論壇

聞き書き 「ちんどん屋」の歩み

業界の牽引車・みどりや進の語りを基に(下)

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

パチンコ店とともに

この頃新たにクライアントに加わったのが、やはり同じ時期にブームを迎えたパチンコ店だ。パチンコは大正末期に誕生、元々関東では「ガチャン(ガチャンコ)」、関西では「パチパチ」と呼ばれる子供の遊びだった(加藤秀俊『パチンコと日本人』、講談社現代新書1984年、参考)。

縁日などでテキヤが開く露店や、デパートの屋上に置かれて、飴などのたわいない菓子が景品で出る。昭和9(1934)年の警察資料(京都府警察部刑事課、昭和9年版「香具師名簿」。猪野健治『テキヤと社会主義』筑摩書房2015年、による)に記されたテキヤのネタ(扱う品、道具、ここでは職業名に拡げられている)の中に、櫛、金物、薬、ゴムひも、新聞発行、金融業、一銭洋食、靴、花輪、自転車……などと共に、「東西屋」と「パチパチ」が挙がっている。

「東西屋」はちんどん屋、「パチパチ」は「パチンコ」だから、この二点がテキヤの括りの中で一緒に並んでいるところが面白い。テキヤも街頭で口上を操りながら商売するちんどん屋と親和性の高い職業で、長屋の隣同士、兼業したりシフトしたりする者が多かった様子を、菊乃家〆丸などから聞いている。このテキヤが営んだ初期のパチンコは子ども相手、景品も飴玉とくれば、ちんどん屋、紙芝居屋、飴屋と生まれは同一線上にあるといえなくもなかろう。

一方、加藤秀俊は「ちょうど『ガチャン』にわたしがつきあいはじめた時期は、昭和というあたらしい時代をむかえて、いくつものあたらしい娯楽が並行して登場してきた時期でもあった。(中略)パチンコの音もにぎやかだったが、トーキーが出現し、さらに(中略)「チンドン屋」が登場したわけだから、昭和初年というのはかなりけたたましくにぎやかな時代に日本社会が移行した時期だった」、さらにレコードを挙げ、「現代娯楽の原型となるものがここで出そろった(中略)そういう一連の新娯楽のひとつとしてパチンコが出現したのである。それは、明治・大正とちがった昭和という時代を象徴する庶民的モダニズムの反映であったのかも知れぬ」と論ずる。私は江戸の延長上の長屋にちんどん屋の出現を結び付けて考えてきたので、パチンコを通じることで昭和のモダニズムと捉える見方に目を開かされた思いである。何事も一つの面だけでは語れない。

それはともかく、戦争中は禁止、台も回収されて軍需用品に変えられたパチンコは、戦後大人の遊びとなって復活した。機種の革新――特に正村竹一による「正村ゲージ」の発明により、ちんどん屋の復活と時を同じくして、瞬く間に全国へ拡がり、一大産業にのし上がった。

鈴木笑子の『天の釘――現代パチンコをつくった男 正村竹一』(晩聲社2001年)によれば、名古屋を根拠地に「今太閤」と称されるほど、パチンコ台製作とパチンコ店で財を成した正村竹一は、戦前、ガラス商から始まってアイスキャンデー屋、パチンコ屋、貸家業と事業展開する才人であったが、戦後はヤミ屋の後、昭和21(1946)年にいち早くパチンコ店を開店する一方、パチンコ台の開発に乗り出し、想像を絶する苦労、工夫の末、昭和25(1950)年に「正村ゲージオール10」(現在まで続く釘打ちの配列と風車という基本構造を持ち、裏の玉の補給が自動式で入賞口から玉が10個出るもの)を売り出すや、瞬く間に一大ブームを巻き起こす。「パチンコはパチンコだけでひとり歩きできない。時代と大衆がパチンコを求めたのである。昭和24年に全国で4818軒だったパチンコ店が(中略)28年43452軒」(鈴木笑子)。

加藤秀俊は、「パチンコが大衆娯楽としてゆるぎなき地歩を確立しえたのは、要するに、それが正村によって代表されるような文字どおりの大衆による大衆のための発明品であったからだろう」と推察するが、チンドン太鼓も、必要があって生まれた、名も知れぬ大衆の発明品である(チンドン太鼓の発明については、前提の拙著で触れている)。

写真8(説明は文末に

この二つが手を携えて戦後の好景気の坂を駆け上がっていく姿(写真8。説明は文末に一括表記、以下も同じ)は、昭和初期に続く、大衆文化の開花の象徴だ。出自やその担い手の近似性だけでなく、実際、クライアントと代理宣伝者としてもこの二つは相性がいい。パチンコ店は地域に密着した商売だし、定期的な新装開店などの宣伝が必要だが、ちんどん屋は地域を足で廻って道行く人に訴える。店前で出す賑やかな音もワクワク感をそそるし、それが定期的になれば、ちんどん屋イコール「今日は出るな」という刷り込み効果も働く。

実は昭和30(1955)年、パチンコ業界は「著しく射幸心をそそり、善良な風俗を害する」と連発式パチンコ機を禁止され、未曽有の危機を経験する。「正村式」が発表された頃は玉入れは単発式だったし、客は出玉を景品に交換していた。昭和27(1952)年連発式が登場、さらに「連チャン」(玉が入賞口に連続して入るとその玉の数だけ入賞分の玉が出る)も加わり、パチンコ台に玉が吸い込まれるスピードも、出玉の数も一挙に上がった。当然ギャンブル性が高くなり、社会問題化する。また大量の出玉を換金したい客の要望が高まり、景品買い(現金化)が横行し、そこにヤクザがつけこんでくる。警察の規制は時間の問題だった。

連発式に慣れた客は一挙に離れていき、昭和31(1956)年にはパチンコ店は約15000軒にその数を減らした。この辺の事情が、いろいろな業界に関わってそんなに浮沈しない、ちんどん屋の昭和30年代と違うところだ。この苦難の時代を必死にこらえて、パチンコ業界で生き延びていったのが在日の人々だった(溝上憲文『パチンコの歴史』、晩聲社1999年、参考)

その後もパチンコ業界は様々な危機にあいながら綿々と続いているが、昨今、ギャンブルに対する自主規制の波が襲い、パチンコ店の仕事がちんどん屋の間で減っているとも聞く。それも不景気と共に訪れる民衆の力の衰退のような気がして一抹残念である。いったい、スマホをそれぞれバラバラに見つめる姿は、大衆文化といえるのだろうか?

大会ちんどん

街場での宣伝活動の一方で、途中から進が夢中になって取り組んだものがある。富山で昭和30(1955)年から現在まで、毎年4月に開催されている「全日本チンドンコンクール」だ。全国のちんどん屋が集まって日本一を決定するとあって、ちんどん屋が最も力を入れた大会である。

「昭和38年、そん時初めてオレが本気になってちんどん屋のコンク-ル(大会)やる気になったのよ」。それまで幸盛館の親方、「湊家タコ坊さんが、『大会ちんどん』と言って、個人の商店を宣伝すんのが商売なんだから、大会ちんどんはダメ”って」戒めたので、コンクールには重きを置かなかった進だが、昭和37年、仲の良かった小鶴家幸太郎というちんどん屋を手伝ってコンクールに参加し、うまくいかなかったことで負けず嫌いに火が付いて、俄然コンクールに力を入れ出したのだ。

昭和30年代、大勢のちんどん屋が集まる大会やコンクールは全国何十か所もあり、大会を回れば費用をかけて作った衣装や道具も使いまわして元が取れることもあって、多くのちんどん屋が大会に見栄えのする大きな仕掛けを持ち込むようになった。

写真9 (説明は文末に

それまで東京のちんどん屋は『赤城の子守唄』や『鞍馬天狗』、『丹下左膳』などの日常の宣伝でも使っていたオーソドックスな支度で臨んでいたが、第5回から名古屋の看板屋が主体の「萬宣社」が参加しだすようになって勝手が変わってきた。萬宣社は看板屋の本業を生かして、第7回には『ベン・ハー』をテーマに、象や戦車の大きな作りもので優勝した。仕事が多く、余裕も生まれた進は他のちんどん屋を真似て大会用の仕掛けに凝り出し、第12回で念願の優勝を果たす。その時の出し物は『国姓爺合戦』(写真9)で、進が虎にまたがったように見せる、通称「乗り物」という張りぼてが売りだった。

図1(説明は文末に

写真10(説明は文末に

図2(説明は文末に

写真と図(図1)を見ていただければ分かるように、「乗り物」とは江戸期からある飴売りや物貰いが工夫した道具と同じだ。ちなみに『赤城の子守唄』で第1回のコンクールで優勝した喜楽家の、一人の人間で二人を演ずる張りぼて(写真10)も、江戸の物貰いの先例(図2)がある。このように街頭での商売の伝統を生かしているところが、ちんどん屋らしいコンクールの特徴になっている。

優勝の常連は、先の「萬宣社」が看板屋がうまくいかなくなって去った後、八王子の踊りの師匠でもあった「常ちゃん」が昭和50年代に入って4年連続優勝、その常ちゃんも去るに及んで、いつしか東京の「御三家」として、みどりや進、小鶴家幸太郎、滝の家一二三が優勝を分け合うようになっていた。この頃流行ったのが「引き抜き」で、写真(写真11、12、13)のように衣装を早変わりするのだが、ここで例の「ルンバ服」の登場となる。軽くて薄く派手な色合いの素材で作るので、目立つ上に引き抜きの下に仕込みやすく、よく用いられるようになった。

この衣装が街頭での宣伝にも使われるようになって、いわゆる人がちぐはぐなコーディネートを見た時に口にする、「まるでちんどん屋みたい」のイメージを形成したといったら当て推量が過ぎるだろうか。ともかく世人は知らず、ちんどん屋同士がコンクールに熱を入れて争った結果、この特殊な文化と「ちんどん屋」という存在を爛熟させたのだ。この狭い世界で、ちんどん屋は進化の袋小路に入り、発展を停止した。そして同じ業界の人間の悪口を言い合うだけになった。

写真11 (説明は文末に

写真12 (説明は文末に

写真13 (説明は文末に

時代に合わない商売に

そもそも昭和50年代はもうちんどん屋は商売としては衰退期である。大型店舗が普及して小売の店やマーケットが減少していく。大道は車の天下で、人はみな忙しく立ち止まることもない。コンクールも開催当初50組以上だった参加数が、昭和55(1980)年には29組に減った。30年代には盛んだった「年始廻り」も、40年代に入ってから道を堂々と歩けなくなっただけでなく、お得意さんにいやな顔をされるようになって終わりを告げた。いわば門付けであるから、萬歳、春駒、獅子舞などと共に時代遅れになってしまった。人の心にも余裕が無くなったのだ。

昭和63(1988)年から平成元(1989)年の、昭和天皇の死の前後による歌舞音曲自粛をきっかけに、東京のちんどん屋は20軒以下に数を減らした。

ここで終わるなら、まだ普通のちんどん屋である。しかしみどりや進は、飼っているとどこまでもでかくなる亀みたいに成長し続ける。私が瀧廼家五朗八という台東区三ノ輪の親方に入門した平成初期、五朗八親方にはまるで仕事が無かったが、大田区の仕事やパチンコ店などお得意をまだいっぱい持っていたみどりやに、よく貸し出されて仕事に行った。もうかなりな歳なのに、朝から晩までチンドン太鼓を力いっぱい叩いて、大声で口上を切り、疲れを知らない姿に度肝を抜かれた。

実際、ちんどん屋の仕事はやってみればわかるが、ハードである。休んでばかりいるちんどん屋もいたが、進は違った。若い楽士が入ってくると、1曲を長く叩いて休ませない。途中から楽士は唇を切って、血を流しながらサックスを吹いていた。そうやって鍛えるのだが、そんな時の進の太鼓はまるで鬼である。次から次へと繰り出される手数は、音に沢山の太い角が生えて飛んで来るみたいだった。これはもう、宇宙いっぱいに拡がった「ダンシング・シヴァ」である。庶民でなく神様――そんなちんどん屋さんが、実はもっと他にもいるので、知りたい方は詳しくは拙著に当たられたし。(絶版ですが)

ちんどん屋の現在形

最後に、現役で活動しているちんどん屋さんに昨今の事情を聞いてみよう。実は、「進化の袋小路に入った」などと決めつけては殴られそうなほど、コンクールでも街角でも活発に動いているのだが、実際に仕事を取っている屋号の数としては東京で10前後と思われるほど少ない(この場合、素人チンドン、ボランティアなどは数に入れない)。

写真14 (説明は文末に

その中で、「全日本チンドンコンクール」で2015年から3回連続優勝し、それまで大阪や九州勢に押され優勝から遠のいていた東京の巻き返しを見事成し遂げた「チンドン芸能社」の永田美香(写真14)。コンクールだけでなく、日々の宣伝の仕事も多くこなす、東京で有数のちんどん屋である。私とは滝廼家五朗八の姉妹弟子でもあり、そこからみどりやに派遣される内、熱心さと技量で進に後継者と見込まれ、多くのクライアントを受け継いだ。

元々演劇にも関わり、「人前で表現するもの」と「お金も貰える」ことが結びついたちんどん屋に魅力を感じて、会社をやめて取り組んだと言うが、それだけではなかなか食べてはいけない。アルバイトもするが、店頭販売員など、少しでもちんどん屋のスキルにつながる仕事を選んだという。

2000年前後にみどりやを手伝いながら「おうめや」という自分の看板を立ち上げ。現在の「チンドン芸能社」はやはりちんどん屋の久と結婚してから設立した。彼女には主にみどりや進への思いと、仕事の波について聞いてみた。

――みどりやはどんな存在か?

美香:「街の色を変えていくような存在感。ああいうちんどん屋に今でもなりたい。だからずうっと親方のかつらの後ろを見てた。わたしたちがそうならなきゃいけないんだよね、これから先。同じにはなれないけど、それに近い自分になってかないとと思う、あと20年かけて。親方達は戦争も経験して、ちんどん屋もずっと、……ちんどん屋って『存在』じゃないですか、仕事と存在が一緒になってるっていうか、時代背景が一緒になってるので、だけど私はないから、やはりニセモノなわけですよ。彼らの存在が作ってきたものをもらって金をもらってる奴。でも今ね、少し近づいた気がする」。

(「おうめや」という屋号を持ってから)みどりやさんは子飼いの金額じゃなくてフリーの金額で払ってくれた。で、専属出方。他にいかないって決めたのは私。自分に仕事が入っても、みどりやさんの仕事は自分が出て、自分の仕事は人にまかせてた。みどりやさんが私に仕事を移行していってくれた。“この子にまかせればいいから”って。(仕事は)親方から貰うものも自分で取るものも含めて、そんなに切れたことがないので、ずっとやってた。それは運がよかったかも知れない。

みどりやさんにいる時に、パチンコ屋さんの大口が取れたんですよ。その後5年くらいずっと頼んでくれた、月に30本とか40本くらい。いつ(依頼の)電話かかるか分からないからすごく大変だった、24時間体制。あとみどりやさんの仕事はしなきゃいけないし。他のちんどん屋さんに来てもらって、今の旦那も助けてくれてて。

私がみどりやさんの仕事もしていて、パチンコ屋さんの仕事も増えていったので、手探りでやっている。それまでは商店街3本くらいしか持ってなかったから、年間10本くらいだけで、あとはみどりや。一番うれしかったのは、みどりやさんが“これからはうちの若い子をよろしく”って売り込んでくれた。仕事の打ち合わせも連れて行ってくれて、お金のことも全部。そこで知り合った企画屋さんとか今でもつながっていて。その時期が一番忙しかったかも」

――リーマン・ショックの影響とかは?

美香:「なかったんですよ、全然。みどりやさんのとこのは減ったけど、月10本くらいはあったので。減ったって感覚はなかった。ちんどん屋の仕事って、不景気になると増えるんですよ。今営業してて思うんだけど、金銭的に、他のイベント頼むより安いから。で、景気がよくなったらよくなったで、小銭がこぼれるから頼むというのがあるんで、そんなに波がある感じがしないのね。爆発的に増えもしないの、だから低め安定。やれる人間も少ないから」

――東日本大震災は?

美香:「大きかった。震災の前からちょっと景気が落ちてきてて、厳しいなという感じはあった。震災の翌日もパチンコ屋の現場あったんですよ。お得意さんが“無し”って言わないから行くは行ったんですよね。10時から12時までやったけど、自分の方から、街の感じとかダメなんで、やめましょう“って言って。そこから、やっぱり大きなお得意さんの仕事は無くなった。その時は本当にどうしていいかと思って、知ってる企画屋さんのとこにいろいろ行って、”どうしましょう”、お互い”どうしましょう“って。

あの時うれしかったのは、商店街の人が”うちはやるからね”って電話くれたりとか。ちょっと勉強したこともあった。あまりにも仕事が無かったから、ボランティアで行ってみたことがあった、東京なんですけど。初めてボランティアやって、責任が無いってこんなに楽なんだって。やっちゃダメだと思った。だってタダだから、何やったって喜ぶんですよ。私がダメになっちゃう」

――震災で仕事が無くなった後どう乗り越えたか?

美香:「じいっとしてました。テレビ見てました。蓄えでじいっとしてて、秋くらいからボチボチ。噂で企画屋さんが倒産したりとか、そんな話も聞きつつじいっと。底力はあった。どこのちんどん屋さんもいろいろなパターンでやってた。それこそ天皇崩御でちんどん屋がどんどんやめたりとか、で、残った人達が残ってるわけだから。アルバイトはしなかった。ありがたいことに、旦那と結婚してからはお互いアルバイトせずにずっと暮らしてたので」

――景気の波とちんどん屋の関係について。

美香:「景気がどんどんどんどん下がってるってイメージですけど、うちは最初パチンコ屋さんでやってて、震災でパチンコが無くなって、それまでは居酒屋が何軒かあって、旦那がそれ回してて、震災でなくなる。その後飲食店が中心になるんですけど、お店が単価の安い店になってる。それはフランチャイズで安い金額で作れるということ。そういうお店が多くなってる。ここ5年くらい。それまではもうちょっと高級店て感じだったんですよ」

――ちんどん屋を頼むのは何故か?

美香:「新聞広告出して、アルバイトを頼んで駅前でチラシを撒かせるのと比べたら、ちんどん屋を1日出した方が効果がある。実際チラシの枚数も多く配れるし、印象が残るということが大きい。歩く所は狭い距離だけど。また、飲食店さんも“兄さん来てくれないと不安だから”みたいに、実務も大事だけれども、不思議な、あやかるとか、ゲン担ぎで頼んでくれる。ちんどん屋ってやっぱり、ありがたい芸であるんだよね」

――道端の宣伝としてはまだ生きてる?

美香:「私が若い頃に入って、親方達の頃と、お店と自分の関係ってそんなに変わってない、同じ気がする。ただ大きく違うのは、メールでやりとりするとか、ちゃんと書類を交わすとか、相手がちんどん屋を知らない時も交渉しなきゃならないだけで。書類とか、反社と付き合ってないかとか、今ほんと倫理(コンプライアンス)がうるさくなってる」

――現状とこれからは?

美香:「明日は分からないけど、旦那と私と2人で仕事のベースを作って、今若い子9人いるので、その子たちにどう仕事を振れるかっていう。うちにいる若い子って、ほとんど音大生。鶯谷に住んでて近くに芸大もあるし、その縁で芸大出た子が楽士として来てくれる。その子たちもプロとしての音になるために、人前でいろいろ演奏してみたいってのもあるし」

――彼等にはちんどん屋に対する偏見はない?

美香:「全然ないです。ただ昔のちんどん屋はどうだったのか、昔の音とかちんどん屋はこういうものだってことを私が教えていかなければならない。ちんどん屋ってのは商売であると思うんですよ。商売ってのは世の中で変遷していくものだと思う。それがちんどん屋の面白いところだと。今だって偏見がないかっていうとそんなことはないと思うんですよ。で、偏見があって異形だから成り立つ商売じゃないですか、そもそも。だっていまだにあのカッコで電車に乗る。そういうことも含めて。あと水商売であることも含めて。変だからお金になる商売。ちんどん屋である私の、ちんどん屋であるって恰好を突き詰めなくちゃいけない。変な仕事だよね。

やってる瞬間に、“あたし何してるんだろう”って思うよ。親方達が作った時代に乗っかってるんだよ。それを私達がやってくことによって、『昭和』だけじゃないものにしていくんだよ。親方達は偏見を持たれないようにものすごく努力をしてきたの。お金かけていい着物を着て、みどりやさんも言ってたけど、“人を傷つけないように物を売った方がいいんだよ、相手の懐に入って可愛がってもらうように、理解してもらうように”って、すごく言われた」

――それは差別を跳ね返すっていうこと?

美香:「それはあるよ。悔しい思いを彼等はしてきた。だから、まるで生活向上委員会みたいに、それをやって来てるわけ。それを私達がぶち壊すことは出来ないの。彼等はこの仕事しか出来なかった人達なの。それを継続させるために、一般人として、すごく頑張って来たわけ。(みどりや)親方も、打ち合わせ行く時はすごくパリッとした服着て行く。だからちんどん屋は生き残ったのよ。生き残った親方達は生活向上委員会だったのよ」

――ちんどん屋はこれからも続く?

美香:「今頼んでくれる人のタイプに2種類あって、年を取った社長がいて頼みたくなっちゃう、それで営業の人が“ちんどん屋って何?”って連絡してくるパターンもあるし、若い人達が新しい宣伝として頼もうとしてゼロから来るって場合もあるね。レトロな飲食店でイメージいいんじゃないかとか。うちは飲食店が6、7割。だから一つの宣伝ケースとしてはなってると思う。それとイベントと、海外の話とか来てて。ちんどん屋って最後の背中を押す仕事だと思う。いろんな宣伝やった後に、工事もやってる、開店するって知ってる、歩いてる人の最後の購買意欲の背中を押す。

人形町もそうだけど、ほんとサラリーマン優しいよね。余裕を感じる。学生街はひどいよ。私もみどりやさんとこで働いてる時に、これから宣伝業は無くなると思って、みどりやさんと話をして、ステージングの仕事に移行していかないと、と思ったもん。

でもあれから15、6年経ったけど、移行しない。他に業種が無いからだと思うの。一時さ、ちんどん屋に近い業種がパッと出てきたんだよ。シルクハットに電光掲示板を付けたサンドイッチマンとか、ちんどん屋みたいなことをするパフォーマーとか、1回ウっと湧いたんだけど、やっぱ継続出来ない、一瞬で消えてくんだよ。ちんどん屋って長く継続してるから、営業的底力があるんだと思う。

ちんどん屋の中でも新しいことやってもやっぱりだめで、戻って来ちゃう、この形式に。今あるちんどん屋の形式ってのは、長い間、或る意味洗練されて出来てきたものだから、新しいことなんて無理なんだよ。例えば、チンドン太鼓をもっと面白くしようって、何か付けたり、太鼓倒れないようにとかいろいろやるんだけど、やっぱり今の形に戻っちゃうんだよね。仕事のやり方も、何か新しいことやろうとしても、戻っちゃうの」

――何でチンドン太鼓なんだろう?

美香:「アレが無いとやっぱりだめなの。どんなに疲れても太鼓しょったらピリッとするじゃん」

「(親方達は)仕事と存在が一緒になってる」、「ちんどん屋の仕事って、不景気になると増える」、「変だからお金になる商売」、「親方達は偏見を持たれないようにものすごく努力をしてきた」と、蓋し名言がずらりと並んで、私が長くダラダラと書いてなかなか言い得なかったことをピタリ言い当てているのには頭が下がった。さすが、現役の最前線にいる「親方」であると思う。その彼女のお腹にぴったりと身に付いたチンドン太鼓、ちんどん屋をちんどん屋たらしめるこの道具のもたらす意味については、まだまだ謎は続くとしておこう。

*この文章はコロナ禍以前に書いたものであることをお断りしておく。永田美香さんにはコロナ禍の影響について機会があればまた聞いてみたい。

(敬称略)

――写真説明――

写真8 昭和27年、三浦三崎のパチンコ店宣伝。左端みどりや進と幸盛館の面々。

写真9 その時のスナップ。左からチンドン文江、虎の「乗り物」の進、楽士糸井。

図1 江戸から明治にかけて出現した「ホロホロ飴売り」。(三谷一馬「彩色江戸物売図絵」中公文庫1996年)

写真10 昭和29年、上野中通りで『赤城の子守唄』の浅太郎に扮する喜楽家喜楽(右)。

図2 江戸時代の物貰い、「親孝行でござい」。(三谷一馬「江戸商売図絵」中公文庫1995年)

写真11、12、13 昭和58年、富山全日本チンドンコンクール第29回『ロマンの花咲く富山』でみどりや優勝時の「引き抜き」。

写真14 永田美香。

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

論壇

第23号 記事一覧

ページの
トップへ