特集 ● 社会の底が抜けるのか

尹政権は、反人権・反民主・反憲法の「検察独裁」

9つの法案に拒否権を発動――韓国・尹錫悦(ユン・ソンニョル)政権とは何か—その2

立教大学兼任講師 李昤京(リ・リョンギョン)

2024年1月30日尹錫悦(ユン・ソンニョル)大統領が「10・29梨泰院惨事被害者の権利保障と真相究明および再発防止のための特別法案」(以下、梨泰院惨事特別法案)に拒否権(veto power)を行使した。

梨泰院惨事特別法案とは、2022年10月29日にソウルの繁華街梨泰院で起きた雑踏事故で命を失った159人(韓国政府公式発表。うち外国人が26人)に対する補償対策と真相究明のための特別調査委員会の設置を骨子にしている。遺族と生存者たちは「なぜ」これまで作動していた安全管理システムがその日、その時間、そこでは作動しなかったのか、と問い続けてきた。これまで尹錫悦政府と与党「国民の力」は惨事の責任を論じることそのものをタブー視して真相究明と責任者処罰、特別法の制定を求める声を「政治的」「反政府的」だと決めづけて議論を拒否した。さらに一部の大手右翼メディアは、真実究明を叫び続けている遺族と生存者たちを結局「カネ」が欲しくて行動しているかのように罵倒する。まさにセウォル号事故後の対応と同様だと繰り返した。

このような状況だったので梨泰院惨事特別法案は野党「共に民主党」などの主導で成立した。惨事から今年1月9日の特別法案が国会を通過するまで438日がかかった。やっと「なぜ」発生して、「誰」が「いかに」関与して、「誰が事件の裏へ隠れたのか」を明らかにする道が開いたのだ。最後の関門である大統領による梨泰院惨事特別法公布を実現するため、1月29日惨事犠牲者遺族たちは梨泰院の現場から五体投地(両手両膝、額を地面に投げ伏す礼)をしながら龍山区大統領室まで行進した。

ところが、翌日の1月30日午後に尹大統領は与野党の合意なしに通過した同法案が名分と実益もなく国家行政力と財源の消耗で国民の分裂を深めると再議要求権、すなわち法律案の拒否権を行使した。一度も遺族の面談要請に応じなかったのが、2024年大韓民国の大統領だ。去年の10月に一周忌を控えては、尹大統領は追悼会が「政治的集会」だという理由で式典に参列しなかった。その代わり惨事当日に大統領は側近や与党の議員たちだけでソウルのある教会の礼拝に参列して哀悼の言葉を述べた。自ら「一番悲しい日」と言ったその瞬間、尹大統領の姿は遺族のそばにいなかった。国民の生命と安全を守れなかった大統領の謝罪はいまだになく、だれ一人責任をとっていないまま1周忌が過ぎ、やっと国会を通過した法案に、今度は大統領が拒否権を行使したのだ。

拒否権行使当日の午前中、大統領への特別法再議要求権の行使建議案を議決する国務会議が開かれる政府ソウル庁舎に行こうとした遺族たちの前に警察が立ちはだかった。遺族の行く道は封鎖され、到着した遺族は数十名の警察によって取り囲まれて孤立した。「なぜ私たちを閉じ込めるのか、私たちは誰と話をすればいいのか」と絶句した。建議案議決後の政府は遺族の絶句に「カネ」を投げつける。「真実を!」というのに「補償金狙い!」と攻撃し、真実究明の特別法が通ると財源の消耗、つまり税金泥棒と蹴った政府が今度は遺族との協議もなく一方的な支援策だけ発表したのだ。それを聞いた遺族は「最も侮辱的な方法で真実を黙殺した。いっそ私を殺して」と泣き叫んだ。このような対応と姿勢、梨泰院惨事特別法案制定に対する拒否は尹錫悦政権を端的に物語る。

予定通りならば、この論考は本来、去年8月に掲載した韓国・尹錫悦(ユン・ソンニョル)政府の1年――その2になるべきだった。しかし、個人的な理由で掲載がだいぶ遅れたうえ、就任1年評価では昨今著しく変化する韓国政治情勢に追いつくのは難しい。無論1年半の分析も私の力量を超えることなので、尹錫悦大統領が拒否権を行使した9つの法案の分析を用いて2024年1月までの尹錫悦政権について考察させていただきたい。

在任20か月で9つの法案に拒否権を行使した大統領・尹錫悦

韓国における大統領の法律案再議要求権とは、国会が本会議で可決して政府に公表を要請した法律案や決議に対して大統領が異議のある場合、15日以内に国会にさし戻して再議を要求する法律案の拒否権だ。韓国の憲法53条2項が定めているこの権限は立法権を持つ国会を牽制して均衡を保ち三権分立原則を維持するために大統領に付与された。当然大統領の拒否権が濫用されると国会の立法権自体が無力化するおそれがある。さらに拒否権行使の回数に制限を決めていないがゆえに、明確な拒否根拠の提示と立法権尊重の原則、そして議論が必要とされる。大統領の拒否権が憲法上の権限ではあるが、立て続く拒否権の行使は立法と行政の協治の場を狭めてしまう。

だが、尹大統領の梨泰院惨事特別法案に対する拒否権の行使は9件目だ。1987年民主化によって大統領直接選出制が導入されて以来、最多の記録更新だ。より危惧されるのは尹大統領の任期5年のなかで、まだ2年も経っていないなかで拒否権の発動が9件にも上ることだ。

大統領に拒否された9つの法(改定)案を表1に整理した。9つは農業、医療、労働、放送、特別検察官任命法など多岐にわたる。

表1 尹錫悦大統領が拒否権を行使した9つの法案(2024.2.15日現在、筆者作成)

法案名①穀物管理法改定案②看護法制定案③労働組合及び労働関係調停法2・3条の改定案(黄色い封筒法)④放送法改定案、⑤放送文化振興会法改定案、⑥韓国教育放送公社法改定案(放送3法改定案)⑦金建希女史株価操作疑惑特別検察官任命法⑧大庄洞50億クラブ特別検察官任命法⑨10・29梨泰院惨事被害者の権利保障と真相究明及び再発防止のための特別法案
成立23.3.2323.4.2723.11.923.11.923.12.2824.1.9
目的米価格の安定と完全な米の自給現行医療法から看護師の業務内容を分離、処遇改善等下請け労働者への元請け企業の責任を強化、ストライキを行った労働者への企業の過度な損害賠償請求を制限公営放送の独立性確保:法的根拠もなく与野党が掌握したKBS•EBS•MBCの理事推薦権を他団体に付与、市民100人で社長候補国民推薦委員会が社長選出2010年前後の大統領夫人キム・ゴ二さんの株価操作疑惑と大庄洞開発業者などから50億ウォンをもらう約束をした法曹界の高位公職者捜査被害者権利保障と真相究明
拒否23.4.423.5.1623.12.123.12.124.1.524.1.30
拒否理由典型的ポピュリズム、強制買収法国民健康に不安感、関連団体との葛藤を招く不法ストライキを助長する(経済殺し法)理事会構成の偏向性と法案処理過程における手続的正当性の欠如(放送永久掌握法)法案の捜査範囲は曖昧で中立性・公正性を損なう。捜査の状況が総選挙の世論戦に利用される可能性が高い与野党の合意なく、国民の分裂を深める
国会再票決否決/再発議審査中否決/廃案/再推進準備中否決/廃案/再推進準備中否決/廃案/再推進準備中2月29日に国会で再票決する予定 
1)穀物管理法改定案と看護法制定への拒否

①穀物管理法改定案は2021年から議論を始めてきたが、文在寅政府の対応も安易だったことなどもあって李在明「共に民主党」代表が「1号民生(国民の暮らし)法案」と掲げた法案だ。与党「国民の力」も前会期の国会で改定案を出していた。従来の政府と与党ならば「票」を意識して農民の顔色くらいは伺っていた。だが、尹大統領の政府と与党は解決案を提示せず「拒否」で露骨に農民と農業をないがしろにする。韓国の最近3年(2020〜2022年)平均の穀物自給率は19.5%に過ぎない。2015〜2017年平均23%だったのが20%を割って世界最下位のレベルだ。

2023年4月4日大統領の拒否後、同改定案は4月13日「共に民主党」の要求によって国会本会議で再議された。だが、与党の反対で在籍議員過半数出席に出席議員の3分の2以上の賛成を得ることができず否決された。現在は農民たちが直接参加して作った全面改定案が野党「進歩党」によって発議されて、現在国会の該当委員会で審査中だ。

②看護法は2022年の大統領選挙で与野党ともに法の制定を約束した――拒否権行使の直前に大統領府と与党は公の場で制定を言及する映像が残っているにもかかわらず最終公約集には入っていないから約束していないと否定――法案だ。韓国における医療法は1951年にできた。当時はまだ看護師の役割と地位などに関する内容は眼中になかった。70年も前にできた医療法から、看護師の役割と地位などを独自に明記したのが看護法だ。看護法の必要性はずっと提起されてきたが、医者集団の反対によってなかなかことが進まなかった。今度国会を動かした大きい力は国民の支持だ。

コロナ19の感染拡大をきっかけに国民の70.2%が法制定に賛成 (2022年2月国会による調査) するなど世論の看護法制定をあと推したのだ。2023年4月27日国会で法制定、5月16日尹大統領は拒否権行使。政府は国民健康に不安感を与え、関連団体との葛藤を招くと拒否の理由をあげ、法制定を約束した事実認定さえも「拒否」した。

2)たった1日で拒否された労働者の権利と頓挫した「真」の労働改革 

前回掲載の<韓国・尹錫悦(ユン・ソンニョル)政府の1年――その1>でさまざまの「初めて」記録更新について触れたが、12月1日に韓国社会はまた前例のない「初めて」を目の当たりにした。たったの一日で長年求められてきた大事な法案4つ(表1③〜⑥)に対して尹大統領が一気に拒否権を行使したのだ。

③労働組合及び労働関係調停法改定案は「黄色い封筒法」とも呼ばれている。2014年法院(日本の裁判所)がストライキを起こした双龍(サンヨン)自動車の労働組合に47億ウォンの損害賠償を言い渡すと多くの市民が自発的に労働組合を支援するために黄色い封筒に4万7000ウォンのカンパを入れて送る連帯運動「黄色い封筒キャンペーン」から由来した別名だ。「黄色い封筒キャンペーン」を主導してきた市民団体「手を取って」によれば、1989〜2022年5月にかけて197件の損害賠償・仮差押さえ事件で3160億ウォンが請求され、これらの事件の94.9%が労働者個人を標的にしたため彼らの暮らしと家庭を深刻に破綻させた。

2014年から9年後の2023年11月9日に紆余曲折の末、「黄色い封筒法」が国会本会議で可決された。改定案の核心内容は二つだ。1)労働者の合法な権利(ストライキ権、団結権、団体交渉権)を行使した労働者に過度な損害償請求や仮差押さえで命を絶ったり、家庭が破綻したりする労働者を生まないため企業の過度な損害賠償請求を制限する。2)元請け企業が下請けの勤労条件の決定に実質的な影響力を行使する場合、労働者や非正規労働者の労組に対して元請け企業は団体交渉に応じるべき使用者であると認める。

派遣、請負、用役、下請けなどの様々なかたちで働く間接雇用の非正規労働者、特殊雇用労働者、フリーランサー、プラットフォーム仲介労働者などの従属的事業契約に縛られて働く労働者が労働組合を結成して彼らの労働条件を実質的に支配する「本当の社長」である元請け大企業、フランチャイズ本部、プラットフォーム事業者、仲介エージェンシー、親企業との交渉できるようする。つまり従来の法律の外に置かれた労使関係の死角地帯を解消する改定案であるがゆえ、「真の」労働改革と言われる。

だからといってけっして労働者に免責権を与えてはいない。労働争議中の不法行為によって被害が発生した場合は該当の不法行為に労働者が関与した程度を判断して個別的に損害賠償の責任を問うようになっている。2023年12月一日の「黄色い封筒法」拒否行使で大統領がいう不法ストライキを助長するとの理由と与党と企業の「経済殺しの悪法」という主張は、意図的な事実の歪曲であり、かつ「労働組合=不法=国家経済に毒のような存在」のイメージ操作だ。

尹政府のこのような労働者と労働運動に対する強硬一辺倒な姿勢は就任1年目の2022年12月21日から「ことば」として具現化する。21日の業務報告会議で尹大統領は2023年最優先課題として「腐敗した労働組合・公職・企業の改革」と「厳格な法の執行」を言及する。とりわけ労働改革が最優先だと強調し、「労組活動も透明な会計によってのみ健全に発展できる」と、「労組の腐敗」を防ぐ方策として労組の会計監査をあげた。翌年の2月21日に開かれた国務会議で尹大統領の口から「建暴」(建設現場の暴力)という造語まで登場した。「労組の腐敗」「建暴」という大統領の「ことば」には尹大統領の労働組合に対する認識、つまり「労働組合=不正・不法・暴力集団」という図式が表れている。

この大統領の「ことば」を実行した政府機関は、その「成果」を就任1周年資料集『尹錫悦政府 自由民主主義と市場経済復元の1年 国政課題30大核心成果』(2023年5月)の労働改革分野で書き記している。一言でいうと、「労使(関係における)法治主義の確立」と「労組会計における透明性の強化」を通じて労働改革をした、との高評価だ。

果たして成果と言える「成果」なのか。そもそも市場の行為者である労使関係には自律と対話が重要のはずなのに、それを法治、法でコントロールするという発想に問題があるのではないか。政府がいう「労使法治主義に基づく労働弱者の保護」が成立するためには「労使法治主義」の理論的な規定とその結果として現実で労働弱者がいかに保護されたのかの立証が必要だ。

(1)尹錫悦政府成立20か月と労働運動

尹政府下の韓国の現実はどうだったのか。政府は「黄色い封筒法」が立法される前から大統領の拒否権行使を予告した。運送料金に「最低料金」を設定する「安全運賃制」の維持と拡大を求めてストライキに入った民主労総公共運輸労組貨物連帯本部に対しては「業務開始命令」の発動、それに続く警察捜査、公正取引委員会の調査圧迫まで、立て続けに労組側を追い詰めた。非正規労働組合のストライキなどに対しては「公権力の投入」で脅した。それらの場に政府・労働者・使用者間の交渉と妥協はもちろん、対話すらも消えてなくなった。

大統領が「建暴」と名指しした建設労働組合に対する対応は「暴力」そのものだ。警察は1階級特別昇進まで掲げて建設労組に対する大々的な取り締まりを行った。労使の団体協約による慣行を建設現場における不法行為「恐喝」だと取り締まり処罰する過程で昨年の5月、建設労組の一人が焼身して死亡する悲劇が起きた。警察が作成した彼の拘束令状で「労組が力で屈服させてきたため恐怖を感じ」たと記した下請け業者たちは、4月26日の拘束令状請求後、むしろ彼に対する処罰不願書を提出している。二人が暴力行為などで1審において実刑が宣告されるが、警察が組合員に対して請求した拘束令状の半分以上は返却された。

他方、雇用労働部が「労使法治主義の確立」のため2023年1月26日に設立したオンライン「労使不条理申告センター」に100日間の申告973件うち88.5%が会社側の不法行為に関する件だったことも明らかになった。正義党の李ウンジュ議員は、雇用労働部が労使それぞれに対する申告件数を非公開にした点、センターが申告内容を案内する様式が労組の不条理へ導くように会社側の肩を持っている点を指摘しながら、尹政権が口では「労使法治主義」というが実質的には労組を狙った「選択的法治」だと批判した。

「労組会計における透明性の強化」も同様だ。民主労組(全国民主労働組合総連盟の略称)などに「労働組合法上会計帳簿及び書類の配置義務を移行しているのかの確認が必要なので帳簿を提出しろ」という法にもない「義務」を強いた。そしてその「義務」に従わない労組には無差別的な過料を科し、労組が自治体から委託運営する労働者総合福祉館など労組に対する国庫支援金事業の77%の大幅削減をした。「透明性の強化」の言い換えは労働組合「叩き」だ。労働者と労働組合への対応から「黄色い封筒法」への拒否までをみると、この政権がいかに「反労働」で「親資本」なのかがわかる。

3)市民の念願でできた放送3法改定案の否定は放送掌握の暴挙

日本に公共放送NHKがあるならば、韓国にはKBS(韓国放送)、MBC(文化放送)、EBS(韓国教育放送)の3社が地上波の公営放送だ。公営放送は国家や特定集団からの干渉なく編集・編成権の自立性が保証され独立した運営をする放送を指す。公共・公営放送は公信力と公正性と正確性、そして国民の信頼が重要だ。しかし、日本も韓国も歴史的に権力の介入によって公営放送は脅かされた。日本より政権交代ができる韓国でも保守・進歩を問わず、与野党の入れ替えで政権が変わるたびに政府与党が公営放送局の理事に自分よりの社長などの理事を任命して放送を利用しようとしたからだ。とりわけ日本は安倍晋三政権下で、韓国は李明博・朴槿恵政権下でその弊害が深刻だったので韓国では2012年頃から放送法の改定が課題に浮上した。映像ジャーナリストの小山帥人さんはNHKを市民の側に取り戻すために会長公選も視野に市民と労組の連帯を提案している(『現代の理論』第2号)。韓国では2023年11月9日まさに市民と労組の連帯によって放送3法改定案が国会を通った。

韓国には憲法第26条が保障する国民の請願権に基づき国民同意請願ホームページ上で30日間国民5万名の同意を得れば、国家機関に対して一定の事案に関する自分の意見や望みの提出ができる。10年以上放送法改定に進展がなかったため、2022年10月20日に言論の現場で働く記者・PD・労働者などの諸団体が「言論自由と公営放送の政治的独立のための法律改定のための国民同意請願」を始める。これに本人認証をした市民5万名が賛同して2022年11月18日に請願が成立し、1年後の11月9日に放送3法改定案が国会本会議を通る。紆余曲折の1年だったが1987年放送法制定から36年ぶり、特定の政党や国会議員の発議を経ていない、党派を超えた法案ができたのだ。

(2)言論の自由と公営放送の政治的独立性のために放送3法の改定を

韓国の公営放送3社に関する法律(④放送法―KBS、⑤放送文化振興会法―MBC、⑥韓国教育放送公社法―EBS)を合わせて韓国では放送3法と呼ぶ。現行放送3法は権力からの介入と影響を受けやすい構造で現場の労働者と専門家と市民の声が排除されていた。

④〜⑥放送3法改定案は公営放送の政治的独立性を強化・法制化する内容を骨子にしている。1番目は、KBS・EBSとMBCの管理・監督機構である放送文化振興会の理事会(以下、便宜のためMBCと記す)を拡大・改編する。具体的には、(1)現行KBS-11人、MBC-9人、EBS-9人の理事会を全て21人の運営委員会へ拡大する。(2)増員した理事を従来の国会(5人)以外に放送メディア学会(6人)、職能団体―放送記者連合会・韓国PD連合会・放送技術人連合会がそれぞれ2人、公営放送社の視聴者委員会(4人)が推薦する。専門性と代表性を担保してこれまで排除されていた市民の意見をも反映するようにしている。

現行法では公営放送3社の理事選任の際に放送通信委員会(放通委)が各分野の代表制を考慮して推薦あるいは任命する。放通委は大統領直属合意制行政機構だ。KBSは11名の理事を放通委が推薦すると大統領が任命し、MBCとEBSの理事9名は放通委が任命する。ただし、放通委の委員5人を政府と国会が推薦するため与野党間の権力構図が放通委を通じて公営放送に影響を与える仕組みだ。

2番目は、公営放送の主人である視聴者・市民の手で社長を選ぶ。公営放送の社長は市民100名でなる「社長候補国民推薦委員会」が3人以下複数の候補者を推薦すると理事会が在籍3分の2以上の賛成(特別多数制)で社長が選任されるのだ。この試みは2017年5月文在寅政府誕生後、市民参与型、熟議民主主義の仕組みが導入された前例がある。

(3)市民の手で公営放送の社長を選ぶ熟議民主主義を踏み躙る

簡単に紹介しよう。2018年2月KBSは、李明博(2008.2〜2013.2)と朴槿恵(2013.2〜2017.3)政権によって破綻したKBSの正常化をかけ、社長選出に熟議民主主義を取り入れた。2月24日に市民諮問団142名の前で3人の社長候補者が公営放送のビジョンと哲学、KBS正常化方案、未来戦略、視聴者権益の拡大などを発表、質疑応答を行い、諮問団の評価を受けた。市民諮問団の評価40%+理事会の最終面接結果60%の総合点で一人を選び、理事会が大統領に任命を提案・要請すると国会の人事聴聞会を経て大統領が社長を最終的に任命する。

その時、23代社長に選ばれたのは現役PD出身のヤン・スンドン候補だ。彼は2008年8月李明博政権によるKBS社長の強制解任当時に反対闘争の前面に立ったことで懲戒処分を受けた人だ。公営放送のような重要な社会的組織の長の選出に放送を知らない一般市民が参与することに危惧する声もあったが、熟議で導き出された「集団知性」の選択結果は、言論の独立性と自立性を求めるKBS構成員の願いと一致していた。ヤン社長はKBSの信頼を損ねたことや金品授受疑惑などで解任された前社長の残り任期を終え、同年10月に連続して任命された。

2017年放送文化振興会(MBCの管理監督機構)は第22代MBC社長選任における手続き的正当性と透明性を再考するために市民参与型を導入、公募過程の大部分を記者と市民に公開した。MBCは公式ホームページに「候補者に問う」という掲示板を開設して市民の意見と質問を受け付け、最終候補者3人の政策説明会には一般市民とMBC構成員が傍聴者として参与した。そして、政策説明会をMBCの公式ホームページ・Facebookなどインターネットとモバイルを通じて生中継して全国で誰でも見ることができるようにした。ヤン・スンドンKBS社長と同じく、MBC社長に2012年放送総ストライキを敢行して解雇された崔承浩(チェ・スンホ)PDが選ばれた。

崔承浩PDは2017年にドキュメンタリー映画「共犯者たち」を作って李明博政権のメディアへの露骨な政治介入と言論弾圧、そしてこれに迎合する公営放送局内の共犯者たちの実態と構造とを明らかにしている。そして、ケーブルテレビの2局、大韓民国のニュース専門放送局のYTN(2017年7月)と国家基幹ニュース通信社の聯合ニュース(2021年8月)も社長選出に市民参与の評価会を設けて市民の意見を反映した。このような試みを法制化するのが放送3法の改定案だったが、これを尹政府と与党が拒否した。

(4)李明博と朴槿恵政権を超える尹錫悦政権の公営放送「私物化」

2023年11月9日「黄色い封筒法」と共に国会を通った放送3法改定は12月1日に大統領に拒否され、8日に国会の本会議で否決され廃案となった。与党の国民の力は改定案が理事会構成に偏向性があり、法案処理過程における手続的正当性の欠如した「放送永久掌握法」だから公営放送の公正性と公益性が損なわれると反対した。尹大統領は拒否権を行使することで、大統領選挙で放送の公営性と言論の公共性、言論の自由を叫んでいた「大統領候補・尹錫悦」をも否定した。これは予定されていたことなのだろう。

尹政府は成立初期から前政府が任命した言論有関機関及び言論社の議決機構を交代して言論を掌握した。例えば、放送通信委員会長を国務会議から排除―監査院による監査(2022.6)―放通委の委員長や職員に対する検察の家宅捜査(2022.9〜2023.2)と起訴(23.5.2)―政府の免職手続き(23.5.11)―大統領の免職処分案裁可(23.5.30)―新しい放送通信委員会長の任命(23.8)―放送通信審議委員長らの解嘱(23.8)・新しい委員長選出(23.9)―KBSとMBCの理事長や理事と社長の解任(23.8〜9)―政府よりの幹部任命―政府に批判的なプログラムの廃止・縮小と政府よりの報道操作、という流れだ。まさに李明博・朴槿恵政権が行った言論弾圧と掌握、そのものだ。

 それもそうだが、現政府が言論関連機関長(放送通信委員会長、放送通信審議委員長、文化体育部長官)に選んだ全員が李明博・朴槿恵政府で言論の独立性の侵害と公営放送の私物化を主導した人たちだ。その上、彼らは「左派によって国民の意識が左傾化」したと考えるニューライト系列の人びとで、言論を統制・偏頗・歪曲する報道を擁護した。その結果、今の韓国は大事な社会議題が偏頗・歪曲報道によって汚染され、言論は正当な権力監視・牽制ができていない。国境なき記者団が発表する世界報道自由度ランキングは再び下がっている(図1)。朝鮮日報、東亜日報など保守メディアも現政府のやり方に不満はあるものの、自社の持つ総合チャンネルの再認可問題や保守政権が自分たちは潰さないということを知っているため同調する形勢だ。

4)検察官任命法の拒否:身内にだけ発揮する「公正」

⑦金建希女史株価操作疑惑特別検察官任命法と⑧大庄洞50億クラブ特別検察官任命法に対する拒否は、他の7つとは全く意味が異なる。まず、特別検事(特別検察官)制度を紹介しよう。特別検事制度とは、高位公職者の不正や違法が疑われた事件を検察がまともに捜査・起訴しなかった場合、政府から独立した人物を特別検事に任命して捜査と起訴を任せる制度だ。⑦は大統領夫人金建希(キム・ゴニ)、⑧は親交が深い検察時代の先輩パク・ヨンス元特別検事や「国民の力」のクァク・サンド元議員ら、身内の疑惑に対する特別検察官任命法だ。世論も両特検法賛成の方が高い。つまり、市民も尹政府の検察が両事件をまともに捜査できないと判断したということだ。元検察総長である尹大統領は「公正と正義、法治主義」を旗印としてきただけに、1月5日に身内をかばうため大統領が拒否権を乱用したことへの批判の声が高い。

拒否権以外にも「法の下の平等」を脅かす大統領の憲法上の権限がある。大統領の特別赦免(恩赦)権だ。就任後行われた4回の恩赦で大統領尹錫悦は、「検事尹錫悦」が捜査・起訴した人たちや李明博・朴槿恵政権で支援排除名簿(ブラックリスト)作成と排除、国政壟断事件で有罪となった人たちを赦免・復権した。他方、尹政権初期から始まって現在も続く、前政府と李在明野党代表に対する全防衛的な捜査、無理な令状叩きは異常といえるほどだ。就任から今年の2月2週目まで尹錫悦大統領の職務遂行に対してよくやっていないと答えた国民が60%以上だ(図2)。岩盤の支持層2〜3割台以外は尹錫悦大統領が司法の正義、公正、統合を謳っても信じていない。

図2 尹錫悦大統領の職務遂行評価調査(韓国Gallupの週間調査)

「スローレター」2月5日から引用 )

 

以上、おおまかに尹大統領と政府与党が拒否した9つの法案について概観してみた。尹大統領は就任直後、国民が共感する統合を目指して大統領直属諮問機構1号として「国民統合委員会」を新設した。0.73%ポイントの僅差で勝った大統領として全国民の指導者になる姿勢を見せる目論見だっただろう。ところが、尹政府が共感・統合する国民に農民や看護師、労働者、9つの法(改定)案の成立に賛成する市民は入っていない。農民・看護師・労働者・参事の遺族や生存者など当事者の苦痛と市民の共感が拒否された。4月10日の総選挙を控えて政争の余地があるとの理由で制限的に使用すべき拒否権の行使を濫用するのは国民を束ねて導くべき大統領の姿勢とほど遠い。

さらに、現在の韓国は行政部の力が大きすぎて法だけでは行政部の「合法的独裁」を食い止められない状態だ。尹錫悦政権が「検察独裁」と言われるのにはわけがある。大統領尹錫悦を筆頭とする「政治権力」と結託または自ら権力になった政治検察と、身内を庇う事に夢中の検察勢力による「検察独裁」、そして彼らの「国政の思想」を提供しているニューライト・歴史修正主義者たちが韓国の民主主義を根幹から壊している。公営放送の私物化など現政権の「反憲法」「不法」の数々はのちに問題になると言われている。その負債を負うのは尹錫悦政府を選んだ韓国民で、その弊害を最小限にするのも韓国民だ。

り・りょんぎょん

立教大学兼任講師。立教大学平和・コミュニティ研究機構特別任用研究員。2011年2月から韓国国家記録院海外記録調査委員。政治学専攻、現代韓国の人権、済州島と日本をつなぐ生活圏と人の移動などを研究。共著に進藤榮一編著『中国・北朝鮮脅威論を超えて東アジア不戦共同体の構築』(耕文社、2017)、訳書に『草 日本軍「慰安婦」のリビング・ヒストリー』(キム・ジェンドリ・グムスク著、ころから、2020)、『在日韓国人スパイ捏造事件――政治犯11人の再審無罪への道程』(金祜廷著、明石書店、2023)など。

特集/社会の底が抜けるのか

第37号 記事一覧

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