論壇
「公共」を奪取する!
高校新科目・公共の毒を薬に変える方法
河合塾講師 川本 和彦
オレフィンという工業原料がある。正式名称はポリオレフィン樹脂で、ラップフィルムや牛乳パックの内張フィルム、医療用の使い捨て手袋など幅広く製品化されている。オレフィンは排ガスや大気から回収した二酸化炭素と水素を、反応器と触媒によって合成して製造する。従って、気候変動の元凶である二酸化炭素を削減することができる。かつてのオレフィンはほとんどが石油を原料としていたが、石油消費を抑制するという意義もある。
2022年度から高校に登場した科目「公共」にも、同じような面がある。出版各社の教科書を眺めると、検定を忖度したのか本音なのかは不明であるが、突っ込みどころが多い。教員が批判精神を持たずそのまま使うのであれば、かなり有害である。
だが一工夫、ある視点を持って教科書を使えば、自由民主党政権や文部科学省の意図を超えて(裏切って)、新たな方向を切り開く可能性がある。拙稿が二酸化炭素に対する反応器・触媒の役割を少しでも果たすことができれば幸いである。
高校授業に「社会科」はない
意外と知られていないのだが、小学校・中学校で教える「社会科」という教科が高校授業には存在しない。存在するのは「地歴科」「公民科」という2教科である。
このうち地歴科は「地理」「日本史」「世界史」の3科目に、公民科は「現代社会」「政治経済」「倫理」の3科目に分かれていた。
今年度からこれが大幅に再編され、4月から新課程として始まっている。「地理」は防災教育を含む「地理総合」と、それ以外の分野を幅広く扱う「地理探究」に分かれた。歴史では近現代史において世界史と日本史を統合した「歴史総合」と、それ以外の時代を扱う「日本史探究」「世界史探究」に分かれた。公民科では倫理の一部と政治経済を統合した「公共」と、それ以外の「政治経済探究」「倫理探究」に分かれている。
形の上では「公共」という科目が、消滅する「現代社会」という科目を継承することになる。
「地理総合」「歴史総合」「公共」は、必修科目である。センター試験を引き継いだ共通テストも、今後はこれに合わせた出題となる。私大入試は当面、従来と変わらないが、必修科目が入試から外れたままという事態がいつまでも続くとは考えにくい。いずれは共通テストに従うと見られている。
「道徳」の代替品としての「公共」
新自由主義とナショナリズムは、本来は相容れないはずである。グローバリゼーションを正当化し、国際標準(実は単なるアメリカ標準)で世界を統一しようとする前者に対して、民族の伝統・文化を絶対視する後者としては、断固として刃向かうのが筋である。
どういうわけか日本を含む多くの国では、両者が癒着している。古めかしい死語を用いるなら、国家独占資本主義の様相を呈しているのである。
とは言うものの、時として対立が顕在化することがある。根本的な対立ではなく、内ゲバ(これも死語だな)程度ではあるのだが。
現在、小学校・中学校に「道徳」という科目が存在する。国語や算数(数学)などと同じ、通知表の対象科目である。詳しくは本誌30号を参照して頂きたいが、内容はかなり保守的であり、しかも露骨な愛国心教育を目指していることが窺える。
「道徳」という科目は、高校授業においては存在しない。新自由主義の立場からは、パソコンやスマホで自在にプログラミングできる人材育成が望ましい。
そのため「情報」という科目がある。そこでは日本の伝統などというあいまいな、情緒的なものは役に立たない。
ナショナリズムの立場からすると、それではあまりに寂しいのである。自分自身に誇るものがなく、「すごいニッポンに生まれた自分はすごい」としか言えない人々は、次世代にもそれを継承してほしいのである。新科目「公共」は、「道徳」の代替品として送り込まれた面が大きい。
肯定される伝統や集団
最も反動的と思われる教科書・第一学習社『高等学校 公共』の冒頭、「学習のはじめに」に、こういう文章がある。
急激な少子高齢化が進む日本では、これまで受け継がれてきた伝統や文化、地域社会などの集団的なまとまりの維持、継承が困難な地域があり、その対策が求められている
伝統や文化とは何か?まず、そういうものが存在するのか、いささか疑わしい。この教科書自身が認めているように、日本文化に大きな影響を与えている仏教や儒教は、外来思想である。仏教・儒教伝来より前となれば、自然崇拝・アニミズムあるいはシャーマニズムであるが、これは日本列島特有のものではない。世界各地域に見られるものである。
それは東洋に限定されない。アメリカ映画「大脱走」で、スティーブ・マックイーン演じる連合軍捕虜が、オートバイで国境突破を試みる場面がある。結局は失敗してドイツ兵に包囲されるのだが、その時マックイーンは傍のオートバイを、ポンポンと軽く叩く。「これまでご苦労さん」という感じで。あたかもカウボーイが愛馬を気遣うように。
次に問題なのは、伝統や文化を守ることが無条件に善とされていることである。古代日本で美徳とされた(らしい)「清明心」は、陰日向なく裏表なく、私心を捨てて共同体に尽くす心だと説明される。これは軍国主義、あるいはセクハラ・パワハラ当たり前であった昭和の企業的な体質を維持するため、まことに都合がよろしい「美徳」ではないか。
「地域社会などの集団的まとまり」も、無条件で美化してよいものか。近代以前の日本において、例えば大名権力に対して寺院や都市が、庶民のアジール(聖域)として機能した例はある。網野善彦氏によれば、阿弥陀寺の境内は、債務債権の関係が切れる場所であった。また、会合衆が自治を担った堺市のような存在も記録されている。
そういうアジールが、本当にパラダイスであったのかは疑わしい。そこには外部権力と戦うため、団結を強制する力があった。そのようなアジールを現代で追い求めたなれの果てが、連合赤軍でありオウム真理教ではなかったのか。
やはり登場!「美しい日本」
この教科書が、鎮守の森伐採に反対した南方熊楠を取り上げるのは良い。だが、それに続いて以下の一文がある。
美しい日本とかけがえのない地球環境を、次の世代に残すために、先人の考えと実行力から学ぶことは多い。
美しい日本とは、何を指して言っているのだろう。私は精神的非国民なので、富士山を美しいとは思わない(でかくて怖いとは思う)が、富士山を美しいと思う人は(たぶん)多いのだろう。だが、美しい山河、風景というものは世界中に存在する。日本だけではない。それに富士山は、日本人が創造したものではない。昔から人間とは無関係に存在したものである。これ、誇ります?
その日本では公共事業、何と「公共」の2文字が冠せられた大規模開発によって、自然が破壊されてきたし、現在でも破壊されている。沖縄の辺野古などは典型例であるのに、スルーされているのはこれいかに?
自らの取り組みへ
比較的リベラルな教科書は、実教出版『詳細 公共』である。執筆者の一人が、菅政権から日本学術会議入りを阻まれた宇野重規氏であるというだけで、もう期待が持てるではないか!だが、本当の期待はそこではない。
伝統文化について実教出版の教科書は、福島県会津坂下町の五穀豊穣を祈願して奉納される「早乙女踊り」を取り上げている。後継者がおらず中止が続いていたが、県立会津農林高校の生徒会が話し合い、早乙女踊りに取り組んだ。今では一般の人たちとともに、合同練習を行っているそうだ。
上から目線で「伝統を守ろう」と説教垂れるのではなく、生徒自身の取り組みを紹介することは、「では自分たちに何かできることはないのか」と問い返すきっかけになる。こういう「自らの取り組み」こそ、本稿のテーマである「公共を奪取する」ことにつながるのだ。
公共とは何か
読者諸賢は「公共」という2文字をご覧になって、何を連想なさるだろうか。
私自身はあまり良いイメージを持てない。というか持てなかった。前述の公共工事がその例である。確かに必要な、生活向上に貢献した工事はあった。同時に環境破壊や、政治家の利権誘導に対する隠れ蓑として機能した工事も、相当多かったはずである。
あるいは人権回復を求める裁判で、「公共の福祉」という名目で訴えが却下されるケースがあった。公共の福祉とは全体の利益と同義語ではなく、人権と人権が衝突することを防ぐ、衝突した場合に調整する原理である。そのことは教科書にも書いてある。だが現実の裁判では、多数派が少数派を合法的に抑圧する口実として機能してきた事実がある。
しかしながら公共工事の「公共」、裁判官が言う公共の福祉の「公共」は、公共の一面でしかない。それは行政や司法、ゼネコンといった強者が自己正当化の口実に使っていただけである。公害が「公の害」、公共に与える害であるのなら、公害に反対する住民運動は公共を守る運動であろう。
公害に反対する住民運動の出発点は、「自分の生命を守りたい」「こんな汚い空気は嫌だ」という、いわば私益を守りたいということであったかもしれない。全員が田中正造ではない以上それは当然であるし、何ら悪いことではない。だが私益追求という目標を目指す自立した個人が連帯した運動は、公共が持つもう一つの面を実現したと言える。
今は亡き民主党政権は政権交代時、「新しい公共」という概念を打ち出した。
残念ながら「コンクリートから人へ」というスローガンが先行し、十分な議論と検証がないまま政権が崩壊したが、ここには権力側が独占していた「公共」を、市民が取り返す試みの芽が見られたように思う。
‥‥と、ここで「市民」という語を用いたが、市民も公共と同じく一方的に使われ、批判あるいは肯定されてきた語句だ。「市民=市民革命=ブルジョアジー」と一人連想ゲームをするのは、古典的左翼か世界史受験生くらいなものだろう。司馬遼太郎かぶれの経済同友会幹事だと、国家の保護・干渉を排除して利潤を追求する市民社会を理想とする。これは新自由主義の尖兵である。ま、「福岡市民」「仙台市民」のような、地方自治体の住民を連想するのが一般的なところと思われる。
一方で「市民運動」のように、より積極的な意味として捉える層が存在する。年越し派遣村村長だった湯浅誠氏は「市民という言葉もすっかり人気がなくなったが、市民という言葉には、国の動向とは別に、社会の一員としての立場から社会的に必要と感じられることを自主的に行う人々、という意味合いが込められていたように思う」「それは国民とも、会社員とも、労働組合員とも、家族の一員とも、地域の一員とも違う、社会に対して責任を持とうとする存在のはずだった」と述べていた。
教科書の可能性
それを念頭に教科書を読むと、案外面白い記述がある。東京書籍の『公共』は、市民討議会を紹介している。これは希望者が集うタウンミーティングとは異なり、無作為に抽出された住民が行政に意見する場である。あるいは実教出版が、ハーバーマスの市民的公共性について触れている。経済同友会的な理解とは真逆の、新自由主義に物申す個人の連帯である。
こういう例を見れば、そのまま読むだけではニッポン万歳、伝統を守ろうという「公共」教科書は、良い素材になりうる。教科書に漠然とかかれている日本の美点とやらを自分たちで検証する、考える、そして継承するにせよ廃止するにせよ、自分たちが参加する、その中で再び考える、こういう過程を経ることで生まれるネットワーク、それこそが公共だ、とまでは言わないが自分たちが担う公共の第一歩であろう。
困り物の二酸化炭素が新製品を生むように、そのままではお上主導の公共を市民本位の公共に転換することは可能であるし急務である。そして高校教科書は、その素材を提供している。単に反動とか保守的と断じて全否定するのではなく、逆手にとる、使える部分は使うという発想が求められているように思う。
かわもと・かずひこ
1964年生まれ。河合塾公民科講師。アムネスティ・インターナショナル日本会員。
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