論壇

目覚め立ち上がるチリの人びと

100万人デモは何を求めているか

原 すみれ

2019年10月28日、朝日新聞は次の記事を掲載した。

「暮らしに直結する問題が、大規模な反政府デモに発展するケースは南米でも続く。チリの首都サンティアゴでは25日、約100万人が参加した過去最大級のデモがあった。きっかけは政府が発表した公共交通機関の運賃値上げだ。地下鉄で800ペソ(121円)から830ペソ(126円)への値上げが発表されると、学生らが無賃乗車デモを強行。一部が暴徒化し地下鉄駅に放火するなどし、現地報道によると、26日までに衝突や放火で19人以上が死亡、3千人以上が逮捕された」

私は、子どものころに母につれられてチリを訪ねて以来、チリに関心を寄せている。ここ数年は、チリを直接訪ねて人びととの交流をつづけている。そして、このデモの当日、たまたまチリにいた私は、デモの現場にいた。

100万人デモの直前、催涙弾の煙と駅の火災で上がった煙(2019年10月19日、
    チリ・サンティアゴで筆者写す)

このデモは、地下鉄料金の値上げに反対する学生の抗議活動から始まった、不平等な社会構造に抵抗する「尊厳運動」の経過(すでに半年以上にわたる)とその背景にある30年以上におよぶチリの抑圧と搾取がどこから来ているのか。運動の主要な要求について見ていきたい。

「30ペソじゃない、30年だ」

はじまりは10月初めの地下鉄料金の値上がりに抗議する高校生と大学生が中心の若者たちによる地下鉄への無賃乗車だった。10月14日に運動が拡大し、18日、高校生たちが地下鉄駅を占拠するまでに至った。

この地下鉄での抗議活動は基本的に平和的に行われ、サルバドール・アジェンデ時代の最後のころに作られ、軍政と直接対決していた時代から歌われつづけるプロテストソング、「不屈の民」(El Pueblo Unido) を歌いながら抗議する高校生たちの姿もあった。こうした「新しい歌」と呼ばれたアジェンデ時代に展開されたチリの民謡・民衆歌にもとづく曲を新たにつくりだす運動によって生まれた歌は現在にも引きつがれ、デモのなかでは「不屈の民」のほかにも「平和に生きる権利」(軍政に殺害されたヴィクトル・ハラ作曲)などが歌われていた。

この18日の地下鉄占拠から「尊厳運動」は始まった。街全体へ拡がった運動の結果、一部駅への放火や破壊行為もあり、この日から10月20日までの2日間サンティアゴの地下鉄は全線運休、136ある駅もすべて閉鎖されることになった。

この尊厳運動は地下鉄料金の値上げという起爆剤によって爆発した長年の抑圧と搾取に対するチリ民衆の怒りの発露だった。それは軍政時代の新自由主義的な改革によってもたらされた社会保障諸制度の民営化、資源の民営化、そして1990年に軍政が終わり民主化以降も続くさらなる公共サービスの市場化に対する怒りでもあった。

軍政以降のどの政権も(左右を問わず)、根本的な解決をしてこなかったことへの民衆の怒りが10月25日、サンティアゴを埋め尽くす「歴史上最大」の100万人デモに結集した。「30ペソじゃない、30年だ」、デモ参加者が持つプラカードに書かれたこのフレーズは、問題は地下鉄料金の値上げの30ペソではなく30年の搾取だというスローガンに象徴されている。

しかし、問題は民主化以降の30年だけとはかぎらない。その根っこは、アメリカCIAの支援を受けてクーデターで政権を握ったピノチェット将軍が率いた軍事独裁政権(1973-1990年)の時代にさかのぼる。民衆の主要な改革要求の教育、医療、年金などの公的福祉制度は軍事独裁政権時代に押し進められたシカゴボーイズ(ミルトン・フリードマンら、シカゴ大学の新自由主義の信奉者の経済学者たち)などによる新自由主義に基づく経済改革によってその多くが民間企業の手に渡り運営されている。この経済モデルによってもたらされた民営化私有化によって、本来国民に対して保障されるべき基本的公共サービスさえもが企業の利益を追求する事業になってしまった。

事実、100万人デモの後に改革を支持する民衆の要求に憲法改革があるのは、チリ社会の諸問題の原因が、軍事政権が行った憲法改革に問題があることに民衆が気づいたことによる。

チリの人びとの経済状況

収入格差

これまで、チリは経済では、南米の優等生といわれてきた。しかし、現実にはチリ社会の収入格差は大きい。2019年8月13日に公開された国家統計研究所(INE) の収入統計アンケート(ESI) によれば平均賃金は573,964ペソ(約86,000円)となっているが、50%の就労者が受け取る賃金は400,000ペソ(約60,000円)以下だ。

男女別にみると、男性の場合411,100ペソ以下、この状況は女性の場合、さらに深刻で全女性就労者の半数が受け取る賃金は343,234ペソ以下になる。たとえば、ペットボトル500ミリのミネラルウォーターの価格などは日本で販売されている飲料水とほぼ同じ価格だ。物価の水準から考えれば40万ペソの賃金で日々の暮らしを考えるとかなり厳しい現実だ。しかも、7割近くの就労者の収入は平均賃金に届かない。そして収入を上回る支出を補うため70%以上の家庭に借金がある(Los-Verdaderos-Sueldos de chile) 。つまり、大半の富がごく少数に極端にかたよっていることを表している。

INE の家庭予算調査(VIII EPF) によればチリの家庭の主な支出は食料、交通料金、家賃、次に医療費となっている。今回の地下鉄料金の値上げは2番目に大きな支出の交通料金を直撃した。デモの結果、現在はサンティアゴの地下鉄料金の値上げは撤回されている。

低年金問題

チリでは、年金問題も人びとの暮らしに大きな影を落としている。

個人積立勘定の年金制度発足時から40年を迎えるが、現行年金制度へ移行してから個人積立勘定AFP理論のもとに保険料を拠出し年金を受給する世代が現れはじめてきている。

CNNChile紙によれば、2019 年3月に支給された老齢年金、繰り上げ年金の平均は25万9千ペソで、男女別に、男性32万ペソ(支給開始年齢65歳)、女性19万2千ペソ(支給開始年齢60歳)だ。

「これらの受給額の違いはAFP研究協会の会長ロベルト・フエンテス氏によれば、平均年金受給額は拠出年数に左右される。実際女性の場合拠出年数の平均は15.7年、男性の場合19.7年、全就労期間の半分以下の期間しか拠出していないことになる」(CNN CHILE 2019/05/20)」

さらに労働、教育、社会保障などの問題を批判的に研究する非営利研究機関フンダシオン・ソル(Fundacin SOL)によって2019年7月に発表された年金監督庁の資料を基にした研究によると「2018年12月に老齢年金受給者68万4千人の50%が受給した年金は15万1千ペソ以で(国家による老齢連帯保障手当APSを除けば13万5千ペソ)、社会開発省の設定する貧困ラインを下回っている。さらに30~35年間保険料を拠出した受給者の50%が受給した年金は296,322ペソ以下、この金額は2018年後期の最低賃金と比較するとやや多いが、現在の最低賃金と比較した場合下回っている」。

女性の年金受給者の場合、さらにその受給額は低く女性老齢年金受給者の50%が13万8千ペソ以下(老齢連帯保障手当APSを除けば10万7千ペソ)、また30~35年間約全就労期間拠出した女性年金受給者でもその半数が受け取れる年金は281,722ペソである。

AFPという日本の年金制度と異なる年金制度について簡単ではあるが、説明しておく。

1980年に制定された賃金の10%を保険料として拠出する3本の柱からなるこの年金制度は、第一の柱・国家の連帯年金制度、女性や若年労働者への特別手当て、第二の柱・個人積立勘定年金制度AFP、第三の柱・任意加入の補足的保障制度、集団的任意保障貯蓄制度からなっている。

「固定された保険料(確定拠出型)を月々、各人の有する個人積立勘定に拠出し、この保険料を原資とする年金基金をAFPと呼ばれる民間の年金基金管理会社が管理・運用し(民営化)、将来的にはそれまで積み立てた保険料と運用の成果(運用益)とが、年金の原資となる(積立方式)というものである。AFP毎に年金基金の運用方法、具体的にはポートフォリオの組み方が異なるため、被保険者は複数のAFPから、好みに合ったAFPを選択できる」(『高齢期の所得保障 ブラジル・チリの法制度と日本』島村暁代著、東大出版会)というものだ。簡単にいってしまえば、年金の運用を民間(複数ある)に任せていることになる。

しかも、現行制度では一部の制度「集団的任意保障貯蓄制度(APVC)」や重労働従事者に対しての早期老齢年金制度への使用者の保険料の負担の場合を除いて使用者の保険料負担は義務づけられていない。

そして、この個人積立勘定の年金制度の生みの親といわれるのが、現大統領セバスティアン・ピニェラの実の兄でありシカゴボーイズの一員であったホセ・ピニェラである。2020年現在7つのAFPが存在し、うち5つは外国籍資本によって運営されている。1980年制度発足当時は各AFPには基金一つずつだったが、2002年当時大統領であったリカルド・ラゴス大統領の改革により各AFPに複数の投資率の異なるA、 B、 C、 D、 Eの5つの基金を設ける複数基金制度が設けられた(もっともリスクの大きいA基金の設置は義務ではない)。被保険者は自らの好みと必要に合わせてこのA~Eの基金を選ぶことができる。

しかし、この個人積立勘定という性格上現役時代の収入が高齢期にもらえる年金額にそのまま直結する事は明確である。

2008年当時大統領であったミチェル・バチェレ大統領によって行われた連帯年金制度を盛り込む改革によっていくつかの修正が行われた。1980年制度発足当時は国家が保証する最低年金を受給するために20年の保険料拠出期間要件があり受給までたどり着くのがむずかしかった第一の柱である国家による連帯年金制度の受給要件をチリでの20年の居住期間にしたり世帯所得水準の低い方から数えて60%までの連帯制度の拡張、女性や若年労働者への個人積立勘定への特別手当の支給などであった。

しかしこれらの改革はあくまでAFPという個人積立勘定の年金制度の中での改革でしかなく。2016年にはこの年金制度に対して約75万人の反対デモが広く国内で行われている。「No ms AFP」、2016年のデモで叫ばれたスローガンだ。高齢者へふさわしい年金を。民営でも国営でもAFPはさようなら。

差別的医療制度

チリには主に2種類の健康保険制度がある。一つがFONASA(国民健康保険)で収入の7%を保険料として拠出し、公的医療制度を受けられる(収入に応じて医療費負担が異なる)。もう一つがISAPRE(民営健康保険)で収入の7%を保険料として拠出し、さらに保険会社が提示するプランに応じて追加保険料がかかる。民間のクリニックなどを受診できる。2017年CASEN(社会経済特性調査)のアンケート調査によればFONASAへの加入率は全人口のうち78%、ISAPREの場合14.4%となっている。

ところが、この二つの制度の差は大きく、2019年7月公開の保健省の資料によれば、FONASAによる受診では、 2019年6月時点で専門医の診察、外科手術待ちは180万人、診察や手術までの待機期間は平均351日で、緊急を要する疾病では手遅れになる。2018年、診察、処置待ちのあいだに命を落とした疾患者の数は24,919人にのぼる。

保険加入率が90%をこえているとはいっても、8割近くのチリ国民は不安定で厳しい医療環境のなかにいる。ほぼ皆保険で高齢者の薬の飲み過ぎが問題になり、自由診療でインプラントをというような日本と比べると深刻さが理解できるだろう。

水問題

チリでは、軍政時代1981年に水法が制定されてから40年近く水の占有が問題にされてきたが、ここ10年間の気候変動による降雨量の低下にともなう干ばつによって、水問題がさらに浮き彫りになってきている。

この水法というのは、単純にいってしまうと、土地の権利と水の権利を分離させることで、水の権利を私企業が売買できるといえば、わかりやすいだろう。チリ国内のニュースを見ていると今年の夏は特に気候変動や水の搾取についての特集や記事が出ている。鉱業、輸出農業、林業などの水を大量に消費する産業が盛んな地域での水問題は深刻な状況になっている。

特に輸出作物の栽培における水の消費は多く、首都州では2018年5月まであった12平方キロメートルのアクレオ湖が水の所有権を持つ一部の農場主たちの農作物への過剰な灌漑によって干上がってしまった。また首都サンティアゴから北220kmに位置するバルパライソ州のペトルカという地域では主に輸出用アボカド栽培農家の水資源の占有による深刻な水不足により8年近く40万人がトラックによって供給される水によって生活している。

そして日本でも度々話題になる水道の民営化がチリでは最終的にすべての州の主要水道事業会社が民営化された2004年から現在まで続いている。民主化以降の中道左派政権も自由経済というピノチェト軍事独裁政権からの遺産を引き継ぐ形で基本的人権である尊厳のある生活を送るために不可欠な水の権利を企業へ渡してしまった。

1973年から90年までつづいた強権的な軍政のためにチリは、新自由主義を信奉するシカゴ学派の実験場と化した。その負の遺産を今日までひきずっている。チリの100万人デモの背景にはこうした民衆の苦しみがあった。日本でも小泉政権以降つづく新自由主義「改革」がいかに格差を拡大し、一部にだけ極端な富をもたらし、大多数の人びとを苦しめるものであるか、日々明らかになっているといっていいだろう。これからもつづくチリの人びとの闘いに引きつづき注目していきたい。

はら・すみれ

1998年、東京生まれ。チリ現地を訪ね、交流をつづけている。

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