特集 ● いよいよ日本も多極化か

「家」制度を引きずる日本の「家族」

「選択的夫婦別姓」が問うもの

こども教育宝仙大学元学長・本誌編集委員 池田 祥子

1 「選択的夫婦別姓」がクローズアップされた2024年!

まず挙げられる理由の一つは、国民に「夫婦同姓」を強いている国は、現在では「日本だけ!」という事実が明らかにされたことだろう。

えっ、まさか!・・・中国、韓国は?・・・南米やアフリカの国々は?・・・と思わず首を傾げた人々(多くは「日本、良い国!」と思っている)も少なくはないだろう。

もちろん、そこに至るまでには、1979年に国連で採択された「女性差別撤廃条約」に基づく「女性差別撤廃委員会」によって、再三にわたる日本への勧告が繰り返されてきている。(2003年、2009年、2016年と続き、2024年は4度目の勧告であった。)しかし、ここで忘れてならないことは、日本が、この「女性差別撤廃条約」に批准した1985年からほぼ10年後1996年、法務省の法制審議会は率先して、「選択的夫婦別姓」制度の導入を求める民法改正案を答申していることである。

この1996年の法制審議会の活躍とその顛末は、次の北村和巳氏(毎日新聞社論説委員)の談に詳しい。

―「名だたる民法学者が揃った」法制審の中では、「選択的夫婦別姓」に「異議なし!」の法務官僚だった小池信之弁護士が、裏方として尽力した。通常は法相の諮問機関である法制審議会が法案要綱を答申すれば、それは「法律」として制定されることになる。しかし、この際は、「一回、国会に法案を提出して議論をしてもらい、国民ともども納得した上での民法改正になればいい」ということで、まずは、小池氏が自民党議員への説明に回ったという。
ところが、小池氏が自民党議員への説明に行くと8~9割が反対したそうだ。「家族の一体感、絆が弱くなる」という理由が最も多く、「なぜ別姓が必要か分からない」との声もあったそうだ。公の場で賛成したのは野中広務氏ら数人くらい、それで小池氏は、自民党議員への説得は難しいと悟ったという。

つまり、当時においては、自民党内では、ほぼ全員に近く、「選択的夫婦別姓」反対!の状況だったということである。

したがって、これ以降現在まで、約30年にわたって、国連の「女性差別撤廃委員会」からの勧告が何度重ねられても、この問題はスルー、ということで、すっかり棚上げされてしまっていた、ということが分かる。(もっとも、正確に言えば、その後2010年にも同様に、民法改正の準備が始められていたが、同じく、与党内の反対が強くて、実現には至っていない。)

ところで、これまでも世界経済フォーラムが発表する「ジェンダーギャップ指数」において、日本は、先進国間で最下位、多くの新興国にも後れを取っているということは、周知の事実である(今年の6月発表では148カ国中118位)。ただ、この「ジェンダーギャップ指数」に関しては、日本の女性たちの働く状況や、政治参加の状況など、その「遅れ」は重々承知されながらも、<いずれは><先進国並み>になるはず!という漠然とした「見通し」の下、あまり深刻に問題にされることは少ない(あるいは図々しく「知らんぷり」されているのかもしれない)。

世界の国々がズラリと並べられた中で、「日本はかなりの下位」というのに比べれば、「夫婦同姓」が法律によって強制されている国は「日本だけ!」という事態の衝撃は、やはり大きなものというしかないであろう。

いま一つ画期を為したのは、「経団連」という日本経済の要の一つでもある主要団体の「提言」が公表されたことだろう。それは、「選択的夫婦別姓」を可能にする法律の早期制定を求めるものである。

2024年6月10日、経団連の十倉雅和会長は、「夫婦別姓を認めない今の制度は、女性の活躍が広がる中で、企業のビジネス上のリスクになりうる」、(したがって、政府に)「選択的夫婦別姓」の導入に必要な法律の改正を早期に行うよう求める提言を取りまとめた、と発表した。

上記の「ビジネス上のリスク」とは、具体的には、働く女性たちの、「旧姓の通称使用」に関わる事態である。「民間企業などでは、(結婚による)改姓によって、キャリアが分断されるのを避けるために、結婚後も旧姓を通称として使用することが定着しているが」、時に、正式な(戸籍上の)結婚後の「姓」を用いなければならない場合、「同一人物」とは認定されず、それは同時に、「企業にとってもビジネス上のリスク」ともなり、「企業経営の視点からも無視できない重大な課題である」と指摘されている。そして、緊急に、「選択的夫婦別姓」という「不自由なく自らの姓を選択できる制度の実現」を求めている。

この経団連の「提言」を受けて、当時の岸田文雄首相は、衆院決算行政監視委員会(6月17日)で次のように述べていた。

「真摯に受け止める必要がある。ご指摘は重く受け止める」と、いつもながらの対応をしつつ、「議論の際には、ビジネス上のさまざまなリスクとあわせて、家族形態の変化や国民意識の動向、家族の一体感、子どもへの影響といったさまざまな視点が考慮される必要がある」と、この時すでに、「日本の家族」に関わるこだわり(「家族の一体感」「子どもへの影響」)を述べている。この点に関しては、「選択的夫婦別姓」問題への「抵抗」勢力としての「自民党主流派」の、要となる論点を的確に押さえていたことになる。他方の、石破茂氏とは格段の違いであろう。

さて、自民党総裁選で首相に選ばれる前の石破茂氏は、「選択的夫婦別姓」について、次のように述べていた。

― 姓が選べないことによって、つらい思いをしている、不利益を受けている、そういうことは解消されなければならない。(2024年8月24日の会見にて)

その後の総裁選の最中では、積極的推進派の小泉進次郎と、断固反対派の高市早苗両者との狭間で、「(選択的夫婦別姓を)やらない理由が分からない」と述べている。

しかし、総裁選を制した後の初めての所信表明演説では、「政治資金改革」の抜本的な提案もなされず、自民党内での強固な反対派を意識したためか、この「選択的夫婦別姓」制度に関しても、一言も発しないままであった。

ただ、12月4日の衆院本会議で行われた「選択的夫婦別姓」制度についての石破首相への質疑が、次のように報じられている(12.5朝日新聞)。

公明党 竹谷とし子・・・制度の早期導入についての決意を。
石破首相・・・国会で建設的な議論が行われ、夫婦の氏に関する具体的な制度のあり方について、より幅広い国民の理解が形成されることが重要だ。

立憲民主党 打越さくら・・・選択的夫婦別姓がテーマになった時、ある議員は「そんなわがままはだめだ」と言ったそうです。首相も、選択的夫婦別姓をわがままと感じますか。
石破首相・・・婚姻時に、元の姓を維持したい気持ちを持つことに、わがままであると思ったことは一度もない。(姓を変えるのは)多くが女性だ。その悲しみや苦しみを、よく認識をしていかねばならないと痛感している。

この時の公明党、立憲民主党の質問自体も、問題の核心を十分に押さえきれてはいないが、それ以上に、石破首相自身、「選択的夫婦別姓」の「制度的問題」をまったく理解しておらず、どこまでも、個々の女性たちの「要望」(あるいは、それが果たせない現状での「悲しみ」「苦しみ」?という感情)程度に捉えているだけである。

それは、「経団連」の「提言」が、一部の「活躍している女性たちの問題」として、限定的に受け止められた結果でもあるのだろうが、ここで改めて確認しておきたいことは、「選択的夫婦別姓」問題とは、単に、一部の「働く女性」に限定される問題、というよりは(もちろん、そこに焦点が当てられたのは事実だが)、日本の戦後の「家族」のあり様が、本当に「男女平等」を保障しているのか、さらには、「家族」のあり様と関わって、「男と女」という性区分や、社会的に形成される「性意識」(ジェンダー)に照らし合わせながら、「家族の中での個々人の自由と共同性」とは何か、を問う思想的・制度的な基本問題なのだ、ということである。この点をもう少し検討してみよう。

2 戦後の「核家族」― 縮小されつつ継承された「最小の<家>制度」

ところで、「うじ」や「かばね」の由来は、「氏姓制度」としての古代社会に立ち戻ることになる。力を持った豪族たちが、自らの一族を名乗ったものとしての「うじ」、さらに天皇から頂くものとしての「かばね」(身分や地位を表わす)。

それが、一般的な「家の名前」として庶民にも関わるようになるのは、「四民平等(士農工商)」と称せられた明治以降のことである。

1875(明治8)年「苗字必称義務令」・・・これによって、初めて、庶民一般も「苗字」を付すことが義務づけられる。ただし、この段階では、夫婦の場合は、未だ別々の「苗字」である。

1898(明治31)年「明治民法」・・・これによって「うじ」が家族名として固定され、家長の権限が強化され、婚姻は、通常は「嫁取り(たまに婿取り)」となる(いわゆる戦前の、男尊女卑、夫唱婦随の「家」の制度化である)。そして、重ねて言えば、「嫁」とは、「家にくっついた女」⁈という文字の形成通り、「嫁取り婚」つまり「嫁入り」の後、嫁いだ「家」の人間とみなされ、「家風に染まること」「跡取り息子を産むこと」が当たり前に求められていた。したがって、嫁の離縁の理由=条件のトップは「子無き」であり、生理的な責任問題(不妊の主要な責任はどちらか?を問うこと)抜きに、「子無き(女)は去る!」とされた。(蛇足ながら「石女」は「うまずめ」と読む。)

以上の歴史を辿ると、「うじ」「かばね」/「名字」「苗字」はそれぞれに歴史も意味も異なることが分かるが、ただし今となれば、「氏」「姓」「名字」「苗字」はいずれも「家の名」として同じ意味に理解されている(もっとも、現在の「民法」「戸籍法」では「家の名」は未だ「氏」のままではあるが)。

こうして、「家」制度の下で、「家長」、および日々の暮らしの中では「姑」、に支配されてきた「嫁」としての「女」たちの「忍従の暮らし」。・・・しかし、客観的に見れば、その歴史は、敗戦まで、47年。・・・何と、思いの外、長くはない。それでも、この女にとって「過酷な」「家制度」から「解放」されたかに見える戦後の「核家族」が、男にとっても、況や女にとっても「民主的家族!」と思わせられたことは、やはり、(今にして思えば・・・ではあるが)多くの国民の「浅知恵」として悔やまれることではある。

戦後の「核家族」が、男たちにも!歓迎された・・・というのは、主として「家の跡取り」であった長男以外の次男、三男、四男・・・すべての男たちが、結婚しさえすれば、「世帯主」として、核家族を代表する者として位置づけられたからである。家の中での「主人」という言葉は、現在でも死語にはなっていない。むしろ堂々と生き残っている。

一方、女たちは、「主婦」の座に居座った。妻であり主婦でもある家の中の「女」は、「稼ぐ」ことを主とする夫を除けば、家の中のことは殆ど「妻」が管理し操作する。

「核家族」が現出し始める大正期、そして戦後初期、「主婦」という言葉や「地位」そのものも、晴れ晴れしく輝いていたのは、そのためであったのだろう。

しかし、「主婦論争」などを待つまでもなく、「主人と主婦」と「お内裏様」のように晴れがましく並べられながら、実際は、社会(もちろん民法などの法律や経済構造)によって「性役割」を強いられていることが明らかになっていく。「男は稼ぎ、女は家事・育児」!

戦後、韓国は結婚後も女の姓は親元の姓のままであった。「李」さんと「金」さん、「どうして、夫婦なのに別姓のままなのか?」と中学の教師に尋ねたら、「嫁といえども、他家の人間。男の家の人間にはなれない。だから、嫁になると、同姓になれる(!)日本よりも女性の地位は低いのです」という答えが返って来た。・・・当時の私は、「そうか・・・結婚して同姓になる日本は、韓国よりも女性の地位が高いのだ!」と納得し、束の間の優越感を持ったのを、(今となれば恥ずかしく)思い出す。

そして、「かせぐ」ことは「男の務め」・・・となれば、社会の中に、女の「稼ぐ場」は、本当に僅かしか保障されていない。となると、「夫が失業、病気、あるいは死亡、もう一つ離婚など!」の場合、途端に生活が立ち行かなくなる。ましてや、最初から結婚しない女は、「行かず後家!」と蔑まれる。もちろん、「稼ぐ」ことを要求される男役割の面からも、「稼ぎの少ない、あるいは不安定な稼ぎの」男たちが結婚制度から弾かれ、結果として、現在の「未婚化」「少子化」を加速していることも忘れてはならないだろう。

こうして、戦後の「核家族」は、封建的な戦前の「家族制度」とは打って変わって、「民主的な」「男女平等の家族形態!」と持ち上げられながら、その実、「核家族」が持つ「性の決めつけ(性役割)=性差別」の実態、さらには、「男/女」に関わる「性自認のジェンダー問題」(「同性婚」問題)としても問われている。したがってまた、戦前の「家制度」や「嫁取り婚」を無意識のまま継承している「夫婦同姓」というあり様(制度)もまた、改めて問われるのは当然なのである。

3 二度の最高裁判決に見る教訓 ― 憲法24条および民法750条

周知のことではあるが、これまで、2015年および2021年の二度に亘っての最高裁判所大法廷は、「日本の夫婦同姓(氏)制度は憲法に違反してはいない」との判断を下している。

原告は、いずれの時も、事実婚のカップル(+その他)であり、判決に当たって、「違憲」という意見を述べた判事は、1回目5名、2回目4名である。

最高裁の判決の検討に入る前に、もう一度、憲法24条と民法750条を確認しておこう。

憲法24条(1項)・・・婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。
民法750条・・・夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。

まず憲法24条である。「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し」とある。

ここでまず重要なのは、「合意のみに基いて」という点であるだろう。「家長の命令」「家の都合」等々、「両性」つまりは「当事者二人」の「合意」以外の、権力的・経済的な要因で、当事者の「意志に反して」、「強制的な」「婚姻」が成立することはない、という確認である。その限りでは、まさしく「戦後的な」異議のない規定といえるだろう。

ただ当時は、「男」「女」という性別は、極めて単純に「二元的に」理解されていた。したがって、「両性の合意」に、現在では、生理的あるいは「ジェンダー」としての留保が必要であろう。その意味では、この「両性の合意のみに基いて」の解釈を、現在、改めて「男と男」「女と女」のカップルにまで広げることも、否定されはしないだろうが、条文のより正確な修正は必要であろう。

さて、次は民法750条である。

改めてであるが、この条文の「分かりにくさ」および「罪作り」・・・これでは最高裁の裁判官たちも、容易に「落とし穴」に落ち込んでしまうだろう。もう一度、条文を引用しよう。

「夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の氏を称する。」

この「夫又は妻の氏を称する」の一文は、今となれば余りにも分かりにくい。当時においては、「婚姻」の大半は「嫁取り婚」である。したがって、嫁は夫の氏(家の名)を称する。しかし、中には、女の子ばかりの家も存在する。その場合には、他家から「婿養子」を迎える「入り婿婚」となるが、その際には、婿が妻の家名を称することになる。

このように、当時の状況を前提にして、この民法750条を読めば、いずれにしても「結婚すれば<同姓>」ということは自明なのである。つまり、この民法750条は「結婚すれば同姓となる」ことを当然とする条項なのだ。一般的には「夫の姓に」、婿養子となる際には「妻の姓に」。

最高裁の裁判官といえど、「時代を生きる」人である。この民法750条の「同姓」規定の憲法違反が問われているのに、条文の「夫又は妻の氏を称する」という一文で足を掬われている。

ただ、裁判官も色々である。2015年、2021年の二度の最高裁大法廷において、鋭く憲法違反、あるいは「立法不作為の責任」を追及していた裁判官も、少数ではあるが、確実に存在している。当時の報道も、私たちもまた、その少数派だった裁判官の主張に、十分に注意を払うことを怠って来たのかもしれない。悔やまれることである。

いま一度、「夫婦同姓」を強いている現行民法は「男女平等」を掲げる憲法に違反している!と訴える裁判が、また新しく始まっているという。今度こそは、次に掲げる、当時の「少数派」だった裁判官たちの主張を、正確に判決に反映させてほしいものだと願わざるをえない。

ここで改めて、それぞれの大法廷で「夫婦同姓は憲法違反!」とする明確な「少数意見」を提出した裁判官を、以下に挙げておこう。

2015年での「夫婦同姓は憲法違反」  岡部喜代子・櫻井龍子・鬼丸かおる・木内道祥・
                  山浦善樹
2021年での「夫婦同姓は憲法違反」  三浦守・宮崎裕子・宇賀克也・草野耕一

さらに、今なお注目すべき主張内容を、以下に引用しておく。

木内道祥:ここで重要なのは、問題となる合理性とは、夫婦が同氏であることの合理性ではなく、夫婦同氏が例外を許さないことの合理性であり、立法裁量の合理性という場合、単に夫婦同氏となることに合理性があるということだけでは足りず、夫婦同氏に例外を許さないことに合理性があるといえなければならないことである。

山浦善樹:夫婦が別氏を称することが、夫婦・親子関係の本質なり理念に反するものではないことは、既に世界の多くの国において夫婦別氏が実現していることの一事をとっても明らかである。

三浦守:法が夫婦別姓の選択肢を設けていないことは、憲法24条の規定に反する。/問題となるのは、例外を許さない夫婦同姓が婚姻の自由の制約との関係で正当化されるかという合理性だ。

宮崎裕子宇賀克也:当事者の意思に反して夫婦同姓を受け入れることに同意しない限り、婚姻が法的に認められないというのでは、婚姻の意思決定が自由で平等なものとは到底いえない。憲法24条1項の趣旨に反する。

また、2015年段階で、上記の山浦善樹裁判官は、次のようにも記している。

山浦善樹:国には、民法750条を改廃しなかった立法不作為の責任があるとして、原告に損害賠償すべきだ。

ただ、2015年、2021年の最高裁判決は、結果としてはいずれも、「夫婦同姓」は「合憲である(憲法違反ではない)」と結論づけながらも、次のような、やや言い訳めいた「保留」ないし「提言」を付していた。つまり、「選択的夫婦別姓制度」問題は国会に委ねた、とも言えるのである。

2015年の最高裁判決
① 夫婦別氏を希望する者にこれを可能とするいわゆる選択的夫婦別氏制度について、そのような制度に合理性がないと断ずるものではない。
② この種の制度の在り方は、国会で論ぜられ、判断されるべき事柄にほかならないというべきである。

2021年の最高裁判決
夫婦の氏について、どのような制度を採るのが立法政策として相当か、という問題と、夫婦同氏を定める現行の規定が、憲法24条に違反して無効であるか否かという憲法適合性の審査の問題は、次元を異にするものである。この種の制度の在り方は、平成27(2015)年大法廷判決の指摘するとおり、国会で論ぜられ、判断されるべき事例にほかならない。

4 今後の課題

今年2025年は、昭和100年、戦後80年の区切りの年と言われる。

「夫婦同姓」の歴史をみれば、区切りは悪いが、127年となる。長い間の習慣が積み重なって、日本人は、結婚にあたって、「結婚届を出す=籍に入れる・籍に入る(入籍)=夫婦同姓」が当たり前になっている。「届を出さず、同棲を続ける」ことは、男の「狡さ=責任回避?」と見なされ、女としても「見下されている」と未だに言われる。

その結果なのだろう。結婚による「夫婦同姓」とは、「夫の姓」になることが通常であり、「夫の姓」を名乗る夫婦の割合は、(統計がやや古いが)1995年、97.4%、2018年でも95.5%となっている。それ程に日本という国で「馴染まれている習俗・制度」とも言えるのだろう。

しかし、一方で、日本の政府は、これまでの国連の「女性差別撤廃委員会」による勧告に基づき、日本国内での過去の「家制度」の残滓でもある女性差別のいくつか・・・、「婚姻年齢の男女の差の解消・女性の再婚禁止期間の廃止(民法改正)」、また、「強姦の定義をめぐる改正(不同意性交罪)および性交同意年齢の引き上げ(13歳から16歳に)(刑法改正)」等々、それなりの対応を続けてきたのも事実である。

ただ、気になることとして、「選択的夫婦別姓問題」が最高裁に2度も持ち込まれ、大きな政治課題にもなった2021年3月20日、政府の「第5次男女共同参画基本計画」から、「選択的夫婦別姓」の文言が削除されているのである。それほどに、当時の政府(自民党)には(今も、一部強固なグループに)、この「選択的夫婦別姓」問題にはアレルギーがあるらしい。それに影響されたのか、「選択的夫婦別姓」に意欲的だった公明党、国民民主党なども、いつしかトーンダウンしている。

いずれにしても、不安定に流動化し始めている現在、改めて「男女平等とは?」「個々の自立と共同の関係とは?」を探りながら、地道に「家族とは?」を考えていかなければならないのだと思う。

いけだ・さちこ

1943年、北九州小倉生まれ。お茶の水女子大学から東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。元こども教育宝仙大学学長。本誌編集委員。主要なテーマは保育・教育制度論、家族論。著書『〈女〉〈母〉それぞれの神話』(明石書店)、共著『働く/働かない/フェミニズム』(小倉利丸・大橋由香子編、青弓社)、編著『「生理」――性差を考える』(ロゴス社)、『歌集 三匹の羊』(稲妻社)、『歌集 続三匹の羊』(現代短歌社、2015年10月)など。

 

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