コラム/若者と希望

どんなに小さな言葉でも

「祈り」がひとりごとにならないように

歴史知研究会会員 川島 祐一

私たちの人生において、しばしば〈なぜ〉と問い、さらに多くの人との出会いと関係の中で、〈なぜ〉という厳しい問いの前に立たされます。

2011年3月11日には、東日本大震災によって、死者・行方不明者は1万8429人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4890戸。2016年7月26日には、神奈川県相模原市緑区で「相模原障害者施設殺傷事件」において、入所者19名が刺殺、入所者・職員26名が重軽傷を負ったそうです。2019年7月18日には、京都府京都市伏見区で「京都アニメーション放火殺人事件」において、同社の社員の69名が被害に遭い、うち35名が死亡、34人が負傷したそうです。

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ある人は〈なぜ〉と叫びながら息をひきとられたでしょう。さらに愛する者を失い、健康を失い、家屋を失い、仲間を失い、コミュニティを失い、生活を失ったすべての人の中に、〈なぜ〉という問いが反響しあっているでしょう。

〈なぜ〉という問いは決して長広舌を要せず、ただの二文字にすぎません。しかもこの問いはわれわれの魂の死に至る傷となりうるのです。〈なぜ〉私はこんな苦しい目に合うのか、痛い目に合うのか、悲しい目に合うのか。その理由がわからない、納得がいかない。まさに不条理、矛盾です。その理由がわからず、つじつまが合わず、合点がいかないことが、苦しみに苦しみを重ね、痛みに痛みを重ねるのです。傷口を広げるのです。

このような厳しい現実では、まさにこの〈なぜ〉という問いが、今なお終わることはないのです。このことから私は、新約聖書、マタイによる福音書27章45-56節を思い出します。小見出しは「イエスの死」とつけられているのですが、イエスが十字架に架けられて息を引き取る場面です。

その死に際して「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだとあります。十字架に架けられたイエスの両手は釘を打たれ、血が流れている。足もまた、釘を打たれ血が流れている。頭には茨の冠が載せられ、堅い茨のとげは頭に刺さり、そこからも血が流れている状態でのことでした。この叫びをどのように聴くか。ここで叫んでいる絶望は、神を責める叫びでしょうか。イエスは三日目に復活するという信仰がありますが、「わが神」という叫びが父なる神に届きお答えになったとき、甦りは起きるとされています。「救い」「甦り」の中でなければ、十字架の絶望は語れないでしょう。絶望の中での信頼とでもいうのか、信頼を持って絶望するというのか。とにかく、絶望の中で救われるのだろうと思います。その意味で、叫びは「祈り」(詩篇22編)なのです。

苦しみや悲しみを経験している多くの人々に思いをはせるとき、人間のいろいろな苦しみや悲しみに接してきて、気がついたことがあります。それは「悲しみを本当にいやすものは何もない。つまり失ったものは帰ってこない。これを慰めるものがあるとすれば、同じ喪失の経験、同じ悲しみを知っている人と共にいるしかない」と。

苦難や悲惨、地獄の現実の中に、すべてを失い、地獄の闇の中で、地をはうような苦しみ、切断された関係を繋ぎ、生命の世界として、死から生命の世界へ、苦しみから希望へ導き、闇の中で光を輝かせてくれるものは、苦しむ者のかたわらに、共にたたずんでくれる者でしょう。それを信じるゆえに、私たちは〈なぜ〉という問いを本当に共有しなければならないのです。

個人としてコミュニティとして、〈なぜ〉と問い続けている人に向き合い、受け止めること。それは困難なことであり、しんどいことであり、むしろ不可能なことなのかもしれません。しかしそれぞれの場で、必死でそのことに向き合ってきた人たちも少なくありません。たとえ小さな働きではあっても、死と崩壊(絶望・叫び)を生命と回復(祈り・救い)へと結び合わせていくことの中に、希望の光があると信じます。

幸いなことに、苦しむ者のかたわらで、これを慰めるために、共にたたずめるものであれば、この私がそうあることができるのは〈なぜ〉か、と問わなければなりません。しかも魂の死に至る絶望への〈なぜ〉ではなく、失われた関係を回復し、互いの心を希望へと繋ぐ「救い」「甦り」を起す絶望(叫び)への問いとして、けっして忘れることなく、問い続けながら。

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人間にとって一番大切なもの、生活の根底として支えられているものは、言葉であり、それに真剣に耳を傾けるということであり、この一点が失われると、愛も共感も無意味になります。しかし、他者との出会いは、あまり心地よくありません。違った考えと出会うことは、自分を責められているように感じるときがありますし、あるいは否定されているように感じることもあります。でも、〈なぜ〉違うのだろうか、違うものを選択することにどんな意味があるのだろうか、そういう興味を持って近づいていくと、私自身を見直さなければならない出会いもあり、その意味で苦しいときもあるのですが、おそれずにその苦しさを越えて出会っていくときに、見えない事実と出会うことが出来るのではないでしょうか。

今まで知らなかった知平を開かれることでもあるし、目から鱗のようなものが落ちるような出来事にもたびたび出会います。一方で、対話は辛いことでもあります。対話はときに自らのいたらなさや弱さを露わにして、それと向き合わなければならないからです。時折、差別者としての自分が露わになって辛い思いをします。けれども、それを知らなければ、私は「無意識的な」差別者として、その人たちの心を踏みにじる言動を繰り返していることになるのです。痛みを持って差別者としての自分と出会うことによって、少しは痛みを分かち合える可能性を持つことが出来たのです。そこに「少し」新しい自分がいて、そして「少し」新しい関係が生まれていくのです。弱さの中に可能性があり、弱さが恵みであるのです。

この世に生きるということは、厳しく困難でもあります。重い病があります。さまざまな災難があります。震災は本当に私たちの存在を根底から否定されるような経験でしょう。

そしていろいろな問題があり、それをめぐって難しい人間関係の中におかれています。これでもかというような不幸や苦難を経験することもあります。たとえそうでなくても、私たちはやがて年老いて孤独になると、社会から取り残されるような思いをするに違いありません。そしてついに死は私に対する全存在の否定と感じることでしょう。まさにこの世の暗い否定の世界の中で、「おまえなんかだめだ」という否定の声がうずまいています。

とくに弱い人、貧しい人、子どもたちは否定の言葉を敏感に感じるのです。私たちの社会はけっして理想的な社会ではありません。問題や困難が山積みしています。そしてそれらの多くは弱い人から生きる力を奪い、尊厳を奪っています。不当な世界のあり方に苦しんでいる弱さと共に歩み、その苦難を共に生きる存在、弱さの恵みに気づき、共に喜ぶ存在。このような現実に立ちはだかり、誰が何と言おうが、否定の言葉に毅然と立ち向かって、肯定の言葉を語れるのも私たちなのだと思うのです。

そこには衝突も起こりますが、それを補うことができる励ましや慰めや喜びがあるのです。これらのことは「強さ」で繋がった人間関係ではなく、弱さを絆にした人間関係だから生まれてくるのです。そうした苦難の共同体を形作りたいと思うのです。

かわしま・ゆういち

1982年生まれ。高等学校教員、放課後児童支援員(学童保育)を経て、放課後等デイサービス職員。本稿は、『季刊 現代の理論』VOL.27(2011.春)、[若者と希望]「心が困ったときの家出先」、『季刊 現代の理論』デジタル第2号(2014.夏)、[若者と希望]「安心して絶望できる社会」と併せて読んでいただけると幸いです。

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