コラム/沖縄発

つれづれに「庚申こうしんバラ」と俳句

”土地の力”

『沖縄タイムス』俳句時評担当 山城 発子

勝手にウチナーバラ または バラとの再会

そのバラの名前がわかったことが嬉しかったのである。義妹が、挿し木にするといって庭のバラの小枝を二・三本持って帰っていったので、私は用事ついでのメールで、聞いたばかりの花の名を伝えた。「それって庚申バラというらしいよ」と送ると、「勝手にウチナーバラ!」と返信がきた。「ウチナーバラ(沖縄バラ)でいいじゃん」というのだろう。なるほどと苦笑した。もちろん私も島バラなどと言ったり、バラの原種だろうか、とか、それこそ勝手に考えたりしていたものである。

小さい時から身近にあったバラの花である。近所の家の庭先などによく咲いていた。鋭い棘を持ち、ピンクの花びらが綺麗で、ちょっと揺するとはらはらと花びらが散る。良い香りもした。バラと言えばその花だった。話題にすれば、ああ、あのバラね、とたいていは通じる素朴な花である。バラには違いないが、どういう種類なのか、なんだか、その固有の名前が気になり出したのである。先日、生物教師だった先輩から、「庚申バラ」というのだと教えてもらい、少し興奮気味であった。そう言われると、いつか新聞記事でこの文字を見た憶えもあった。ともかくも、今こそ花の名をしっかりキャッチできたことで、晴れ晴れとした私はきっかけがあれば、誰にも花の名のことを喋りたくなっていたというわけである。

昨今スマホがあれば写真に撮り、名前など大抵のことは調べられるというが、あいにく私はまだ持っていない。今や、AIの活用が取り沙汰され、人工知能があらゆる分野に食い込んでいくときに、花の名がわかったとはしゃいでいるのは随分前時代的な話だろう。しかしながら私にとってはささやかな再会のドラマであった。

親しかったそのバラのことを私は忘れていたのである。年を重ね、生活する場所も変わっていき、そうして、そのバラはいつの間にか私の関心の対象ではなくなっていった。代わりに、普通に、絵本や花屋さんで見るあの美しい「薔薇」が心を占めていった。情熱や愛などの花言葉で表現される「薔薇」はまさに高貴で花の女王という言葉にふさわしく、私を魅了した。リルケの詩で詠われる薔薇の神秘性、内海のイメージが私を捉えた。また、加藤登紀子さんの歌「百万本のバラの花」を聞くと、悲しく美しい物語に心揺すぶられる。歌詞の「真っ赤な薔薇の花」から圧倒的な美が伝わってくる。

さて、時が過ぎ、ふと気がついたのである。かつては、あちこちの垣根から顔を出していたあのピンクのバラを見ることが少なくなっているのだ。そうすると無性にその花が懐かしくなってきた。あるとき知人の庭に咲いているのを見つけ、小枝を貰ってきた。挿し木をすると、バラはすぐ綺麗な花を咲かせた。この家に移る時も、掘り起こして持ってきたのである。挿し木でもよく根付いて、庭のあちこちで咲いてくれている。女王の薔薇と違って花は可憐だ。清らかな香りがある。木全体の育ち様は、野趣を帯びて、荒ぶる感じさえする。大きな木の陰になると、陽に向かって蔓状に枝を伸ばしていって花を咲かせる。そこに植物のしたたかさを見せつけられ、生命力に驚く。大げさだが、そうして、そのバラと再会出来て本当に良かったと思うのである。

庚申バラ

「庚申バラ」をパソコンで検索すると、中国原産の、年に数回、四季を通じて咲く花とある。日本に古くからあるというのはやや意外であった。花言葉は「優美」、「ロサキネンシス」の名もあるという。カタカナ名は何かハイカラだ。岡山での学生時代、季節に訪ねた薔薇園の華やかな中に、もしや庚申バラもすがすがしく咲いていたのかも知れないと思う。

「庚申」とは「庚申待」からきたもので、「庚申(かのえさるの日)」は干支の、60日に一度巡って来る日で、その期間を置いて咲くところから名がついたとある。辞書を引くと、「庚申祭」とは中国の道教に基づく民間の祭事とある。体内の三尸虫がその人の悪事を天帝に密告されるのを恐れて神仏を祭り、寝ないで朝を待つ。そのことを「庚申待」というらしい。四季を通じて咲くことをいうのに不思議ないわれではある。

さて四月も下旬の今、庭の庚申バラはちらほらと花が残る。これから咲きそうなつぼみも見える。少し前の二月前後が花は満開時だった。ほぼ一年通して咲くとはいっても、波があり、花の色も変化する。確かにほぼ60日に一度くらいなのかも知れないと納得してしまう。沖縄の寒いとき、庚申バラの勢いもよく、最も美しく咲き誇っているような気がする。俳句の季語でいえば「冬薔薇」がそれにあたるのであろう。

通念として薔薇は夏に咲く花であり、俳句歳時記では「夏」に分類されている。そして「冬薔薇」が「冬」に置かれている。手元にある幾つかの歳時記をみても特に「庚申バラ」という季語がないのは、ずっと咲いている性質上全く当然である。ただ、歳時記によっては、「冬薔薇という品種があるわけではない」ときちんと書いてあったり、「四季咲きの薔薇は冬にも花をつける」ともあるのは、より事実に則した説明に近づけようとしていると窺える。多くの歳時記が「四季咲きの薔薇」の存在に触れている。そこに庚申バラの気配を感じてしまうのである。『合本俳句歳時記第三版』(角川書店)は「冬薔薇」の季語について、やや明確に次のように記している。「冬に咲く薔薇。切り花などに人気の高い西洋薔薇は、中国原産の四季咲きの庚申薔薇こうしんばらも交配されており、四季咲きが多い」と。このように「庚申薔薇」の名前が書かれているのは私の持っている歳時記の中で他にはなかった。ただし、その後の記述の「冬の薔薇は夏の最盛期に比べ、ひっそりと捨てがたい風情がある」というのは、どうも当たらない。我が庭の庚申バラはむしろ冬の方が華やいでいるのだ。亜熱帯に属する沖縄の気候が影響しているのかも知れない。

『角川版ふるさと大歳時記7九州・沖縄ふるさと大歳時記』の「夏・植物」の「薔薇ば  ら」の解説の中に興味深い引用があった。その一部分。「ここカゲロウ島では薔薇の花が年がら年中咲きました」「島尾敏雄『島の果てより』。戦時中の奄美群島加計呂麻か  け  ろ  ま島での体験をメルヘン風に描く」とある。「年がら年中」咲いていたのはきっと庚申バラに違いない。確信めいた思いさえ湧いたことだ。凡例に強調されているように「地方性に立脚した視点」に基づいて、取り上げられたに違いない一例であろう。この歳時記の豊かさを感じさせた。

因みに、『沖縄俳句歳時記』(小熊一人著・1979年・琉球新報社)『沖縄・奄美 南島俳句歳時記』(瀬底月城著・1995年・新報出版)の二冊には「薔薇」は季語として載っていない。一年通して咲く花をあえて区分しなかったとも考えられる。

沖縄の自然と現実

現実が先にある。自明のことだが、「庚申バラ」の語に出会って、歳時記をめくりながらふと思ったことである。四季のめりはりは緩やかとはいえ、大きく小さくうねるように変化していく沖縄の自然がある。年を重ねるほど感じ取れるようになってきたと思うのである。近所を車で通りながら目を楽しませる花々を、季節を少し遡って挙げてみると、一月の寒緋桜、その前には芙蓉、石蕗の花があった。トボロチ、メイフラワー、アマリリス、グラジオラス、百合等々。梅雨が近付く頃には遠景に伊集の花が咲きそろうはずである。

そして月桃の花が咲き始めると、今年も慰霊の季節が巡りきたことを気づかせる。「月桃」の歌(海勢頭豊作詞・作曲)は子ども達もよく知っている。学校の平和集会でうたう祈りの歌なのである。沖縄戦については、その記憶の継承の風化が言われて久しいが、歌は歌い継がれて残っていき、希望になっていってほしいと思う。沖縄戦終結の日、六月二十三日「慰霊の日」は季語である。「沖縄忌」ともいう。 78年前の沖縄戦の歴史的現実は、今につながる。国土の0.4パーセントの土地に全国の米軍基地の78パーセントを占める実態はずっと変化がない。基地にまつわる事件事故もあとをたたないのである。

 新たな基地建設を認めない意思を沖縄の人々が示しているのに反して、辺野古基地建設が続けられている。その大浦湾は生物多様性の宝庫、ホープスポットと世界に認められているのにもかかわらず。さらに深い海中に軟弱地盤が見つかり、見通しのつかない埋め立てになると分かったのにもかかわらず。国民の税金を無駄遣いしているのではないかと声をあげているのにもかかわらず、である。

ロシア、ウクライナの戦争が続き、世界が不穏な様相を見せはじめると、国も防衛強化を謳い、沖縄の自衛隊基地を増強し、ミサイルを配備する動きである。これもなんだか、急激に地元を置き去りにして決まっていく感じがある。

現実は歴史の上にある。美しい自然も、その向こうに見える不穏な世の動きも、否定しようのない現実である。文学が、人の内側から発露されていく言葉の世界であるならば、俳句も文学として、多彩な表現が17音の形式として溢れ出ていくであろう。物言いも、メッセージも、さりげない日常の景色の切り取りも、驚きも発見も。ニュースから伝わる出来事、世界で起きている戦争の現実も題材になる。

俳人で文学者の高橋睦郎さんの「沖縄には土地の力がある」という言葉をそのままいただいて結びにしたい。沖縄で生まれる俳句の、その17音の短詩にはきっと土地の力がこもっている。身びいきだが、庚申バラはそのような力を秘め持っているに違いないと勝手に思うのである。

やましろ・はつこ

沖縄の地元紙『沖縄タイムス』で俳句時評を担当。非常勤教員。

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