特集 ● 黄昏れる日本へ一石

ある色川大吉考──「昭和」との格闘(前編)

みずからの主体を現わしつつ歴史に向き合い、そのことによって、歴史の主体としての「民衆」を描き出す歴史を提供

日本女子大学名誉教授 成田 龍一

色川大吉さんが亡くなったとき、追悼として色川さんの出発を論じた(『現代の理論』第29号、2022年)。そこでは、「万巻の読書によってではなく、現実の土崩瓦解の体験によって「クリオ」の顔をかいまみた私たち」(『明治精神史』黄河書房、1964年)と述べる色川さんの姿を記した。「過剰な歴史家」としたが、歴史家となるまで──その出発として、「民衆史研究」を提唱する色川さんの姿に接近した。

「(運動の)地下水をくむ」「底辺の思想」などの歴史観と、「一回きりの人間歴史の像」「歴史における人間の運命にたいする温かい同情と深い洞察」(『歴史家の嘘と夢』朝日新聞社、1974年)といった人間像を繰り出す、色川さんの原風景である。ここでは続編として、その後の色川さんの活動を記してみよう。(以下、敬称は省略する) 

 

1.色川大吉の<冒険> 飛翔と再整理

(1)あらたな認識と論点の提示

『明治精神史』(黄河書房、1964年)を刊行し、歴史家として自己規定をし、大学の教壇にも立つことになった色川大吉は、中央公論社版の「日本の歴史」シリーズの一冊として『近代国家の出発』(1966年)を上梓する。周知のように、このシリーズは、ひとり一巻の書下ろしで、「日本の歴史」を概観するというスタイルを作り上げ、「日本人」としての意識、「日本の歴史」に対するイメージを作り出し、歴史認識に大きな影響を与えた。すでに歴史家として蓄積を有した執筆者のなかに色川が加わったことは異例であり、しかし近代日本の歴史叙述を豊かにすることでもあった。私なども、高校の教室で先生が『近代国家の出発』を話題とされ、はじめて色川の名を知った。

『近代国家の出発』は、(『明治人』<人物往来社、1965年>に次ぐ)色川による書下ろしで、歴史叙述に対する色川の思いが込められている。なにせ、冒頭は

「シベリアの曠野を二台の馬車がよこぎっていく」『近代国家の出発』

とされている。北海道・五稜郭での新政府軍との戦闘で生き残り、明治政府に仕え、特命全権公使としてロシアに滞在していた榎本武揚が日本の戻る光景から書き起こされる。1878年秋のこのとき、明治天皇による北陸巡幸が行われており、色川はその様相を重ね書きする。いまひとつ、大阪では、自由民権運動の画期をなす愛国社再興大会が開かれており、そのことも章をあらためて記される。榎本を軸に、政府側の天皇を表に出しての秩序形成の目論見と、政府に反対する社会運動である自由民権運動が合わせ描かれる。前者の「国家的なパレード」が巡幸であり、民権運動との「政治的な競合」であり、色川が関心を寄せる「豪農層の心理に深く浸透してゆく組織作戦」とするのである。

豪農たちの動きは「村の維新・村の開化」の章タイトルのもとに記される。

「明治維新や文明開化の波紋がいかにして地方の底辺にとどき、そこでどのような自生的なものとの競合をみせて、つぎつぎと新しい局面をひらいてゆくか」『近代国家の出発』

このように述べ、自らの東京多摩の農村調査に言及しつつ、各地域における豪農の活動を明らかにしていく。さらに下層の「底辺」の動きにも着目する。そのうえで、豪農たちを主体とする自由民権運動を大きく描きだす。

『明治精神史』が荒々しいマニフェストであったのに対し、『近代国家の出発』はさまざまな工夫をこめた「歴史叙述」となっており、歴史家としてのバランス感覚がうかがわれる著作である。『近代国家の出発』では、激動期に伴うあらたな動向が描かれるとともに、開化のなかでも「ただちに日本の村々の生活様式が根本から変わってしまったこと」ではない、ということも述べる──「もし、そういうことだけをとりだすのなら、歴史の全体像をゆがめることになるであろう」。

後年、色川は『歴史の方法』(大和書房、1977年)という著作で、自身によって『近代国家の出発』の叙述を解説してみせる。歴史家が自らの著作の執筆過程を明らかにすることはほとんど例がなく、それを「歴史の方法」として公開する点に色川らしさが見られるが、そのなかでも「全体像の把握」を強調する。近代日本の出発を描きだすには、

「経済的土台、日本資本主義の発生、本源的蓄積過程から産業革命の確立まで、その間にあった国家と人民との激しい底辺での闘い、この基礎認識、これはガッチリと固められていなくてはならない」 『歴史の方法』

とする。色川大吉が、戦時と戦後の体験から紡ぎ出した問題意識(A)に対し、歴史家として方向性を定めとき、歴史家として描きだす歴史叙述(B)の提供となろう。

『明治精神史』ではAの問題意識が全面的に展開され、「過剰な」歴史家として表現したが、『近代国家の出発』では「歴史家」としてバランス感覚を持つBの歴史叙述が提供される。こののち、色川は、このAとBとのふたつの要素──魂と実践、過剰さと歴史家としての実践を抱え込み、状況に相対して行くこととなる。

 

さて1960年代半ばの『近代国家の出発』のあと、色川の活動は、A「過剰な」歴史家としての要素を出すような著作が出される。評論集『明治の精神』(筑摩書房、1968年)の刊行は、その一端である。歴史家は自らの航跡について韜晦するのが常だが、色川はここで自らの戦後体験を存分に記し、その原風景を明らかにした。

背景には、折からの社会運動の昂揚があったろう。ベトナム戦争への反戦を軸とする市民運動、さまざまな公害に対する住民運動が展開されていた。なかでも学生運動は各大学やさらには高校でも大きな動きを見せていた。かかるなかで、色川の著作は評判を呼び、口コミで伝えられ、『明治精神史』も増補版として1968年に再刊されている。

『明治精神史』は、「60年安保」の昂揚と挫折の所産であるが、その歴史観が、「68年」の動きのなかであらたな共感を呼び、あらたな読者を獲得し、あらたな読み方がなされていった。こうした動きを背景に、色川もその「過剰さ」を噴出させていったということができよう。1970年代初めに刊行された三つの著作──『明治の文化』『新編 明治精神史』そして『ある昭和史』に、A「過剰な」歴史家としての顔をうかがうことができる。

まずは、【問題意識の再提示】としての著作、『明治の文化』(岩波書店、1970年)である。「日本」を論ずるにあたり、(1)近代主義という敵を明示し、「土着」と「民衆」という対象=価値にもとづき、「近代」批判(しかし、その実、「日本近代化」批判)を展開する。

「私たちにとって今必要なことは、そうした評価による現状の正当化、合理化ではなくて、変革のための現状の病理の究明であり、全面的、本質的、構造的な研究」が必要であり「現代日本に生きる私たちとしては、自己変革のために実践的にならざるをえない」 『明治の文化』

と、問題意識を述べる。なにより目次立てが魅力的で、「草の根からの文化の創造」「“放浪の求道者”」「民衆意識の峰と谷」「非文化的状況と知識人」「精神構造としての天皇制」といったタイトルの章がならぶ。通時的な叙述ではなく、論点を有した事例と事象によって、「明治の文化」を描きだす営みである。「知識人」と「民衆」という対比がなされ、それぞれの思想形成が記される。色川がこれまで論じて来た「農村での有知識者層」である地主―豪農に加え、「文字なき民の声」に接近しようとする。

「文字をあやつることをしない、言葉で考え、書くことをしないで生涯を終る大多数の民衆」 『明治の文化』

に接近するための方策を探る。そのため、かれらの「行動」に着目し、1880年代の農民騒擾事件──そのひとつとしての秩父事件に言及する。社会運動の思想を論じ、(「文字をあやつれる」)豪農層に加え、「「文字なき民」底辺人民」を論じ、双方における「思想形成の方法」の「重大な相違」をいう。この見解は、「都市の知識階級」とでは「断絶」にまで至るとされ、問題意識を深めていく。「民衆」は分析の対象から、歴史を見る視点とされるとともに、近代日本社会のなかに位置付けられ、(知識人を対象項として)対比的にその思想形成を探ることが試みられる。「民衆史研究」の方法の提起であり、同時に、歴史分析の問題的である。

 

晩年の色川大吉さんと著作

第二は、【再整理】であり、その実践として『新編 明治精神史』(中央公論社、1973年)を刊行する。「第一部 民衆の精神動態」(11論文)、「第二部 歴史的展開」(7論文)、「第三部 方法と総括」(3論文)と、黄河書房版(1964年/68年)に新稿を多く加え、編みなおすため、「新編」と銘打っている。ここには、『明治の文化』で試みた、「底辺民衆」への関心が強く打ち出されている。

「はじめ私は、その対象を民衆の上層部分にあたる豪農、富農や富商などのなかに求めた」「だが、果たしてそれだけで、真に底辺民衆の精神に達することができるだろうか。いかに資料的な制約があっても、直接にかれらの心の深部や動態に迫る歴史学の方法がないものであろうか」 『新編 明治精神史』(強調点は、著者による)

あらためて色川は、

農民一揆・秩父暴動のような「激しい直接行動を起こした時には、まだしもかれらの心を知る手がかりはある」、「ところが、平和な時代には、いまのところ中間層を媒介するとか、民俗学などの力を借りずに、民衆の深部に直接入りこんでゆく方法を見いだしえないでいる。その点が、この本に今なお投げかけられている難問なのである」 『新編 明治精神史』

と述べる。黄河書房版の「人民」との表記は「民衆」とされ、文体も整えられ、(黄河書房版を読みなれた目には)学術書に一歩踏み出したようにさえ見える。黄河書房版で「人民ニヒリズムの底流」として描かれた、困民党指導者の須長漣造は、細野喜代四郎とともに「明治の豪農の精神構造」の章で扱われ、うまく像を結ばなくなったりもしている。実証と論証の精度があげられた、との印象が強い。この意味では、「歴史家」としてのスタイルに接近している。後述する『色川大吉著作集』には「新編」が収められ「決定版」としており(「著者による解説」)、色川の思い入れがみられるが、文庫版(講談社学術文庫、岩波現代文庫)では黄河書房版(増補版)とされている。

 

いまひとつのAの営みは、第三として【自分史】の提起であり、『ある昭和史 自分史の試み』(中央公論社、1975年)を刊行することである。当初は『昭和50年史』上下巻、全8章という構想であったが、版元の意向でこのような刊行となったという(文庫版への色川の解説)。「十五年戦争を生きる」として自らの軌跡を記し、「ある常民の足跡」として東京・多摩の橋本義夫を、そして「昭和史の天皇像」として、三人の個人史を記す。橋本は、東京・八王子で「ふだん記」運動という自伝(個人史―自分史)を書く運動の指導者である。

自らの歴史への関心を整理するかたちで、色川は

「人間にとって真に歴史をふりかえるとはなにを意味するのか。その人にとってのもっとも劇的だった生を、全体史のなかに自覚することではないのか。そこに自分の存在証明(レーゾンデートル)を見出し、自分をそのおおきなものの一要素として認識することではないのか?」『ある昭和史』

と記す。歴史を主体的に捉え返す存在として、「人間」―「自分」―「個」を接続する。歴史に働きかけることによって「自分の存在証明」をはたすという認識は、一方では(戦後に隆盛する)実存主義に接しているとともに、(戦時に喧伝された)個から全体へという感触も有している。むろんのこと、色川は戦時における「狂信的」な思想を厳しく批判し、軍隊での暴力を綴り、戦時体制とは一線を画している。

しかし、仙台の二高時代に「近代の超克」を、「日本浪漫的な方向においてではなく、西欧神秘主義の方向に模索しようとしていた」ということを記している。大学に進学してからは、「目前にある「死」についてなんらかの意味づけをしたい」とも考えたといい、日本浪漫派の著作にも接していたことを『ある昭和史』には率直に記している。「戦中世代」としての屈曲を有している。そのことが、

「客観的歴史観察と称して、自分を神にもひとしい超越的立場におこうとすることは、また置けると考えるのは幻想である。不遜である。ひとりの人間がどれほどきつい制限のもとでしか生きられなかったか、ひとりの人間の直接体験と世界認識なるものが、どれほど限られ、どれほど偏ったものであるか、同時代のわれわれの眼がどれほど盲しいたものであったか、知るべきである」 『ある昭和史』

と、超越的な歴史の「語り」に対しては厳しい批判を行う。念頭に置かれているのは、歴史的拘束から解き放たれたかのように語る「知識人」たちであろう。今日の目からすれば、マルクス主義の歴史の「語り」もそうした「客観的歴史観察」となるのだが、色川はそこまでは批判の対象を拡大しない。『明治精神史』では、そうした歴史家と歴史叙述について、(森鴎外らの)文学作品を補助線としながら議論する。そうした検討を背景に、

「私が自分をふくめての個人史からこの叙述をはじめようとするのは、まず自己否定の契機をとおして歴史の全体像へと接近したいからである。読者にもたえずそこに個人史を発見し、同様のことをしてほしいと願うからである」 『ある昭和史』

と、歴史と個という問題系を、個人史の叙述を束ねるとの仕方で提供する。このとき、サブタイトルとした「自分史」がこののち、色川の実践の大きな柱のひとつとなる。

後年、『“元祖”が語る 自分史のすべて』(草の根出版会、2000年)のなかで、色川は「自分史」と称した意味について、『ある昭和史』を持ち出し

巨きな歴史のなかに埋没しかかっていた個としての自分をはっきり、歴史の前面に押しだし、自分をひとつの軸にすえて同時代の歴史も書いてみたかったからです。その一念が「自分」史という強い語感に託されました。『“元祖”が語る 自分史のすべて』

と述べる。

かくして、濃淡はあるものの、歴史家として自己を再起動させた色川だが、「68年」の学生運動を追い風に、A過剰な歴史家として問題を追求していく。色川大吉の「冒険」がなおも実践される。あらたな主題として、「天皇制の思想」(1974年)-「日本ナショナリズム論」(1977年)―「近代日本の共同体」(1974年、鶴見和子・市井三郎編『思想の冒険─社会と変化の新しいパラ ダイム』筑摩書房。鶴見・市井を中心に1969 年から続けられてきた「近代化論再検討研究会」の 4 年間の 集大成とされる)をめぐっての論稿も執筆している。この流れで、「底辺の視座」からの歴史をみずからの課題としていく。

もとより、Aの過剰さを拭い去れない色川は、執筆活動のなかに充足することはなかった。探検家・旅行家として、色川大吉は「冒険」をおこない、ユーラシア旅行(1971年)を実践する。さらに、アメリカ体験(1970-71年)、沖縄体験(1974年がはじまり)、中国への訪問もおこなう(1975年)。大車輪の活躍が続けられている。

そしてAとして、何より特記しなければならないのは、水俣への「学術調査」である。1976年に、結成された「不知火海学術調査団」の団長となり、水俣に赴いて「学術調査」をおこなう。目の前で進行している問題を、さまざまな専門領域の面々とさまざまな角度から講じようとする営みで、「報告書」の作成にもかかわっている。その一冊、色川編として刊行された『水俣の啓示』(上下、筑摩書房、1983年)には、石牟礼道子、鶴見和子、原田正純、最首悟、石田雄、菊地昌典らの論稿がならび、芳賀しげ子による「調査団日誌」も付されている。歴史家の領分に閉じこもらない、「過剰な歴史家」としての色川の継続する営みとなる。

 

2.不発の論争 「現代思想」との出会いそこね

だが、「68年」は、あらたな「知」を生み出し、あらたな展開の始まりでもあった。「現代思想」の台頭である。日本の歴史学にも、1970年代後半くらいから、新しい潮流が現れ始めていた。その潮流に、色川は思いがけぬ方向から直面を迫られる。フランス文学・思想を専攻する論客・西川長夫による色川への言及である。

西川は二度にわたって色川の歴史叙述を検討し、『歴史学研究』に掲載する。R「歴史研究の方法と文学」、およびS「歴史叙述と文学叙述」(『歴史学研究』第457号、第463号、1978年6月、12月)である。『明治精神史』とともに、歴史叙述としての『近代国家の出発』をともに俎上に載せる、本格的な色川―批判の議論である。

私は、まだ大学院生であったが、歴史学で大活躍をする色川に対し正面から切り込んだ西川の議論を繰り返し読み、色川の応答を心待ちにした。まずは、西川の議論を追ってみよう。

Rによる色川批判(Ⅰ)は、「歴史研究の方法と文学」を主題とする。歴史と文学の「本質的なちがい」は「描くべき人物の選び方」、すなわち、その「選択の基準」にあるとし、西川は、

「底辺」といい「地下水」といっても、歴史においては、それはしょせん頂点的思想を位置づけるのと同じ価値体系のなかではたすべき役割(史観)によって位置づけられており、その限りにおいては文学から見れば、「底辺」はやがては「頂点」になるべきもの、つまりは「頂点」の裏返しにすぎないものと映る」「「未来を拓く変革の契機」という発想自体が、一定の未来とのかかわりにおいて過去と現在を判断することであり、その未来とのかかわりにおいて(したがって特定の史観と歴史的価値体系によって)民衆のポジティヴな側面に照明があてられるのである」「歴史研究の方法と文学」(『歴史学研究』第457号、1978年6月。傍線部は成田)

と述べる。そのことを論証するために、色川が「歴史叙述」の傑作とする、マルクス『ブリュメール18日』の読み方を批判する。色川が『明治精神史』に「歴史叙述の模範」とする部分を引用しつつ、批判を加える。その個所は、

「ルンペン・プロレタリアートのかしらになるボナパルト、自分の個人でもとめる利益を、この場合大衆的な形式でしかみいだせぬボナパルト、あらゆる階級のこうしたくず、ごみ、かすこそ自分が無条件にたよれるただ一つの階級だとさとっているボナパルト、これこそがほんとうのボナパルトであり、お世辞ぬきのボナパルトである」 『ブリュメール18日』

である。西川も『ブリュメール18日』を魅力的ですぐれた「歴史叙述」のひとつとしつつも、引用個所には「マルクスの弱点が最も鋭く露呈している」とする。この箇所には、マルクスの同時代の文学にたいする「反撥と無関心、さらには当時の底辺の民衆にたいするある種の蔑視」があらわれていると断じた。

「文学の主題にかんして言えば、マルクスが列挙しているあらゆる階級のをとりあげそこに自己を仮託して形象化したのがその時代の文学ではなかったか」「つまり歴史の価値体系のなかでこれらのはまさしくでしかないのである。これにたいして文学においてが作中の主要人物となりうるとすれば、それは文学の価値体系のなかではにも重要な位置をしめる可能性があるからであろう」。「歴史研究の方法と文学」(『歴史学研究』第457号、1978年6月)

西川は、バルザックに言及し、バルザックがこれらの「社会の」にそそぐ視線と、マルクスの視線との相違をいい、文学と歴史学の「価値観」の違いに言及する。そして、飛躍をともないつつ、そこに「個の絶対性の主張」を見出す。この対比は、『歴史学研究』の特集「歴史と文学」に掲載されたことによっているが、この主題を論ずるにあたり色川の「歴史叙述」を検討したところに、西川の才が見られる。

もっとも、色川自身は『明治精神史』において、東京・多摩の豪農たちの一回きりの生の探究を実践しており、承服しがたい点を有したであろう。色川自身は、歴史学がもつ「個の絶対性」への無理解を批判したということになろう。争点となるのは、さきの引用の下線部であろう。この箇所は、色川の歴史観に直接に矢を射るものであった。この箇所は、色川の議論の根幹をついていた。

色川が、反論をせぬまま、西川は、第二の矢を放つ。Sによる色川批判(Ⅱ)である。この論は、「歴史叙述と文学叙述」として、Rによる「認識論」とは異なり、色川が勝負どころとしている「叙述論」として、より重たい批判となった。

西川は、色川の歴史叙述は、

「ほとんど限界に近いまでに文学に接近しながら、しかも歴史叙述としての節度を保ったすぐれた叙述であると言ってよいであろう。しかしながら私は結局この著作を文学とは明らかに一線を画した歴史叙述として読んでいたのであり、またいくらか分析的に反省すればこの歴史叙述にもさまざまな矛盾がひめられていないわけではない」 「歴史叙述と文学叙述」(『歴史学研究』、第463号、1978年12月)

と慎重に述べたうえで、『近代国家の出発』をめぐり、「雄大な俯瞰図」と「底辺の視点」とは「かならずしも一致しない」とした。前項で問題化した、AとBとの分離・乖離の指摘である。その上で、西川は、「底辺民衆の歴史的時間のリズムは暗示されていない」との批判を加える。すなわち「雄大な俯瞰図」を描く側の文体となっており、「底辺の視点」にふさわしい文体となっていない、という批判である。ことばを足せば、色川の「歴史叙述」──その文体──歴史の「語り」の位置が、「近代国家」を形成する側の視点に同一化する文体となっている、との批判である。

西川の言い方がわかりにくい個所もあるが、西川が後に展開する国民国家批判の観点からの色川の文体―叙述批判である。そのことを示すように、西川は、「戦後歴史学」による『昭和史』(岩波新書)の文体を、「反体制的」ではあろうが、「民衆にたいしては権威」として立っており、「全く同じことが色川の『近代国家の出発』についても言えるであろう」とした。(「民衆史研究」をもふくむ)歴史学に対する厳しい批判である。「近代思想」―「戦後思想」に拠って来た「近代歴史学」に対する、「現代思想」からの批判ということができる。

付言すれば、西川は(「文学」という領域を超えて)「現代思想」の立場から、あらためて「言葉はひとつの権力であるという観点」を示し、「歴史研究における叙述の実践的な性格」を指摘する。(1)「叙述は全国民の言語活動およびそれを支配している権力と密接な関係」を有し、そのゆえに(2)「叙述は歴史研究にとって重要な実践の場」とする。すなわち、(3)「叙述は報告のための単なる手段ではなく歴史研究者の歴史認識にかえってゆかねばならない」とするのである。

西川にとって、「叙述」は、それがえらんだ「文体と形式」によって「イデオロギー的」であるということになる。「叙述」がもつ意味を十二分に認識し、その立場からの色川の「歴史叙述」の検討であった。テキスト論という「現代思想」をふまえての、「戦後歴史家」としての色川への問いかけであったといいうる。

 

しかし反論として出された、色川 「“歴史叙述の理論”をめぐって」(『歴史学研究』第472号、1979年9月)は、のっけから反発に終始し、自らの問題意識を語ることによる弁明をくりかえし、論争とはなり得なかった。不発の論争であり、肩透かしを食わされた気持が大きい。

西川の批判的提起に色川が応答すれば、「歴史と文学」を入口とし、「戦後思想」と「現代思想」との射程を有し、論争はその後の歴史学に大きな財産となるはずであった。色川に内在すれば、Aの過剰さを「歴史叙述」として提供するとき、具体的なB『近代国家の出発』のような行儀のよさに収縮することを、歴史学の方法として西川は、批判的に問うていたことになる。

色川が正面切って応答しなかったことには、後続のものとしては残念の一言につきる。さらに、遅ればせの色川の全面降伏が加わってしまった。『歴史の方法』が岩波書店版・同時代ライブラリーとされたとき、色川は「同時代ライブラリー版へのあとがき」(1992年)で、「今度、自分の反論とあわせ再読して、全くマトのはずれた異論を唱えたことに研究者として恥じ入るばかりである」と述べる。西川の批判をみずから読み解き、(西川の議論は)「色川に見られる理論軽視の傾向は「民衆思想史」を経験主義の段階にとどめてしまう」ということであろう、とも記す。

この「あとがき」は「西川長夫氏の批判にこたえる」と副題が付され、25ページに及ぼうというほとんどが、その応答に費やされている。色川の「反省癖」とでも言ったらよかろうか。その後の水俣の地などでの経験をふまえ、色川は「私はこの批判を受けいれて新しい民衆史の叙述の地平を拓いてゆこうと思う」と述べる。15年後に、色川は西川の議論を読み、あらためて西川の議論を講じた。おりしも、色川がみずからの仕事を見渡し、再整理を始める時期とこの「反省」は重なっており、あらたな飛翔への決意を感じさせる。

 

興味深いことに、西川はさらに色川に対し発言を求めた。後述する『色川大吉著作集』の月報に、西川「日本のミシュレ」(「著作集」月報、1995年)を掲載し、色川をさらに挑発したのである──「色川大吉は日本のジュール・ミシュレだと思います、と言ったら色川さんは笑うだろうか、それとも怒りだすだろうか」。

西川は、(1)「フランス近代における「国民史」の確立者であるミシュレは、歴史の中心に民衆を置いた最初の民衆史家でもあった」、(2)「厖大な史料と格闘を続けたミシュレは、同時に歴史哲学と方法論に固執した歴史家でもあった」、(3)「ロマン主義的文体」をもち、「死者たちに第二の生を与える」ために書いたと論じた。短文であるが、西川自身のミシュレに対する評価の「ゆれ」がうかがえ、苦渋・難渋する西川のミシュレ解釈が示される。

色川の歴史学を、このミシュレに比定することは、色川に対し「近代歴史学」―「国民的歴史学」にとどまるのか、という挑発的問いかけをはらんでいると思う。だが、色川は、この第三の矢に対しても、楽天的に謝意を述べるにとどまっている(「著者による解説・解題」著作集5 1996年)。歴史学にとって、不幸な「現代思想」との出会いそこねは、この局面においても解消されることはなかった。

「自分史」をめぐっての上野千鶴子とのやり取りも、そのすれ違いがうかがわれる。『“元祖”が語る 自分史のすべて』(草の根出版会、2000年)には「自分史をめぐるさまざまな疑問に答える」という、上野を「聞き手」とするインタビューが収められている。

このなかで、上野は、「自分史」に対し、「真実と虚構」「想定する読み手」、その意味付け、「書き換え」―「決定版」の存在の有無、「文学」との相違──とくに「私小説」を念頭においての議論などを焦点としながら、色川に問いかける。テキスト論―「現代思想」の観点から、上野は追及の手をゆるめずに、色川の「自分史」概念を問い、「歴史のルールにのっとって自己表現をするということなんですか?」「「自分史」は、専門の歴史家にとってはどういう意味があるのでしょうか」と次々に問う。「実証ができるかできないとか、事実にもとづいているかどうとかってことで言いますと、そういう妄想とか思い込みとかは歴史の中から排除されるのでしょうか?」。ここでも、色川のAとBとの乖離が問われた、ということができる。上野千鶴子の言をあらためて記せば、

(1)「色川さんがいま言ったことには矛盾が含まれているように思います。ひとつは客観的な歴史に対して非客観的な歴史というか、主観的な歴史をたてたいということと、もうひとつは、民衆史の資料がほしいと」。(2)「主体的な歴史ということになれば、さまざまな主体がいるわけですから主体の数だけ歴史がありますね・・・困民党の歴史というものも、決定版の困民党の歴史がひとつあるわけじゃなくって、いくつも歴史があるってことになるでしょうか」。(3)「実証することによって、それが嘘であるということが証明できる。(このとき―註)嘘だということは嘘であることの価値を下げるわけではなく、噓を作りだした人たちのリアリティをもっと強烈に証明することができる」 「自分史をめぐるさまざまな疑問に答える」(『“元祖”が語る 自分史のすべて』)

 

「現代思想」によって浮上する、「自分史」の位相―「近代歴史学」=「戦後歴史学」の論点が次々に浮上する。21世紀にみなが直面することになった、歴史・歴史学の論点がここに挙げられている。西川の議論も上野の問いかけも、色川の「歴史叙述」に触発されての議論であり、そのことによってさまざまな論点が浮上してきた。ただ、色川がこの論点に積極的に応答し自らの歴史学を「現代思想」の観点から展開―転回することはなく、「出会いそこね」と言わざるを得ない。歴史学界全体は、こうした動きさえ素通りしてしまう。

(以下次号)

 

なりた・りゅういち

1951年大阪市に生まれる。早稲田大学文学部、同大学院で日本の近現代史を学ぶ。民衆史研究のさかんな頃であった。大正デモクラシー期の考察が出発点であったが、次第に19世紀から20世紀にかけての文化、思想の考察に関心をひろげる。同時に、これまで農村の歴史が中心であったのに対し、都市の歴史の重要さを主張するようになる。近ごろは、戦後史についても考えている。東京外国語大学で日本史(日本事情)を教えるが、そこで社会史研究に接する。そのあと、日本女子大学で30年間、社会史を教えた。文学や映画を用いて、日本の近現代史を考える授業をおこなってきた。

主な著作

【テーマに即して】・『大正デモクラシー』(岩波新書、2007年)・『増補「戦争経験」の戦後史』(岩波現代文庫、2020年)

【戦後日本史として】・『戦後史入門』(河出文庫、2015年)・『「戦後」はいかに語られるか』(河出ブックス、2016年)

【通史として】・『近現代日本史との対話』【幕末・維新―戦前編】【戦中・戦後―現在編】(集英社新書、2019年)

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