にあっただけではなく、「共同体論」や「歴史のエピソード論」などの形をとってそれぞれの主任研究員の間にも存在した。専門は違っても近代を相対化していくような深部の問題意識において、彼らには共通の志向があったが、これは、彼らを招いた講師たちにも共通したものだった。

「河合ブックレット」について

河合塾では、1980年代半ば当時、年間全国で100本近い文化講演会を予備校生のために開いていた。いまでも、規模は縮小したが、それなりに河合塾の各地区で開かれ続けている。この文化講演会は、授業とは別に、講師がぜひこの人の話を塾生に聞かせたいと、心に温めてきた学者や思想家を河合塾に呼んで、講師・職員の手作りによって実現させてきたものである。この文化講演会は、大学の受験にすぐ役立つような目先の利益になるものを意図的に排し、むしろ予備校生の思考力や批判精神、他者への想像力をじっくり養うことを目指して開いてきたというところにその特色がある。

この文化講演会の蓄積を何かに活用できないか、という相談を、講師の牧野剛氏を通して河合塾からもらったのが、私がこの研究所と関わることになったきっかけであった。初めてこの興味深い講演会のリストを手にしたとき、それを見るだけで、河合塾の講師たちが、予備校生の思考の枠組みをどう揺り動かそうとしたのか、彼らの人生の軸に何を届けたいと思ったのか、という熱意が伝わってくるような気がした。

この講演会をこのまま放置しておくのはもったいないので、「河合ブックレット・シリーズ」にして出版したらどうか、という提案をとりあえず河合塾に出したのだが、これが大した検証もなくあまりにやすやすと通ったので、驚きを通して心配になったことを覚えている。来てみてわかったのは、当時の河合塾は、いわゆる「大学共通一次試験」以後に出現した三大予備校の一つとして、急激に全国展開していく大混乱の中にあって、面白そうなものはとにかくなんでもやってみようという進取の気性に満ちていたのである。

河合ブックレットは、こうして河合塾が予備校生のために全国で開いてきた文化講演会の中から、若い人々のやわらかい心に届くようなものを選んで本にする、ということになった。そして、いったんそのシリーズを出すことが決まれば、あとはその中にどんな本をいれようがまったくこちらの自由意思にまかされた。

河合文化教育研究所の設立は1984年になっているが、それから2年間は何の活動もなく、この86年の河合ブックレットの開始と倉田令二朗氏の数学探訪講座から実質的な活動が始まる。その後主任研究員が増え、さまざまな国際シンポジウムや臨床哲学シンポジウム、さらには文学講座や数学講座など研究所のイベントが続々と決まってくると、そちらの仕事に時間とエネルギーを取られて、河合ブックレットを出す余裕がなくなっていった。

結局、河合ブックレットは、最初の上野千鶴子著『マザコン少年の末路』から始まって、この2023年の最後の渡辺京二著『夢と一生』まで、42冊しか出版できなかったのだが、それにはこうした物理的な事情が絡んでいたのである。

このシリーズのほとんどのブックレットは、講演会後の予備校生と講演者との質疑応答を収録している。この質疑応答を読むと、予備校生がその講演から何を学び、どのような刺激を受けたかがわかるのだが、逆に講演者の側も彼らの質問からいかに多くのことを受け取っているか、ということもわかる。教育とは、一方的に教えたり、教えられたりするものではなく、互いに学び合うものだということを、改めて示すものである。その意味で、河合ブックレットは河合文化教育研究所のささやかな柱の一つになっていたと思う。

「予備校文化」の終焉と河合文化教育研究所

「予備校文化」という、目に見えないながら一時確かに現前したものが、ほぼ消えてしまっているという暗黙の了解は、しばらく前からすでに河合塾内部にあったのだが、ここにきて河合文化教育研究所の消滅とともに、「予備校文化」はもはやどこにもなかったことが、いまさらながら判明した。

河合塾の「予備校文化」には、公教育=中心、予備校=周縁という社会の既存の構図を前提にしたうえで、そうした周縁であるからこそ、逆に制度に縛られない柔軟で自由な教育ができ、そのことによって硬直した公教育=中心を鋭く撃つことができる、という思いが込められていた。ざっくり言えば、既存の秩序や文化を攪乱し新しい文化を生み出そうとするトリックスターの存在としての予備校についての自覚が、「予備校文化」のもとになっていたともいえる。そしてそれは、この30年間で一定の成果を収めて、予備校の位置をも上昇させた。だが、皮肉なことに、予備校が世間に受け入れられていけばいくほど、それによって予備校本来の生き生きした力もそがれていったのである。

はっきりいつとは言えないが、このころから予備校の変質が始まったのである。周縁を捨てて中心の一角にたどり着いた河合塾は、それを構成する講師、職員、予備校生ともどもに、それぞれの立場から経済効率を目指すようになり、無駄なことを避けるようになった。もはや「予備校文化」が成立する土壌が消えたのである。ましてや河合文化教育研究所においてをや。それは、一部の特権的な講師の道楽のように考えられたか、あるいは存在すら知られないものになっていった。河合文化教育研究所の忘却が速い、とはそういうことである。

それでも河合文化教育研究所に関わった講師たちの奮闘は続き、「予備校文化」の灯を消さないための努力も鋭意なされた。が、前述したように、時代の急激な変化がその努力を追い越したのである。いかにも大状況的な雑駁な言い方になるが、東西冷戦崩壊後、西側一強になってからの新自由主義的市場経済、いわゆるグローバリゼーションの席巻が、しだいに人間の内面にまで深刻な影響を及ぼし、経済的合理性が何よりも優先されるような無意識を人々の中に浸透させていったのである。新自由主義的教育改革とは、それをより確実に人々に刻印するための公教育における完成の儀式に過ぎなかったともいえる。

さらには、18歳人口が1992年の205万人をピークとして、そこからどんどん減って、いまやピーク時の半分近くになろうとしているいま、大学も生き残りをかけて入学定員を膨張させているため、こだわらなければ、ほぼ大学はだれでもはいれる全入時代となった。この状況が、「予備校文化」どころか予備校そのものの存立基盤を掘り崩していくのは見やすい道理である。

こういう状況の中で、河合文化教育研究所は、一つの時代の終わりを象徴するかのように終わったのである。これが何であったかはまだ見通せない状況である。

だが、地球環境破壊から始まって自然も人間もすべてをなぎ倒していくこのグローバリゼーションの衝動がいつまでも続くとも思えない。「一粒の麦もし死なずば」ではないが、この漠然とした夢だけを生きた研究所が、いずれ、まだどこにも見えない遠い未来に架かる虹にならないとも言えないのだ。

かとう・まり

名古屋大学文学部卒。1986年春よりこの春まで、河合文化教育研究所にて、河合ブックレット・シリーズの編集などに携わる。河合文化教育研究所は、さまざまな人々がつねに出会い、行き交う大きな広場のようなところで、いま考えると面白い場所だったと思う。
 この2月に103歳で亡くなった水田洋氏が代表だった『象』の同人として、ここでも1999年から編集に携わる。ちなみにかつて田口冨久治氏もこの『象』の同人であり、一時は丸山真男の評価をめぐって、彼を中心に同人のあいだで異様に白熱した議論が飛び交ったものである。

論壇

第34号 記事一覧

ページの
トップへ