特集 ● 黄昏れる日本へ一石

資本主義には「もう耐えられない!」

松下冽『ポスト資本主義序説』を読み考える

立命館大学名誉教授 高橋 伸彰

「新しい資本主義」ではなく「ポスト資本主義」を

岸田文雄氏は首相就任時に自らが掲げる政策として「新しい資本主義」を謳った。だが、古くても新しくても資本主義の本質は成長を梃子にした不断の資本(商品と交換可能な貨幣資本)蓄積にある。そのために、過去数百年にわたり人間の労働力を搾取するだけでなく、自然から有限な資源を収奪し、生産や消費の過程で発生する温室効果ガスなどの廃棄物を、自然の空間に排出し続けてきた。先進国で労働力が不足し賃金が上昇すれば、安価な労働力を求めて途上国に進出し、有限な資源が枯渇の危機に陥れば新たな資源を開発し、汚染が問題になれば廃棄物を削減したり再利用したりして、地理的、空間的、技術的にフロンティアを拡大することで、資本主義は生き延びてきたのである。

これに対し、独特の歴史観を持つ経済学者の水野和夫氏は30万部近いベストセラーとなった『資本主義の終焉と歴史の危機』(集英社新書)で、「資本主義の死期が近づいている」、なぜなら「もはや地球上のどこにもフロンティアが残されていないから」だと喝破する。

水野氏によれば、資本主義とは「周辺」から「中心」へと利潤を「蒐集」する経済システムである。「中心」が蒐集する利潤は「周辺」、すなわちフロンティアの拡大によって増大する。近代とは、このフロンティアを地理的、物理的に広げることによって、「中心」に位置する国家と国民が成長を続けられた時代である。その意味で資本主義の終焉とは、フロンティアの桎梏によって近代という時代が転換を迫られる歴史の危機でもある。

こうした水野氏の「史観」は、フロンティアは無限にあり、「桎梏」は技術革新で克服できると主張してきたエコノミストやグローバル企業の経営者には受け入れ難いものだった。そのため、蒙が啓かれたと言う読者とは対照的に、彼らからは「資本主義が終わると主張するが、その次にどういった世界がくるのか、まったく述べられていない」との批判が、少なからず寄せられたという。

だが、水野氏は前掲書に続く『株式会社の終焉』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)で「それがどうかしたのか」と一蹴し、資本主義の次が示されていないからと言って、なお成長に固執するなら「成長、それ自体が収縮を生みだす」と反論する。実際、生産能力が過剰な中で、より高い成長を目指し投資を重ねても、遊休設備と不良債権が積み上がるだけであり、また、新しい技術で市場の開拓を試みても、開発コストが嵩むだけで収益は上がらない。いわんや仮想の「金融・電子空間」で貨幣の増殖を図っても、バブルの発生と崩壊を繰り返すだけである。

そう考えれば、求められているのは岸田首相が謳う「新しい資本主義」ではなく、「ポスト資本主義」の政策構想である。それには資本主義に代わるシステムを構築し、経済社会の在り方を根底から変革していく以外に道はない。道のりは平坦ではないが、変革できなければ人類の生存だけでなく、地球環境も危機に陥ってしまうのである。

打倒しなければ資本主義は終わらない

それでは、どうすればよいのか。この難問に正面から挑んだのが、国際政治学者の松下冽氏が最近著した『ポスト資本主義序説』(あけび書房、以下本書と言う)である。

本書の冒頭で松下氏は「これまでの資本主義システムが人類と共存できるのか。巨大な格差と貧困の現実や生態系の限りない略奪など人類の生存に関わる危機を克服し、既存のシステムに代わるオルタナティブを構想することができるのか」と問い、終わりにではロシア軍のウクライナ侵攻を取り上げて「この戦争の背景には、私たちに巨大な不平等、悲惨な気候変動、貧困、人種的アパルヘイト、核戦争の脅威の増大をもたらした長年の反民主主義イデオロギーがある」と述べたうえで、「こうした人類の悲惨な諸問題を解決する希望を持つことができるとすれば、世界資本主義システムとわれわれの生存手段に対するその支配権力に国境を越えて集団的に対決しなければならない」と訴える。一見すると過激な訴えだが、本書を紐解き冒頭の問いから結論に至る松下氏の議論を辿るなら、むしろ訴えは自然と腑に落ちるはずだ。

資本主義の下で資本の増殖が止まらないのは、人びとが少しでも多くの所得を稼ぎ、不断に創出される新たな商品を買い求めようとして「勤労意欲をますます高め、たとえ給料が変わらず、むしろ下がることになっても・・・(使用者の)厳しい要求に従う」(W.シュトレーク『資本主義はどう終わるのか』河出書房新社)からだ。この結果、生き延び繁栄するのは資本主義であり、失われるのは人びとの生活と精神のゆたかさである。

松下氏と同じように、経済地理学者のデヴィッド・ハーヴェイも資本主義は「打倒されなければならない」(『資本主義の終焉』作品社)と言う。ハーヴェイはアルジェリアの独立を目指してフランスの植民地主義と闘ったフランツ・ファノンに倣い、同書では革命的人間主義のススメを説く。

ファノンは『地に呪われたる者』(みすず書房)で「ひとつの橋の建設がもしそこに働く人びとの意識を豊かにしないものならば、橋は建設されぬがよい。市民は従前どおり、泳ぐか渡し船に乗るかして、川を渡っていればよい」と語り、宗主国が求める橋の建設や橋がもたらす便宜よりも、その建設のために駆り出されて働く人びとの、精神的な豊かさを優先しなければ、植民地の人びとは永遠に解放されないと主張した。ファノンの言う橋と、そこで働く人びとの精神を、現代の資本主義の下で次々と創出される新製品や新サービスと、その生産や販売のために劣悪な環境下で労働を強いられる人びとの精神に置き換えてみれば、同じことが言えるのではないか。

資本主義は歴史的なシステムだとしても、耐えて待つだけでは終わらない。月並みだが、資本主義との闘いは「適度な必需品による豊かな生活や安定した『善き生』」(ハーヴェイ前掲書)に真の幸福を見いだすことから始まる。そうでなければ、どんな手段を使っても増殖を図ろうとする資本主義の猛威は鎮まらないのである。

晩期マルクスが洞察した資本主義の矛盾

『人新生の「資本論」』(集英社新書)で注目を浴びた経済思想家の斎藤幸平氏も、マルクス・ガブリエルとの対談で「資本主義は利潤を追求するシステムであり、地球環境がどうなろうが、気にしません・・・だとすれば・・・資本主義そのものを変革しなくてはいけない」(『未来への大分岐』集英社新書)と語る。斎藤氏が環境危機こそ資本主義に代わるシステム(ポストキャピタリズム)への転機だと言う背景には、未完に終わった『資本論』の草稿として遺されたマルクスの洞察がある。晩期のマルクスは資本の高度化による利潤率の低下よりも、人間と自然の間の物質代謝の攪乱(摂取と排出のバランス破壊)に資本主義の矛盾を見いだし、自然科学の研究に没頭したと斎藤氏(『大洪水の前に』堀之内出版)は言う。

そのうえで、斎藤氏はあらゆる財の私有を「謀る」資本主義から、土地などの自然、電気や水道などのライフラインおよび医療、介護、教育などのサービスを、コモン(共有の資本)として民主主義的に管理する「脱成長コミュニズム」へと移行すれば、成長のために欠乏を創り出す資本主義では叶わなかった新しい豊かさを実現できると説く。

持続的な成長を政策に掲げる政治家や、成長を支持する経済学者は温暖化対策の推進が、再生可能エネルギーや電気自動車の普及など、新しい技術や市場の創造を通して新たな需要を誘発し、成長の原動力(グリーン・ニューディール、以下GNDと呼ぶ)になると嘯くが、斎藤氏はGNDでは逆に環境負荷が増え「地球環境を破壊しかねない」(『週刊東洋経済』2021年4月10日号)と言ってGND礼賛に釘を刺す。 

斎藤氏は新刊の『ゼロからの「資本論」』(NHK新書)で、人々の平等(権力による支配関係が不在の状態)と自然の持続可能性を維持し、GDP(国内総生産)の多寡では測れない豊かさを実現するためには、現代の文明やテクノロジーを捨てずに「高次」の共同体社会を目指すべきだと説く。そんな社会の構築は不可能だという批判に対しては、日々の生活に見られる無償の相互扶助やミュニシパリズム(地域自治主義)の国際的な広がりを事例に挙げて、不可能ではない!と反論する。

グローバル・サウスに学べ

松下氏も資本主義を変革するには「経済成長よりも人権とケアを・・・競争よりも協力を・・・覇権的な西洋科学よりも知識生態学を・・・個人主義よりもコミュニティを、地球規模ではローカルを優先する」社会を目指すべきだと言う。ただ、松下氏の議論がハーヴェィや斎藤氏と異なるのは「経済主義的なアプローチの枠内」に止まらず、グローバル化した資本による「階級権力」の復活(松下氏の言う新自由主義)までも射程に入れている点にある。そうでなければ「新自由主義的理性によってもたらされた社会的、文化的、そして個人的生活の根本的な変容の把握には」至らないと言うのだ。

本書のあとがきで、松下氏は「ポスト資本主義への構想は政治空間の再構築に向けて、20世紀までに人類が獲得したあらゆる領域での『知』を大多数の人びとの立場と、視点から再考し、追求する必要があろう。その際、いわゆる西洋近代『知』の『植民地化』を再検討することを前提に、グローバル・サウスの歴史、『声』、習慣と多様な運動を含めた生活空間と実践『知』が、『ポスト資本主義への構想』に資するであろう。グローバル・サウスから多くを学ぶことである」と述べる。

グローバル・サウスとは、松下氏によれば(以下は、2023年3月28日付朝日新聞デジタル版のインタビュー記事に拠る)グローバル化が進み国際秩序が変容する中で、「新興国」「途上国」「北と南」といった従来の枠組みでは、もはや現状を捉えられないことから、単なる地理的・静態的なエリアではなく、グローバル化のマイナスの影響を受ける国々や地域、諸問題、さらにそれらの関係性を含む社会的カテゴリーを指す概念として新しく生まれたという。

地理的に見れば、確かにグローバル・サウスの多くは「途上国」や「新興国」と呼ばれてきた国々と重なるが、新自由主義的なグローバル化の影響を受けているのは必ずしも「南」の国だけではない。「北」の国の内部でも激しい富の集中や格差が起きている。また、気候変動のように「国際問題」か「国内問題」かの境目があいまいな問題も増えている。このように国境を越える問題や多様なアクターが次々と生まれる中で、地理的な区分である「南」や、国民国家を前提とした欧米中心の経済主義的な基準で分類された「途上国」の概念では、現状をとらえることが難しくなっている。

松下氏がグローバル・サウスに焦点を当てるのは、それがグローバルな資本主義の「被害者」であり、救済されるべき「対象」だという理由からだけではない。グローバル・サウスには、ポスト資本主義が目指す「ユートピア」への道も拓かれているからだ。松下氏はグローバル・サウスの概念が、既に有効性を失った「国民国家中心の分析から離れ、新たな段階に向かうグローバル資本主義の推進力としての多国籍資本と多国籍化する国家によるグローバル化世界の再編成の現状と行方を考察するための有効な理論的枠組みである」と言う。

ビビール・ビエンという理想の社会

松下氏は本書の後半(第7章)で、改めて「差別と格差と環境破壊をもたらす成長優位を追求するのではなく、経済成長に依存しない経済システム、『脱成長』の多様な構想とアプローチが追及され始めている」と述べ、その中でも、コロナ・パンデミック以降は「人類と自然との関係が喫緊の課題として問われる」ようになり、「先住民の生活様式、ブエン・ビビール(Buen Vivir)、またはビビール・ビエン(Vivir Buen、以下VBと略す)という先住民の考え方への関心が深まっている」と述べる。VBとは、松下氏によれば「南米アンデスの先住民族にルーツを持ち」、文字通り「良い人生や良い生活」を意味する概念であり、「ラテン・アメリカの社会運動や政治に影響を与えてきた」人々の理想とする社会の在り方でもある。

このVBを松下氏はグローバル・サウスから学ぶ実践例として紹介するが、その前に立ちはだかるのがノーベル経済学賞を受賞したケネス・アローの不可能性定理である。アローの定理によれば「価値観が異なる多様な個人から構成される社会では、個人的な価値観を集計して、ある一つの社会的な価値観を民主的プロセスによってつくりあげることは理論的に不可能」であり、たとえVBがポスト資本主義の実践例として望ましいと社会的な合意が得られても、多様な価値観を持つ個人で構成される社会においては、その実践のためにどのような方法やシステムを採用するべきかまでを、民主的なプロセスによって決定するのは不可能だというのである。

実際、VBの実践を試みたボリビアやエクアドルでは「人間と自然の調和、生活の質、共生を促進する」VBの概念を憲法に掲げながら、結果的に成長を優先する中央政府によって、VBのスローガンは新たな開発計画に組み込まれ、本来のVBは実践できなかったという。

これに対し、アローに師事したこともある理論経済学者の宇沢弘文氏は「アローが想定するような『多様=ばらばら』な価値観をもった個人によって社会が構成されているわけではない、むしろ市民の基本的権利にかかわる現象にかんしては、かなり広範な層にわたって共通の価値観の形成がみられる。逆にこのような社会的連帯感を否定しては、『社会』の存続すら疑問視されざるをえなくなる」(『近代経済学の再検討』岩波新書)と言ってアローの定理を批判する。同じ社会(地球上)で生活する人々の間では、何が問題かだけではなく、その問題をどのように解決すべきかに関しても合意は形成できると言う。なぜなら人間には社会的な連帯感とか、あるいはアダム・スミスが『道徳感情論』で唱えたように、他人の喜びや苦しみを自分の喜びや苦しみとして感じるシンパシーが備わっているからだと宇沢氏は述べる。

この宇沢氏の主張に従うなら、ボリビアとエクアドルでVBの実践に失敗したのは、必ずしもアローの不可能性定理が成立したからではない。VBを支持する人びとの間で、アローの不可能性定理を乗り越えるグローバルな連帯が形成されなかったからである。そう考えると、VBの実践を目指す人びとが地域や国内に留まらず、宇沢氏が言う「共通の価値観」を抱いてグローバルに連帯するならVBの実践も可能になる。そんな歴史的な瞬間が必ずや訪れることを「われわれは知っている」と松下氏は説くのである。

対決の果てにある未来を信じて

松下氏がグローバルな連帯を求めるのは、金融システム崩壊による経済危機だけでなく、気候変動による地球環境危機も、そして未知のウィルスが引き起こしたコロナ・パンデミックも、私たちの生活に大きな影響を与える問題の多くは、いまや国境を越えて世界中に波及し、ローカリズムでは十分に対応できないからである。本書の結びで松下氏は「新自由主義的グローバル化が世界中の人びとにもたらした『惨事』は至る所で、とりわけグローバル・サウスの人びとを中心に、『もう耐えられない!』という叫びとなって湧き上がっている」と語る。

松下氏の心には長年にわたり研究を重ねてきた南米政治への想いと共鳴して、グローバル・サウスの人びとの叫びが痛いほど響くのだろう。松下氏が「現代の資本主義は危機に瀕している。資本の無限の蓄積、あらゆるものの商品化、労働と自然の冷酷な搾取、それに付随する残忍な競争は、持続可能な未来の基盤を弱体化させ、それによって人類種の生存そのものを危機にさらしている。人類が直面している深く体系的な脅威は、深く体系的な変化を、すなわち大転換を要請している」と語るとき、その大転換を要請しているのは、まさに「もう耐えられない!」と叫ぶグローバル・サウスの人びとの抗議の声にほかならない。

本書の議論を辿った最後(おわり)に、この抗議の声を聞けば「世界資本主義システムとわれわれの生存手段に対するその支配権力に国境を越えて集団的に対決しなければならない」という松下氏の訴えが、けっして過激ではないことを理解できるのではないか。未来を信じ、未来を生きていこうとする人びとの輪が広がり、対決に向けてグローバルな連帯が形成されるなら、その果てにはゆたかな「ポスト資本主義」の未来が拓かれていることを「われわれは知っている」。

本書は、私たちの心の奥底に眠る古代から引き継がれてきた共生と協力の精神を、改めて覚醒させてくれるのである。

たかはし・のぶあき

1953年北海道生まれ。1976年早稲田大学政治経済学部卒。同年日本開発銀行(現日本政策投資銀行)入行、日本経済研究センター、通商産業大臣官房企画室主任研究官、米国ブルッキングス研究所客員研究員などを経て1999~2019年立命館大学国際関係学部教授。同名誉教授。著書:「数字に問う日本の豊かさ」(中公新書、1996年)、「優しい経済学」(ちくま新書、2003年)、「少子高齢化の死角」(ミネルヴァ書房、2005年)、「グローバル化と日本の課題」(岩波書店、2005年)、「ケインズはこう言った」(NHK新書、2012年)など。

 

 

 

松下冽著(まつした・きよしー立命館大学名誉教授)/あけび書房/2022年12月刊/2200円

 

目 次

序章 20世紀と決別できるか:「移行期(トランジション)」を掘り下げる

第1部 分断化されたグローバル世界の現在

第1章 分断化の現実から見えるグローバルな世界

第2章 新自由主義とは何であったのか?

第3章 空洞化するウエストファリア世界秩序

第2部 政治経済学の再考:「国家ー社会」関係の視座から

第4章 「国家ー社会」関係の再構築:政治空間と市民社会空間

第5章 グローバル・サウスにおける社会運動:自立は可能か

第3部 プルーリバース(多元世界)に向かう地平を

第6章 新自由主義の終焉の時代

第7章 ポスト資本主義への政治空間を再構築する

第8章 重層的な世界秩序とグローバル市民社会の構想

第9章 世界社会フォーラムとグローバルな社会運動の展望

結びに パンデミックからウクライナ:グローバルな市民社会に向け

特集/黄昏れる日本へ一石

第34号 記事一覧

ページの
トップへ