特集●米中覇権戦争の行方

『国体の本義』を読みなおす

明治維新と天皇制の150年 ―4―

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

本稿と次回連載の目的は、戦後日本の歴史教育が、皇国史観に貫かれていることを明らかにすることである。こう書くと、「また千本の強引な論法が始まった」と苦笑されるにちがいない。一般的には、戦後の歴史教育は、皇国史観を克服したと思われている。はたしてそうだろうか。わたしにこの示唆を与えてくれたのは、長谷川亮一『「皇国史観」という問題』(白澤社発行、現代書館発売、2008年)である。若手研究者の学位論文で、文字通りの労作であって、わたしがいうような大それたことは言及していない。しかしわたしは、この著作から、多岐に渉る飛躍的な着想を得た。

1.戦後の歴史教育は皇国史観に貫かれている

同書の最大の功績は、皇国史観を天皇中心史観から区別したことである。これまでは、皇国史観と天皇中心史観は区別されてこなかった。皇国史観についての最もスタンダードな概説書といえる永原慶二『皇国史観』(岩波ブックレット20、1983年)でも、「(皇国史観が)もっとも徹底した形で強力におしだされてくるのは昭和に入ってからであり……1935年、『国体概念、日本精神ヲ根本トシテ学問、教育刷新ノ方途ヲ議』するため『教学刷新評議会』が設置され、ここに『日本精神主義者』の代表が総登場したといえそうである。……平泉氏をその代表的歴史家とすることは不当でないだろう」としている。

戦後の歴史教育と皇国史観の関係についても、「文部省の教科書検定の歴史観を見ると、その根底には、今なお皇国史観以来の考え方が根強く生きつづけているように思われる。……(平泉澄の弟子である村尾次郎が)1956年、教育の右旋回にともなって教科書調査官制度が発足したとき、社会科の最初の主任調査官となって今日の検定路線を打ちだした人物である……」としており、このこと自身、わたしに異議はないが、戦後の皇国史観の表出を、政権の外交姿勢や愛国心の強調に限定しており、歴史の捉え方そのものに踏み込んではいない。

永原慶二は本書で、『国体の本義』(文部省、1937年)と『国史概説』(文部省、1943年)を主要に取りあげているのだが、この2書、及び戦後歴史教育(特にその根幹をなす幕朝関係論、すなわち幕府と朝廷との関係)の3者の差異と連関についてはまったく言及していない。また平泉澄は、天皇中心史観のチャンピオンではあったが、長谷川亮一によれば、次回で後述するように、『国史概説』の編纂方針、歴史観に反対して抗議し、この事業から離脱しているのである。

長谷川亮一は皇国史観を、『国史概説』によって確立したとして、他の天皇中心史観との違いを明らかにした。『国史概説』は、社会経済史や文化史にも紙幅を割き、戦後歴史学を担った中堅・若手研究者を執筆者として総動員した、概説書としては当時の最高水準を示す成果だったのである。永原慶二は皇国史観を「非科学」と切って捨てているが、『国体の本義』はそうであるとしても、『国史概説』は政府からの制約のもとで、精一杯、科学性を確保しようとした。だからこそ、皇国史観は戦後も生き延びたのである。

長谷川のいう皇国史観の核心は、武家政治について、天皇が将軍に政治を委託したという歴史観にあるということなのだが、『国史概説』の成り立ちと、その内容の戦後歴史教育との異同については次回に取り置くとして、今回は『国史概説』に先行した『国体の本義』の内容を検討する。

1937年に文部省が刊行した『国体の本義』、1943年の『国史概説』、戦後の歴史教育は、共通する部分と、当然ながら修正された部分が存在する。『国史概説』の執筆に全力を注いだ当時の中堅・若手研究者が、戦後歴史学の中心となったとき、その歴史叙述の骨格を変えられない立場は理解できる。そこへの批判は次回に譲って、本稿では、『国体の本義』について再検討しよう。

2.ファシズムと闘う『国体の本義』?

1935年、貴族院において、東京帝大教授(憲法学)、貴族院議員の美濃部達吉の天皇機関説が問題視された。当時民政党を与党的に待遇していた岡田啓介内閣は、当初「学問の自由」を主張していたが、政権にありつきたい政友会などからの執拗な攻撃に屈し、「国体明徴」を宣言した。わたしはこの事件を明治維新後の大転換期を画する出来事だと考えているのだが、この後噴出した国体明徴運動、すなわち、日本を「神の国」だとする歴史観、国体観を理論的に裏づけるために文部省が刊行して、学校をふくむ全国各機関に配布したのが『国体の本義』である。

「国体」とは、わかりにくいことばである。大統領制や議院内閣制は「政体」であって、どの国でも歴史的に変遷する。国体とは、日本にしか存在しない概念であり、外国人には理解しにくいものである。日本にしか存在しないからこそ、日本は素晴らしい国家だということになる。『国体の本義』本文冒頭に、「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が萬古不易の国体である」とある。国体とは何かを知ろうとしてきたわたしにとっても、この規定は一言一句、過不足のない、絶妙な表現であると思う。

「万世一系」とは、天照大神以来、現代風にいえばY遺伝子で皇統をつないできたこと、「神勅」とは、『国体の本義』によれば、「我が肇国は、皇祖天照大神が神勅を皇孫ニ二ギノミコト(原文漢字)に授け給うて、豊葦原の瑞穂の国に降臨せしめ給うたときに存する」とある。「肇国(ちょうこく)」とは、「国をはじめる」という意味である。また、天皇を男系でつないできたことに意味があり、女系を認めれば、皇室が英国王室なみに格が下がるということになる。皇室が英国王室より優れているのは、女性差別をしているからである。「万古不易」とは、これまでも、これからも変わることはないということである。

『国体の本義』は、戦後GHQによって禁書とされ、歴史学界でも「天皇讃美の神がかり的な書物」としてかたづけられてきた。今ではインターネットで復刻版を手に入れられるが、書店では購入できない。『国体の本義』についての研究もほとんどなく、「新しい歴史教科書をつくる会」の杉原誠四郎元会長と保阪正康が言及した程度だった。

そこへ2009年、元外務官僚の佐藤優が『日本国家の神髄―禁書「国体の本義」を読み解く』(産経新聞出版発行、扶桑社発売)を刊行した。『国体の本義』の全文について、佐藤優の解釈を施したもので、雑誌『正論』に連載したものをまとめたものである。佐藤優によれば、『国体の本義』の目的のひとつは、日本がファシズム化することを防ぐことであり、現代に復権することの意義は、新自由主義と闘うことにあるという。佐藤優の問題意識からすれば、それは間違っていない。

もちろんわたしはファシズムとも、新自由主義とも、別の根拠と方法で闘うのではあるが。わたしの問題意識は、『国体の本義』と、『国史概説』に基く考え方が、現代の歴史教育にも生きているからこそ、佐藤優がそのように考えるということである。ここから、『国体の本義』を読み解いていくのだが、本稿の目的は本書全体を再評価することではなく、現在につながる部分を抜き出す方法で行なう。

『国体の本義』の構成は、緒言、第一大日本国体(一肇国、二聖徳、三臣節、四和と「まこと」)、第二国史に於ける国体の顕現(一国史を一貫する精神、二国土と国民生活、三国民性、四祭祀と道徳、五国民文化、六政治・経済・軍事)、結語となっている。

本書の主旨は、大日本帝国が神の国であってすばらしいということだが、本文156ページのなかに、他国を蔑視する、見下す表現が一か所もない。逆に、外来文化のおかげで日本は発展してきたという趣旨で一貫している。

緒言の冒頭は「我が国は、今や国運頗る盛んに、海外発展のいきほひ著しく、前途彌々(いよいよ)多望な時に際会してゐる。産業は隆盛に、国防は威力を加へ、生活は豊富となり、文化の発展は諸方面に著しいものがある。夙に支那・印度に由来する東洋文化は、我が国に輸入せられて、惟神(かむながら)の国体に醇化せられ、更に明治・大正以来、欧米近代文化の輸入によって諸種の文物は顕著な発達を遂げた」から始まる。

「醇化(じゅんか)」とは、国語辞典的にいえば、「まじりけのない、純粋なものにすること」ということだが、わたしの勝手な語感からいうと、「消化して血肉化すること」、さらに「手なづけること」というニュアンスがある。東洋文化を日本の国体にあわせてつくりなおしたということである。そこには、アジア諸国への敬意はあっても、蔑視はない。

一方、欧米の思想についてはどうか。「我が国に輸入せられた西洋思想は、主として18世紀以降の啓蒙思想であり、或はその延長としての思想である。これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は歴史的考察を欠いた合理主義であり、実証主義であり、一面に於て個人に至高の価値を認め、個人の自由と平等を主張すると共に、他面に於て国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである」、「西洋個人本位の思想は、更に新しい旗幟の下に実証主義及び自然主義として入り来り、それと前後して理想主義的思想・学説も迎へられ、また続いて民主主義・社会主義・無政府主義・共産主義等の侵入となり、最近に至つてはファッシズム等の輸入を見、遂に今日我等の当面する如き思想上・社会上の混乱を惹起し、国体に関する根本的自覚を喚起するに至つた」、「個人主義を本とする欧米に於ても共産主義に対しては、さすがにこれを容れ得ずして、今やその本来の個人主義を棄てんとして、全体主義・国民主義の勃興を見、ファッショ・ナチスの台頭ともなつた。即ち個人主義の行詰りは、欧米に於ても我が国に於ても、等しく思想上・社会上の混乱と転換との時期を将来してゐるといふことが出来る」と緒言では述べられている。

欧米がファシズムに至る行き詰まりをどうするかは別にして、日本にファシズムを輸入しようとする者がいるのは、我が国体の立場から欧米文化をきちんと醇化できなかったからであるというわけだ。佐藤優が本書の目的を「ファシズムからの防衛」と書いている理由はここにある。

『国体の本義』は、「和」を重視する。「我が肇国の事実及び歴史の発展の後を辿る時、常にそこに見出されるものは和の精神である。和は、我が肇国の鴻業より出で、歴史生成の力であると共に、日常離るべからざる人倫の道である。……個人主義に於ては、この矛盾対立を調整緩和するための協同・妥協・犠牲等はあり得ても、結局真の和は存しない。即ち個人主義の社会は万人の万人に対する闘争であり、歴史はすべて階級闘争の歴史ともならう。……我が国の和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和(たいわ)である」。

佐藤優は、西洋では個人主義によって個人がアトム的存在に分断されているからファシズムが必要になるが、日本では和があるから、ファシズムは適合しないというのである。わたしは「日本の和は、異端分子を排除することによって、同質の者が形成する和である」と書いた(『「伝統・文化」のタネあかし』)。「日本には和が存在する」というのは、願望にすぎない。現代日本の若者のあいだでは同調圧力が強く、一人ひとりが自分の意見を言わないことによって和が維持されている。文字通り、「全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一帯を保」っている。これが「国体」のもとでの「和」である。

日本の現状をファシズムであると主張しはじめたのは1935年の野坂参三であるが、その無理論さと杜撰さについては、神山茂夫の反論と比較して、旧稿で書いたことがある。また当時よりも、21世紀の現代の方が、ファシズムと呼ぶにふさわしいことも、本誌に執筆した。強権的な政治手法や政治体制を、なんでもファシズムと呼ぶのは科学的な態度ではない。佐藤優は、イタリアファシズムとドイツナチズムは異なっているというが、本稿では、1940年前後の日本とイタリア、ドイツとは政治・社会構造が本質的に異なっていたということだけを指摘しておく。日本は共産主義革命の前夜でもなかったし、下からのファシズム大衆運動もなかった。

『国体の本義』の姿勢は、東洋文化を蔑視するのではなく、また西洋文化を罵倒するのでもなく、それらをそれとして認めた上で、日本の国体に醇化することが必要だというものである。日本の国体はすばらしい、しかしそれは、西洋と比較してというわけではなく、本書では、日本と西洋は異なっているというところまでしかいわない。醇化が不充分だから混乱し、失敗すればファシズムに陥ると警告する。国体論を別にすれば、他文化に対する姿勢は、現代教育と共通するものがある。

3.新自由主義と闘う『国体の本義』?

『国体の本義』のほとんどの紙幅は、日本国体の解説にあてられているのだが、本稿の目的は国体論の検討でもないので、わたしが興味深く読んだ所を数点、記しておく。

「国土と国民生活」の冒頭である。日本の国土はイザナギノミコトとイザナミノミコトが「生み給うたものであつて、我等と同胞の関係にある。我等が国土・草木を愛するのは、かかる同胞的親和の念からである。即ち我が国民の国土愛は、神代よりの一体の関係に基くものであつて、国土は国民と生命を同じうし、我が国の道に育まれて益々豊かに万物を養ひ、共に大君に仕へ奉るのである」。

イザナギとイザナミはまず日本列島を産み、次に人間を産んだ。だから国土と臣民は同胞である。これは、西洋思想が自然を客体と見て、自然を加工して富を得ようとする自然観とは、根本的に異なる。わたしが人間を自然の一部とするアニミズムに関心を持っていることについて、ある仏教関係者から「それでは神道につながってしまう」と「警告」?を受けたことがあった。佐藤優は逆に日本神話とキリスト教神話の親和性を指摘する。キリスト教神話においても大地と人間は神が産み給うたのだから。

次に「政治・経済・軍事」の冒頭である。「我が国は万世一系の天皇御統治の下、祭祀・政治はその根本を一にする。……明治天皇は『神祇を崇め祭祀を重んずるは皇国の大典政教の基本なり』と詔せられてゐる。即ち祭祀の精神は肇国以来政事の本となつたのであつて、宮中に於かせられては、畏くも三殿の御祭祀をいとも厳粛に執り行はせられる。……実に敬神と愛民とは歴代の天皇の有難き大御心である」。戦後日本では、たてまえとして政教分離が導入されたが、明仁天皇も宮中祭祀にことのほか熱心であり、しかもそれを国費で賄っている。

「帝国憲法は、万世一系の天皇が『祖宗ニ承クルノ大権』を以て大御心のままに制定遊ばされた欽定憲法であつて、皇室典範と共に全く『みことのり』に外ならぬ」。憲法の文案は伊藤博文が中心になって作成したにしても、それを手伝っただけと解釈すれば、「大御心のままのみことのり」でもいいのだろう。

「天皇は、外国の所謂元首・君主・主権者・統治権者たるに止まらせられる御方ではなく、現御神として肇国以来の大義に随つて、この国をしろしめし給ふ……」。明治憲法における天皇の地位を説明するときには、用語に気をつけないといけない。

「帝国憲法の他の規定は、すべてかくの如き御本質を有せられる天皇御統治の準則である。就中、その政体法の根本原則は、中世以降の如き御委任の政治ではなく、或は又英国流の『君臨すれども統治せず』でもなく、又は君民共治でもなく、三権分立主義でも法治主義でもなくして、一に天皇の御親政である。……中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかったが、明治維新に於て復古せられ、憲法にこれを明示し給うたのである」。「中世以降の……」が、次回連載の中心になるのだが、最終節で触れる。

「臣民権利義務の規定の如きも、西洋諸国に於ける自由権の制度が、主権者に対して人民の天賦の権利を擁護せんとするのとは異なり、天皇の恵撫慈養の御精神と、国民に隔てなき翼賛の機会を均しうせしめ給はんとの大御心より出づるのである。政府・裁判所・議会の鼎立の如きも、外国に於ける三権分立の如くに、統治者の権力を掣肘せんがために、その統治権者より司法権と立法権とを奪ひ、行政権のみを容認し、これを掣肘せんとするものとは異なつて、我が国に於ては、分立は……親政輔翼機関の分立に過ぎず、これによつて天皇の御親政の翼賛を彌々確実ならしめんとするものである」。

引用が長くなっているのは、西洋の政体や思想を本書が紹介するときに、あまりにも悪意がないことに驚くからである。こういう文書を政府が大々的に配布して、読者が、西洋の政体も捨てたものではないなと魅力を感じる危険性を危惧しなかったのであろうか。1930年代初頭、出版物の7割は左翼本であったと『読売新聞』は報じている。同じころ、ある高校長が、「左翼にかぶれていないのは、ごく一部の勉強しない劣等生だけ」と新聞記者に愚痴っている。それからわずか5年後である。

「経済は、物資に関する国家生活の内容をなすものであつて、……皇国発展の一つの重要なる基礎である。……我が国民経済は、皇国無窮の発展のための大御心に基づく大業であり、……西洋経済学の説くが如き個人の物質的欲望を充足するための活動の連関総和ではない。……我が国の産業に従事する者の多くが……何よりも先ず各々の職分を守り、努めを尽くすといふ精神によつて和合の中にその業務にいそしんで来たことは、見逃し難い事実である。さればこそ、最近に見るが如き我が産業界の世界的躍進を齎し得たのである。……かくて、経済は道徳と一致し、利欲の産業に非ずして、道に基づく産業となり、よく国体の精華を経済に於て発揚し得ることとなるであらう」。

佐藤優が、『国体の本義』が新自由主義克服の武器となると期待するゆえんである。しかし、佐藤優は、資本家たちが物質的欲望の充足のためではなく、天皇制道徳に基づいて国家のために経済活動を行なうようになることに、リアリティを感じているのであろうか。まだしも50年前に、わたしたちの仲間が、労働者による生産管理を実行していたことのほうが、実績はあるといえよう。

4.憲法第9条と自衛隊は両立する?

最後に、軍事である。「我が国体の顕現は、軍事についても全く同様である。古来我が国に於ては、神の御魂を和魂(にぎみたま)・荒魂(あらみたま)に分つている。この両面の働の相協(かな)ふところ、万物は各々そのところに安んずると共に、彌々生成発展する。而して荒魂は、和魂と離れずして一体の働きをなすものである。この働によつて、天皇の御稜威(みいつ、天皇の威光)にまつろはぬ(従わない)ものを『ことむけやはす』ところに皇軍の使命があり、所謂神武とも称すべき尊き武の道がある」。

「和と『まこと』」の項目には、より詳しい叙述がある。「神武天皇の御東征の場合にも武が用ゐられた。併し、この武は決して武そのもののためではなく、和のための武であつて、所謂神武である。我が武の精神は、殺人を目的とせずして活人を眼目としてゐる。その武は、万物を生かさんとする武であつて、破壊の武ではない。……戦争は、この意味に於て、決して他を破壊し、圧倒し、征服するためのものではなく、道に則つて創造の働をなし、大和(たいわ)即ち平和を現ぜんがためのものでなければならぬ」。「平和のための戦争」とは、常に使われる論理である。

「ことむけやはす」について、『国体の本義』は一切語っていないし、国語辞典にもない単語であるが、『古事記』初出のことばであって、日本史上唯一、天理教の出口王仁三郎が重要視した概念であるといわれている。「言向け和す」と書き、「ことばで説いて人の心を和らげて穏やかにする」と解釈される。天皇勢力が対立者や先住民族を支配下におさめるときに使った手法であるとされる。

現実には、3000年前に日本列島へ大陸から到達した、今、弥生人と呼ばれる人々は、出身の中国が春秋戦国時代であったこともあり、日本列島でも戦乱を繰りひろげた。わたしたちは、吉野ヶ里遺跡にその実像を見ることができる。大和勢力と出雲勢力の戦いは、弥生人同士の戦争であったのかもしれないが、迷惑をこうむったのは、戦争という習慣を知らなかった縄文人であった。弥生人が縄文人に「ことむけやはす」を行なったという可能性はありえないように思う。

古墳時代、大和に大王権力が成立すると、蝦夷(政治的に大王に従属しない人々)や縄文系の先住民に対して、徹底的な軍事行動を展開した。さらに、7世紀前半、蘇我氏が厩戸皇子(いわゆる聖徳太子)とともに中国の文物と制度を導入する事業を展開すると、中大兄皇子は中臣鎌足とともに蘇我入鹿親子を暗殺し、権力を手に入れる。乙巳の変、いわゆる大化の改新である。これは、典型的なテロによるクーデターであった。中大兄皇子は天智天皇となったと教科書には書かれているが、当時は天皇とは呼ばれていなかったようである。

やがて、皇子と弟の大海人皇子との間で内戦が勃発した。大海人皇子は姪である妻(後の持統天皇)とともに挙兵したが、最初の手勢はわずか40人。苦戦するうち、伊勢にさしかかったとき、妻の枕頭に天照大神が立った。その後、戦局は好転し、勝利して、天武天皇として、初めて天皇を名のることとなった。それを謝して伊勢神宮を創建したという。ただしこれは、伊勢神宮の公式の歴史とはまったく異なる。天皇家は、「ことむけやはす」で、権力の座についたのではない。テロと戦争によったのである。そして、天武・持統天皇は、自分たちの権力を合理化するための神話と歴史を創出した。それが『古事記』と『日本書紀』である。

架空の初代天皇の名前につけられた「神武」とは、和魂と荒魂が「相協ふ」ことによって、軍隊はあっても、軍事力を発動せずに敵を支配下に組みいれるという、「天皇の御稜威」の神話を、一度権力の座についた者は創りだすのだ。現実の日本軍は、『国体の本義』の軍事イメージとは裏腹に、殺戮と略奪を繰りかえした。

『国体の本義』の「和魂・荒魂」のくだりに出会って、わたしは驚いた。「和魂」が日本国憲法第9条、「荒魂」が自衛隊を表わすとしたら、「和魂と荒魂が相協ふ」とは、第9条のもとで自衛隊の、あるいは軍隊の存在を認めるということになるではないか。9条改正派にとって、『国体の本義』は、いまなお価値を持つ。

先に、「緒言」から引用した部分に、「これらの思想の根柢をなす世界観・人生観は、歴史的考察を欠いた合理主義であり、……国家や民族を超越した抽象的な世界性を尊重するものである」という一節があった。『国体の本義』は、西洋思想の存在価値とそれが日本に貢献したことは認めつつも、そのままでは日本の国体に合致しないという立場である。世界観・人生観には歴史性が必要であり、それは国家や民族を超越することはないという主張である。

これを佐藤優流に解釈すれば、「世界史とは、それぞれの民族の立場から描かれた世界の歴史である。……われわれ日本人は、日本の視座から見た首尾一貫した世界史を構築することができる。これと権利的に同格に、米国人は、米国の視座から見た首尾一貫した世界史を構築することができる。日本人の大東亜戦争に対する評価と、米国人の太平洋戦争に対する評価が異なっているのは当然のことなのである。一部に、日本と中国、あるいは日本と韓国の間に「共通の歴史」を構築しようという動きがあるが、それは世界史の本質をわかっていない人々の無益な努力と言わざるをえない」ということになる。

『国体の本義』も佐藤優も、歴史の見方は国家を超えられないという立場である。それは同時に同じ国民は、同じ見方をするはずだということになる。わたしは本誌紙版25号に、「歴史を共有するものが未来を共有する」を書いた。同じ日本国民であっても、わたしは佐藤優とは歴史の見方を共有しないし、外国人であってもわたしと歴史の見方を共有する友人はいる。もちろんまったく同じというわけではない。そのぐらいのことは、佐藤優でもわかるのではないだろうか。25号に書いたが、歴史を語るときにも、国家を背負ってはならないのだ。

逆にいうと、それぞれの国や民族の歴史の見方を承認するということは、日本の国体がいかに優れていようとも、それは相対的なものになる。『国体の本義』には、天皇が世界を支配するという、八紘一宇的な発想が、ほとんど見あたらないのだ。「天皇が四方八方、世界をひとつの家(宇)に統一するというスローガンは、1930年代半ばから頻繁に使われるようになり、1937年に内閣情報部が発表した「愛国行進曲」にも、「往け八紘を宇(いえ)として」という歌詞が含まれている。

天皇は現人神であるという叙述は、『国体の本義』の大部分を占めるのであるが、それ以外の部分は、わたしの考えとは異なるが、戦後でもある程度の割合で支持されそうである。また、戦前の人々が、天皇を「神」であると「信じて」いたことについて、それは現在の圧倒的多数の日本国民が天皇を象徴として承認していることと、本質的に変わらないのではないかと、WEB版本誌に書いた。

そうだとすると、『国体の本義』の内容が、戦後、そして現在まで継承されていてもおかしくない。もっとも、『国体の本義』は、外来文化の受容のしかたにしても、「和」の内容にしても、「武」のありかたにしても、「国体」はこうあってほしいという執筆者の願望を表現したものと考えるのが適切だと思える。

5.国体は「万古不易」だったのか?

さて、本稿と次回連載の課題に戻ろう。戦後の学校歴史教育が皇国史観であり、それは『国史概説』で確立したのだが、源流は『国体の本義』にあるのではないかということだ。

『国体の本義』の「第二国史に於ける国体の顕現 一国史を一貫する精神」は、このように始まる。「国史は、肇国の大精神の一途の展開として今日に及んでゐる不退転の歴史である。……他の国家にあつては、、革命や滅亡によつて国家の命脈は断たれ、建国の精神は中断消滅し、別の国家の歴史が発生する。それ故、建国の精神が、歴史を一貫して不朽不滅に存続するが如きことはない。……国史は国体と始終し、国体の自己表現である」。問題は、建国の精神が歴史を一貫して不朽不滅に存続していたかということになる。

焦点は中近世である。「源頼朝が、平氏討滅後、守護・地頭の設置を奏請して全国の土地管理を行ひ、政権を掌握して幕府政治を開いたことは、まことに我が国体に反する政治の変態であつた。……源氏の滅後、執権北条氏屡々天皇の命に従はず、義時に至つては益々不遜となつた。依つて後鳥羽上皇・土御門上皇・順徳上皇は、御親政の古に復さんとして北条氏討滅を企て給うた。これ、肇国の宏謨を継ぎ給ふ王政復古の大精神に出でさせられたのである。然るにこの間に於ける北条氏の悪逆は、まことに倶に天を戴くべからざるものであつた。併しながら三上皇の御精神は、遂に後宇多天皇より後醍醐天皇に至つて現れて建武中興の大業となつた」。戦後の教科書で育った世代には、北条氏がこれほど悪しざまに書かれていることは、珍しく思えるだろう。

次は、天皇家にとっての最大悪人の登場である。「建武中興の大業も、政権の争奪をこととして大義を滅却した足利尊氏によつて覆へされた。即ち足利尊氏の大逆無道は、国体を弁へず、私利を貪る徒を使嗾して、この大業を中絶せしめた。かくて天皇が政治上諸般の改革に進み給ひ、肇国の精神を宣揚せんとし給うた中興の御事業は、再び暗雲の中に鎖されるに至つた。……後醍醐天皇から御四代、御悲運の約六十年間は、吉野に在らせられたのであるが、後亀山天皇は、民間の憂を休め給はんとの大御心から、御譲位の儀を以て神器を後小松天皇に授け給うた」。後小松天皇は北朝で、譲位とは1392年の、現在でいう南北朝の合一である。1911年に帝国議会で南朝が正統と確認された。あくまでも、三種の神器を持っている者が天皇であって、南朝と呼ばず、吉野朝という。続けよう。

「吉野朝の征西将軍懐良親王が、明の太祖の威嚇に対して、豪も国威を辱しめられなかつた御態度は、肇国の精神を堅持せられた力強き外交であり、その後、尊氏の子孫たる義光・義政が、内、大義を忘れ、名分を紊したのみならず、外、明に対して国威を棄損した態度とは実に霄壌の差がある」。明との関係については、義満が明国皇帝から日本国王の冊封を受けた。それを「国威の棄損」と非難している。懐良親王はその前に、明の太祖から使者団を送られ、倭寇対策のために日本国王に任命されようとしたが、親王は使者団のうち5名を斬り、拒否した。そのことをここでは賞賛しているのだが、実はその後、2回目の使者が来て、親王は国王を受諾していることを本書は隠している。

ふしぎなことに、徳川家康が権力を獲得したことにはふれていない。江戸時代は、水戸学、国学などによって、尊王思想が広まって、「明治維新の原動力となつた」とする。「歴代天皇の御仁徳のいつの代にも渝(かわ)らせ給はざるは、申すも畏き御事であるが、徳川幕府末期の困難なる外交にいたく宸襟を悩ませられた孝明天皇は、屡々関白以下の廷臣及び幕府に勅諚を賜うて、神州の瑕瑾を招かず、皇祖皇宗の御偉業を穢さず、又赤子を塗炭に陥らしめぬやう諭し給ひ、特に重要政務を奏上せしめ、その勅裁を仰がしめ給うた」。 

攘夷を命ずるほか、何もしなかった孝明天皇を賛美するのは、王政復古直前の天皇であるから、『国体の本義』としてはやむをえないのだろうが、この数行は、いかにも無内容である。続けて、内乱が起これば、外患、外国からの介入、場合によっては侵略が心配されたとき、山内豊信が勧めて徳川慶喜が大政奉還、王政復古となったと述べる。

先にも引用したように、本書では「中世以降の如き御委任の政治」、「中世以降絶えて久しく政体法上制度化せられなかった」という表現があったが、「肇国の精神」は継続して維持されていたのか、「萬古不易の国体」は続いていたのかということが問題になる。北条氏や足利氏は、『国体の本義』で、これほどまでに罵倒された。『国史概説』はこの課題を、どのように整理するのであろうか。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

特集・米中覇権戦争の行方

  

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