特集 ● 社会の底が抜けるのか
自由な社会と労働の尊厳
新自由主義が深刻化させた社会分断の修復への道は
労働運動アナリスト 早川 行雄
1.サッチャーの呪い:TINA
新自由主義の政治的帰結/西欧中心史観の虚構
2.エスピン-アンデルセンの福音:脱商品化
対抗理念としての脱商品化/商品とは何か
3.アンチTINAで内外政治を再認識
対米従属構造の系譜/西欧民主主義の正体
4.社会の持続可能性と労働の尊厳
実質的包摂と脱成長コミュニズム/遊戯労働のすすめ
穏やかな元旦が大方暮れようとしていたそのとき、石川県能登半島でマグニチュード7.6の大規模地震が発生して大きな被害をもたらした。自然の脅威の前に人間の脆さ儚さを改めて痛感すると同時に、現実的に対応可能であったはずの防災・減災対策を怠ってきた行政の責任も鋭く問われる。何よりも今回の地震により志賀原発では火災や一部電源喪失などの重大な影響が生じたことからも、常に大規模震災被害と隣り合わせにある日本列島に原発を林立させるエネルギー政策の愚劣さが改めて誰の目にも明らかにされた。
翌2日の夕刻には羽田空港において、能登の被災地に向かう海上保安庁の飛行機と日航機が衝突して両機とも炎上するという大事故が発生した。最先端の科学技術が集積された飛行場においても、僅かな人為的誤りが大惨事を招く。事故の背景には羽田空港の過密や管制官の過重労働もあるとされるが、技術への過度の依存を戒め、人間は必ず誤りを犯すという現実を今一度肝に銘じておかねばなるまい。
戦争犯罪がまかり通る国際社会、腐敗堕落を極める国内政治の惨憺たる状況に包まれながら、2024年は何やら不吉な予兆と共に開けた。とはいえ、この重苦しい閉塞感を伴った時代状況は人類史の必然の帰結でもなければ、自由な社会をめざした先人たちの選択を正統的に継承するものでも無論ない。わたしたちはなぜ、いまある現実とは異なる希望にあふれた社会を追い求める心のゆとりを失ってしまったのであろうか。
いまこそ労働の尊厳をしっかりと中心に据えた自由な社会の構想を描いてみたいものだ。本稿にそうしたあるべき社会の具体的で精緻華麗な設計図のような回答は示されていないが、あるべき社会を構想しその実現をめざすためのヒントを提供できれば幸いだ(なお、あるべき社会の構想については日本退職者連合が結成30周年を記念して提言した「次の世代に継承すべき社会とは」も参照されたい)。
1.サッチャーの呪い:TINA
新自由主義の政治的帰結
1979年から90年まで英国首相の座にあったマーガレット・サッチャーは新自由主義経済の旗手として華々しく登場して一世を風靡した。当時の政治世界におけるあだ花的寵児としてもてはやされたものの、サッチャー政策の帰結は強欲金融資本の寄生的支配を拡散しただけで、社会には格差と貧困が蔓延して少なくとも庶民の暮らし向きに関しては鳴り物入りで喧伝された成果は何一つ実現しなかった。
そのサッチャーが新自由主義政策を推進するにあたって好んで用いたスローガンがTINA(There is no alternative)すなわち「他に選択肢はない」である。前述のようにサッチャーの経済政策は有権者の批判を招くような結果しか残せず苦境に立たされたのだが、突如勃発したフォークランド紛争(1982年)を契機に高揚した愛国感情の下で悪運強く人気を回復し長期政権を維持した。
結局のところ新自由主義政策とはデヴィッド・グレーバーが「ネオリベラリズムの墓碑銘を歴史学者たちが書き記すとして、経済的要求に対して政治的要求を体系的に優先させた形態の資本主義であった、という結論は避けられまい」(『官僚制のユートピア』)と述べたように、資本主義だけが唯一可能な経済システムであるというフィクションを信じ込ませる支配層の政治的要求を集約したものである。その意味で自らの経済政策をTINAと称したサッチャーの呪いは、当人の意図を超えて今日に至るも継続しているというべきである。
翻って正統派とされる歴史観を振り返るならばTINAの呪い、つまり資本主義だけが可能な経済体制であり、人類の歴史は文明と共に資本主義に向けて一筋に進歩してきたという思い込みは新自由主義政策に起源をもつものではない。グレーバーと気鋭の考古学者デヴィッド・ウェングロウの共著『万物の黎明』において著者たちは、17世紀における北米先住民による西欧文明への批判を出発点として、それが西欧の啓蒙主義者に与えた影響や反動から形成された「人類史の進化論的枠組み」への批判を展開し、歴史家たちが人類の過去の膨大な部分を歴史の視野から抹消あるいは等閑視した結果、わたしたちはみずからを再創造する可能性を想像することさえできないほど、検証されざる前提から出発した思考の束縛(TINA)に囚われてしまった神話の世界のただなかにあると指摘している。
西欧中心史観の虚構
『万物の黎明』の重要な指摘は、常備軍や警察力のような暴力装置を独占し、官僚機構とメディア支配によって情報を統制・監視し、それらの権力行使を正当化する同じ支配層内部の政治勢力同士の祭礼的普通選挙の三本柱からなる近代西欧型国民国家に必然性も正統性もないことを豊富な史料と英明な分析によって示したことである。同時に、何の特権も持たない普通の市民が何処でも受け入れられる移動の自由も、賃労働と資本関係のような指図を受けずに働く自由も、何より中央集権的統治機構以外の社会体制を選択する自由という三つの自由を奪われている現状が決して自明で選択の余地のない必然の国ではなく、自由の国を目指すことは可能なのだとも述べているのである。
同書において著者たちが人類史を再構成するに際して要となった概念のひとつに「遊戯農耕(play farming)」がある。遊戯農耕とはルーズでフレキシブルで、農耕以外の季節的活動にも自由に携わることができる耕作方法を指し、季節的に社会構造を入れ替えたのと同じように農耕と狩猟・採取を切り替えることで、農耕が死活の問題にならないよう工夫された生産様式である。遊戯農耕には古今東西に実に多様な事例が存在するが、そこで共通するのは土地と権力ヒエラルキーに縛られない自由と様々な形で女性が重要な役割を果たしていることだ。この遊戯農耕の盛衰と前述の三つの自由を保持することの間には密接な関係がある。
ウェングロウは同書上梓後、インドのヒンドゥスタン・タイムスの取材に答えて「どのような歴史的変化によって、わたしたちは現在のわたしたちのようになったのか。このような観点から、人類の歴史についてできるだけ広いスケールで、イメージを頭に描いてください。そして、いま思い描いたことがすべて間違っていると想像してください。これが本書の基本的前提です」と挑発的に語っている。彼が言っているのは近代政治原理の基礎を提供したホッブスや平等主義的啓蒙思想の開祖たるルソーが議論の前提として仮定した(つまり歴史的事実ではない)人類の原初状態から論を起こした後世のエピゴーネンたちによる歴史観には何の根拠もないという本書の核心的論点のことだ。新自由主義政策は明らかにこうした西欧文明中心史観(定住と私的所有をキリスト教的原罪に準えた進化論的枠組み)の今日的表現ではある。
グレーバーも参加して影響を受けたという「グローバル・ジャスティス運動」を担いシアトルやポルト・アグレあるいはウォールストリートの闘いに結集した人々にとっては、「もう一つの世界は可能だ」という自明のことが最新の学術研究に基づいて立証されたに過ぎないとも言える。サッチャーの呪いから自由な運動や知的営為は世界のいたるところで健在である。日本史研究で言えば、網野善彦の仕事に今一度着目すべきであろう。
2.エスピン-アンデルセンの福音:脱商品化
対抗理念としての脱商品化
さて、近現代西欧社会を模範とする国民国家の統治形態がTINAではないとすると、それに対抗すべき自由な社会はどのように構想されてきたのだろうか。
1970年代は1968年の世界革命(ウォーラステイン)の残響が鳴り響く下で、後の時代に狂騒の70年代と呼ばれることとなったが、ヴォルフガング・シュトレークは「豊かさと自由への過剰な期待が世相を風靡した時代」であり「(資本所有者・管理者たちは)経済が耐えうる「負担限界」(ヨッヘン・シュテフェン)を試そうとするような政治的意思表明に危機感を募らせ、70年代半ばに、戦後資本主義の政治経済を根本的に改造するための長い闘いを開始した」(『時間かせぎの資本主義』)と述べている。
1973年に米国CIAが後ろ盾となってチリのアジェンデ社会主義政権を崩壊させた軍事クデターは、新自由主義への進軍を促す狼煙であり、70年代末に英国首相となったサッチャーの呪い(TINA)こそは、そうした支配層による階級闘争の旗印となり、1980年代以降の世界経済を操る支配的なイデオロギーとなった。シュトレークは1970年代に挫折した福祉国家政策について資本主義を飼いならそうとするものとして批判的に扱っているが、資本主義の改良という微温的な政策とは一線を画する対抗理念として、イエスタ・エスピン-アンデルセンが福祉国家の比較指標として重視した「脱商品化」には着目すべきである。
福祉国家の研究者であるエスピン-アンデルセンは『福祉資本主義の三つの世界』において世界の福祉国家を「社会民主主義」「保守主義」「自由主義」の3タイプに大別している。福祉国家の国際比較を行う際の分析・検証指標のひとつが脱商品化である。エスピン-アンデルセンによれば脱商品化とは、個人(と家族)が市場に依存することなく所得を確保し消費ができる、その程度を明示するもので、市民が仕事、収入、あるいは一般的な福祉の受給権を失う可能性なしに、必要と考えたときに自由に労働から離れることができるという条件を備えていなければならない。広井良典は脱商品化を「社会保障以外の領域も含めて言えば、たとえば農業や教育といった分野をどこまで市場経済にゆだねて「商品化」しているか、あるいは社会的なシステムによって対応しているかといった座標軸である」(『人口減者社会のデザイン』)と簡潔に要約している。
エスピン-アンデルセンにおいて脱商品化が福祉国家の指標となるのは、社会から労働契約(賃労働と資本の関係)以外に社会的な再生産を保障する一連の制度が失われた結果、人々(労働力)が商品化されたが、現代的な社会権が導入され、社会サービスが人々の権利とみなされるようになると、人々が市場に依存することなく生活を維持できるようになり、労働力の脱商品化も生じると考えられるからである。
商品とは何か
脱商品化の意義を正しく認識するには、それから脱すべき「商品」とは何かを理解しなければならない。周知のようにマルクスの『資本論』は、ブルジョワ社会における経済の細胞形態である商品の記述から説き起こされている。マルクスは労働力が商品化され、人間労働の生産物である商品が逆に人間を支配するに至る事象を「物象化」と呼んだ。佐々木隆治の解説によれば、このような商品や市場における商品交換の必要から登場し、人間にかわって社会関係を取り結ぶ力を持つに至った貨幣を物象といい、人格と人格の関係が物象と物象の関係として現れる事態を物象化という。そしてもともとは人間労働によって価値を付与された商品が、市場においてはあたかもそれ自身の内在的性質としてとして価値を持つとみなしてしまう思い込みを物神崇拝(フェティシズム)という(『私たちはなぜ働くのか』)。
斎藤幸平は、ドイツにおける授業料や医療費が原則無償とされている社会保障制度を評して「これこそが、エスピン-アンデルセンが「脱商品化」と呼んだ事態です。つまり、生活に必要な財やサービスが(市場で貨幣を使うことなく)無償でアクセスできるようになればなるほど、脱商品化は進んでいきます・・・福祉国家は、もちろん資本主義国家です。けれども、脱商品化によって、物象化の力にブレーキを掛けているのがわかるでしょう」(『ゼロからの「資本論」』)と述べている。生活に必要な財やサービスの脱商品化ないしは非市場化が必要であるとの思想は、宇沢弘文の唱えた「社会的共通資本」の概念にも共有されているし、井手英策の「ベーシックサービス」論(『どうせ社会は変えられないなんてだれが言った?』)や宮本太郎の「ベーシックアセット」論(『貧困・介護・育児の政治』)とも通底している。
労働力を商品化し、労働者は賃労働によって労働力商品と貨幣を交換することでしか生活必需品を稼得できず、商品(資本)に支配された働き方を強要される資本主義市場経済で、財やサービスに市場外での自由なアクセスを保障する脱商品化は、労働力そのものをも脱商品化する。それ故に脱商品化はTINAイデオロギーに呪縛された社会に福音をもたらすものであり、市場原理を神格化する物神崇拝に依拠した新自由主義がTINAを僭称することの傲慢さを余すところなく明らかにするのである。
3.アンチTINAで内外政治を再認識
TINAの呪縛から解放されたアタマで戦後の日本政治や現下の国際政治情勢をどのように認識すべきか。応用問題として検討してみよう。
対米従属構造の系譜
敗戦を契機に制定された日本国憲法は国の交戦権を否定し常備軍の保有を禁じている。現憲法の成立過程にはGHQの関与など様々な議論もあるが、最大の禍根となったのは象徴天皇制を採用することで昭和天皇の戦争責任を曖昧にしたことである。その結果、國分功一郎が指摘するように、戦時下天皇制国家の「無責任の体系」(丸山眞男)はむしろ天皇が戦争責任をとらなかったことによって戦後に完成した。この「無責任の体系」は対米従属構造として定着し、白井聡は「(戦後)日本の法秩序は、日本国憲法と安保法体系の二つの法体系が存在するものとなり、後者が前者に優越する構造が確定された」(『国体論 菊と星条旗』)と分析している。
東西冷戦が激化する情勢の下、米国は1947年のトルーマン・ドクトリンにより冷戦体制の戦略を固め、1949年の中華人民共和国建国を経て、マッカーサーは1950年に日本を「共産主義進出阻止の防壁」と規定し再軍備を認める声明を発した。同年に朝鮮戦争が勃発する中で警察予備隊が創設され、翌1951年のサンフランシスコ講和条約は第3章において、日本は個別的・集団的自衛権を持ち、集団安全保障条約に参加できるとした。日本の常備軍は1952年保安隊に改組、1954年には日米相互防衛援助協定(MSA)により自衛隊の創出に至る。これが俗に言う「逆コース」の時代状況であり、レッド・パージや日教組弾圧の民主主義圧殺時代に至る。
重要なことはこの「逆コース」に抗して、戦後一貫して革新陣営や有識者らによる護憲運動の力で、改憲を党是とする自民党による改憲の発議を許さず、非武装中立の憲法理念を辛うじて守り抜くことで、憲法を国民自身による選択として定着させてきたことである。
対立する陣営の片方に与する軍事同盟や国家権力の暴力装置としての常備軍が憲法違反であることは、砂川訴訟の伊達判決(1959年東京地裁)や長沼ナイキ訴訟における福島判決(1973年札幌地裁)からも明らかである。上級審は司法の独立を自ら放棄した統治行為論によって憲法判断を避けているので、これらの判決をもって唯一の憲法判断とみなすのが相当である。司法の自己否定という悪しき伝統は名護市辺野古での工事を承認しない沖縄県に対して国が行った「是正の指示」を適法とした最高裁判決や砂川事件の元被告が最高裁長官と米国駐日大使の談合で公正な裁判を受ける権利を侵害されたとする訴訟で違法性なしの判決(東京地裁)が下されるなど、今日に至るも確固として維持されている。
西欧民主主義の正体
パリコミューンの宣言やレーニンの4月テーゼは常備軍の廃止を要求したが、国家権力の暴力装置としての常備軍を持たないことは、侵略者に対する先住民の抵抗権など広義の主権者の正当防衛的自衛権を否定するものではない(アメリカの西部開拓史とは先住民から見れば騎兵隊という暴力装置を用いた侵略史なのである)。それはイスラエルによる国際法違反のパレスチナ侵略や現下のジェノサイド的ガザ地区爆撃や侵攻に抗するパレスチナ解放闘争に全世界で幾百万の民衆が圧倒的な連帯を表明していることからも明らかであろう。
今この時にもイスラエルによる民族浄化の暴虐は続いているが、それを米NATO諸国のいわゆる欧米民主主義国家なるものが支援することで、端無くも民主主義(西欧キリスト教文明中心主義の進歩史観、チャーチルが「最悪の政治形態」と称えた西欧民主主義)を語る偽善者が馬脚を現す結果となっている。これら諸国のみがウクライナ紛争においてゼレンスキーを支持していることから、この紛争の構図も自ずと明らかであろう。白人政権のアパルトヘイトと闘い独立を勝ち取った南アフリカ政府は、イスラエルの戦争犯罪(ジェノサイド)を国際司法裁判所に提訴し、イスラエルを支援する米英の訴追も準備している。
米NATOの軍事力を背景とした世界支配とその衰退が誰の目にも明らかにされ、米国が人権外交として強要する「民主主義・法の支配」と「権威主義・独裁」の二者択一といった邪に偽造された価値観(欧米支配を正当化するダブル・スタンダード)の共有を拒むグローバルサウスの台頭著しい現状において、非武装中立の平和憲法を擁する日本外交の真価が問われていることを護憲・平和勢力は厳しく自覚すべきだ。
冷戦が平和共存体制に至り、軍事同盟強化を目指す「逆コース」は一時凍結されたかにも見られたが、安倍政権の2012年体制成立を機に軍事同盟強化・軍事大国化に向けた策動がトップ・ギアで加速されつつある。近年における自公政権の脱商品化指数を算定すれば世界最低水準であることは必定だ。このような社会は政治的にも持続不可能なことは明白である。敗戦直後の護憲運動において理念的な中心を担った南原繁が東大総長を辞するにあたって残したメッセージは「真理は最後の勝者である」であった。今再び南原の言葉を肝に銘じるべき時代状況を迎えている。
4.社会の持続可能性と労働の尊厳
実質的包摂と脱成長コミュニズム
本題に戻ろう。第2項でみた商品・貨幣・資本といった物象による人間労働の支配、すなわち物象化が人間労働にもたらすのは精神労働と肉体労働の分離である。これはホワイトカラーとブルカラーの対立ではなく、自らの(またはコミュニティーの)必要を認識してその必要を満たすための創意工夫としての構想と、それに基づいて有用物やサービスの仕組みを創り出す実行の分離である。マルクスはこうした労働を疎外された労働と規定した。それはまた尊厳なき労働でもある。
人々はなぜ尊厳なき疎外された労働を当然のこと、仕方ないこととして受け入れてしまうのか。マルクスはこうした労働者の主体性を奪って取り込む物象化の内実を「包摂(subsumption)」という概念で説明している。念のために言えば、この包摂はSDGsなどの政策に含まれる、誰も排除せずに包み込むという意味の「包摂(inclusion)」とはまったく別の概念である。資本への包摂は、最初は農閑期の副業や家内制手工業のように商品生産であっても相対的に生産者の裁量の余地を残す形式的包摂から、工場労働のように熟練や技能が機械に置き換えられ、労働の場所・時間・内容が完全に資本の支配下に置かれる実質的包摂へと展開する。
白井聡は『武器としての「資本論」』で、包摂の現段階を「たぶん今「包摂」は、生産の過程、労働の過程を飲み込むだけでなく、人間の魂、全存在の包摂へと向かっている」、「人間の感性までもが資本に包摂されてしまう事態をもたらしたのは、新自由主義である」と位置づけ、新自由主義に対してデヴィッド・ハーヴェイを引用しつつ「これは資本家階級の側からの階級闘争なのだ」「持たざる者から持つ者への逆の再配分なのだ」と批判している。
白井は、新自由主義は単なる政治経済的なものではなく文化になっており、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建するには、意思よりも基礎的な感性に遡る必要があり、包摂によって自由を奪われていると感じたときに「それはいやだ」と言えるかどうかが階級闘争の原点になるとしている。
斎藤幸平は『マルクス解体』においてマルクスの実質的包摂概念に着目し、そこに資本主義のもとでの技術発展に対するマルクスの見方に大きな転換があったとしている。マルクスは生産力の発展がポスト資本主義への物質的基盤を準備するという楽観的な見方を撤回し、自然科学と前資本主義社会を同時に研究することで、唯物史観をまったく新しい視点から再構築・再定式化し、従来の唯物史観を放棄したとする。ただ、従来から批判の俎上に上る唯物史観とは、旧ソ連における、とりわけスターリン独裁体制確立後に「国教化」されたマルクス主義の「正統派」的解釈(TINA史観の一種であり、ローザ・ルクセンブルグやナンシー・フレーザーが批判の対象とした)のことを指すのではなかろうか。『資本論』におけるマルクス自身の記述に後世における誤用や悪用を排除し得ない曖昧さがあったとしても、それはマルクスの思想とは自ずと別物である。
斎藤は、マルクスにおけるポスト資本主義の最終展望は、非資本主義社会へ復帰することを求める「脱成長コミュニズム」であり、非西欧社会から学び、定常型経済の新しい原理を組み込むことを要求するという。斎藤が今日的に定式化した脱成長コミュニズムの要諦は、➀剰余価値生産から使用価値重視へ②ブルシットジョブを廃し労働時間短縮③労働者の自律性④市場競争の廃止➄構想と実行の再統一に加えてジェンダー平等や地球環境保護などである。
重要なことは斎藤の(あるいはマルクスの)脱成長コミュニズムは、単なる将来の目標としての未来像ではなく、グレーバーが「基盤的コミュニズム」(『負債論』)と呼んだ、個人の自由の前提として人類社会の基礎部分で常に作用している論理とも相通じる現在的な課題だということである。人間的諸活動の賃労働を除く大半の領域は、他者との関係においても自己実現の観点からも有用な営みで満たされている。日常生活では構想と実行はあえて意識されることもなく融合しているが、その日常と賃労働の違いを意識化することが重要な契機となるのである。
遊戯労働のすすめ
最後に労働の尊厳についてまとめておこう。労働の尊厳とは何ら難解な概念ではなく、人間が労働するにあたって、その働き方に関して働く場所や時間も含めて、他人から一切の指図を受けないこと、やや堅苦しく表現すれば使用従属関係を有さないことに尽きる。概念としては単純明快だが、その実現は土地を含む社会的共通資本の脱商品化と一般的等価物としての貨幣から蓄積手段および継承(相続)手段としての性格を失わせ最終的には貨幣(物神)を介した市場的交換を廃絶することが必要条件となる。なぜならば、それなしには日常生活では無意識に結びついている構想と実行を労働の裡に再統一し、基盤的コミュニズムを社会の支配的構成原理とすることはできないからである。
ここで想起すべきは『万物の黎明』の著者たちが重視した遊戯農耕の概念である。遊戯農耕社に共通する重要な特徴は、現在と比べても労働時間が相当身短かったと推定されることである。前出の三つの自由は、新自由主義体制の下で飛躍的に強化された資本による実質的包摂によって、完膚なきまでに破壊されてしまったが、遊戯農耕を選好した先人たちの自由への思いを今日的に敷衍するならば、それは遊戯労働とも言うべき、資本の実質的包摂からか解放された人間本来の労働への回帰である。そのような尊厳ある労働に支えられた社会のみが、マルクスが「物質代謝の亀裂」として捉えた、資本主義的商品生産社会が不可避的に引き起こす深刻な地球環境の破壊をも修復し、持続可能な唯一の(TINA?)の社会なのである。
現下の労働組合が取り組まねばならない喫緊の課題は、マルクスが「それなしには一切の解放の試みが失敗に終わらざるをえない先決条件」であると繰り返し述べている「労働日の制限(時短)」である。労働時間の短縮で自由にものを考え、省察するゆとりがなければ、白井の言う「感性に遡った闘争主体の再建」も覚束ないからである。
労働運動のリーダーや労働組合の役員諸氏には是非ともこうした問題意識を共有し、「人への投資」だの「リスキリング」だのという資本の実質的包摂を一層強化せんとする支配階級のイデオロギーの本質をしっかり見抜いてもらいたい。その意味で本稿をもって「連合への最後の提言その2」としたい(関心のある読者は拙稿「新自由主義的な人への投資から、労働の尊厳回復への転換が急務」現代の理論デジタルvol.33所収も参照)。
はやかわ・ゆきお
1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員、日本退職者連合副事務局長などを経て現在、労働運動アナリスト・日本労働ペンクラブ会員・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。
特集/社会の底が抜けるのか
- 災害が暴いた脆弱国家日本の現実神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- 人・未来への投資、政治資金パーティーの全面禁止で政治を日本再生の力に立憲民主党代表代行・逢坂 誠二
- 許されない武力による領土拡張国際問題ジャーナリスト・金子 敦郎
- 「債務ブレーキ」が引き起こしたドイツの混乱在ベルリン・福澤 啓臣
- 試練か、それとも希望か龍谷大学法学部教授・松尾 秀哉
- 「パクス・トクガワーナ」の虚妄(中)筑波大学名誉教授・進藤 榮一
- 自由な社会と労働の尊厳労働運動アナリスト・早川 行雄
- 動き始めた労働基準法の解体を止めよう東京統一管理職ユニオン執行委員長・大野 隆
- 琉球人遺骨返還運動の現在と展望龍谷大学経済学部教授・松島 泰勝
- 「劇的な昂揚」で命の尊さを知るジャーナリスト・池田 知隆
- 1970年代障碍者解放運動の私的総括(上)本誌代表編集委員・千本 秀樹
- 尹政権は、反人権・反民主・反憲法の「検察独裁」立教大学兼任講師・李昤京(リ・リョンギョン)
- 緊急寄稿日本共産党からの批判に反論する中央大学法学部教授・中北 浩爾