特集●米中覇権戦争の行方

混迷を切り開く知性の再建に向けて

民主主義の危機的実相、問題はどこにあるのか

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

論評にも値しない参院選の惨状

7月21日に行われた参議院議員選挙は、投票率が50パーセントを下回る史上2番目の低さで、極めて低調であった。その結果も、ほとんど大勢に変化はなく、わずかに明らかな改憲勢力が改正発議に必要な国会議員の三分の二を割り込んだことが注目されるにすぎない。といっても、今のところ護憲を言っている野党の中にも潜在的な改憲派がいるので、その効果に過大な期待をかけるわけにはいかないというのが実状であろう。

そういう中で、マスコミが大きく報じたのは、「れいわ新選組」と「NHKから国民を守る党」の「躍進」であった。両党は、それぞれ2議席と1議席を獲得し、得票率が2パーセントを越えたことから、公職選挙法および政党助成法上の政党要件を満たし、政党交付金を受け取ることができるようになった。まだ海のものとも山のものとも分からない小政党やただただ目立てばいいとしか思われない無内容な政治集団を、あたかも新しい政治勢力の登場と持ち上げるところに、マスコミの無能ぶりが表れているといっても過言ではない。

たしかに、かつてなら泡沫扱いで「諸派」と一括されていたような政治党派が、議席を確保し、政党要件を満たしたという事態は、既存の政党への信頼が崩壊していることの表れといえなくもない。しかし、それが既存政党にとって代わる可能性は極めて小さい。ヒットラーのナチ党の例もあるが、その二番煎じは喜劇に終わる可能性の方がはるかに高いであろう。マスコミなど言論機関は、そんな小政党の動向に目を向けるのではなく、政治が解決しなければならない問題について明確な分析を示すことに全力をあげるべきであろう。

選挙が低調に終わったのは、何が政治の問題なのかを明確に示す努力が、既存の政党にも、マスコミにも決定的に不足していたことに原因がある。政府与党は、景気回復の実績の誇張と対外的関係の危険性の強調、憲法改正のお題目に終始し、野党諸派は政権側の失敗の追及にのみ力を注ぎ、制度や政策の根本問題に肉薄する迫力を欠いた。度重なる選挙法の改正によって、選挙制度自体が大政党に有利にできあがっているし、また選挙期間中にも選挙運動そのものが目に触れ、耳に聞こえる機会が少なくなってきていることも盛り上がりに欠ける要因になっているといってよいであろう。かくして40パーセントにも満たない政党が多数の議席を獲得してしまっているのである。

論評にも値しないといいながら選挙の結果について述べてきたが、それは、社会的・経済的格差の拡大、貧困層の増大、少子高齢化の深刻化、地方の疲弊、環境問題の深刻化、災害対策の遅れ、教育現場の荒廃、先の見えない原発事故の処理、辺野古への米軍基地移転の強行、対米従属の現状、政治家の質の低下、官僚倫理の崩壊などなど、ランダムに挙げても重大な問題が山積しているにもかかわらず、政治勢力にはほとんど変化が見られないことのギャップに唖然としてしまわざるをえなかったからである。民主主義の根幹をなす選挙が機能不全に陥っているのではないか、その危険を増大させているのは社会全体が思考停止状態にあるのではないかという疑念すら湧いてくる。

曖昧化する民主主義の行方

この選挙で感じられた疑念は、日本に限ったものではない。政治学者ヤン=ヴェルナー・ミュラーは、『試される民主主義』(岩波書店)の「日本語版に寄せて」の中で次のように書いている。「『民主主義』は、少なくとも言葉の上では、いまでもほとんど全人類的な支持を得ている。地球全体を見ても、民主主義を否定する指導者はまず、いない。中国の指導者ですら、実は自分たちこそ、もっと優れた民主主義の形態を実現しているのだと時には主張しているのである。とはいえ、民主主義は、ここ半世紀経験したことのないような仕方で疑惑の対象にされてもいる」とし、その現象は「新しい不確実感が二つの特有の形をとって現れている」ものだという。

そしてその「ひとつは、自ら民主主義者だと公言し、しかし、やることを見ればとてもそうとは思われない政治家たちに対して、口もきけないという状況である」こと、二つ目は「『西側』と呼ばれている地域全域で見られる、何か本質的に民主主義がうまくいっていないという印象に関連している」とし、その兆候として「社会・経済的格差の増大、いわゆるポピュリズム的な政党や運動の興隆、高まる棄権率と政治的疎外感のあからさまな表明など」を挙げている。

ミュラーが指摘していることは、いいかえれば、ひとつは、第二次世界大戦後、民主主義は世界的に政治上の「公理」となったが、その具体的内容は多様化し、「公理」として普遍化すればするほどその意味が曖昧化していったということであろう。二つ目は、彼が兆候としてあげている事態が「本質的に民主主義がうまくいっていない」という印象を強め、制度としての民主主義への信頼を失わせる方向に作用するということである。実際、国民生活の安全と安定を保障するためという名目で、とんでもない管理社会・管理国家を「民主主義」と称するまでもなく出現させてしまう危険性が現実のものになりつつあるのである。

だとすれば、簡単に答えの出せる問題ではないが、民主主義に関わる論争を整理・熟考し、民主主義の再定義あるいは新しい次元での民主主義概念の提起が求められているといってよいであろう。ミュラーは、それを20世紀の民主主義をめぐる論争を検討することでやろうとしている。その議論の詳細は、前掲の彼の著書を読んでもらうしかないが、いまや「西側」の一員となった日本においても日本の思想史的文脈の中で独自に検討する必要があるであろう。明確な定義を避け、過去を水に流し、忘却する文化が優勢な日本では、このことは特に強調しなければならない。

市場の法則と格差拡大の深刻な意味

ところで、「民主主義がうまくいっていない」という印象を強める兆候としてミュラーが挙げている問題の中で、特に注目したいのが「社会・経済的格差の増大」の問題である。というのは、この問題こそ、もっとも深く人間の意識と行動に影響を及ぼし、そこからの脱却が困難な問題だと考えるからである。

この問題は単に経済統計に表れる富の配分に関わるだけではない。もっと人間存在の根幹にも関わる問題につながっている。たとえば、フランスの作家ミシェル・ウェルベックは『闘争領域の拡大』(河出文庫)という小説の中でこんなことを書いている。ちょっと長いが引用してみよう。

「解雇が禁止された経済システムにおいてなら、みんながまあまあなんとか自分の居場所を見つけられる。不貞が禁止されたセックスシステムにおいてなら、みんながまあなんとかベッドでのパートナーを見つけられる。完全に自由な経済システムになると、何割かの人間は大きな富を蓄積し、何割かの人間は失業と貧困から抜け出せない。完全に自由なセックスシステムになると、何割かの人間は変化に富んだ刺激的な性生活を送り、何割かの人間はマスターベーションと孤独だけの毎日を送る。経済の自由化とは、すなわち闘争領域が拡大することである。それはあらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。同様に、セックスの自由化とは、すなわちその闘争領域が拡大することである。それは、あらゆる世代、あらゆる社会階層へと拡大していく。」

ウェルベックは、格差が拡大するメカニズムを分析しているわけではないし、経済とセックスの領域の格差が相互に因果関係で結ばれていると言っているわけでもない。経済とセックスという二つの領域におなじ「市場の法則」という原理が作用しているということを言っているだけである。しかし、この二つの領域は、人間という存在にとって根幹にかかわる領域であるから、この二つの領域について語ることは、いわば象徴的意味を持つ。

格差は、人間の活動のあらゆる領域に存在する。そのあらゆる領域に格差を拡大する原理が浸透しているとすれば、格差の問題は、「自由な人間」にとって死活に関わる重大な問題になる。小説の中では、「経済面においては勝者の側に、セックスの面においては敗者の側に属している」主人公の友人は、酔っ払い運転のあげく自殺にも等しい事故死を遂げる。

それはともかく、この小説を現代社会の寓話として読んでみると色々なことが考えさせられる。解雇や不貞が禁止された社会は、言うまでもなく封建社会であろう。それが崩壊して近代に入り自由の領域が拡大すると、「分に安んずる」という安定性は失われ、人間は競争という闘争場裡に放り込まれる。その場合、自由は全領域で一挙に実現されるわけではない。前述の二つの領域でいえば、経済が先行し、セックスの領域はずっと遅れる。それが現代では、完全に同時進行で自由化が進行することになった。

格差の意味は二重に加算されることになったと言ってもよい。それが、人間活動の全領域に及ぶことになれば(現に及んでいると思われるが)、人間にかかる問題の重みは格段におおきくなる。まして、人間は自由で個性的で、自分の努力次第で目標は達成できるというような幻想をふりまかれ、その幻想にとらわれてしまえば、生きていることすら苦しくなるような精神的圧力にさらされ続けることになる。

そういう圧力・ストレスにさらされた時、勝者の側に入れなかった人間の取りうる行動はそれほど多くはない。外面はともかく内面的には自己に閉じこもるか、権威をもちそれなりに承認されている感覚を与えてくれる集団や個人に心理的に同一化するか、突発的に不定形な感情を爆発させる行為に走るかしかない(政治行動で言えば、無関心・棄権、自国第一主義的デマゴーグへの信従、テロあるいはテロ的攻撃行動に対応するかもしれない)。

現代において、政治家や一部の知識人が自由化・規制緩和、競争原理の導入を主張する場合、こうした格差の拡大が内包する深刻な問題に考え及ぼしている形跡を見出すことはほとんど不可能である。政治をショー化し、議席の多さとポストの確保のゲームにしてしまっている現象、そういう政治への信頼を自ら破壊する行為の蔓延が、論評にも値しない選挙を現出した元凶かもしれないのである。

ゴルディアスの結び目を断つ剣はない

格差の拡大という問題の深刻さについて、いささか文学的な論評をしてきたが、現代はあらゆる人間活動の領域が相互に関連し、複雑に絡み合っている状況によって特色づけられることの一端を示したつもりである。さらに格差の問題についていえば、グローバル化が濃い影を落としていることも指摘しておかなければならないだろう。植民地から独立した諸国民は、直接にグローバル化の波にさらされ、さらに底辺に落とされるか、国内的格差の拡大によって政治的・社会的不安定に悩まされるかという状態にある。

また、グローバル化した市場の膨張は、かつてない富の偏在をもたらし、個人的富の格差はまさに天地ほどの相違にまで拡大した。自然環境を破壊し、人々の社会的関係をずたずたに切り裂き、世界各地で対立と紛争の種をまき散らしている原因は何か。グローバル化という現代世界の動きが深くかかわっていることは間違いないが、その具体的様相は必ずしも明確ではないし、解決策も簡単には見つからない。宗教・文化・政治・経済・社会などあまりにも複雑かつ多様な要因が絡まりあっているからである。

昔、若かりしアレキサンダーは、何人が挑戦しても解くことができなかったゴルディアスの複雑な結び目を佩剣一閃、両断してアジアの覇者になったというが、現代世界の複雑かつ多様な要因の絡まりあった状態を一挙に解きほどく、アレキサンダーの剣のような原理や論理はおそらくないであろう。丹念に一つ一つ結び目を解く努力を続ける覚悟を決めるしかない。まして、剣が軍事力の象徴であると言われるが、それを使うことは地球と人類の破滅につながるだけだということを肝に銘じておこう。

選挙の惨状に思わずとった筆では「不尽」と記すしかない。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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