緊急追加発信

特集●米中覇権戦争の行方

歴史に向き合わず、対立を煽る「目眩まし政治・メディア」の危うさ―市民社会の理性が必要だ

青山学院大学法学部教授 申 惠丰

徴用工判決への報復措置、「平和の少女像」展示への圧力、そしてメディアの狂奔

今年(2019)年夏、とりわけ韓国にまつわる事柄に関連して起こった一連の事態は、今の日本の政治と社会が抱えている様々な歪みを、極端かつ醜悪な形で表出させたものだった。

昨年10月に韓国の大法院(最高裁)が、第二次大戦中に徴用され強制労働させられた元徴用工が新日鉄住金に損害賠償を求めた訴訟で訴えを認めたことで、日本政府は7月1日、日韓請求権協定で請求権問題は解決済みのはずなのに韓国がその約束を破り、「日韓の信頼関係が著しく損なわれたと言わざるをえない状況だ」として、韓国に対する輸出の優遇措置を見直し、半導体の製造などに使われる原材料3種について輸出の規制を強化するという異例の措置に出た(「半導体などの原材料 韓国への輸出規制強化」)。

政府は、世界貿易機関(WTO)協定に反する報復措置とみられることを意識してその後これを「安全保障上の問題」と説明しているが、7月1日の発表の趣旨は異なる。実際、8月6日の記者会見でも首相は、徴用工問題で韓国が日韓請求権協定を破っていることを理由とする発言をしている(「安倍首相『韓国が国際条約破っている』、日韓請求権協定の順守要求」)。

輸出規制は韓国企業に被害をもたらすものの、韓国がトップシェアを誇る半導体メモリに必要な材料や装置について日本製の排除が進み、結果的には日本企業に大打撃となると指摘されている(湯之上隆「『対韓輸出規制』、電子機器メーカーの怒りの矛先は日本に向く?」)が、政府がそのことを冷静に考えたとは思えない。日韓関係の悪化を受けて韓国からの観光客も激減し、観光業界に深刻な影響を与えている。韓国は9月11日、輸出規制についてWTOに提訴したが、数年後に結論が出る頃には、日本経済が受けるダメージも取り返しがつかないものになっていることだろう。

8月にはまた、1日に開幕した国際芸術祭「あいちトリエンナーレ2019」の企画展「表現の不自由展・その後」が展示した「平和の少女像」をめぐり、テロ予告や脅迫を含む抗議が寄せられ、企画展がわずか3日で中止に追い込まれた。少女がただ座っているだけの像の展示に対して、一般市民からの抗議があっただけでなく、河村たかし名古屋市長が、慰安婦を象徴した像を展示することは「日本国民の心を踏みにじる行為であり許されない」として大村秀章愛知県知事に抗議文を送り、日本維新の会の杉本和巳衆議院議員も「公的な施設が公的支援に支えられて行う催事として極めて不適切」として展示中止を求める要望書を出すなど、公人の直接的な介入があったことも異様だった。

大村知事は記者会見で、市長のように公権力を持つ者が「この内容は良くて、この内容はダメ」というのは、憲法21条が禁止する検閲にあたると批判したし、企画展中止に対しては、その後も憲法学者ら有識者、出版関係者、人権団体、美術関係者などから多数の抗議声明が次々と発表されている。しかし、この文章を執筆している9月19日時点ではまだ、展示再開の報は入っていない。

8月15日の終戦の日、韓国にとっては日本の植民地支配からの解放を記念する光復節。文在寅大統領は、「われわれは日本が、隣国に不幸をもたらした過去について熟考するとともに、東アジアの平和と繁栄を共に牽引することを望む」と述べ、日本が対話を選択すれば「喜んで手を結ぶ」として日本政府に対話を呼びかけた(「韓国大統領、日本との対話に『喜んで応じる』」)。しかし日本側が対話の姿勢を見せなかったことが、22日に韓国政府が発表した軍事情報包括保護協定(GSOMIA)破棄の一つの理由になったとされる。

このように日韓関係が悪化する中で、テレビや週刊誌を始めとするマスメディアは、日韓請求権協定がどのような内容の協定なのか、元徴用工の人々がどのような被害を訴え韓国大法院がどのような判断を下したのかをまともに取り上げることもないまま、「韓国が約束を破った」という政府の立場を繰り返し流し、韓国を「約束を守らない国」として叩き続けた。ワイドショーのコメンテーターは競って韓国と韓国人を槍玉に挙げて罵倒・嘲笑を続けている。

NHK・民放を含めニュース番組も、今日に至るまで、数ある日本の政治スキャンダル(森友・加計問題に代表される首相夫妻の権力濫用・国富の私物化・文科行政不正・それを隠蔽するための公文書改竄、厚生労働省の毎月勤労統計不正、生活保護引下げを正当化するための同省の物価偽装<「160名以上の研究者が『物価偽装』で共同声明」>、最近では上野厚生労働政務官が外国人労働者の在留資格をめぐり法務省に口利きする見返りに金銭を要求していた件<「上野宏史厚労政務官の『口利き&金銭要求』音声」>等々)よりも、韓国の政治スキャンダルをトップの扱いで取り上げ続けている。ここは一体どこの国か、と不思議になるような有様だ。

非人道的行為の被害者への賠償も「解決済み」と言えるのか

1965年の日韓請求権協定については法律時報の特集「過去の不正義と国際法―日韓請求権協定の現在」に寄稿したことがあるが(申「日韓請求権協定の射程―何が『解決』されたのか」法律時報87巻10号、2017年)、要点を述べれば、同協定は、日本が韓国と国交を樹立するにあたり、財政的・民事的な債権債務関係(韓国民が日本又は日本国民に対してもつ国債や有価証券、日本銀行券の清算など)の解決とともに、経済協力を目的としたものだった。

協定は、財産と請求権の問題の解決と経済協力のため(前文)、日本が韓国に3億ドル分の日本人の役務と日本の生産物の無償供与、及び2億ドル分の長期低利貸付を行うとし(1条)、本協定により、両国とその国民の財産、権利及び利益並びに請求権に関する問題は完全かつ最終的に解決されることを確認する(2条)とする。他方で、1条と2条の間には何ら法的な関係はない(つまり、5億ドルは違法行為に対する賠償金ではない)というのが、当時から日本政府が取ってきた立場だ(日本の政治家からは「独立祝い金だ」とも言われた)。1910年から1945年までの日本の植民地支配が国際法上合法なものであったかについては触れられず、1910年以前に結ばれた条約は「もはや無効」とすることで、あえて曖昧な形にされた。

「請求権に関する問題」が何を指すかについて、協定締結の際の合意議事録では、韓国側が交渉の最初の段階で提出していた項目に関するものが含まれる、とされ、その項目の中には「被徴用韓国人未収金及びその他の請求権の弁済」がある。しかし、これは未払い賃金のような請求権の弁済を含むことは明らかとしても、協定が植民地下で日本政府や企業によって行われた非人道的行為の違法性をふまえそれを賠償するものとして結ばれたものではない以上、解釈の余地が出てくるのはむしろ自然なことだ。

まして、このような協定によって国が取り決めるのは、国家の「外交保護権」(国民の被害について、国として請求する権利)であり、被害者個人の権利は別途に存在するというのは、日本政府自身がずっと取ってきた立場だ(原爆訴訟では、日本と連合国のサンフランシスコ平和条約について、シベリア抑留訴訟では日ソ共同宣言について主張。つまり、被害者はそれらの国に賠償請求せよという趣旨)。

韓国大法院判決は、不法な植民地支配と直結した日本企業の反人道的不法行為による強制動員被害者がもつ慰謝料請求権は、日韓請求権協定によっては消滅していないと判断した。日本の最高裁も中国人強制連行被害者に関する2007年の西松建設事件判決で、個人の損害賠償請求権は日中共同声明で消滅していないとし、その後被害者は西松建設や三菱マテリアルとの間で、解決金支払いや記念碑の建立などで和解している。「国際法に照らしてあり得ない判断」(安倍首相)というのは、あまりにもご都合主義的な言い分だ(筆者も賛同した「元徴用工の韓国大法院判決に対する弁護士有志声明」も参照)。

言うまでもなく、韓国(というより朝鮮半島全体)を植民地支配して苛酷な統治を行い、独立運動家の投獄・拷問、日本語や日本名の強制、炭坑やトンネル工事などでの重労働への動員・徴用(その国策の下で日本企業による強制労働が行われた)、日本兵や軍属としての動員・徴用など筆舌に尽くし難い辛苦を与えたのは日本だが、日韓請求権協定は、そうした行為について違法行為の責任を認めて損害賠償を定めた協定ではなく、多くの事柄を不問に付したまま結ばれた、解釈の余地のある条約なのだ。にもかかわらず、韓国が「国際法に違反した」として経済制裁まで課す政府の措置は、ナショナリズムを煽って政権支持率を上げようとする安易な方策と言わざるを得ない。

慰安婦問題に至っては、解決済みというにはなおさら疑義がある。慰安婦問題は協定締結当時話し合われてもおらず、被害者が名乗り出て日本政府を提訴したのは韓国の民主化後の1991年、日本政府が初めて調査を行った後、河野談話を出したのは1993年だ。日本政府は、請求権の問題は解決済みという公式見解を取りつつも、アジア女性基金を設立して償い事業を展開したり、その内容に納得しない被害者がいたことからその後もさらに2015年に日韓合意を結んだりしてきたが、そのような取組み自体、「請求権協定で解決済み」とは言えないことを日本政府も実質的に認めている証左だろう。

問われている事柄の本質を認識しようとせず、相手方を非として対立を利用する政治

少女像をめぐる名古屋市長らの態度は、慰安婦問題を想起させる物を展示することすら認めないという驚愕すべき不寛容さを公人が示したことで議論になったが、この問題は、すでに多く論じられている「表現の自由」の制限の観点に加え、歴史修正主義の観点なくしては理解できない。彼のように公的立場にある者の見解に沿わない表現物を撤去するよう求めることが、表現の自由からして問題があることは当然だが、彼らが少女像の撤去を求めるのは、日本が慰安婦問題を起こしたこと、あるいはそれによって何らかの責任を負うことを認めたくないからだ。

しかし、そのような立場は、日本政府がこれまで示してきた見解にも反している。河野談話は、「慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した」と認めた。その上で、「われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する」とも述べているのである。

2014年には朝日新聞が、済州島で慰安婦を強制連行したという吉田清治氏の証言を虚偽と認めて過去の記事を一部取り消したことから、「慰安婦問題は朝日新聞の捏造だった」とする主張が跋扈するようになったが、戦時中日本軍が侵攻したアジア全域で作られた慰安所(日本軍慰安婦―忘却への抵抗・未来の責任の慰安所マップを参照)とそこで行われた性暴力が、吉田証言の取り消し一つで帳消しになる、という主張の荒唐無稽さは言うまでもなかろう。

2015年には現・安倍内閣が慰安婦問題に関する日韓合意を結び、「慰安婦問題は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり、かかる観点から、日本政府は責任を痛感している」、「日韓両政府が協力し、全ての元慰安婦の方々の名誉と尊厳の回復、心の傷の癒やしのための事業を行う」と表明した。合意では在韓日本大使館前の少女像につき日本政府がもっている懸念に対して韓国政府が解決の努力をすることも述べられているが、芸術家が「平和の少女像」を芸術祭に展示することがこれによって妨げられるはずもない。

むしろ、河野談話の趣旨からすれば、慰安婦制度によって女性たちが被害を受けたことを記憶し、繰り返さないための教育的・芸術的活動を、国は積極的に認め後押しすることがその立場に沿うし、さらに言えば、日本政府が自ら、慰安婦問題(あるいは、それを含めた植民時時代の人権侵害)を記憶し後世に語り継ぐための教育的施設を作るのが望ましい(前述したアジア女性基金の「デジタル記念館 慰安婦問題とアジア女性基金」は、そうした取組みの一つだろう)。テロ予告や脅迫に対しては警察が適切に対処するのが当然だが、市長や国会議員の圧力行使に対して、政府は「そのような行為は許されない」と表明するくらいの措置を取ってほしかった。

しかし、現政権下ではそれも難しいのだろう。なぜなら、安倍首相は、日本は慰安所は作ったが、(力づくで拉致する意味での)強制連行はしていないということを持論とし、第一次安倍内閣の2007年には、「軍や官憲によるいわゆる強制連行を直接示すような記述は見当たらなかった」と閣議決定までしているからだ。この立場は、当時の朝鮮半島は日本の統治下にあり、募集、移送、管理なども「甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた」と認めた河野談話から明らかに後退している

このような立場に対しては、日本の16の歴史学関連団体が、強引に連れ去る事例だけではなく、本人の意思に反した連行の事例をも含めて強制連行と考えるべきであるという声明を発表するなど、深刻な疑義が呈されている。政府は、北朝鮮による日本人拉致被害者については、暴力的に連行されたか甘言によって連行されたかの区別なく拉致と認定し、かつ、公文書がなくとも証言などによって被害を認定していることも想起すべきだ(日本の戦争責任資料センター「日本軍『慰安婦』問題に関する声明」2013年6月9日)。

日本政府は今なお、国際人権規約、拷問等禁止条約など国連の人権条約の委員会における政府報告書審査の場でも、強制連行はしていないという立場を繰り返し答弁している。そのような姿勢でいる限り、連行の形態がどうあれ慰安所に拘束して性暴力を加えた人権侵害そのものが問題なのだという、国際社会で広く共有されている認識を共有することはできないだろう(なお、これらの人権条約は戦後できたものだが、委員会は、虐待の被害者が救済を受ける権利の保障や、再発防止を図る義務という観点から、慰安婦問題に対する日本政府の取組みについても質疑を行い勧告を出している)。

「『慰安婦』は...今や国境を超えて過去における戦争の記憶の一部となり、将来に向けては人権や女性の権利擁護という視点からも語られるようになった。もはや慰安婦像があろうがなかろうが、グローバルな戦争の記憶から消えることはないだろう」(キャロル・グラック『戦争の記憶―コロンビア大学特別講義』講談社現代新書、2019年)。

日本政府が慰安婦像に抗議すればするほど、慰安婦像は逆にアメリカはじめ世界各地で次々と建ち続けている。グラックが言うように、2015年の日韓合意が「最終的かつ不可逆的な」解決になるという考えも「最初から成功の見込みがなかった」。事実を語るな、被害を語るなということは歴史の否定に等しく、責任を認め謝罪したことと合致しないし、同じような人権侵害を今後繰り返さないための取組みとも矛盾するのだ。

外国叩きを失政隠しに使う政治と加担するメディアの危うさ―市民社会の理性が必要だ

こうして政治が「外」に叩く相手を作り世論を誘導しようとするとき、そこで行われているのは常に、国「内」の失政や国が抱える様々な問題から人々の目を逸らそうとする目眩ましだ。第一次・第二次大戦の例を挙げるまでもなく、昔から古今東西、政治家の常套手段と言っていい。

メディアは本来、政府に対する監視機能を果たすべきだが、現在の日本ではその機能が非常に弱い上に、視聴率や部数欲しさに、先頭に立って過激な「嫌韓」を煽ってさえいる。CBC(TBS系)テレビ「ゴゴスマ」での武田邦彦氏発言(「路上で女性観光客を訪れた国の男が襲うなんて世界で韓国しかありませんよ」「日本男子も韓国女性が入ってきたら暴行しなきゃいけない」)や週刊ポストの「韓国なんて要らない」特集には批判が殺到した。

雑誌では、韓国と韓国人、「反日日本人」に対する憎悪唱道を毎号繰り広げている『月刊HANADA』が最たるものだろう(なお、同誌10月号は「表現の不自由展はヘイトだ」という門田隆将氏の文章を載せているが、戦時中の人権侵害を想起することがなぜヘイトになるのだろう。そのような主張をする人は、大日本帝国時代の日本を自己のアイデンティティと同一化しており、自分が批判されたような気持ちになるということか)。

日本が批准する自由権規約(市民的及び政治的権利に関する国際規約)は「差別、敵意又は暴力の扇動となる国民的、人種的又は宗教的憎悪の唱道は、法律で禁止する」ことを国に義務づけており、差別や暴力を公的に扇動するこうしたヘイト唱道は本来、法律で禁止されなければならない。国や地方の公の当局・機関が人種差別を助長・扇動することも認めてはならない(人種差別撤廃条約)。しかし日本では、『月刊HANADA』の10月号特集「韓国という病」に、現役の大臣(世耕弘成氏)が寄稿しているくらいなのだ。日本がどれほど異常な状態か分かるだろうか

ストレスの多い毎日、そのような番組や雑誌を見て、いっとき溜飲を下げる人もいることだろう。しかし、そうしている間に私たちは、何に慣らされ、何を失っているのか、よく考えるべきだ。他国や他国民を罵倒することに慣らされ、差別的言辞に慣らされ、また、そのような風潮の中で、日本をマイノリティにとってますます住みにくい不寛容な社会にしているのだと。そして、政権に批判的な意見をもつ者を「非国民」と呼んでいたかつての日本に逆戻りし、主権者として、自国の政治や社会の問題に目を向けものを言う機会を、まんまと失わされているのだと

筆者は昨年、安倍政権下でアメリカからの高額兵器の大量購入などにより防衛費ばかりが青天井に増額される一方、教育に対する公的支出がOECD諸国の中でも最低レベルであること、生活保護や年金など社会保障給付が削減されていることに対して、法学や経済学などの研究者や実務家234名を集め抗議声明を発表した(「防衛費の膨大な増加に抗議し、教育と社会保障への優先的な公的支出を求める声明」)。

貧困が広がり「子ども食堂」が全国に作られるようになったり、「奨学金」ローンで自己破産する人が増えたり、年金不安が表面化したりしている中で、私たちが目を向けるべきなのはそのような問題ではないのか。台風や地震など頻繁に災害に襲われる中で、軍事よりも防災に財源を振り向けるべきではないのか。

国内の問題だけではない。温暖化や海洋プラスチック汚染など地球環境が危機的状況に直面する中、先頃はアマゾンで大規模火災が発生したが、日本政府からこうした地球環境問題に対する積極的な発言を聞くことはほとんどない。それよりも、自分たちの権力を強化するための憲法「改正」の企てに汲々としているというのが実態だ。

環境といえば、沖縄の辺野古では米軍新基地のために政府は莫大な費用を投じて美しい海を埋め立てているが、その工事に関係する業者は防衛省の天下り先が多数を占め(「辺野古事業、防衛省の天下り先が8割受注 730億円分」「辺野古受注3社へ天下り 防衛省OB、10年で7人」)、一部の関係者に巨額の税金が横流しされているに等しいことなどは、多くの有権者/納税者にどれだけ知られているだろうか。

このような状況にあって、メディアには特に自制を求めたいが、一人一人の市民からなる市民社会が理性を保ち、責任ある行動を取っていくことは何より重要だ。実際に、市民団体「日韓市民交流を進める希望連帯」が8月27日に衆議院議員会館で集会を開き、政権に忖度する報道のファクトチェックを通じた事実の発信を呼びかけたように、良識ある人々は行動を取り始めている。徴用工も慰安婦も、その本質は人権問題であり、そのことと、そのような問題を生んだ過去の歴史的背景を知ることが大切なのであって、一般市民は、ナショナリズムを超えて理解し合えるはずなのだ。

国内外の書に親しんだり(翻訳本でもちろん構わない)、国境を問わず友人を作ったりして、思い込みや偏狭さを捨て自由な精神をもつことも欠かせない。作家の中村文則さんの言葉をここで引用しておきたい。「差別とは人を個人として見ず外側から一括りにすること。だから小説を読み、人を内面から見る習慣がある人は本来、差別主義者にはなり得ないんです」(中日新聞2019年8月11日)。煽る政治やメディアに対しては、個々人の思想や良心が最終的には防波堤になる。私たちは、ものを読み、他者の言葉を聞き、歴史を学び、自省し、自分の頭で考えて行動することを忘れずにいよう。

(9月20日記)

しん・へぼん

1966年東京生まれ。青山学院大学法学部教授。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程修了。国際人権法専攻。国際人権法学会前理事長、認定NPO法人ヒューマンライツ・ナウ理事長。著書に『人権条約上の国家の義務』(1999年、日本評論社。安達峰一郎記念賞受賞)、『国際人権法―国際基準のダイナミズムと国内法との協調[第2版]』(2016年、信山社)など。

備考ー本稿は、2019年9月21日に20号に追加し発信したものです(最終更新2019年9月21日)

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