特集 ● 社会の底が抜けるのか
「パクス・トクガワーナ」の虚妄(中)
柄谷行人流“カント平和論”を超えて
筑波大学名誉教授 進藤 榮一
「世界共和国という積極的理念の代わりに・・・戦争を防止し、持続しながら絶えず拡大する連盟という消極的な代替物のみが、法を嫌う好戦的な傾向性を阻止できるのである」
カント『永遠平和のために』宇都宮芳明訳、岩波書店、1985年(原著1795年)、45頁
1.「琉球独立」夢の跡
「琉球処分」へ / 「パクス・トクガワーナ」という虚構 / シャクシャインの戦い––アイヌ民族の
蜂起 / 非極の世界像から / 飢饉と貧困、そして百姓一揆へ / 頻発する民衆蜂起
2.構造的暴力、人間安全保障、そして「戦争のできる国」
積極的平和をつくる / 同盟の橋頭堡 / 「人間の安全保障」論へ––コロナ渦の中で(以上、34号に掲載)
3.「そろそろリベラルは、〈外交〉を語ろう」――二一世紀永遠平和論へ
「大転換期」の中で / 「アメリカの影」の下で / 「世界共和国」論をめぐって / フロイトの理論に
依拠して / 「世界共和国」論から「民主主義平和」論へ
4.国家間連携から市民的体制へ
二つの新世紀勃興期 / ユートピアとしての「世界共和国」 / 「カント読みのカント知らず」 /
国際連盟から地域経済共同体への展開 / コロナ渦での「新常態(ニューノーマル)」へ /
「ユーラシア統合」への道
5.「デモクラシー」論の陥穽
「デモクラシー」至上主義ではなく / 民主主義体制の陥穽 / 加憲論と国民投票正論の危うさ /
デモクラシーの罠 / 「日米同盟」の影、またはデモクラシーの罠 (以上 本号掲載)
(以下 次号掲載)ウイグル“ジェノサイド”非難の虚実 / アメリカ外交の二重基準 / 二元対立思考の過誤 /
二元対立思考を超えて / 反植民地主義の視座
6.テリトリー・ゲームを超えて
平和実現のための六つの前提条件 / 日米安保の闇、あるいは「天皇メッセージ」 / 対米従属の
ブリッジヘッド(橋頭堡)として / 国民投票9条護憲論の虚妄 / 知の陥穽 / イージス・アショアを
買うということ / 再び、落日の軌跡
3.「そろそろリベラルは、〈外交〉を語ろう」――21世紀永遠平和論へ
「大転換期」の中で
冷戦終焉とソ連解体と「社会主義」敗退の中で、人々は「第三の道」を模索し始めた。その上、冷戦終焉後四半世紀間に、アメリカ型資本主義と民主主義が破綻を露わにした。2008年リーマンショックに始まる世界金融危機がそれを象徴した。そしてグローバル化の中で進む金権政治化と超格差社会の登場が、アメリカの分断と衰退を進行させた。
たとえば、アメリカ分断と超格差社会の現実は、サエズらの研究によって示される。
そのアメリカの{超格差社会}の登場とアメリカ主導の“グローバル・ガバナンス”の停滞と軛を同じくするかのように、いま一方で、“世界最大の経済大国”になった中国の主導下に「アジア力の世紀」が登場し始めている。
そして他方で、「資本主義」中国が、経済と外交と科学技術の各分野で圧倒的な影響力を持ち始めている。
「アメリカの影」の下で
日本の経済政策の根本は、アメリカの圧力によって規定変更され、アメリカ流新自由主義(ネオリベラル)によって改変、改悪されてきた。しかもその導入と前後して、プラザ合意や日米半導体協定、大規模小売店舗法廃止、非正規雇用労働法、バーゼル(銀行)協定、日米原子力協定など、米日間を軸とする「外交」と一連の経済外交協定こそが、日本の“衰退”を引き出し続けてきた。
「世界共和国」論をめぐって
ここでもまた私たちの問いの根底にあるのは、左派の哲学者にして元ブント派の論客、柄谷行人氏のカント論である。氏は、「日本国憲法第9条“パクス・トクガワーナ”起源」論とともに、カントの国際平和理念の骨格に「世界共和国」論があると主張し、氏独自の平和論を展開している。
そして日本が目指すべき国際社会は、カントのいう「世界市民法」を基礎に、「世界共和国」を樹立することだ、と立論している。
しかもその立論を、柄谷氏は、『世界共和国へ』(岩波新書、2006年)として、一般インテリ読者と学生向けに出版した。そしてそこで氏は、憲法9条こそが国際社会の主軸になるべきだと説いた。そのためには、「日本が国連総会で『9条を実行する』と表明する」ことである、と主張している。
それによって憲法9条の戦争放棄は、「単なる『放棄』ではなく、国際社会に向けられた『贈与』と呼ぶべきもの」となると示唆して、次のようにいう。
「『贈与』の力は軍事力や経済力を超えるものです。・・・・それは、第二次大戦後の戦勝国が牛耳ってきた国連を変え・・・・カントが提唱した『世界共和国』の方向に国連を向かわせることになると思います」。
(引用文は、『毎日新聞』2017年11月27日付オピニオン欄、柄谷行人インタビュー「そこが聞きたい:憲法9条の存在意義;ルーツは「徳川の平和」」からの直接引用)。
フロイトの理論に依拠して
氏はさらに、フロイトの理論を借用して、憲法9条の理念が、国民の間に(フロイトのいう)「超自我」――つまりは「意識せざる無意識」――として定着し、すでに徳川時代(!)以来の日本人の精神構造を形成している。だから、憲法9条への国民多数派の動向は揺るがない。逆にその動向を確定し合法化するために、「9条の諾否」を、国民投票にかけて、「平和国家」としての日本国の基本的あり方を再確認すべきである。そう説いて、その独自のカント解釈の理論体系を、『憲法の無意識』(岩波新書、2016年)として刊行していた。
「世界共和国」論から「民主主義平和」論へ
柄谷氏は、カントの平和論なるものに依拠し、フロイトの権威を持ち出して、氏独自のカント平和論を展開した。
いったい、こうした氏の論理と政策提言を、どう評価すべきなのか。
私たちもまた「世界共和国」の樹立に向けて、この国のかたちをつくり、この国の外交を展開していくべきだと、真に立論できるのだろうか。そして「9条の諾否」を国民投票にかけ、併せて「国連総会で9条の理念を宣言し」国際社会に歴史的な「贈与」をなすべきなのか。
ここで私たちは、柄谷氏のカント平和論――とりわけ「世界市民法」による「世界共和国」論――が、アメリカのリベラル派の代表的国際政治学者、マイケル・ドイルや、ブルース・ラセットらが主張した「民主主義平和」論と、共鳴し合っている現実に、目を向けておきたいと思う。
いわば、日米双方のリベラル派平和外交研究者による、共通の平和論といってよい。
実際、「民主主義平和(デモクラティック・ピース)論」は、冷戦終結以後、ソ連邦崩壊以後、広く、米欧外交学会で人口に膾炙され、アメリカ外交の理論的支柱として機能していた。そして9・11以後、ブッシュ、オバマ政権から、バイデン政権に至るまで、「民主主義を世界に広める」アメリカ外交の使命を支える理論支柱として機能してきた。
確かにカントは18世紀末、フランス革命(1789年)で燃えたぎる勃興期近代の戦乱と政治的混沌から距離をおきながら、グローバルな戦争と平和の条件を考え抜き、ものの見方の根源を明らかにした。その中で「永遠平和の条件」を考え、政治家や外政家たちに、建言し続けた。
4.国家間連携から市民的体制へ
二つの新世紀勃興期
いったい、ポスト・コロナとポスト・ウクライナの「新世紀勃興期」の中で私たちは、カントの永遠平和論から何を読み取り、何を実現できるのか。そしてカントの永遠平和論の可能性――と限界——は、どこにあるのか。
ユートピアとしての「世界共和国」
第一に指摘すべきことは、カントが「永遠平和の条件」として(柄谷行人氏の主張とは違って)、「世界共和国」のユートピアではなく、「諸国家間連盟」のリアリズムを示唆していたことだ。
柄谷氏によればカントは、諸国家間の対立抗争を超克する平和構築の主軸には、「諸国家間連盟」としての主権国家間連合体――国際連盟や国際連合のような――にとどまらず、それを超えて、単一の「世界共和国」をすえていた、と論ずる。そして、「世界共和国」の構築こそが、未来の国際社会の主軸に据えるべきだと示唆する。氏が、自らの啓蒙解説書の代表作を『世界共和国へ』と題した所以だろう。
しかしカントは、柄谷氏の解説とは違って、「世界共和国」それ自体を、現実の国際社会で実現可能な構想とも、“望ましい”平和構想とも、とらえてはいなかった。
実際カントは、「世界共和国」の理念を語りながらも、その実現不可能性(!!)を、逆に強調した。そしてそれは、あくまでも遠い将来の「実現できない理念」の領域にとどまり、現実の世界ではユートピア(!)に過ぎないと解析し議論した。
実際カントは、次のように語っていた。
確かに「人類が、戦争しかない無法状態から抜け出すためには、理性による限り、次の方策しかない。すなわち、諸国家もまた・・・・一つの諸民族合一国家を形成して、地上のあらゆる民族を包括するようにさせる方策しかない」。(カント『前掲書』、45~46頁、以下同じ)。
その意味で、世界共和国の実現は、「人類の理想」としてある。そう認めた上でカントは、次のように論理を反転させる。
「しかし人類は、この方策(つまり世界共和国という方策)をとることを、実際にはまったく望まない」。それ故に人類は、「商業精神」を軸に、「次善の代替策として“諸国家間連盟”の形成へと向かう」ことになる。すなわち諸国家が現実にとる道は、単一の「世界共和国」形成の道ではない。それぞれの国が、経済的商業的な繋がりを軸に、「諸国家間連盟(もしくは連携)」を組織し形成する道だ。
「カント読みのカント知らず」
その上でカントは、諸国家間連盟と連携の形成を促すのは、国際社会の二つの現実だと理論化する。
第一に、繰り返し戦われる諸国家間の戦争が、結局は国々の富を損なうことになる現実。第二に、国際社会にあって真に機能するパワーは、(軍事力でもイデオロギー的力でもなく)「金力(すなわち経済力)」である現実。
この二つの現実に突き動かされる国々は、諸国家間連盟と連携の形成へと向かわざるをえない。そうカントは説いていた。そこから浮上するのは、保守主義者ケーガンらが論難する「空想的平和主義者」としてのカントの“虚像”でない、リアリスト・カントの“実像”である。
ケーガンやラセットから柄谷行人に至るまで、東西のカント論者たちをして、私たちが、「カント読みのカント知らず」と論難する所以だ。
実際、平和主義的リアリスト・カントの平和論――諸国家間連盟と連携による国際平和への道—―は、歴史的に次のような展開を見せている。
国際連盟から地域経済共同体への展開
まず人類は、諸国家間連盟の形成が、第一次大戦後、ジュネーブに本拠をおいた国際連盟に始まり、第二次大戦後、ニューヨークを本拠とする国際連合に引き継がれた歴史を見た。そして労働や保健、食糧や文化などの実務的国際関係の諸領域で、多種多様な国際協力機関を生んだ。2020年ノーベル平和賞を受賞したローマに本拠を持つ「WFP(世界食糧計画)」もその一つである。
併せて人類は、一連の地域経済連合体の歴史を生み出した。すなわち第二次大戦終結後1951年、ブリュッセルに本拠をおく欧州石炭鉄鋼共同体を創設した。そして幾重もの発展拡大を経て、冷戦終結後、「欧州連合(EU)」へと発展させた。構成国は「英国離脱(ブレグジッド)」後の2020年現在、欧州27か国に及ぶ。
そして今、ウクライナ戦争の衝撃の中で、北欧諸国のEU参加が、現実の政策課題となっている。
他方、アジアでは、ベトナム戦争の熾烈化を背景に、2015年、ASEAN経済共同体から、2020年「ASEAN共同体」の設立に繋げた。
アジア諸国の場合さらに、それ以前、1998年アジア通貨危機を機に、「ASEAN10+3(日中韓)」諸国が、「東アジア共同体」構築の歩みを進めた。
その歩みは、一方で、米国オバマ政権期外交による「アジア太平洋軸足移動(ピヴォタル)」戦略の展開と、米国主導のTPP(環太平洋戦略的経済連携協定)の推進とによって、「東アジア共同体」構築の動きは頓挫した。
しかし他方で、米国抜きの形で、2020年11月、RCEP(東アジア地域包括的経済連携)形成へと結実した。日中韓、豪、ニュージーランド、ASEAN10か国の計15か国からなる。そしていま、中国と台湾が、加盟申請をしている。
自由貿易体制として、たとえ緩やかであれ、世界貿易額の3割(中台が参加した場合、5割以上)を占める世界最大の「地域経済協力圏」構想が実現していたのである。
しかも、それら地域経済協力圏形成に先立ち、2013年以来、中国・習近平政権は、陸と海と氷と空の「一帯一路」の建設を進めている。そして2016年、その構想を資金面で支援する「アジアインフラ投資銀行(AIIB)」を設立し、日本を含め関係諸国諸機関への参加を求めた。参加国・機関は、78か国・機関に達する。
それら一連の動向を私たちは、「ユーラシア統合」への道と言い換えてもよい。
しかも、かつてカントが指摘したように、それらそれぞれの諸国家間連盟が、一方では、近代以来の幾度もの戦争と抗争を経験することによって、他方では幾重にも及ぶ経済相互依存関係を深化させることによって、多様な形で形成され続けていた。
コロナ渦での「新常態(ニューノーマル)」へ
私たちはいま、コロナ渦が、それら諸国家間の道を途絶させるのではなく、逆に前進させている「新常態(ニューノーマル)」の展開を、二様の形で目にしている。
一方で、欧州連合が、「英国離脱」による分裂の危機にもかかわらず、コロナ渦への対応策として逆に、「グリーン・ソーシャル・ヘルス・エコノミー」を推進させながら、欧州諸国家間の「財政統合」への道を進展させ始めたこと。
「統合の終焉」ではなく、「統合の推進」への道である。
確かにアジアにあっては、一帯一路構想が、米国の反対と米中対立の深化とによって挫折の危機に襲われているかに見える。しかしそれにもかかわらず、コロナ渦への対応策として逆に、176の一帯一路沿線国・機関を中心に、物資や食料、電子部品や医療保健分野での諸国家間運輸協力と、とりわけ中欧・欧亜協力を進展させ始めている。
「ユーラシア統合」への道
いま一帯一路による「ユーラシア統合」の道は、二つの不確定要素によって挫折の危機にさらされているかのようである。
第一に、米中分断による危機。トランプ政権下米国は、ファーウェイなどハイテク中国製品排除を機に展開し始めた。「アメリカ・ファースト」の名目下に、米国電子半導体産業保護のための、米国による対中経済制裁と、世界市場からの中国製品排除の動きだ。
米中関係相互依存の深化ではなく、米中関係分断の道だ。同時にそれは、中国とEU諸国や日本との関係悪化――つまりは「ユーラシア統合」分断の危機―-を意味している。
第二に、日米豪印四か国による「インド太平洋構想」――いわゆるクワッド(Quadrilateral Security Dialogue)――による危機である。
2020年10月、日本の提唱下で、「自由で開かれたインド太平洋」(FOIP―Free(自由で)Open(開かれた)インド太平洋(Indo Pacific) 構築の改訂版である。
その構築を謳って、四か国外相会議で提唱された。従来までの「アジア太平洋」から、対中牽制を意図し、中印関係悪化を奇貨として、日本が打ち出した戦略構想である。
しかし、これら二つの危機は、トランプ大統領の敗退と、バイデン新政権の登場によって揺らぎ続けている。
しかも、クアッドに関しては、あくまでも「構想」の段階にとどまり、「戦略」の名称を使うことなく、四か国間のひ弱な通商安全保障協定に過ぎなかった。
加えて、かつてカントが語ったように、軍事力でも理念でもなく、「金力」つまり「経済力」が、国々の連携関係を強化していくのであるなら、私たちが見据えるべきは、まさに「世界最大の経済大国」化の道を歩む、中国との経済連携の道だろう。
好むと好まざるとにかかわらず、世界最大の経済大国として登場し始めた中国を軸にする、新興アジアもしくはユーラシア地域経済協力体の形成である。
かくてそのそれぞれが――すなわち欧州連合と一帯一路構想――が、二一世紀ポスト近代の新秩序構築への新しいグローバル・ガバナンスの道をつくり始めているようだ。
かつてカントが構想し提唱した主権国家間連盟の実践例が、二世紀の時空を超えていま、近代終焉後のポスト近代に向けた「永遠平和の道」を敷き続ける。その道が、ポスト・コロナとポスト・ウクライナの「新常態」をつくり始めている。カントの永遠平和論の持つ二一世紀的意味の第一は、この点にある。
5.「デモクラシー」論の陥穽
「デモクラシー」至上主義ではなく
第二に指摘しなくてはならないことは、カントがその平和論の中で、永遠平和の条件として、政治体制それ自体のあり方を問い直していた点である。とりわけそれは、民主体制至上主義論を退け、「市民的体制」に支えられた「共和体制」構築を勧めていた点である。
実際カントは、民主主義至上論の立場をとることは、なかった。
「永遠平和のために」を(もう一つの古典的著作「世界市民的意図における普遍史のための理念」とともに)収録した邦訳決定版『カント全集』第13巻(理想社、1988年、小倉志祥訳)全458頁中、カント自身が「民主的体制」の言葉を用いた個所はただ1個、「民主政治(デモクラティー)」を語った個所は、わずか5個にとどまる(いずれも、同書、227~29頁)。
それに反して、「共和体制」や「市民的体制」の構築を語る言葉は、数十か所、十数頁に及んでいる。
民主政治には、本来的に“欠陥”があることを、カントは何よりも示唆した。古代ギリシャ都市国家の民主主義の政治実践の歴史は、「民主政治」が、「統治の根拠(所在)」を、人民民衆においているために、大衆に迎合した「モボクラシー(愚民政治)」や「ポピュリズム(大衆迎合主義)」に走る可能性を見せた。併せて、金満家たちによる金満家たちのための政治、「プルートクラシ―(金権政治)」に堕する可能性も見せた。そして、フランス革命(1789年)後の混乱とナポレオン独裁(1804~1814年)の登場は、ナポレオン戦争(1796~1815年)という覇権的侵略戦争とともに、「自民族第一主義的」なナショナリズムに堕し易い、民主政治の根源的陥穽を示す現実をあらわにした。
民主主義体制の陥穽
その点で「民主体制」は、(権力の専横をもたらす)「専制的体制」と共通の欠陥を持っている。その現実を、カントは熟知していたのである。
だからこそカントは、「デモクラシー」礼賛論の立場をとらなかった。逆に、そのデモクラシーを超えて、市民が統治を担い制御(コントロール)できる「市民的体制」の確立こそが、永遠平和の不可欠の条件である、ととらえた。
その時私たちは、大英帝国の大宰相チャーチルの次の箴言を想起することができる。「民主主義は最悪の政治形態である。ただし、これまで試みられてきたすべての政治形態を除いてではあるが」。
そして、民主主義が「ファシズム」に転形していく現実の可能性を、安倍第二次政権以来の財務相、麻生太郎元首相が2013年に語った、次の言葉から想起することもできる。
「憲法はある日気づいたら、ワイマール憲法がナチス憲法に変わっていたんですよ。だれも気付かないうちに変わった。あの手口を学んだらどうかね」。
加憲論と国民投票正論の危うさ
「憲法改正」に関してしばしば語られる加憲論にしろ、国民投票正論にしろ、私たちはそれらが、いわゆる「三つのD」を基軸にした現行日本国憲法の精神を、事実上骨抜きにしていく、単なる“思いつき”でしかないことを、繰り返し想起しておいてよい。それを、民主主義体制それ自体が、「ファシズムの露払い」へ転化しうる「デモクラシー論の罠」といいかえてよい。
だから、かつてカントが語ったように「永続的な平和」にとって重要なのは、「権力の所在(だれが権力者か)ではない」。「統治の様式(どんな統治が行われるか)」である。つまり、政治体制の形式的類型よりも、市民重視型の実質的な統治のあり方、つまり市民的体制である。
そして「統治の様式」もしくは「市民的体制」のありようは、その国の持つ固有の歴史的地理的社会的条件によって規定されざるをえないことを、私たちは今日、繰り返し銘記しておかなくてはならない。
そしてあるべき「統治の様式」として、いわば内なる「共和体制」、もしくは「市民的体制」こそが、永遠平和の国内体制上の条件である。そうカントは定義していたのである。
市民的体制――米国の政治コラムニスト、デユディスの言葉を借りるなら「シビック・キャパシティーズ(市民的諸活力)」が横溢し、それを制度的に組み込んだ政治体制をいう。
カントはそれを、君主主義体制や専制主義体制とも峻別し、あるいは民主主義体制とも距離をおいた。そしてカントは、その「市民的諸活力」を組み込んだ政治体制を、あえて「共和体制」、もしくは「共和的政体」とも呼びかえた。
その上でカントは、民主主義諸国による協議体をヨーロッパ平和の条件として説いたサン・ピエール伯爵の「欧州協議体」構想――欧州恒久平和草案――を批判した。そしてその批判の根拠を、君主主義体制に潜む「反市民主義性」に求めた。
二世紀後のいま、その欧州恒久平和草案批判を、“君主主義”徳川体制に、戦後憲法9条の原点を求める(柄谷行人氏らのいう)「パクス・トクガワーナ」平和論への批判につなげることもできる。その批判から私たちは、狭隘なパトリオティズム(愛国主義)体制やファシズム体制に潜む「反市民的」体制に対するカント流の批判精神を読み取ることもできる。
デモクラシーの罠
かくてカントは、あるべき政治体制としての「共和体制」もしくは「市民的体制」とは、立法機関の合意なしには行政機関(政府)が行動できない政治体制であると、定義した。
「遅れてやって来た新興大国」――巨大人口14億(日本の10倍!)からなる――中国の政治体制につていえば、立法機関としての「全人代(全国人民代表者会議)」による(たとえ半儀式的なものであれ)明確な合意なしには、行政機関としての習近平政権は、権力と政策のレジティマシー(正統性)を持ちえない現実を見据えておいてよい。
しかも中国の場合、広大な国土(日本の23倍の広さ!)を抱え、56の多民族を一つの国家――政治経済文化共同体――にまとめあげ、(アヘン戦争以来、中華帝国が分断衰退の危機にさらされた)国家の分裂と分断のリスクを慎重に回避していく、至上命題を抱えている。
ともあれ、カントによるなら、民主主義体制と区別される「共和政体」は、市民重視主義の政治体制として、次の点を基軸としなければならない。すなわち、「市民が社会構成員としてミニマムな人間の基本的自由」を享受でき、「共同的立法への参画の諸原則」が貫かれて、「市民として平等」に扱われることになる。
換言すれば、市民的自由と人権が基本的に確保され、市民の政治参画が、直接的間接的に保障され、市民間格差が可能な限り小さい社会として、位置付けられているのである。
かくて私たちは、カントに依拠しながら、カントを超えて、欧米型民主主義であれ、アジア型開発主義であれ、共和体制の仕組みを次のような体制として定義し直すことができる。
すなわち行政執行者(政府機関)が、立法者もしくは立法機関(代議制機関)とは別個に存在し機能し、主権者である市民が、行政機関や立法機関の行動を、何らかの形でコントロールし拘束できる体制である。
「日米同盟」の影、またはデモクラシーの罠
その点から見るなら、次章で跡づける、第二次安倍政権下の一連の「日米軍事一体化」と「保守右傾化」の動向を私たちは、反共和主義体制、もしくは“デモクラシーの罠”の象徴するものであると、見ることもできる。
とりわけ“デモクラシーの罠”は、「内閣人事局」の創設によって、審議官以上600名の高官たちを、事実上、内閣(政府)が任命統括できる政府官僚関係の新展開についていえる。
またその点でいえば、特に外交安全保障上の最重要法案が、議会の審議をいっさい経ることなく、10数人の閣僚たちによる「閣議決定」で進められる日本流政策決定方式や、日米実務者高官(8名)からなる定期的(毎月2回)会合――「日米合同委員会」――で取り決められる、日米間の政策決定上の慣行自体が、あるべき共和主義的統治の理念に反していると、いわざるを得ないだろう。
カントが、民主政体の罠を指摘しながら、市民主義的な共和政体の構築を、「永遠平和の確定条項」とした所以である。
そしてその延長上に、「新興大国」中国の政治体制にひそむ「市民的体制」への志向と特質、もしくは苦悩と模索を、指摘することができる。そしてそれ故に、「一国二制度」移行以後、香港“民主化”運動に過剰なほど敏感に反応する“強権支配”化の動きに注目しておいてよい。
同じことは、新彊ウイグル“ジェノサイド”非難政策についてもいえるはずだ。 (以下次号)
しんどう・えいいち
北海道生まれ。京大法学部卒、同大学院博士課程修了、ジョンズホプキンズ大学留学を経て、筑波大学教授、同名誉教授。サイモンフレーザー大学、メキシコ大学院大学客員教授、プリンストン大学、ハーバード大学、オックスフォード大学、ウイルソン国際学術センター、延世大、各シニアフェロー歴任。専門はアメリカ外交、国際政治経済学、公共政策論。著書に『現代アメリカ外交序説』(吉田茂賞)『敗戦の逆説』『黄昏の帝国・アメリカ』『アジア力の世紀』『分割された領土』『戦後の原像』『アメリカ帝国の終焉』など著書多数。最近著に『日本の戦略力』(筑摩選書)。現在、国際アジア共同体学会会長、一帯一路日本研究センター代表、一社)アジア連合大学院機構理事長等。
「進藤榮一著作集―地殻変動する世界」全10巻の刊行はじまる
本誌で執筆頂いている進藤栄一さん(筑波大学名誉教授)の著作集全10巻の壮大な刊行がはじまった(花伝社より)。第一巻は昨年8月刊行、順次2年で10巻が刊行されるとのこと。以下紹介します。
☆第1巻「分割された領土――敗戦から戦後へ」 (23年8月刊行)
『敗戦の逆説』(ちくま新書)、『分割された領土』(岩波現代文庫)、『戦後の原像』(岩波書店)など。解説・白井聰(京都精華大学)
ひとこと
今や歴史教科書にも掲載される(対米沖縄占領申し出の)「天皇メッセージ」を嚆矢とする「日本分割」と「対米従属」の実相を明らかにし、原爆投下と核抑止の神話を暴き、保守支配と日米安保がなぜ続くのか。隠されたクリオの顔を明らかにします。
☆第2巻「非極の世界像――地殻変動の思想へ」 (2024年1月刊予定)
『非極の世界像』(ちくまライブラリー)、『地殻変動の世界像』(時事通信社)、『ポスト・ペレストロイカの世界像』(まライブラリー)、「「歴史の終焉」とは何か―フランシス・フクヤマとの対談」(月刊『アサヒ』所載)など。解説・下斗米伸夫(法政大学)
☆第3巻「アメリカ・黄昏の帝国――帝国の光芒」
☆第4巻「アジア力の世紀」
☆第5巻「現代紛争と軍拡構造」
☆第6巻『現代国際関係学』
☆第7巻『国際公共政策の道』
☆第8巻『現代アメリカ外交序説』
☆第9巻『最後のリベラリスト・芦田均』
☆第10巻『第二の戦後復興-同盟の呪縛を超えて』
現代の理論編集委員会
特集/社会の底が抜けるのか
- 災害が暴いた脆弱国家日本の現実神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長・橘川 俊忠
- 人・未来への投資、政治資金パーティーの全面禁止で政治を日本再生の力に立憲民主党代表代行・逢坂 誠二
- 許されない武力による領土拡張国際問題ジャーナリスト・金子 敦郎
- 「債務ブレーキ」が引き起こしたドイツの混乱在ベルリン・福澤 啓臣
- 試練か、それとも希望か龍谷大学法学部教授・松尾 秀哉
- 「パクス・トクガワーナ」の虚妄(中)筑波大学名誉教授・進藤 榮一
- 自由な社会と労働の尊厳労働運動アナリスト・早川 行雄
- 動き始めた労働基準法の解体を止めよう東京統一管理職ユニオン執行委員長・大野 隆
- 琉球人遺骨返還運動の現在と展望龍谷大学経済学部教授・松島 泰勝
- 「劇的な昂揚」で命の尊さを知るジャーナリスト・池田 知隆
- 1970年代障碍者解放運動の私的総括(上)本誌代表編集委員・千本 秀樹
- 尹政権は、反人権・反民主・反憲法の「検察独裁」立教大学兼任講師・李昤京(リ・リョンギョン)
- 緊急寄稿日本共産党からの批判に反論する中央大学法学部教授・中北 浩爾