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隠されていた究極の選択 生命の選別

新型コロナ下 一年数ヵ月経って分かってきたこと

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

幻想だった日本モデル

新型コロナウィルスによる感染症が、日本で最初に確認されてから一年と数ヵ月が経過した。感染者は六十万、感染症による死者は一万人を越えた。現在は、第四波といわれ、一日に五千人を越える感染者が報告されるという状態で、三回目の緊急事態宣言が発出されている。多くの専門家は、感染力を増し、重症化リスクも高くなった新型コロナウィルスの新しい変異株への置き換わりが進み、事態は全国的規模でさらに悪化すると予測している。

また、感染防止の切り札と期待されるワクチンの接種も開始されたが、ワクチンの必要量の確保、接種体制の整備などの点で準備不足が露呈した。いつになったら感染防止の効果を期待できる水準まで接種が進むのか、まったく見通しが立たない有様である。したがって、新型コロナウィルス蔓延状況は、少なくとも当面数ヵ月は改善の見込みはないと考えざるを得ない。

にもかかわらず、オリンピック・パラリンピック開催の方針は変更されることなく、聖火リレーという全国に展開する一大イベントは、一部無観客などの処置がとられてはいるものの、依然として続けられている。世論調査によれば、約七十パーセントの国民が延期か中止を支持しているにもかかわらず、あたかも変更不能な規定事実でもあるかのようにリレーという儀式が進められるという奇妙な事態が生じているのである。

そういう奇妙な出来事は、この一年でいくつも起こっていた。たとえば、一回目の緊急事態宣言を解除した時の当時の総理大臣安倍晋三の発言である。安倍は、「感染抑止に成功した日本のやり方は、日本モデルとして世界から称賛されている」という趣旨の自画自賛をして見せた。文部科学大臣も知らないうちに強行された全国一斉休校措置、ほとんど役に立たず、物笑いの種にすらなっていたアベノマスク、遅れに遅れた給付金の支給、場当たり的思い付きの羅列のような「対策」を「日本モデル」などとよく言ったものである。

オリンピック招致にあたって、福島原発は「アンダーコントロール」であると平然と嘘をついた人物の口から出た言葉とはいえ、あまりに実態からかけ離れた表現にはあきれるしかなかった。

しかし、実際、第一回目の緊急事態宣言からは新規感染者は減少し、宣言が効果を発揮したかのように見えたのも事実であった。政府の対策の効果なのか、国民の自主的な努力の結果なのか、あるいはファクターエックスによるのか、は十分な検証がなされていない現状では確かめようもないが、とにかく一旦は減少した。ところが、夏には蔓延の第二波が襲い、その影響が収まらないうちにゴーツーキャンペーンを前倒しで開始し、感染拡大の危険が迫っていたにもかかわらず、キャンペーンを中止しなかったこともあって、一波、二波をはるかに超える感染第三波を防ぐことができなかった。

第三波における感染者と重症者の増加の速さは、南北アメリカやヨーロッパ諸国での感染状況がけっして対岸の火事ではなく日本でも起こりうることを実感させた。医療体制の崩壊も現実味を増し、死者の数も急速に増加した。「日本モデル」などという実態のないうぬぼれた表現はさすがに影を潜め、ゴーツーなどのいじましい、姑息な政策も停止を余儀なくされた。

こうして「日本モデルの成功」などという奇妙な認識は消え去り、基本に立ち返って感染症対策に取り組もうという機運が高まるかと思いきや、事はそう簡単には進まなかった。

事態の深刻さから目をそむける奇妙な論理

「日本モデルの成功」などということは、政府の意識的・計画的・体系的政策展開によってもたらされたものではないことは、誰の目にも明らかなので、安倍の退場とともに消え去る運命にあったといってもよいであろう。しかし、日本の新型コロナウィルスによる被害は小さく、恐れるに足りないという言説は依然として一定の影響力を持ち続けている。ファクターエックスという仮説もそういう役割を果たしていることはまちがいない。これは実証が必要な仮説であり、実証されない限り感染症対策の確実な前提に組み込むことはできないということであって、「日本モデル」というまったく実態のない幻想とは事情は異なるが、今のところそれは仮説の域を出るものではないことは明確にしておかなければならないだろう。

それはともかく、事態の深刻さから目を背ける、あるいは背けさせようとする言説の代表的なものは欧米諸国に比べて日本は感染者も感染による死亡者もはるかに少ないという主張である。これはたしかに、去年までは事実として主張できたかもしれないが、第三波を経験し、新たな変異株蔓延の危機にさらされて、状況認識を変えなければならなくなってきていた。にもかかわらず、依然として根強く主張され続けているのである。

このような主張と因果関係があるのかどうかは確かではないが、PCR検査に関する状況も似たところがある。PCR検査については、感染症が日本で蔓延し始めた当初から論争の種となってきた。検査数が少なすぎて感染の事態の把握ができないので、飛躍的に検査能力を高め、誰でもいつでも検査できる体制の構築を急ぐべきだという主張から、それは不可能であるし、精度に問題があるからやっても無駄だ、不正確な検査で陰性になったとして隠れた感染者が動き回ればかえって感染を広げることになる、だから不用意な検査の拡大はしない方がよいという主張まで、様々な論争が繰り返されてきた。

しかし、政府は、蔓延の当初から検査体制の不備を指摘されるたびに検査能力の拡充を約束してきた。それでも検査数は政府の主張通りには増大せず、今に至るまで検査数の増加ペースの遅さが批判され続けている。この奇妙な事態の原因はどこにあるのか。検査費用の問題、検査器械および検査要員の不足、保健所業務の逼迫、厚生労働省医系技官の反対などなど、様々な原因があげられたが、そのどれもが決定的とはとても思われない。費用や機器、要因の問題は民間検査会社の参入によってほぼ解決済みだし、厚生労働省のサボタージュとされかねない反対も官僚の掌握を得意としている政権の力から考えて決定的とは考えにくい。

そうなると考えられるのは、政権そのものの能力不足かやる気のなさという要因が浮かび上がってくる。政府が設置している専門家による分科会においても、第三波以後、検査体制の拡充が要求されていると伝えられていることも考え合わせると、問題は政治家にもあることは否定できそうにない。政治家として頂点に立っているのは、いうでもなく菅首相であるが、彼の言動には感染症の被害防止に必死に取り組んでいるという強い意志が感じられない。新たな変異株検出のためのゲノム解析も含めた検査体制の拡充は、第三波を経て「公論」になりつつあるにもかかわらず、首相の頭は、オリンピックとワクチンに集中し、検査には及んでいないようである。

菅首相は、ゴーツーキャンペーンにこだわり、感染症対策よりも経済対策に強い関心を示していた。感染症対策についても、「一ベッドあたりの補助金を二倍、三倍にすれば病床不足はあっという間に解消する」というような主張をする「専門家」を、「よい話を伺った」と喜ぶような政治家である。品のない言い方になるが、金を出せば何とかなる、だから金を生み出すように「経済を回す」必要があると考えるような、せこく、いじましい発想しか浮かばないのであろう。アベノマスクの二の舞を踏むことになりそうなワクチン接種センターの設置という側近官僚の思い付きに飛びつくなどの場当たり的「対策」では、第四波の犠牲は避けられそうにない。

第三波の衝撃によって、ゴーツーキャンペーンの再開を諦め、新型コロナウィルス感染症対策についても基本的な認識に立ち返る可能性が垣間見えた。

感染防止のためには、ワクチンも特効薬もない状況では、無症状者も含めて感染者をできるだけ早く見つけ出し、非感染者との接触を感染リスクがなくなるまで遮断すること、感染者には必要かつ適切な医療を提供すること、また安心して治療を受けられる経済的および生活的環境を整えること、そのためには検査を最大限拡充し、いつでも、どこでも、なんどでも受けられるようにすること、感染者には入院ができなければ、医療に随時アクセスできるような場所・施設を確保し、そこで療養ないし待機できるようにすること、保健所・病院の体制の対応能力を高めるための対策を早急に実施することが基本的に必要な対策となる。しかし、政府および政治家たちは、どうやら経済優先の発想に妨げられ、根拠のない楽観論に引きずられ、せっかくの基本に立ち戻るチャンスを逃してしまったようである。

こうした誤った判断に政治家たちが陥ってしまう理由は何なのか。初期の成功体験からくる判断ミス、安全性バイアスによる危険性の過小評価、論理一貫性へのこだわりによる方向修正の困難性などの心理学的に説明できる要因もあるだろう。また、普段から身近で意見を聞きなれている、自分の支持者でもある「専門家」からの影響もあるだろう。選挙の基盤となる業界団体や財界からの圧力も無視できないという事情もあるかもしれない。

しかし、筆者には、どうもそれだけでは説明できない、あるいは理解できないという思いが湧きあがってくるのを抑えることができない。もっと、彼らの発想の根幹にかかわる問題があるのではないか。そして、その問題は、保守・革新というような政治的立場の相違を越えたところにあるような気がしてならないのである。まだ、十分に考え抜いたわけではないが、節を変えてこの問題について検討してみよう。

コロナ恐怖はファシズムへの道を拓くか

これも新型コロナウィルス感染症蔓延の初期の頃からいわれ、現在でも少なからぬ「識者」によって主張されていることであるが、新型コロナウィルス感染症は通常のインフルエンザとそうたいして変わらないから、恐れすぎるのはよくない、とか、感染症を完全になくすことは不可能であり、また、いずれインフルエンザと同じレベルに弱毒化してくるのでそれとの共生を覚悟するしかない、という主張である。

このインフルエンザとたいして変わらないとか、インフルエンザに毛が生えた程度のものなどという勇ましい言い方は、一年以上も経ち、新型コロナウィルス感染症の実態が明らかになってくると、さすがに影を潜めてきたが、経済活動の再開の主張が強くなるといつの間にか復活してくる。それは、新自由主義的立場から、経済を感染症対策に優先させようとする人物、たとえば前合州国大統領トランプやブラジル大統領ボルソナロのようなポピュリスト政治家が振りまいた見解でもある。

感染症との共生を受け入れようという議論の方は、感染症の長期化に伴って多くなってきた議論で、ウィルス学の研究成果を背景にしている点に特徴があり、左翼的ないしは体制批判派と位置付けられるような論者に支持者が多い傾向がある。この主張には、人間の自然への過剰な介入・破壊が、自然界に潜んでいたウィルスを人間界に呼び込んだことによってパンデミックが引き起こされたという人間活動への反省の視点が含まれている。その点、経済開発に疑問を持つどころか、利益追求のために一層自然破壊を進めようとする新自由主義者とは対極に立つ主張といってよいであろう。

また、恐れすぎてはいけない、委縮してはいけないという主張も、その根拠・目的にも大きな相違がある。新自由主義的委縮反対論は、経済という利益追求活動への規制に反対するために主張されている。経済活動が規制され、委縮すれば倒産・失業が増え、生活困窮者が生まれ、自殺者も増える、その方が病気より怖い、というような理由付けがなされるが、本質は利益追求にあることはちがいない。倒産・失業による困窮者の問題は、困窮者に対する迅速かつ適切な支援の提供によって解決されるべき問題であって、感染防止策と直接に関連付けるような短絡的発想は問題のすり替えと言わざるを得ない。

他方、感染症への恐怖感は、人々の攻撃性を強め、自分たちと同じ予防措置をとろうとしない他者を排除し、攻撃するという理不尽な行動を引き起こす。特に、日本のように過剰な同調性が求められる社会では、自粛警察・マスク警察的行動が広がり、ファシズムの心理的温床が形成される。論者の中には、もうすでにファシズムの段階に入っていると警鐘を鳴らす者も現れ、感染症対策と反ファシズムを天秤にかけるような議論も行われ始めている。

実際、感染症対策の不徹底を批判する議論として、日本における非常事態への対応のための制度的不備を問題にし、非常事態法制の整備からさらに憲法改正まで主張する者が現れている。マスコミ各社の世論調査でも憲法改正を容認する者が増加傾向を示しており、この傾向に便乗して憲法改正への気運を高めようという政治家の動きも目立ち始めてきた。

さらに、世界に目を転じれば、国内的に強権的抑圧体制を敷いている国家が、IT技術を駆使して国民の抑圧管理体制を強化し、感染症対策に成功し、経済的成功すら手にしたと自らの体制を自画自賛し、援助に名を借りた影響力の拡大を謀り、周辺諸国に対する軍事的脅威を高めてきている。非常事態法制を突破口に憲法全面改正へという図式は極めて分かりやすい。反戦平和を掲げる立場からは、反対運動のためのデモも集会もできない状況は、危機的状況にあるように見えるのは当然といえば当然であろう。

しかし、ここで厄介な問題が発生する。感染症の恐怖にとらわれ、政府による行動規制の強化と自主規制・相互監視の拡大に反対する立場は、反戦・平和・民主主義を主張する者だけではなく、自由に名を借りた新自由主義的規制反対派にも共有されてしまうという事態が生まれるということである。アメリカやヨーロッパでは、ロックダウンのような感染症対策に反対する大規模な集会・デモが行われ、そこではネオナチ的右翼と営業の自由を主張する小商店主、格差・失業反対の左翼的反対派が混在するという奇妙な光景が見られる。こういう混沌とした状況にもファシズムへの芽は潜んでいる。

ここで考えなければならないのは、感染症対策の問題を経済問題の中に織り込み、封じ込めてしまう新自由主義的発想と同じ誤りに陥らないように注意することであろう。あまり過剰に危機を叫ぶことは、問題の混同を引き起こしかねない。そういう混同を避けるためには感染症対策の問題を不必要に政治化しないことが求められる。たとえばマスク着用は科学的合理性に基づいて判断されるべきであって、政治的対立の象徴にすべきではないことが明らかになって、マスク論争は下火になってきたが、コロナ恐怖症問題にもそういう冷静な対応が必要であろう。

犠牲者の個別性が見えているか

先に、日本の感染症対策の不十分さの背後には、事態の深刻さから目を背けようとする奇妙な態度や論理が見られることを指摘してきた。また、そのような態度・論理の基礎には問題を不必要に政治化し、事態の冷静な分析・認識を妨げる発想が潜んでいるのではないか、という分析も示してきた。しかし、その態度や論理、発想は、明確に自覚されているわけではなく、意識的・無意識的に作用しつづけるため、明確にとらえることには困難さが伴わざるをえなかった。

また、感染症の正体が未だ完全には解明されず、決定的な対応策も模索中の段階では、真贋・虚実判定不能なものも含めて様々な情報・意見が飛び交い、それらの主張や立場が複雑に交錯しているために、何が信頼できるのか、真贋・虚実を見分ける基準は何か、ということが極めて分かり難い状況もある。事態は進行中でもあるし、確定的な評価を下す条件は整っているとは言えないし、筆者にもその自信はない。

しかし、一つだけ明らかなことがある。新型コロナウィルス感染症パンデミックは、現在全世界で三百万人を超える犠牲者を出している。日本でも一万人を越えた。この犠牲者には一人一人その人固有の生活があったはずである。その固有の生活へ思いを致すことなく、数として扱うだけの発想は、感染症に対して恐怖心を捨て去り、事態の深刻さを見ないために最も有効な思考停止をもたらす。そういう思考停止が最悪だということである。

感染症は、歴史的に何回も人類を襲ったし、これからも襲ってくる。犠牲は伴うが、蔓延はいつかは収まる。だからじたばたするなという趣旨の発言を耳にしたことがある。「恐れるな」という主張にも、その発言と同質のにおいがある。それをもし、現実主義という言葉で表現することがあるとすれば、そんな現実主義は、数でだけ犠牲者を表現する想像力を欠いた思考停止状態をよしとする者の立場を表すと言うほかはない。そのような現実主義の発想からは、干からびた社会しか生まれない。そんな社会は御免を被りたい。

三回目の非常事態宣言が出されているさなか、一部地域では医療崩壊の危機が迫り、生命について隠されていた究極の選択が行われようとしていることが明らかになった。撤回されたとはいえ、医療に責任を持つ立場の者から、高齢者の入院優先順位を下げるように指示する文書が送付されたという。感染症に対してなしうる、またなさなければならない処置・対策を先延ばしにし、放置してきた思考停止に陥った政治家の責任は大きい。今必要なのは、「恐れすぎてはいけない」などということではなく、為さなければならない、そしてなしうる限りの基本的方策を直ちに実行に移せと要求することである。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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