コラム/百葉箱

小日向白朗の謎(第6回)

政治の裏権力に身を置く

ジャーナリスト 池田 知隆

池田内閣の裏舞台へ

小日向白朗(60年代)

「池田内閣の私設調査機関に参加しないか」

日本国内が騒然とした「60年安保」のあと、小日向白朗にそんな誘いを持ちかけたのは富田健治(注1)だ。満州、上海、特務機関……と戦前、戦後に連なる右翼の人脈をもつ白朗の力に目をつけたのだ。

自民党衆議院議員の富田は旧内務省のエリート官僚で、白朗よりも2歳1カ月ほど年長である。戦前は、内務省保安局長、長野県知事を経て第2次、第3次近衛内閣の書記官長(現在の内閣官房長官の前身)に就き、戦争遂行の要にいた人物だ。戦後、公職追放されたが、解除後は兵庫選出の自民党代議士を務めていた。

白朗とは戦前からかかわりがあった。

富田健治(1962年、自民党代議士のころ)

1929(昭和4)年、馬賊の大頭目だった白朗が大陸浪人らを率いて中国・奉天で東北軍閥の拠点・奉天城の襲撃未遂事件を起こしたが、頭山満や緒方竹虎らが弁護の論陣を張り、本土に追放処分になったことは前述した。このとき、日本国内で親身になって世話したのが超国家主義的な右翼革新官僚として知られていた富田だった。

敗戦から10年を過ぎ、経済白書で「戦後が終わった」とされたころから富田は『敗戦日本の内側-近衛公の思い出』(古今書院、1962年刊)の執筆を始めている。そこには開戦へと至る過程での苦悩や政治家や軍人たちの生々しい発言が綴られているが、ここでは省く。ちょうどそのころ、白朗も『日本人馬賊王』を出版し、右翼陣営にその存在感を示し始めており、富田は白朗と再会した。

戦前、戦後を貫く権力の中枢にいた富田にとって、「政界の黒幕」「政商」と称され、政界の裏で暗躍する児玉誉士夫の存在がたまらないものとして映っていた。後年、ロッキード事件の被告となった児玉からCIA(アメリカ中央情報局)とのかかわりが明らかになるが、敗戦後の児玉には終始、アメリカの影がつきまとっていたからだ。

伝統右翼と利権右翼

児玉誉士夫のことはあらためて語るまでもないが、少しだけその軌跡を触れておこう。

戦前、「鉄砲玉」としてテロ事件を起こした児玉は収監されたあと、陸軍、海軍航空本部と交わり、大陸で「児玉機関」を設立、物資調達にたずさわって財力をつけた。敗戦直後、右翼、左翼を取り締まる特別高等警察の元締めである内務省警保局に海軍の要請で入る。米軍が日本に進駐してくる際に事件が起きないように右翼を監視する業務にあたったという。

東久邇内閣の参与にもなった。皇族、陸軍大将の東久邇宮稔彦王が首相に任命され、皇族が首相となった史上唯一の内閣で、在職日数は54日間と史上最短でもあった。どうして児玉が内閣参与になれたのか、不思議な気もするが、「緒方竹虎や重光葵が推した」などといわれる。

だが、A級戦犯の容疑で巣鴨プリズン入りすると、それまでの「鬼畜米英」から「親米愛国」に生き方を180度転換させる。CIAと暗黙の協力関係を結び、政界に豊富な資金を提供し、戦後政治の節目に裏工作者として介在していく。政界への闇資金提供は、1955(昭和30)年の自由党と日本民主党が合同した「55年体制」の際に威力を発揮し、鳩山一郎、河野一郎……と、時々の権力に吸着した。

保守政界とのかかわりは続き、表の世界には決して姿を見せないが、裏ですべてを掌握し、「事件の裏に児玉あり」と言われた。「政治家への影響力」「上海から持ち帰った財力」「暴力団とのパイプ役」「CIA、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)とのパイプ」という手札を持った児玉の仕切りで政局が左右され、児玉はいつしか「国家を危うくする存在」と化していた。

それに比べて戦後、長期にわたって潜伏していた白朗にアメリカの影はない。児玉よりも10歳年長で、白朗には満州、上海時代の人脈も豊富だ。遅れて戦後社会に姿を現した白朗の力によって児玉の力を少しでもそぐことができないか。いわば旧来の”伝統右翼”の力によって新興の”利権右翼”を制しようと富田は考えたのだ。

保守本流官僚の統制力

富田健治(1936年、大阪警察部長時代)

富田健治という人物もとても興味深く、少し触れておこう。

33(昭和8)年6月、いわゆる「ゴーストップ」事件が起きた。大阪市北区の天六交差点で交通信号無視をめぐって陸軍第四師団の兵士と警官が喧嘩して、陸軍と警察の対立までエスカレートした事件だ。皇軍の威信にかかわる重大な問題として警察に謝罪を要求する軍に対して、粟屋仙吉大阪府警察部長(後の原爆投下時の広島市長)も「軍隊が陛下の軍隊なら、警察官も陛下の警察官である。陳謝の必要はない」と反発し、最終的には昭和天皇の特命によって決着が図られた。内務省の警察官僚としてキャリアを積んでいた富田は、その粟屋の後任として大阪警察部長に就任している。

当時の富田は、体重80キロ、柔道5段。激しい性格で旺盛な闘争心を有し、「警察の長として、現場の警察官の処置の正当性を断固主張した」と富田の次男、富田重夫氏が語っている。(川田稔編『近衛文麿と日米開戦-内閣書記官長が残した「敗戦日本の内側」』祥伝社新書)

富田は合気道を警察に導入し、大阪警察病院を設立した。36(昭和11)年に本省に戻って保安課長、次いで警保局長に就くと、赤狩り(共産党摘発)に専念する。「内務省きっての極端なファッショ的傾向のある人」として知られ、富田が警保局長に起用されたときには、昭和天皇も「富田という男はファッショだときくが、どうだ」と末次信正内相(近衛第一次内閣)に質したといわれるほどだ。

富田はその後、警保局長を辞めるが、そのころの思い出を富田重夫氏はこう振り返っている。「警保局長を退職した理由は、自分が推薦した人がヘマをしたため」で、「浪人生活が始まってから、私は父が自室で大小二本の日本刀の手入れをしているのを見た。私はその鋭い刃渡りに接し、背筋がゾッとするのを感じ、『こんなものどうするのか』と問うと、父は『重大な責任を負わねばならない時には、これで腹を切るのだ』と言ったので、いっそう驚いたものであった」

富田健治(第2次近衛内閣書記官長のころ)

一年間の浪人生活を終え、長野県知事に復活。軽井沢で会った近衛文麿首相に富田は「閣下も(右翼テロ)の犠牲になる場合があるかもしれない。まあ、閣下なんかは犠牲にしたくもないけれども、場合によってはそれもやむをえないかもしれない」と伝えている。近衛はそれを自分への「脅し」ととらえ、自分が内閣を続けていくとすれば、「右翼を全部包含した大きなものを作らなければ、とてもやっていけない」と述べている(原田熊雄『西園寺公と政局』岩波書店)

近衛首相は自らへの右翼テロを怖れていた。一時期、極右の有力者、井上日召を身辺警護のために自宅に住まわせている。日召は、井上準之助(民政党総務)や団琢磨(三井合名理事長)を暗殺した血盟団事件の首謀者で、当時特赦で出獄していた。

第2次近衛内閣が組閣されると、中央政界では無名に近かった富田は内閣書記官長に選ばれた。さすがにこの異例の抜擢は周囲を驚かせた。近衛は富田に、「右翼の方は、もう貴下にすっかりお任せするから」と言って、「右翼をもって右翼を制する、近衛らしい発想」で起用を決めた。(勝田龍夫著『重臣たちの昭和史』文藝春秋)

近衛は、日独伊三国提携の方針を決め、満州、中国との経済提携や南方進出の必要性を感じ、「一億一心」による大政翼賛を訴えて新体制運動を推し進めていく。その内閣の要の位置にあった富田は陸海軍との調整役も担う。事実上の最高国策決定機関である大本営政府連絡会議にも幹事の一人として常に出席した。

戦後、公職追放となったが、解除後、故郷の兵庫県から衆議院議員として政治活動に復帰する。武道家、植芝盛平と親しかった富田は48(昭和23)年、「財団法人合気会」の設立に尽力し、その初代理事長に就任する。植芝と満州時代に交流していた白朗も後に「合気会」に招かれ理事に就く。富田と白朗のめぐりあわせには何本もの線が重なっていた。

富田は近衛体制のときの右翼を右翼で制した経験を思い出しながら、白朗を新たに起用することに心を動かし、白朗も池田機関の顧問を引き受けた。

極左と極右に通じる情念

田中清玄

富田に触れたからには、政界の黒幕、田中清玄(注2)と富田の関係もとりあげなくてならない。

戦前、日本共産党書記長として武装方針をとり、警官隊と拳銃などでわたりあい、30(昭和5)年7月、治安維持法違反容疑で逮捕され、無期懲役を宣告された田中清玄。会津の家老の血を引く母親が自決したこともあって、田中は熱烈な天皇主義者に転向する。41(昭和16)年4月、紀元2600年の恩赦で仮出獄するが、富田はその田中の身元引受人になった。保安課長、保安局長時代に人民戦線事件で捜査を指揮し、田中とはまったく正反対の弾圧する立場だったが、富田は思想的に右であろうと左であろうと、「これは」と思う者の面倒をよくみる人物だった。

田中は出所後、真っ先に禅僧、山本玄峰(注3)を訪ねた。山本老師は5・15事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたことでも知られる。刑務所で聞いた山本老師の法話が清玄の心に残り、血盟団事件に連座した四元義隆(注4)の紹介で静岡県三島の龍沢寺に赴いた。

山本玄峰

そのころの龍沢寺には山本老師を慕って多くの人士が出入りした。鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄たちで、その多くが強引な軍部の姿勢に反対の立場をとっていた。老師は「わしの部屋は乗り合い舟じゃ。村の婆さんも乞食も大臣も共産党もやってくる」と言い、田中はその老師の秘書役、用心棒を兼ねた。富田もまた山本老師の下に通っており、「必死に逃げ回っている者と、追いかけていた者の頭目がここにいっしょにいる」と周りから笑われていたという。

そんな波乱万丈の人生遍歴を自在に語っている自叙伝『田中清玄自伝』(文藝春秋刊)を読みだしたら、おもしろく、ついつい話が脱線していく。戦争終結に向けての山本老師と田中の問答、鈴木貫太郎への終戦工作、そして敗戦直後の昭和天皇へ奏上する秘話まであった。入江相政侍従長による『入江相政日記』(朝日新聞社刊)によれば、12月21日に生物学御研究所の接見室に招かれ、入江侍従らとともに天皇に会った田中は小1時間、退位なさるべきではないことを懸命に奏上した、という。

その後、GHQの情報部とつながりをもち、反共活動を行っていく。もっとも、アメリカとも敵対し、米系石油メジャーに支配されない日本独自の民族資本による石油自主開発に奔走し、タイ、インドネシアの戦後復興にかかわるなど国際的に活動していった。

そんな田中の経済活動を支援するために、富田は神奈川県警察時代に親しくなっていた横浜の海運業者を田中に紹介する。そこから海運業界に勢力を広げていた山口組3代目、田岡一雄(注5)と出会い、田中と田岡は親密に交際していく。政治的なことは田中が、ヤクザのほうを田岡が仕切ると決め、二人のコンビが成立し、やがて二人して児玉に対抗していく。

「60年安保」をピークに左右激突の時代を迎えたとき、右翼のフィクサーとして知られていた田中と過激な行動を展開していた全学連との関係が世間の注目を浴びる。

田岡一雄(隣にいるのは美空ひばり)

ある日、安保闘争突入前の全学連書記長の島成郎(注6)に会った田中は、島から反スターリン主義の思想について聞き、共鳴した。自衛隊が治安出動したときの対策を語り、次期委員長に推された北海道大学の唐牛健太郎(注7)と知りあううちに、この若者たちを応援しようと田中は思った。反代々木、反モスクワ、反アメリカ、反岸、反児玉が気に入ったのだ。田中の秘書だった日大空手部の元主将は武闘闘争のイロハを彼らに伝授したらしい。多額の闘争資金も提供した。

安保闘争後、田中は唐牛を自らの研究所に秘書として雇用し、田岡も島を山口組傘下の組長宅に預け、全学連の元中央執行委員を田岡の経営する運輸会社に採用した。(溝口敦『山口組ドキュメント、新版血と抗争』)

田中はいう。

「あんた、なんだと聞かれたら、本物の右翼だとはっきり言いますよ。右翼の元祖のようにいわれる頭山満と、左翼の家元のようにいわれる中江兆民が、個人的には実に深い親交を結んだことをご存じですか。一つの思想、根源を極めると、立場を越えて響き合うものが生まれるんです。中途半端で、ああだ、こうだと言っている人間に限って、人を排除したり、自分たちだけでちんまりと固まったりする」(『田中清玄自伝』)

テロ気運が高まるなかで

国会に押し寄せたデモ隊(1960年6月18日)

「60年安保」に向けて大衆運動が盛り上がるなかで、右翼の間には「共産主義革命」に対する危機感が増していた。いわゆる「行動右翼」と呼ばれる団体が多数結成され、反共活動を開始した。吉田茂内閣で法相・法務総裁を務めた木村篤太郎が中心となり、全国の有力暴力団組織を中核とする武闘派地下組織「反共抜刀隊」を創設する構想まであった。結局、その構想は吉田政権には承認されず、立ち消えになったものの、「暴力団を反共勢力に流用する」というアイデアは岸政権時代に再び浮上していた。

アメリカのアイゼンハワー大統領の訪日に備え、とても警察だけでは守りきれないと判断した岸首相は、ヤクザ・右翼を動員させようと考えたのだ。その時の世話役となったのが児玉だった。しかし、アイゼンハワー大統領の訪日は中止され、その児玉の出番はいったんなくなった。

岸が安保闘争後に退陣した7月、池田勇人が次期総裁に就任する。首相官邸で祝賀会が行われようとしていた時に、岸は右翼の暴漢に襲われ、腿を刺された。命はとりとめたが大きな傷を負った。

どうして岸が刺されたのか。その背景になにがあったのか。暴漢が属していた右翼団体は児玉とのつながりが深かった。岸が退陣後、大野伴睦に政権をわたすという誓約(59年1月)の立会人に児玉がなっていたが、その密約を岸が破った制裁として岸が襲われたと見られた。児玉が襲撃を直接指示した証拠はないが、その密約を破られたことを知った児玉の周辺にいた者が、義憤にかられて起こした単独犯行とみる見方もあった。

そして10月、日比谷公会堂で演説中の浅沼稲次郎社会党委員長が17歳の右翼少年、山口二矢に短刀で殺害される。

山口二矢を指導していた杉本広義や5・15事件で犬養毅首相を射殺した三上卓、東京駅で浜口雄幸首相を銃撃した護国団の佐郷屋留雄など多くの右翼関係者と白朗が戦後も交流を深めていたことはすでに触れた。60年代半ば以降、白朗の個人的な秘書的な存在だった武道家(日本拳法)、谷端義雄氏=名古屋市在住=は「小日向先生は、山口二矢の不穏な行動を事前に察知していたが、止めることができなかった、と残念がっていましたよ」と振り返る。 

翌61(昭和36)年2月には、天皇陛下を誹謗する記事を雑誌に掲載したとして中央公論社社長の妻及び家政婦を殺傷した「嶋中事件」が起きる。同年12月、「国家、民族の危機を救うためには実力行動もやむを得ない」とし、戦後初の右翼によるクーデター企図事件といわれる「三無(さんゆう)事件」が発覚した。「三無主義(無税・無失業・無戦争)」政策の実践を訴え、共産革命を封じ、国家革新の実現を目的に、政界関係者等の殺害、国会議事堂の襲撃などを企図したものだ。

学生たちを動かしていた小日向白朗(後ろにいるのは谷端義雄氏)

テロの気運が高まるなかで、白朗はいったいどのような行動をとっていたのだろうか。池田機関の顧問としての白朗の表立った姿は見えてこない。谷端氏はいう。

「小日向先生はけっして表には出ようとされませんでした。日本青年社(右翼団体)が全国へ組織を拡大していくときには、私が小日向先生の名代となって各地にあいさつにいきましたよ。もっぱら学生団体を使っていました。日本青年社の母体となった住吉会では、中部より西には地盤がなく、小日向先生は神様扱いでしたね。いまはもう、すっかり縁が切れていますが……」

裏社会とのつながりを絶つ政治

児玉誉士夫は62(昭和37)年夏ころから、全国の博徒を大同団結させ自己の統率下に置き、反共のための右翼行動隊を作ろうという「東亜同友会」構想を抱いた。約1万5000人もの強固な組織だ。西日本を中心に勢力を伸ばしていた山口組3代目、田岡を引き入れるために児玉は、関東の暴力団「東声会」会長・町田久之と兄弟分の縁組を結ばせようと計画した。田岡も日本プロレスの興行権をも確保できることから、この計画を受け入れ、63(昭和38)年2月、田岡と町田の結縁式が行われた。

しかし結局、田岡は東亜同友会への参加を取り止め、田中清玄と二人で児玉に立ち向かうことになる。右翼の一部とヤクザが麻薬を財源にしていたことを標的にして、二人は同年4月、「麻薬追放国土浄化同盟」を結成した。立教大学総長・松下正寿を責任者にたて、参議院議員・市川房枝、作家・平林たい子、作家・山岡荘八、評論家・福田恆存ら著名人の賛同を得て、注目を浴びた。

だが、その行動は「田岡率いる山口組が、児玉の威勢を無視して東京進出を果たす強い意志と能力がある」と見られ、同年11月9日、田中は出版記念パーティのため東京会館に赴いたとき、玄関で銃撃される。それは児玉の指図だったとされている。

戦後から昭和30年代あたりまでは、保守系政治家と暴力団との関係は別に隠すようなことはなかった。公然の事実だった。64(昭和39)年、田岡は河野一郎に京都に招かれ、佐藤栄作に熱海まで呼ばれ、ボディガードを依頼されたようだが、田岡をそれ断ったという。(同『山口組ドキュメント、新版血と抗争』)

しかし、高度経済成長が続き、国民の所得が伸び、豊かになっていくにつれ、右翼も左翼も本当の意味での出番が少なくなっていく。巨大組織に発展したヤクザの対立抗争も激しくなり、権力側ももはや裏世界の関与を必要としなくなっていった。

同年2月から警視庁および各県警本部が暴力団壊滅をねらって「第1次頂上作戦」を展開。暴力団の資金源を断ち、暴力団トップや最高幹部の検挙を徹底的に開始し、政治と裏社会の関係はしだいに絶たれていく。

日本人の人と人のつながりには、出会いやさまざまな恩義や情がからみ、複雑な地下人脈をつくりあげている。白朗、そして田中清玄、田岡一雄と富田の関係を重ねていくと、保守支配層と日本政治の近代化をめぐってもう一つの光景が現れてくる。

戦前の大政翼賛体制をつくりあげたのは、近衛首相をはじめとする保守支配層であり、右翼はその体制づくりの手足とされた。支配層は、ときに極右を切り捨てつつ右側により、ときには極左を切り捨てつつ左側に少し同調し、権力を維持し続ける。権力支配の要諦は、左右両翼の間でバランスをとることでもある。戦前、戦後にわたって日本の支配層=保守派は、その微妙な平衡感覚をもつことで支配階級であり続けてきた。

すでに還暦が過ぎていた白朗は、権力の裏側で年下の児玉や田中が繰り広げる暗闘の間に割って入る気がしなかったのかもしれない。戦後10年間の潜伏による大きなブランクもあり、自らの出番はそこにはないと達観していたようでもある。満州人脈、上海人脈、特務機関の人脈をもつ白朗はその後、韓国、台湾、中国、アジアとの国際関係に自らの役割を見出していく。

【脚注】

注1 富田 健治(とみた・けんじ、1897年~1977年)神戸市生まれ。京都帝国大学法学部卒業後、内務省に入り静岡県、岐阜県、神奈川県各警視。石川県警察部長、大阪府警察部長、内務省警保局保安課長、警保局長、長野県知事を歴任。第2次および第3次近衛内閣で内閣書記長を務め、新体制運動をおしすすめた。貴族院議員。公職追放解除後、衆議院議員当選4回。

注2 田中 清玄(たなか・きよはる、1906年~1993年)北海道生まれ。実業家、フィクサー。旧制弘前高校から東京帝国大学入学。戦前期の非合法時代の日本共産党中央委員長。転向後は政治活動家、実業家として活動した。

注3 山本 玄峰(やまもと・げんぽう、1866年~1961年)和歌山県本宮町生まれの禅僧。昭和において多くの著名人が参禅に訪れた静岡県三島市の龍沢寺の住職として有名。鈴木貫太郎に終戦を勧め、戦後も象徴天皇制を鋭く示唆する。21代妙心寺派管長。

注4 四元 義隆(よつもと・よしたか、1908年~2004年)鹿児島市生まれ。旧制第7高校から東京帝国大学法科中退。血盟団のメンバーの一人。近衛文麿、鈴木貫太郎首相秘書を務め、戦後は政界の黒幕的な存在。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作ら歴代総理と親しく、特に中曽根康弘、細川護煕政権では「陰の指南役」と噂された。

注5 田岡 一雄(たおか かずお、1913年~1981年)徳島県三好郡三庄村(東みよし町)生まれ。山口組3代目組長。甲陽運輸社長、芸能事務所・神戸芸能社社長、日本プロレス協会副会長。山口組を全国規模の組織に育て、警察庁から広域暴力団に指定される。

注6 島 成郎(しま・しげお、1931年~2000年)東京都生まれ。東京大学教養学部入学と同時に日本共産党に入党。東京大学医学部に進学後、60年安保闘争時の全学連書記長(ブント・共産主義者同盟系が主流)として委員長の唐牛健太郎を支えた。闘争終息後は精神科医として地域医療に尽力し、沖縄県名護市にて死去した。

注7 唐牛 健太郎(かろうじ・けんたろう、1937年~1984年)北海道函館市生まれ。北海道大学に入学後、全学連委員長に就任。60年安保後、全国を放浪。ヨットクラブ、居酒屋経営、漁船乗組員、工事現場監督などさまざまな職業に就いた。

いけだ・ともたか

一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

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