コラム/若者と希望

共苦≠同苦

「苦難の共同体」の成立のために

歴史知研究会会員 川島 祐一

 

私たちが生きているこの人生において、しばしば〈なぜ〉と問い、さらに多くの人との出会いと関係の中で、〈なぜ〉という厳しい問いの前に立たされます。コロナウィルスの恐怖にさらされ続けている現在もそうでしょう。普段、無神論です、と神様も仏様も思うことなく生活している人もこの時ばかりは、「神様、仏様」と祈ることもあるのではないでしょうか?でも、祈っても、祈ってもコロナウィルスの感染者は減少することなく、増え続けていくばかり。そうなると「神様、仏様なんてやっぱりいない。いるならなぜ私たちをこうも苦しめるのか?」と思うこともあるかもしれません。

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私はこの〈なぜ〉について、「どんなに小さな言葉でも」に書きました(『季刊現代の理論』、第23号、2020年)。その文章の一応の結論は「まさにこの世の暗い否定の世界の中で、「おまえなんかだめだ」という否定の声がうずまいています。とくに弱い人、貧しい人、子どもたちは否定の言葉を敏感に感じるのです。

私たちの社会はけっして理想的な社会ではありません。問題や困難が山積みしています。そしてそれらの多くは弱い人から生きる力を奪い、尊厳を奪っています。不当な世界のあり方に苦しんでいる弱さと共に歩み、その苦難を共に生きる存在、弱さの恵みに気づき、共に喜ぶ存在。このような現実に立ちはだかり、誰が何と言おうが、否定の言葉に毅然と立ち向かって、肯定の言葉を語れるのも私たちなのだと思うのです。そこには衝突も起こりますが、それを補うことができる励ましや慰めや喜びがあるのです。

これらのことは「強さ」で繋がった人間関係ではなく、弱さを絆にした人間関係だから生まれてくるのです。そうした苦難の共同体を形作りたいと思うのです」としました。「強さ」ではなく「弱さ」、弱さを絆にした「苦難の共同体」を形作ることを唱えました。

その後、では「苦難の共同体」を形作るには、と考えていた時に、ふと学部生時代に立正大学で清水多吉先生の社会思想史講義を聴講していた時に、解説を受けたソポクレスの『アンティゴネ』のある一節が浮かびました。「人間の一生というものは、もう決まったものとして、褒めたりけなしたりすることはできない。というのも、幸いな人も不幸な人も、運がもり立て、また運が突き落とすのが世の常ですから。今ある境遇の一寸先を預言できる者など人間にはおりません。」

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「運」という問題は大変興味深いですが、ここでは誰もの人生は決まっていない点に注目したいと思います。強い者と弱い者が共存しているのがこの世界です。そして、その違いは明らかではっきりと分けられて決まっているようにさえ思われます。しかし、ソポクレスによると、「決まっていない」とされます。

ならば、別の観点も加えなければならないと思いました。さらに一歩進んで、強い者の強さが弱い者を守りつつ、弱い者のかけがえのない賜物が躍動する世界。小さい者、弱い者の賜物が圧殺されている時代の中で、そうでない世界を作り出す粘り強い戦いをしなければなりません。賜物はAufgabeですが、課題という意味もあると知っておきたいことです。

現実の世界では、清廉潔白で正義を貫く人がひどい貧窮に悩むこともあれば、不正や暴力を重ねる邪な者が富を得ることもある。もし、この世界が全能で賢明な神によって統治されているのだとしたら、どうしてそのような理不尽で不公正な事態があふれているのか。

『旧約聖書』の「ヨブ記」でのヨブは不当な試練に対し「なぜ」と問い悩みながら、みずからがまきこまれた試練の意味を理解しようとしていきます。ヨブは非の打ち所がない人であったとされていますので、神様がいるのなら、なぜ正しい人が苦しむのか読むたびに深く考えさせられます。未読の方は、「キリスト教の聖書でしょ」などと敬遠しないで是非一度読んでみると良いと思います。

ただ、ここで考えたいのは、ヨブに向かって、小賢しい説教をする知人たちについてです。この知人たちは善良な市民なのでしょう。ヨブのことを心配する気持ちはあったのでしょう。しかし、彼らの語る言葉は表層のレベルでの慰めでしかないように思われてなりません。私たちは、表層レベルの慰めを跳ねつける人の姿勢に隠れているものを探り出さなければならないのではないでしょうか。そう思ってヨブに思いをはせてみましたが、この探り出しは私には出来ませんでした。生まれていなかったからです。すべての距離が離れすぎているのでしょうか。

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逆に、近いところ。同じ時代につながった世界で生きている人に対してならどうでしょうか。残念ながら私には、こちらもできませんでした。でも、できるのではないかと思うことがありました。それは、私たちが今、共に生きている苦しみにあえぐ人々に対しては自責の念をもつことはできる、ということです。

このことに思い悩んでいる時に中島義道『後悔と自責の哲学』(河出書房新社)の一節を読みました。「私と共に生きている苦しみにあえぐ人に対する自責は、ショーペンハウアーが賞賛した“Mitleid”(同情=共苦)とは異なります。ショーペンハウアーは、同情(共苦)を私が苦しむ者と一体化することと解しているが、私は苦しむ者とあくまでも別の人格であることを自覚しながら彼に同情(共苦)するのでなければならない」。

哲学者の思索から生まれてきたことなので、簡単に理解できたとは思えませんが、「私は苦しむ者とあくまでも別の人格であることを自覚しながら彼に同情(共苦)するのでなければならない」という点については、まさにそうなのだろうと思います。

同じように苦しむ(同苦)ことはできないのです。できるのは、同じように苦しむことはできないことを自覚しながらも自責の念をもって共に苦しむことなのでしょう。

私たちは本当に弱いと思います。同じように苦しむこともできません。祈りながらも、すぐに疑いもします。その弱さはどうしようもないけれど、今、共に生き苦しむ人に対し、攻撃をするのではなく、同じように苦しむことはできないし、かわって苦しむこともできないけれど、そのことを自覚して自責の念を持つかどうかは別としても、共に苦しむことならできるのではないでしょうか。わずかばかりですが、「強さ」ではなく「弱さ」、弱さを絆にした「苦難の共同体」を形作る糸口が見えてきたように思えませんか。

かわしま・ゆういち

1982年生まれ。2004年から高等学校教員、放課後児童支援員(学童保育)、放課後等デイサービス職員を経て、小さな補習塾「学習教室こっころ」を開室(2021.7)。本稿は、『季刊 現代の理論』デジタル第23号(2020.夏)、[若者と希望]「どんなに小さな言葉でも」とあわせて読んでいただけると幸いです。

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