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女性・市民パワー活かし 総選挙は30%目標

[連載 第8回]キーパーソンに聴く――辻元 清美さん

語る人 立憲民主党副代表(衆議院議員) 辻元 清美

聞き手 本誌代表編集委員 住沢 博紀

1.  NGOピースボートからの出発

住沢:この「キーパーソンに聴く」という企画では、まず政治の世界に足を踏み入れた切っ掛けや、そのころの抱負などを語っていただくことから始めています。辻元さんはもっともパワフルな女性政治家の一人と思いますので、この25年間の活動を語ってください。ところで月刊誌『現代の理論』を設立した安東仁兵衛さんや安東さんと親しいジャーナリスト筑紫哲也さんなどと接点があったと聞いていますが。

辻元:当時まだ学生だったんですけど、安東仁兵衛さんの『現代の理論』で、筑紫哲也さんと早稲田の何人かの学生が座談会をするという企画があって、私と亡くなった久和ひとみさんなどが筑紫さんと初めて会って話をすることになりました。ですから私がこういう世界にデビューしたのは『現代の理論』という事になります。

住沢:それは安東さんの雑誌を継承する私たちデジタル季刊誌『現代の理論』にとっても奇遇とでもいうべきですね。辻元さんは早大在学中の1983年、NGOピースボートを設立され、当時では珍しいNGOの活動家が出発点となっていますね。それで後に土井たか子さんに請われて社民党衆議院議員になられるわけですが。

辻元清美オフィシャルサイト より

辻元:はい。私は1996年に初当選です。それまではピースボートの活動をしていて、その市民運動をやり始めた頃に『現代の理論』で安東さんや筑紫さんにお目にかかったわけです。

ただ私の場合は市民運動といっても、これは後の自社政権での下での活動につながるのですが、ピースボートという船を出して、それで色んな多くの人たちとともに企画を作り上げていって、経営もしなければならない。ある意味実体経済にコミットメントしながら自分たちの理念みたいなものを実現していくと。いってみれば今のソーシャルビジネスとか NPO のように、いろんな経済活動にコミットメントしていく活動を作っていったわけです。

従来型の運動の人たちからはすごくバッシングされました。特に80年代にベトナムなどへ行きましたが、マルコス政権のもとのフィリピンに行くのはけしからんとか、あんなの遊びだとかいわれました。でも私はその時はっきりといいました。いくら立派な基調報告を書いて独裁政権に反対すると言っても、そこに住んでいる人たちと直接につながったり、実際行って見てみないと実態もわからない。それから市民運動は経済に対しての考え方が弱いということが弱点だと思っていました。

ピースボートは早稲田の学生4人で作ったのですけども、私は社会党とは全く関係がなく、土井たか子さんを知っていたぐらいです。私は大阪の商売人の娘で、昔から商売を見てきましたので、70年代80年代の一般的な平和運動とか市民運動などに対しては批判的でした。だから団塊の世代に対しては超批判をしていました。

それでピースボートを作った当時、筑紫哲也さんに私はこういう話をしました。運動には3つの柱が必要である。一つは理念、もう一つはオリジナリティ、そして運営という3つの柱だと。いくら立派な理念を言っていても事務所も持てないとか、清く正しく美しくだけではダメだし、自分達はオリジナリティをもっている、つまりピースボートは船で行くとか、そういう話をしたことを覚えています。

1996年に社会党は分裂して名前は社民党になっていましたが、その時に土井たか子さんが衆議院議長をやめられ、もう一度市民との絆というスローガンで、市民を中心にした政党に変えたいということでお誘いを受けました。私と今の世田谷区長の保坂展人さんと、先日まで宝塚の市長だった中川智子さんの3人が市民派の候補として立候補することになりました。

ところが当選してみれば自社さ政権です。橋本政権で社民党は閣外協力でしたが、私は割と自社政権に馴染んでいたんです。社民党の15席がないと法案を一本も通せないというキャスティングボートを握っていたので、自分たちの作りたい NPO 法とか情報公開法とか、阪神淡路大震災の翌年ですので被災者生活再建支援法とか、男女共同参画基本法とか環境アセスメント法とか、言ってみれば社民党や市民運動が求めていたような法案を自民党の政権下で、どんどん実現に向けて自民党を動かしていきました。

市民運動をやっている仲間からは、自民党と共につくるとはけしからんと批判ばっかりされたんですけれども、「政権にいる間に取るものは取る」ということで自分達が作りたい法律をどんどん作っていきました。

2.  自社政権・保守リベラルから学んだこと

住沢:1998年に村山富市談『そうじゃのう』(第3書館)を共著で出されています。辻元さんは、現在の視点から村山自社政権をどのように評価されていますか。

辻元:村山さんは私が当選する前の総理大臣です。当選する前なのですが、私は村山さんがいきなり自民党と組んで総理になったことは批判していました。村山さんになぜ自民党と組んだのかと、そこで何をしたいのかという話を直接聞いてみたいと思って対談を申し入れ、本を作ったわけです。私は村山政権の一番の功績は「村山談話」(編集部注:終戦50周年に際し、内閣決議として日本の植民地支配と侵略を詫びる)だと思います。あれは自民党政権ではできなかったと思いますので。

1996年に社民党議員となりましたが、その前に自民党が参議院で過半数割れして以降、連立政権時代に入ってきているわけです。55年体制が壊れてどの政党も一党では政権がとれない時代になりました。現在の政権も自公連立です。私は初当選から25年経ちますけれども、このずっと続く連立政権時代では、政権というのはドレッシングと一緒だといっています。社民党が自民党と連立した時も、油と水は混じらないのですけど、美味しい割合みたいなものがある。どんな連立政権を作るのかという発想が必要だと学びました。

住沢:辻元さんは、しばしば自民党のリベラル保守とでもいうべき、故加藤紘一さん、故野中広務さん、それに山崎拓さんなどから教えられたと語っていますが。

辻元:加藤さんとか山崎さんとか野中さんとか、いわゆる宏池会とか宏池会リベラルの方たちとは、自社政権のつながりです。私が最初にいろいろ教えてもらった先生達です。土井さん、村山さんも含めて1年生の時に色々教えてもらいましたが、むしろ自民党のリベラル保守の人から学んだことが多いと思います。

住沢:2000年世界経済フォーラム(ダボス会議)の「明日の世界のリーダー100人」に選ばれていますね。それは政治家・辻元清美にとって、大きなキャリア、資産となっていますか。

辻元:そんなに大げさに考えていません。私は選ばれたのを知らなくて、加藤紘一さんから辻元さんすごいねと言われ、それで問い合わせて確認しました。

気候変動などをめぐり、92年の地球サミットなどで NPO・NGOが参加して政策を共に創っていくという事が主流になっていました。私は市民参加が遅れていた日本から参加していましたので、欧米中心だったダボス会議でそうしたことが評価されたのかとも思っています。翌年、私はダボス会議に行き、若者が話し合う会議に参加しましたが、その年は楽天の三木谷さんが選ばれて来られていました。

住沢:さらにさかのぼると、1993年 エイボン女性大賞を受賞していますね。調べてみると、2000年前後に多方面で活躍しているそうそうたる女性が選ばれているので驚きました。

辻元:私は教育賞というのをいただいたのですが、ピースボートの活動は若者への教育活動の側面もありましたから。今でこそジェンダー平等とか言われていますが、当時は非常に先進的な取り組みであり、選ばれた人達の多くはその後第一線で活躍しています。

3.  官僚組織に飛び込んだ国交省副大臣時代

住沢:次に、2009年9月鳩山内閣が成立し、前原国土交通省大臣のもとでの社民党からの副大臣就任。辻元さんはしばしば前原さんとコンビを組むことが多いのですが、この時の経験、とりわけ八ッ場ダム建設中止やJAL再建について。

辻元:前原さんとは京都と大阪で選挙区が近く、それから私が社民党議員を辞職していた時、前原さんから私に民主党から立候補しないかというお誘いがあったと、当時の民主党幹事長の岡田さんから言われてきたようなのです。このように前原さんとはわりと仲良しで、鳩山政権の国土交通省で一緒に仕事をすることも、馬が合うのでやりやすかったですね。

八ッ場ダムについては馬淵さんの方が担当でしたが、あの時は八ッ場ダムも含めてダム建設全体の見直しをしたわけです。見直しの基準を作成し、全国で30ほどのダム建設が見直されたと思います。このスキームは後の自公政権でも継続されています。

それからJALの再建では前原さんが本部長、私が事務局長となりました。これは私たちが「素人」だからできたと思います。ものすごいプレッシャーがありましたが、私は商売人の子供ですから「商売は小さくても大きくても同じ」という感覚だったんです。国民目線で突っ込んで、中途半端にせずに徹底的に膿を出さなければよくないということでやりました。しがらみがないからできたともいえます。

当時財務省No.2の財務審議官で、のちにカリスマ的な財務事務次官となり2015年に亡くなった香川俊介さんがJAL案件の担当でした。リーマンショックの直後でしたから、JAL がいきなり潰れると日本経済全体に相当な経済的ダメージが予測されました。なので飛行機を飛ばしながら、しかし株主にも OB にも会社関係者にも銀行にも責任をとってもらうというオペレーションだったわけです。

最初の頃は、明日1000億円入れないと燃料が買えず便が止まってしまうという事態もあり、私たち閣僚が頑張って働きかけ1000億円を調達するという事もありました。

それを見ていて香川財務審議官は、こういう仕事ぶりの議員は今まで二人しか見たことはなく、もう一人は野中さんだといってくれました。これは私にとっては最大の褒め言葉でした。後に JAL は黒字になり借金を全部返しましたから、当時の関係した政治家や官僚も評価してくれていると思います。今もいっしょに仕事をした国交省や財務省の官僚たちとは付き合っています。

住沢:辻元さんは、社民党から国交省の副大臣になったのですが、その後、福島社民党は辺野古移設をめぐり連立政権から離脱しますが、辻元さんもその渦中でいろいろなことに遭遇されたと思います。しかし今から振り返ると、当時の民主党の中心的な人々だけではなく、他党の政治家や思わないところから辻元さんを政治家として評価する声が聞こえてきますが、それはこのJALの再建が関係していますか。

辻元:かつて小泉さんの秘書をされていた飯島さんが、プライムニュースというフジテレビの BS放送の討論番組に出ていらっしゃって、その時に今の野党はどうかという話になり、飯島さんが「辻元清美は国交省で仕事をした時に、ものすごく変わった。昔は大嫌いだったけどもあれから後は評価している」と発言されたそうです。1ヶ月ぐらい前の話です。

国交省での仕事でもう一つ心に残っていることは、国鉄民営化の際に起きた国鉄労働者の方々の解雇問題です。この解雇をめぐる裁判が延々と続いていたんです。私は国労の方々がつくるラーメンなどの販売の手助けもしていましたから、国交省の副大臣となったとき、最初は警戒されたそうです。

国交省は当初、この裁判は絶対にダメですと言ってきましたが、私はこれは絶対解決しようという思いを持ち、結局最後は和解に持って行きました。財務省は最初抵抗して絶対お金を出さないと、国交省の中でも金は駄目だったのですけど、鉄道局長クラスを呼んで、ゆっくり話をしました。

「組合活動のために不当に解雇され、その後で20数年も家族を含めて生活も大変ですが、皆さん分かりますか」と。国交省のやったことは間違っていたとなってしまうとか、不当解雇を認めることになるとか、そういう理由で25年もめてきたわけですから、なんとかここで解決したいと思って夜中まで話し合いました。そしたら鉄道局長が「やりましょう。25年目の今、子どもとか家族のことも考え解決しましょう」と。

そこから国交省が和解案を一生懸命作ってくれました。私は一世帯2000万円以上の和解金を絶対に出したいと決めており、財務省と激しく折衝して結局2200万円で和解が成立しました。その時に、労働組合の側にも訴訟を起こささないという確約が欲しいというので、私は国交省の人間として組合側と交渉し、一人一人から誓約書をとりました。

財務省で最後まで抵抗していた人が、私たちが作った合意文書を机の前に貼っているんですね。国交省の役人たちも当事者の実態が分かっていなかっただけで、私はそれが分かっているから話をして、みんな思いを一つにして和解に至ったわけです。これを聞いた中曽根元総理が「心に刺さっていたトゲが取れた」と言ったと聞きました。

JAL問題にしても、会社を一回潰すということですから、自民党にたくさんいる航空・運輸族だったら解決できなかったと思うのです。私たちのように立場の違う人間が入ることで動くことがある、これが政権交代の意味です。私たちは会社更生法適用までを半年でやりました。

国鉄労働者の問題も今まで敵か味方かというタイプ分けしていたところに、当事者の想いがわかっている、国交省のこともわかっているという、私たちが入っていって解決できたわけです。ですから私は、閣僚と官僚の関係は部下ではなく下僕でもなくて仲間なんです、と言ってきました。

住沢:すると今、官僚組織の劣化や過度の忖度がいわれていますが、これは官僚の問題というより政治家の問題ですか。

辻元:はい、それは政治家の問題です。 使う方の問題であって、私は最初に国交省に入った時に、次のように職員に言いました。「皆さんの心の中に三つのことがあると思う。一つはあの『総理・総理』の辻元清美が入ってきて、どないしたらいいんやろという警戒感。もう一つは民主党政権になって、政権変わってお手並み拝見という気持ち。しかし三つ目に、政権変わって新しくなってなんかちょっと面白そうかなと、そういう気持ちも絶対あると思う。政権変わって何か新しいこと、面白そうだなというその思いを大きくしたい。 

私は社民党から来ている副大臣だけれども、私を、第一義的には国交省の人間だと思ってください。まず国交省の仲間として皆さんと一緒に同じ方向を向いて仕事をしたい」という風に言ったわけです

4.  国対委員長として6党1会派のまとめ役

住沢:2010年10月、社民党の政権離脱に伴い副大臣を辞職され、前原さんは残留を希望されたといわれていますが、7月に社民党を離党、9月には衆議院会派、民主党・無所属に属し、2011年3月、東日本大震災を受けボランティア担当の内閣総理大臣補佐官として政権に復帰します。そして9月には民主党に入党し、前原政調会長のもと副政調会長に選出されます。この辻元さんの歩みに対して、社民党の幹部からは「政権にすり寄る人」という批判も投げかけられました。あの段階での社民党の政権離脱は、辻元さんの視点ではありえないことでしたか。

辻元: 社民党が野党として頑張るというのは、それはそれであると思いました。 私は社民党の中でも特殊で、小選挙区で勝って出てきているわけです。2009年8月の衆議院選挙で、社民党と民主党と国民新党で連立政権を作ると公約して国会へ送られてきているわけですから、一回取った政権をここで手放すのはもったいないと思いました。

例えば普天間移転の問題も、社民党が政権の中にいる限り、例え辺野古に移転しますと閣議決定しても、実質的に物事は進まないですよね。私はやはり、政権という列車に一度乗ったからには、そこで頑張り続けたいという気持ちがあり、社民党の幾人かの方々とは立場を異にしていたので、しばらく無所属にいることになりました。そしてその無所属の立場のまま、2011年3月の東日本大震災の勃発に直面して、総理補佐官になったわけです。

住沢:辻元さんは2012年12月衆議院選挙では比例区復活で、大阪選出のただ一人の民主党議員になるわけですが、野党となった民主党―民進党の中でも幹部役員として活躍されました。そして2017年7月、「希望の党」への合流をめぐり衆議院の民進党は空中分解します。辻元さんは枝野さんらと立憲民主党の事実上の設立メンバーの一人となり、10月衆議院選で選挙区での勝利の後、2017年10月から2019年9月までの2年間、「野党第一党」となった立憲民主党の国対委員長になるわけです。

これまでの話をお聞きしても、また最近の著作、『国対委員長』(集英社新書 2020年9月)を読んでも、辻元さんは、一筋縄ではいかない課題の交渉能力や、利害の異なるグループをまとめる力があるように思われます。旧立憲民主党は、設立直後、2017年10月からの数カ月が支持率のピークで、その後の3年間は停滞している印象があります。この時の活動について聞かせてください。

辻元:私が国対委員長を務めた2017年からの2年間というのは野党が分裂しており、私が就任した時は6党1会派、つまり立憲民主党、希望の党、共産党、自由党、社民党、それに岡田克也さん、平野博文さんなどの衆議院無所属の会があり、さらに参議院には民進党もありました。民進党が分裂した直後ですからお互いにわだかまりがあるわけです。維新の会は別にしても、それらを一つにまとめ、自民党と公明党と交渉に当たらなければならない。1番しんどかったのは、自民党との交渉に行くまでの野党をまとめることが大変でした。

毎週水曜日に6党1会派の国対委員長連絡会を開き、上下関係がないようにロの字型のテーブルにして、皆が納得するまで野党の国対の方針を話し合いました。各党がバラバラにならないために、野党の合同ヒアリングというのを作って、一つの問題についてお互いに共同作業をすることで信頼感と連帯感を醸成して行けたと思っています。この意味でも国対の仕事と役割は大きかったと思います。

住沢:野党の合同ヒアリングに関しては『国対委員長』でもその意義を強調されているので、現在も公開されている合同ヒアリング報道を閲覧してみました。確かに6党の共同作業は必要であっただろうし、信頼関係も作っていけたと思いますが、国会の委員会を二度やるようなもので、内部者の視点ではないでしょうか。

辻元:合同ヒアリングはネット中継をやりました。予算委員会をやっていない時は、ほとんどの報道は野党合同ヒアリングの場面なのですよね。その意味では、合同ヒアリング中継は国民への窓だと思っていました。

この期間の野党の成果といえば裁量労働制の問題です。働き方改革の関連法案からその核心である裁量労働制を切り離すことができたことです。政権の目玉法案の核心部分を、野党の調査と質疑で変えさせたというのは、憲政史上初めてではないかと思います。当初案のように営業職などにも裁量労働が拡大すれば、過労死が確実に増えていたはず。国民の命を守ることも、立憲民主党の55人だけではできませんでした。野党をまとめたからできたのです。

また実際に野党が連携する国会審議によって、森友問題の改ざん文書を政府に提出させたことなども、野党がまとまって行動した成果であって、そうしないと佐川氏も国民の前に出てこなかったと思います。

5.  30%得票率を目標とする2021年総選挙

住沢:昨年、2020年9月から新しい立憲民主党が出来まして、辻元さんは副代表と予算委員会の筆頭理事という役職です。もちろん予算委員会の筆頭理事は大変な仕事でしょうが、これまでの国対委員長などに比べると、辻元さんの交渉能力、まとめる能力が最大限に活用される場ではないようにも思えますが、現在はどのようなお仕事と課題を抱えておられますか。

辻元:予算委員会の筆頭理事は、国会の中では大変重たい役割です。私にとっても、今は予算委員会が一番大きな仕事になっています。5月10日に菅総理が出て予算委員会の集中審議をやる予定ですけども、それに向け水面下で自民党とも折衝を行っています。

それから4月25日に北海道、長野、広島の三つの補選があります。私は最終日には枝野代表と広島に入る予定です。それから党のプロジェクトでいえば、「つながる本部」で本部長代理をやっています。「協同労働」を実現する労働者協同組合法という法律ができたので、今週はこれによっていろんな仕事を作って行こうという人たちとオンラインの会議を行ったり、女性議員を増やすプロジェクトも進めています。ただこの1年間は、コロナで活動が制限されているのでなかなか難しい状況です。

住沢:立憲民主党は3月30日付で、おそらく近々の総選挙を控え基本政策を決議しました。この基本政策では、現在の日本社会が抱える問題や争点をほとんど網羅しているのですけど、またベーシック・サービスやインクルーシブ教育・防災など、生活者・市民重視の方向は分かるのですが、かつての民主党のマニフェスト同様に、優先順位や実現のプロセスが書かれていません。

例えば原発ゼロ法案は明確だったんですけども、この基本政策では少し曖昧になっており、枝野代表の最近の発言でも同じ傾向です。前回の逢坂さんへのインタヴユーでは、脱原発に際して、送電線増設への政府の役割りや企業、電源3法の自治体への支援など、包括的な転換プランにも言及されましたが、こうした具体的なプランをなぜ提起できないのでしょうか。

辻元:これに関しては、プロジェクトを作っています。これからの話ですが、原発を全部国有化するということを含めて廃炉にしていくとか、そういうことも議論してきました。原発ゼロ法案も、全国でタウンミーティングを開きながら作っていった法案です。これを具体化していくためのポイントをこのチームで議論をしているわけです。

立憲民主党の目指す社会は、原発ゼロと多様性、基本的人権やベーシックサービスによって介護とか子育てを充実していこう、そしてその過程で初めて経済が伸びていく、そういうイメージだと思います。原発ゼロとかベーシックサービスとか、介護職の人々の待遇改善とか、立憲民主党の現にあるそういうイメージを強めていくことが大事だと思います

今は野党ですからやはり選挙が重要です。選挙の時どうやってひっくり返すかですね。今度の衆議院選挙で焦点を絞って、何を中心にやって行くのがいいのかという議論を今ずっとやっています。今、立憲民主党など野党の支持率は低いですが、どこに投票するかという質問では倍近くになります。それでも12%とか15%ですから、これを選挙の時に、一挙に25%から30%にどのようにして持っていくかというイメージです。コアの支持者だけではなく、無党派層から、政権への抗議票というネガティブな支持も含めて、いざ選挙の時にどれだけ投票してもらうかということが大事だからです。

前回の衆議院議員選挙では、比例区では自民・公明を足した票数よりも、当時の立憲、希望の党、共産などを足した方が多いわけです。一例でいえば、東京だと自民党の得票数の約8割に相当する数の人が立憲民主党に投票してくれたわけです。前回、小選挙区で負けたのは、候補者を一本化せずに乱立してしまったからです。これを、接戦区で小選挙区に勝ちそうなところ、惜敗率80%以上のところは一本化していくということで今、300近くある小選挙区で検討しています。

住沢:12%から15%の得票率を、25%から30%へと倍増するといわれますが、何を有権者に訴えればそうなると思いますか。

辻元:グリーンを強調するとか、社会的格差の解消政策とかいろいろ考えられますが、選挙とはその戦況によって空気が違ってきます。今言ったことなどを用意しながら、選挙の時にどういうラッピングで出していくかということです。今、菅政権側が目玉にしていたデジタル庁などは少し色あせ、子ども庁などを打ち出していますが、選挙というのは別物です。自民党が今度公約に何を持ってくるかまだわかりませんので、お互いに探りつつ選挙で多数をとるために最大のエネルギーを使うということになります。

住沢:最後に、二つのことをお聞きします。一つはコロナ禍により、大阪に典型的に見られる医療・保健行政の縮小が医療危機を招いているという現実です。これまで公共サービスの民営化なり削減が唱えられてきましたが、コロナ禍ではアメリカ、バイデン政権でも大きな政策転換が見られます。公共サービスの充実は一つの大きな争点になるのではないでしょうか。

それからもう一つは、政党のリーダーの好感度評価です。最近のある調査では、1から7までの評価付けにおいて、中位をゼロとすると、菅首相はマイナス0.27、枝野さんはマイナス0.43でした。これは立憲民主党のマイナス0.59や市民団体のマイナス0.66と連動しているので、必ずしも枝野さん個人への評価ではありませんが、やはり認知度や好感度を上げることは重要です。

その点で、例えばバイデンさんは、カラマ・ハリスさんという女性を副大統領候補にすることにより、コンビとして選挙戦で躍進しました。ドイツでは、秋の総選挙で緑の党の躍進が予測されていますが、男女の二人の党首のうち、アンナレーナ・ベアボックという女性党首が首相候補となりました。日本でもこうした男女のコンビで登場することが、女性活躍の場を広げるし、好感度も上がるのではないでしょうか。

辻元:最初の問いに関しては、公務労働をもう一度活性化しようということをあえて掲げる、ということです。公共サービスを削りすぎたんじゃないかという問題は、大阪の住民投票の時も一番の焦点でした。

私は、本当のリーダーというのは時代に呼ばれた時でないと生まれない、と確信しています。自分から手を上げたからといってできるものではありません。ポスト菅総理ということで好感度の高い小泉進次郎大臣か河野太郎大臣の名前が挙がっていますが、私は本当の経験値と実力なら彼らより枝野さんの方があると思っています。枝野さんは官房長官として、福島第一原発事故の処理など、あの東日本大震災の修羅場をくぐってきています。明日官邸で総理ができるかどうかという視点で見たら、石破さんより枝野さんでしょう。

女性の政治参画を増やしていくことは私のテーマのひとつです。私の地元で、高槻市の隣の島本町という人口3万人超の町で、町議会議員選挙と町長選挙がありました。立憲民主党の公認は男性一人だったのですが、無所属市民派という形で女性がたくさん立候補して、男女同数の町議会となりました。ジェンダー平等も、まず自分の地元で実現してみせるという事にこそ、私は非常に関心があります。引き続きコツコツ取り組んでいきます。

参考資料――立憲民主党の綱領と基本政策

つじもと・きよみ

1960年奈良県生まれ、大阪育ち。早稲田大学教育学部卒業。衆議院議員7期目(大阪10区)。現在、立憲民主党副代表。衆議院予算委員会野党筆頭理事、憲法審査会委員、国土交通委員。立憲フォーラム幹事長、NPO議員連盟共同代表、など。(前 立憲民主党幹事長代行、元 国会対策委員長、平和安全法制特別委員などを歴任)。
 学生時代にNGOを創設、世界60カ国と民間外交を進める。1996年、衆議院選挙にて初当選。NPO法を議員立法で成立させ、被災者生活再建支援法、情報公開法、児童買春・ポルノ禁止法などの成立に尽力する。
 2009年 国土交通副大臣(運輸・交通・観光・危機管理担当)、2011年 災害ボランティア担当の内閣総理大臣補佐官を歴任。

すみざわ・ひろき

1948年生まれ。京都大学法学部卒業後、フランクフルト大学で博士号取得。日本女子大学教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。専攻は社会民主主義論、地域政党論、生活公共論。主な著作に『グローバル化と政治のイノベーション』(編著、ミネルヴァ書房、2003)、『組合―その力を地域社会の資源へ』(編著、イマジン出版 2013年)など。

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