特集 ● 社会の底が抜けるのか

「劇的な昂揚」で命の尊さを知る

映画脚本家、笠原和夫の戦争映画群から

ジャーナリスト 池田 知隆

正義と正義がぶつかりあい、どうあがいても悲劇にならざるをえない事態にどう向き合っていけばいいのか――。ウクライナ、ガザなどで激しい戦闘が続き、東アジアの緊張も高まり、日本はいま「新しい戦前」の時代を迎えている。かつて多くの戦争映画を手掛けた映画脚本家、笠原和夫は、戦争映画で最高の<劇的な昂揚>に陶酔したものは決して戦争を起こす側には立たない、と語っている。近現代史を深く掘り下げ、「昭和」を鷲掴みにした笠原の戦争映画群から学べることは少なくない。

テロリズムの光芒

私たちは市民による学びと交流の場「大阪自由大学」を2012年から開いている。その主な活動の一つとして、映画を楽しみながら語り合う場がいつしか定着した。講師は上倉庸敬(大阪大学名誉教授)さん。毎回、多彩な映画の製作背景、映画人の思いを詳しく解説してもらっている。

昨年4月からのテーマは『「新しい戦前」の時代にー映画でたどる昭和史ー』。まず取り上げたのは、昭和史の光と闇に挑んだ脚本家、笠原和夫さんの作品。ラインナップは『日本暗殺秘録』(中島貞夫監督、1969)、『大日本帝国』(舛田利雄監督、1982)、『あゝ決戦航空隊』(山下耕作監督、1974)、その延長として戦後を描いた『仁義なき戦い』(深作欣二監督、1973)の4本だ。

笠原がいかなる脚本家なのか。映画通にとってはあまりにも常識的なことだが、ここでは改めて紹介しておきたい。著書経歴にはこうある。

笠原和夫

「昭和2年(1927)東京生まれ。日本大学英文科中退。海軍特別幹部練習生から様々な職を経て東映宣伝部に入る。昭和33年からシナリオ執筆をはじめ、東映任侠路線の花形ライターとなる。『仁義なき戦い』四部作、『日本侠客伝』シリーズ、『博奕打ち 総長賭博』『二百三高地』『大日本帝国』など執筆。昭和56年と58年に日本アカデミー賞優秀脚本賞を受賞。著書に『「妖(あや)しの民」と生まれきて』『破滅の美学』『昭和の劇』(共著)など。平成14(2002)年12月12日逝去。」(笠原著『映画はやくざなり』新潮社より)

美空ひばり、時代劇、任侠映画、実録もの、戦争大作……と東映映画の黄金時代を担ってきた脚本家である。映画への大衆の夢と欲望を汲んだ娯楽作を次々と創り、海軍特別幹部練習生という自らの戦争体験に基づく昭和史の闇に迫っていく。その情熱は鬼気迫るもので、観客は<戦中派>の痛切な思いを追体験させられる。

『日本暗殺秘録』

『日本暗殺秘録』は、「桜田門外の変」に始まり、大久保利通暗殺事件、血盟団事件、2・26事件など100年にわたる暗殺の歴史をオムニバス方式で追っている。映画が公開された年の1月、東京大学の安田講堂攻防戦が繰り広げられ、学生たちの反乱がピークに達していた。全編を通して軍国主義に向かう時代に抗し、時の権力者に立ち向かった人々を描き、その年の芸術祭参加作品となった。

主に描かれているのは、テロリズムが横行していた昭和の「戦前」のころ。世界大恐慌による経済破綻、冷害による農村恐慌……政権与党の首脳はことごとく汚職にまみれ、野党は足の引っ張り合いで、大衆は政治に無関心の傾向を強めていた。社会の不正に憤り、苦悩のはてに暗殺犯となる小沼正を千葉真一が熱演している。その小沼を血盟団に導く日蓮宗僧侶、井上日召を片岡千恵蔵が重厚に演じ、菅原文太、高倉健、鶴田浩二、藤純子ら豪華スターが総出演している。いま見直すと、テロリズム礼賛の異色作といえなくもない。興行的な成功を狙ったものとはいえ、よくぞこのような衝撃作に大手映画会社が豪華スターを総出演させたものだ、と改めて驚かされる。

残酷で、おぞましいテロを通して、やがて日本は破滅への道をたどる。その過程は、長い歳月を経た今日の世相とも重なって見えてくる。安倍晋三・元首相の暗殺、そこから露出した旧統一教会による自民党汚染、国葬騒ぎ、政治とカネ、無力な野党、自民党派閥内の抗争、派閥解散……と続き、政界が混迷したまま軍備増強が進められている。生前の小沼に会い、粘り強く徹底取材した笠原はいう。

「思想や政治理念を超越して、ただ『何かギラギラしたもの』を創りたかった」

いまも、そのようなギラギラした情念みたいものが現代日本の暗部に潜んでいるのだろうか。社会の格差が進み、深刻化する貧困や虚無感、そして殺人、放火をめぐる暴発的で衝撃的な事件は後を絶たない。

宮中の闇

この映画は、2・26事件で決起した青年将校たちが銃殺されていく処刑シーンで終わる。リアルな銃殺場面を再現するために当時の監獄の刑吏に取材し、2・26事件の遺族会からは事件の暗部に迫る証言を得ている。笠原が語る驚愕のエピソードの数々は実に興味深い。

2・26事件の元遺族会長、河野司が東久邇宮(稔彦、戦後処理のために憲政史上唯一の皇族内閣を組閣)から聞いた話として「2・26事件というのは壬申の乱だった」という証言を引き出している。この軍事クーデターの背後には日本史上何度も行われた天皇継承をめぐるゴタゴタが絡んでいるというのである。

昭和天皇は反乱将校たちに激怒し、即刻に断罪を下したが、その厳しい態度の背後に二人の身内の存在があった。貞明皇后(大正天皇の妻であり、昭和天皇の母)と秩父宮(昭和天皇の弟)である。貞明皇后は秩父宮を溺愛し、反乱軍にも秩父宮を担ぎ出そうとする策略があった。

『昭和の劇 映画脚本家笠原和夫』

<つまり大正帝に子供ができなくて、貞明皇后に何人か男をあてて、それで子供を生ませていったと言うんだね。「だから、ずいぶん、あの兄弟は顔が違いますよ」と。裕仁(昭和天皇)さんにしても、秩父宮、高松宮、三笠宮と、全部顔が違うと。……誰だかわかりませんけど秩父宮のお父さんが貞明皇后のハートを射止めていて、それで秩父宮さんを溺愛したらしいんです。だから、貞明皇后としてはなんとしても裕仁さんをハズして、第二子の秩父宮を天皇の座に送りたいというのがあったんですね。それを画策したのが山県有朋でね。……>(『昭和の劇:映画脚本家笠原和夫』笠原和夫、荒井晴彦、絓秀実著、太田出版)

秩父宮も貞明皇后から期待されているとの自負があり、本人としては天皇制をやめて、将来的には「大統領制――共和制」にしていくつもりがあった。そんな自分への理解者を求めて陸軍の中に入り、反乱を起こした皇道派青年将校たちと親しく接していく。軍部に警戒されていた秩父宮は当時、弘前に追いやられていて、事件発生直後、上京して貞明皇后と会っている。しかし、やがて富士山麓に結核の療養という名目で追放されるというのである。

<当の昭和天皇は大英帝国流の立憲君主制を堅持するリベラリズムに強く影響を受けておられたので、天皇親政は夢にも考えたことはなかったが、直宮(じきみや)の秩父宮は憲法を一時停止して天皇親政を敷く以外に現状を改革する方途はない、というお考えだったといわれる。……
ただ秩父宮は武力革命という過激な思想は持っておられなかった。軍人、とくに若手将校と下士官の思想改造をして、民主的な軍隊が社会の改造に貢献する、という理想を持っておられたようである。>(笠原著『226 昭和が最も熱く震えた日』双流社)

宮中の権力闘争と貞明皇后、昭和天皇、秩父宮の間の確執。そのことについて昭和史の発掘に情熱を注いだ作家、松本清張も着眼していたが、ここでは詳しく触れない。清張はこの事件に心を残し、死によって未完に終わった最後の小説『神々の乱心』で宮中の内幕に迫ろうとした。

これらの事柄は、「風説」として流布し、裏付ける史料はない。この『昭和の劇』でもあえて「本文中の歴史的記述、事実関係の一部については、笠原和夫の取材活動に基づくものであり、必ずしも資料的裏付けがあるものではない」との但し書きをつけている。

この宮中の闇について歴史研究者にとっては既知の事柄かもしれないが、私には目からうろこを剝がされるようだった。いわゆる異説=稗史は、為政者が自らに都合よく紡ぎ上げた「正史」に対する、大衆の想像力上の反抗ともいえる。笠原は、徹底した資料収集とインタビューを重ねることで、表では語られることのない話を汲み上げようとしていた。その根底には、<戦中派>としての天皇に対する批判があり、天皇もまた心の<ドラマ>を抱えた人間と見る洞察力があった。

右でもなく、左でもなく

『大日本帝国』

『大日本帝国』は笠原戦争映画の決定版だ。日露戦争を描いた映画『二百三高地』の大ヒットを受けて製作され、昭和16年から20年にかけての南方戦線を中心に、過酷な運命を辿った青春群像を描いている。続いて製作された『日本海大海戦 海ゆかば』を加え、舛田利雄監督、笠原脚本による東映の戦史映画三部作とされている。

この『大日本帝国』は、岡田茂東映社長(当時)が「This Is The War(これぞ戦争だ!)」みたいな映画の製作を企画。「太平洋戦争を舞台に日本が勝ったところだけ選んで繋いでくれ」と脚本執筆を笠原に指示し、タイトルは岡田が命名した。ところが、笠原はこれを全く無視し、戦争の負の部分、凄惨さに焦点を当てた。シンガポール攻略、サイパン陥落、フィリピン戦線の三つに絞り、東条英機首相を軸に据えながらも兵士やその妻たちの心情や特徴的なエピソードを盛り込んだ。

「素人の人間が戦闘に入った」というシンガポール攻略戦は、召集兵が現地の民間人を初めて殺し、衝撃を受ける場面を描いた。サイパンでは、「海ゆかば」を歌いながら約4000人もの民間人が断崖からの飛び降り、手りゅう弾によるすさまじい「玉砕」の映像化に挑んだ。笠原はいう。

<部落を囲んじゃって、適齢期の女だけをひっぱり出して、老人と子供たちだけを残して集めて、銃撃を加えて火をつけちゃうんです。……それを女たちは見ているから飛び降りてしまったんですよね。……アメリカ軍が自分たちで宣伝していたみたいに人道的な軍隊だとしたならば、あれはなかった。まあ、沖縄ではわりに降伏して出ていったけど、サイパンではそうじゃなかった。……サイパンではまだ勝つか負けるかの時ですから、彼らも目の色を変えている――殺人鬼なんですよ>(『昭和の劇』)

フィリピン戦のあと、戦犯として処刑される中尉(篠田三郎)の吐く「天皇陛下、お先に参ります」という際どいセリフがある。自分で命令を下したわけでないが、すべて自分の責任であると死に臨む。このセリフは「天皇への忠誠を示しているのか」、それとも「天皇よ、お前も後から来いよということか」。この映画の評価をめぐって右派の作曲家、黛敏郎は「非常に巧みに作られた左翼映画」といい、左派の映画監督、山本薩夫は「非常にうまく作られた右翼映画」と評した。笠原自身は、右でも左でもなく、天皇批判を間接的な表現で示したものだと述懐している。そして登場人物のほとんどに天皇制というものに対しての何らかのセリフを語らせている。

日本の軍隊は、結局、天皇の軍隊であり、天皇の私兵だった。戦争では犬死ではない死に方なんてない。日本が勝つ見込みがなくなっても徹底抗戦するが、その敗戦の責任は天皇が負わなければならないと、笠原は厳しく指弾する。

<それは全部、国体護持――つまり裕仁を天皇の座に置くということのためにのみ、そうなっていたんだよ。それは天皇制のヒエラルキーに入っている上流階級がね……上流階級は、天皇制がなくなったら自分たちの権益をすべて失っちゃうわけだからね。……終戦を延ばしに延ばしていたんですけど、結局、そのために何十万という人間が死んでいったわけですよ。だから裕仁が個人で何を考えていようとも、あの人は第一級の戦犯ですよ>(同)

その昭和天皇の人間像について笠原は独自の見方をしている。

<昭和天皇は、自分は天皇の子ではない、サラブレッドではないということはわかっている。……駄馬であるからこそ、天皇という位を与えられた時、自分は死んでもこの位を守らなければいけないと。……駄馬である自分が受けた以上、皇祖皇宗に対して徹底的にそれを守りぬくことが自分の使命だと。そう思うと、僕はもの凄くあの人は人間的にすばらしい人だったという気がする(笑)。もちろん、天皇制とは話が別ですよ。>(同)

合理主義と狂気の間

『あゝ決戦航空隊』

昭和19年7月、サイパン陥落後、日本の敗色は濃厚となり、参謀本部は特攻作戦に踏み切る。その特攻隊の生みの親、大西瀧治郎の凄絶な生涯と特攻の全貌を描いたのが映画『あゝ決戦航空隊』だ。

日本戦史の悲劇、特攻作戦はどのように生まれ、どのように実行されたのか。草柳大蔵の原作「特攻の思想」をもとに、笠原は野上龍雄とともに脚本化し、山下耕作監督がメガホンを握った。硫黄島の全滅、沖縄の激戦、そして本土決戦が時間の問題となる。緊迫の状況下に置かれて大西中将の苦悩を鶴田浩二が迫真の演技でよみがえらせる。

大西は海軍きっての合理主義者といわれ、当初は特攻作戦に疑問を抱いていた。だが、特攻を続けるうちに狂人のような戦争論にのめりこんでいく。終戦工作を知ると、大西は白い軍服に身を包み、軍刀を持って御前会議に乗り込み、ポツダム宣言を受諾するかどうかで悩む閣僚たちを前に徹底抗戦を訴える。

「この戦争はね、国民が好きで始めた戦争じゃないんです、国家の戦争なんですよ……負けるということはですよ、天皇陛下御自ら戦場にお立ちになって、首相も、閣僚も、我々幕僚も、全員米軍に体当たりして斃れてこそ、はじめて負けたと言えるんじゃありませんか。和平か否かは残った国民が決めることです。……

私はそうなることを信じて特攻隊を飛ばしたんです、特攻の若い諸君もそれを信じたからこそ喜んで死んでくれたんです。……何人の者が、特攻で死んだと思いますか。2600人ですよ、2600人もいるんですよ。……こいつ等に……こいつ等に、誰が負けたと報告に行けますか……‼」(映画のセリフから)

大西は特攻の責任を取って切腹する。笠原はその現場を訪ね、切腹に立ち会った右翼の巨頭、児玉誉士夫にも直接取材した。その児玉役は、どういうわけか、イメージが大きく異なる小林旭がかっこよく演じている。大西の縁で戦時中の物資調達で財をなした児玉は、その資金を当時の鳩山(一郎・元首相)自由党に提供し、日本の政界の保守本流に影響力を及ぼしたことを笠原に包み隠さず語った。

<児玉さんは「今の天皇はおかしい」と。人間宣言をしたならば、それは退位すべきだと。神だと思うから、これまでみんな命をかけてお守りしてきたんじゃないか。……神だ、神だと言っておきながら、いや、神じゃない、人間だったんだなんて、そんな無責任なことを言ってはいけないんだと。それは児玉さんは声を大にして言っていましたよ。そういう意味では、わりかし筋の通ったことを言う人でしたね。>(『昭和の劇』)

特攻について、笠原は自らの体験を通して「廉潔を第一義とした海兵の伝統から興るべくして興った戦法であった」と説明する。

<ともかく史料を読んで驚くのは、海兵出身の士官たちの「死」に向っての余りのいさぎよさで、その死に急ぎの精神の徹底さには呆れるばかりである。……戦争は生き残ることが目的だから、死にたい死にたいと言っている側が勝てる訳がない。

大西中将が主唱した「二千万人特攻」論も、現実の戦術論としてではなく、そんな危機に際してもなお体制を温存しようと謀っている権力への必死な反論、対決の思想だったのだと思う。思想と呼ぶより、むしろ、おのが「血」の昂ぶりに固執したのではなかったか。身にまとった廉潔の虚構が剥落した時、彼等は、それまでが廉潔無垢であったがゆえにこそ、私たち蒼氓以上に蒼氓の原点に回帰し得たのであった。>

笠原は続けていう。

<特攻隊映画そのものが、美しく哀しい感傷劇に仕立てないと客に受けないという現実がある。あるいはそういう錯覚に立つ製作者もいる。特攻隊映画は、直視すべきものであって、鑑賞すべきものではない。>(海軍落第生 「シナリオ」1974年9月号から)  

合理主義もまた、いつしか狂気にすりかわってしまうのだ。笠原が強調する「特攻隊映画は、鑑賞すべきものではなく、直視すべきもの」という言葉の重みをしっかりと受け止めたい。「天皇の戦争責任というものを、それまでの認識を一掃して表出させてみたいという欲求があった」というこの映画は、日本人の精神構造、死生観を直視する最良のテキストになっている。

「正義」という危うさ

巨大な火の玉、地軸を揺るがす爆発音。広島上空で炸裂する原爆のシーンで始まる映画『仁義なき戦い』。敗戦直後の広島県で起きた「広島抗争」を描き、「日本映画最高の群集劇」とも「血風ヤクザオペラ」とも称された傑作で、大ヒットした。タイトルに続いてこんな言葉が流れる。

<昭和二十年、日本は太平洋戦争に敗れた。戦争という大きな暴力は消え去ったが、秩序を失った国土には新しい暴力が吹き荒れ、戦場から帰った血気盛りの若者たちがそれらの無法に立ち向かうのには、自らの暴力に頼る他はなかった>

『仁義なき戦い』

日本の国家が崩壊し、その頂点をなす天皇に対する尊崇の念が消える。信じられるものが何もなくなり、なんでも好きなことをやって自己主張をしたほうが勝ちだという風潮が広がる。次第に様々な利害、損得による抗争が生まれてくる。

エネルギッシュで生々しく、残酷でいて、どこか浮世ばなれした若者たち。戦後ヤクザの世界を徹底取材し、剥き出しの本能をぶつけあう人間ドラマは、固唾を呑む暇もないほどの迫力があった。広島弁の会話の妙、多彩な役者の面構え、スピード感に満ちた巧みな展開。人間の野卑で、猥雑なものを白日のもとに晒し、戦後日本の見事な裏面史となっている。

派閥争いとは何か、いかにして派閥の勢力を伸ばして行くか、小派閥はどのように生き残っていくのか。そしてリーダーがいかに無責任で、下の人間が割を食うことになっているか。政治の世界を考えるとき、この映画からも多くのことが学べる。

笠原は海軍特別幹部練習生として過ごした広島で原爆投下のキノコ雲を見た。戦後、銀座の米兵相手の連れ込み宿で働いた。そこで出会った女たちの生態、人間群像を生々しく描いた自叙伝『「妖しの民」と生まれきて』もまた面白く、人間を観察するその眼は鋭い。

<劇的な昂揚>から<命の尊さ>を

戦争映画群をめぐる笠原語録の紹介になってしまったが、「戦争の脚本をどうして何本も書くのか」と問われて、笠原はこう答えている。

<戦争は、人間のさまざまな相を、その極限の形で現します。戦場における酷烈な生と死、雄々しさ、醜悪、愛憎、残忍さ、それらのすべてがわたしにとっては最高の<劇的な美>であり、それらをモチーフとして最高の<劇的な昂揚>を観客に与えたいという希いを持っています。反戦のテーマとか、戦争の真実を暴く、とかいったことは、わたしにとって二次的な、つけたりのコメントです。>

<最高の<劇的な昂揚>に陶酔したものは、現実では優しい心を持ち得る人々であり、決して戦争を起こす側には立たない人たちである、と信じています。ドラマが社会に寄与する効用というのは、せいぜいその辺までではないでしょうか。>

(いずれも「不関旗一旒 『大日本帝国』創作ノート 「シナリオ」1982年8月号から。*不関旗一旒(ふかんきいちりゅう)は、「不関旗――他艦ト行動ヲトモニセズ、マタ、トモニシ得ザルコトヲ意味スル旗旒」という海軍用語)。

生身の人間同士のぶつかりあい、苦悩、葛藤、悲哀、さらなる感情移入による気分の高まり、リアルですさまじいセリフの応酬……そこから生じる最高の<劇的な昂揚>。それに陶酔し、醒め、ある種のカタルシス(精神的浄化)を通して冷徹に振り返ることで、<命の尊さ>を身をもって知る。他の人への理解を深めることにつながり、決して戦争を起こす側には立たなくなる。そこに戦争映画の効用がある、というのである。

言うまでもないことだが、映画は自らの世界を広げてくれる。等身大の世界や生活実感のみを重視していると、独りよがりで社会性のない小さな世界しかわからない。社会のさまざまな対立を乗り越えていくためには、映画を通して歴史を深く掘り下げ、知性を磨いていくことが欠かせない。そして笠原はいう。

<一番自省しなければならないことは、いまわれわれが<正義>だと思いこんでいること、それを押し進めようと他者の意見を排斥して使命感に燃え立つこと、その中にこそ、次の戦争の起因が潜んでいる、ということです。>(同)

若い人たちはあまりにも日本の近現代史を知らない、との嘆きをよく聞かされる。2023年は、『君たちはどう生きるか』『ゴジラー1.0』や『福田村事件』など、戦争や歴史を新しい視点で見つめる話題作があった。だが、時代を鷲掴みにするかのように描いた笠原和夫の戦争映画群も若い人たちにも見てほしい。私たちの映画塾に集まってくるのは高齢者ばかりだが、さまざまな立場、年齢の人たちと交流を重ね、語り合い、これからも映画を通して社会を見る眼力を鍛えていきたい。

*追記

大阪自由大学ではその後、『「新しい戦前」の時代にー映画でたどる昭和史ー』の第2シリーズとして「抒情と怒り 木下惠介の世界」を見ました。2024年1月から「山崎豊子が描いた~大阪人の知恵と才覚」と題して、生誕100年を迎えた作家、山崎豊子さんの原作映画を取り上げています。詳細は大阪自由大学のホームページをご覧ください。

いけだ・ともたか

大阪自由大学主宰 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008~10年大阪市教育委員長。著書に『謀略の影法師-日中国交正常化の黒幕・小日向白朗の生涯』(宝島社)、『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。

特集/社会の底が抜けるのか

第37号 記事一覧

ページの
トップへ