特集●混迷する世界への視座

象徴天皇制の延命を図る「生前退位」論争

「象徴」を欲しがっているのは国民自身ではないか

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1. 明仁天皇と安倍首相の綱引き

2017年1月23日、安倍首相の私的諮問機関「天皇の公務の負担軽減等に関する有識者会議」は第9回会合で、これまでの議論をまとめた論点整理を安倍首相に報告した。政府の「有識者会議」の有名無実化は、国会の公聴会とならんで、今に始まったことではないが、今回は、まず会議の名称からして不自然である。マスコミは読者・視聴者にわかりやすいように「退位をめぐる有識者会議」などと言い換えているが、正式名称は「公務の負担軽減等」であって、退位は「等」に含まれているにすぎない。

安倍首相の私的諮問機関であるから、安倍首相が考えている1代限りの特例法による退位という答申だろうと予測されたが、1.はじめに、2.現行制度下での負担軽減(1)運用(2)臨時代行制度、3.制度改正による負担軽減(1)摂政(2)退位による新天皇即位①退位②将来の全ての天皇を対象とすべきか、今上陛下に限ったものにすべきか、4.今後の検討の方向、とさまざまな場合における積極意見と課題を併記する形式を取った。

ただ、将来の全ての天皇を対象とする場合については積極意見が少なく、多くの課題が記されているのに対し、現天皇に限った場合については逆になっている。『産経新聞』も「譲位を一代限りとすべきだとの方向性をにじませている」と解説した。後述するように、ヒアリングの結果、退位反対、退位の恒久制度を主張する専門家が意外と多く、安倍首相がもくろんだ一代限りの特例法派が多数にならなかったのも、結論を出せなかった原因ではないだろうか。

「有識者会議」の論点整理が発表される前から、すでに譲位の日程について、首相官邸と宮内庁・明仁天皇との間で綱引きが始まっていた。明仁天皇の譲位は 2019年1月1日、あるいは4月1日、それともその前の天皇誕生日などの可能性が取りざたされ、元日が有力と報道されたのである。

ここには、政局好きが話題にしたがる、明仁天皇と安倍首相の対立が現れているようにも見える。これまでの経過を追って見よう。安倍官邸は2015年10月、天皇の意を受けて負担軽減の本格的な検討を始め、2016年春までに、憲法上譲位は難しいという結論を宮内庁と皇族に伝えた(山口敬之「退位報道の裏側『キーマン』はなぜ消えた?」、『文藝春秋SPECIAL』2017冬号)。それへの天皇側からの反撃が、7月のNHKへのリーク、8月のビデオメッセージだったのである。

その過程で、官邸周辺は「譲位」に変えて「生前退位」ということばを創りだした。退位と新天皇即位を分割し、退位は明仁天皇の個人的行為とすることによって憲法上の制約を超えようとした(前掲山口)。いわば明仁天皇のわがままなのでしょうがないということになる。

これにまた反撃したのが美智子皇后である。10月20日、「新聞の1面に『生前退位』という大きな活字を見た時の衝撃は大きなものでした」と。保守派の一部から、「生前退位ということばは死を連想させるので不敬」という批判が起こり、一部マスコミは「譲位」にシフトしようとしている(前掲山口)。

有識者会議では、16人の「専門家」から、3回に分けてヒアリングを行なった。専門家に括弧をつけたのは、16人全員が専門家ではないといいたいわけではない。安倍官邸が恣意的に選んだ6人の「有識者」が選んだ「専門家」が、どのような意見を述べるかを想定したうえで、安倍官邸の導きたい結果に反対する人物も少しは入れて、官邸の特例法による退位という結論を出したかったのであろう。

しかし、誤算があった。退位を容認すると見込んでいた櫻井よしこが退位反対にまわったのである。その結果、退位賛成8人、反対7人、慎重1人と、拮抗することになった。しかも賛成派にも皇室典範改正派がいて、特例法派は6人にすぎない。少数派である。

特例法で突っ走ろうとしている安倍首相に対して、ここでまた明仁天皇が矢を放った。『朝日新聞』が12月1日付で、天皇が友人に対して「『(退位は)自分だけの問題ではない。将来にわたって象徴天皇制のあり方がどうあるべきかが大切』との考えを示していたことがわかった」と報じたのである。天皇本人は特例法ではなく、恒久法として皇室典範の改正を求めているのだ。

安倍首相は、皇室典範改正という大きな課題を避けたいためか、天皇包囲網を敷こうとしている。2016年9月26日、風岡典之宮内庁長官が退任した。15日が70歳の誕生日であった。宮内庁長官は70歳になった年度の末に退任するのが慣例である。風岡長官はパラオ、フィリピン訪問に尽力した天皇の側近である。天皇譲位の法案に道筋をつけてから退任したかったと伝えられる。次長が長官に昇進したあと、次長に就任したのは、警察庁出身で安倍首相のもとで内閣危機管理監であった西村康彦であった。

7月13日午後7時、NHKのリーク報道の直後から、首相官邸はリーク犯人捜しを始めた。官邸が「犯人」としたのは、本人は否定しているが、宮内庁の西ヶ廣渉宮務主管だったとされる。秋篠宮家を含めた宮家担当官僚のトップであり、外務省出身、元ルクセンブルク大使、ペンネームを持つ演劇評論家でもあった。10月1日、定年まで4年を残して退職していった。その後任に任命されたのは、やはり警察官僚出身である加地隆治である(前掲山口)。

天皇と安倍首相の確執は、噂としてしか伝えられていない。首相は天皇に対して、政治、外交、軍事について、定期的に内奏しているはずである。二人はどんな顔をして会話しているのだろうか。

2019年1月1日の譲位について、宮内庁は反対していると報道されている。元日には皇室行事として四方拝、歳旦祭が行なわれるため、対応できないというのである。明仁天皇は皇室行事を重視していると伝えられる。ほかに、天皇誕生日や4月1日が譲位の日として検討されているというが、有識者会議の論点整理も出ないうちに、譲位の日程が取りざたされることは、有識者会議無視もはなはだしい。「有識者」もプライドがあるなら辞任してはどうか。

2.明仁天皇を守るのか、天皇制を守るのか~右翼の内ゲバ~

保守派や右翼の間で、天皇譲位に賛成するか、反対するかについて深刻な対立が深まりつつある。賛成派は明仁天皇の意思に添おうとしており、反対派は天皇制を守ろうとしている。また、天皇に何を期待するかの違いでもある。

譲位反対派の主張を読むと、わたしは終戦決定直後、1945年8月14日のクーデターを思いだす。明治維新以来、軍事クーデターは三度実行された。1932年の5・15事件、1937年の2・26事件、そして終戦決定直後のものである。

2・26事件は青年将校だけでなく、香椎浩平戒厳司令官他の陸軍幹部を含んだおおがかりなものであったが、それを軍法会議で明らかにすると陸軍が崩壊するために、匂坂春平主席法務官に圧力をかけ、「青年将校のクーデター」に切り縮めた。1988年に膨大な匂坂文書が発見されて全貌がほぼわかったにもかかわらず、いまだに「青年将校のクーデター」とされているのは、皇軍の名誉を守ろうとする力が働いているとしか考えられない。いずれにしても、戒厳軍までもが反乱派であった大規模なクーデターを、本庄繁侍従武官長の抵抗を押し切って一人で鎮圧した昭和天皇の権力は大きなものであった。それはさておき、2・26事件の青年将校たちは、自分たちと天皇の思いは同じであり、君側の奸を排除すれば、天皇親政の昭和維新が実現すると思い込んでいた。

一方8・14クーデターは、「御前会議」でポツダム宣言受諾を決定し、その旨を連合国に通告し、翌日の天皇のラジオ放送のレコード録音を終えてから発生した。反乱側は天皇の意思が終戦であることを知っていたにもかかわらず、レコード盤を奪取し、天皇を擁して戦争を継続しようとした。

今回の譲位反対派は、明仁天皇の譲位の希望を知っているにもかかわらず、その意向に反して自分たちの天皇像を押しつけようとしている。私には、8・14クーデター派に重なって見える。自分たちの天皇制像のために、天皇を利用しようとしているのである。

譲位反対派の代表的論客は、「新しい歴史教科書をつくる会」から分裂した八木秀次である。いつもはエキセントリックな発言で物議をかもす八木だが、この論争では、徹底して常識的とさえいえる護憲論である。わたしが見た範囲でまとまっているのは前述した『文藝春秋SPECIAL』に掲載された「それでも生前退位に反対する」であるが、多くの人びとの目にとまったのは、『朝日新聞』(2016年12月1日)専門家ヒアリングの要旨であろう。

「天皇の意向により政府が退位という新制度をつくれば、憲法が禁止する天皇の政治的行為を容認することになる。退位を認める前例をつくれば、次世代の即位拒否なども認めることになり、皇位の安定性を揺るがす。天皇は祭主として存在することに最大の意味があり、明仁天皇の『公務ができてこそ天皇』という論理は、存在より機能を重視したもので、天皇の能力評価につながり、皇位の安定性を脅かす。高齢で公務ができない場合は、国事行為の臨時代行と皇族の公務分担でよい」と八木の主張は要約できる。

譲位反対論は右翼に限らない。わたしが先輩として親しくさせてもらった日本中世史の今谷明も専門家としてヒアリングを受け、「『天皇機関説事件』が物語るように、国民の象徴である陛下について一方の見解を押し通すのは歴史的見地からもあってはならない。……退位は権威が分裂する懸念もある。陛下は被災地の慰問を積極的に行われるなど、ご自身で象徴天皇像を作られた。国民からの信頼も厚く、称号が変わっても国民は先の陛下を意識してしまう。前天皇と新天皇の双方に権威が生まれ、新天皇が活動しにくくなるのではないか。負担軽減は国事行為の代行で対応すればいい。次善の策として摂政の設置を考えるべきだ。……陛下は活動の間口を狭め、宮中で国民を思うお言葉を発するだけでも国民の心が離れることはない。被災地慰問も際限がなく、やめてもいいのではないか」(『朝日新聞』11月15日)と、退位を認めれば権威が分裂する懸念があると述べた。八木の論理は今谷の焼き直しといってもよいくらいだ。

その八木秀次が、右翼他派から厳しい攻撃を受けている。日本国体学会は機関誌で入れ替わり立ち替わり、八木を不忠、不敬、知的怠慢とののしり、小林よしのりも無知、幼稚とあざける。右翼の内ゲバは昔から珍しいことではないが、八木が皇太子が即位すれば秋篠宮を摂政にせよと言っているとか、新しい話題ではないが、皇太子に即位を遠慮せよということまで飛び出すと穏やかではない。右翼がわめき散らすのは勝手だが、問題は八木のような「専門家」が教育再生実行会議の委員であるように、安倍首相のブレーンであるということだ。

3.天皇に人権はあるのか

前号で、「明仁天皇はリベラル派の味方ではない、リベラルと安倍の対立よりも高い次元で明仁天皇は強力な国民統合力を発揮している」という趣旨の主張をした。読んでくれた人が、「なるほど、安倍がどんなひどいことをやっても、天皇がいるから日本の民衆は反乱を起こさないのか」という感想を寄せてくれた。

アメリカでトランプが大統領になって、国民に分断、分裂が起きているという。アメリカには天皇がいないからね、日本には天皇がいて国が分裂せずによかったね、という話ではない。日本でこれほど貧富の差が拡大し、階級分裂が激しくなっているのに、それが階級対立とならないのは不健康である。

わたしの主張と似てはいるが異なる表現にぶつかった。これも『文藝春秋SPECIAL』なのだが、東大政治学の井上達夫「皇室を維持したいなら『自由』と『平等』を」である。「昨今、天皇の憲法尊重の姿勢をとらえて、一転して護憲のシンボルのように祀り上げています。それは天皇の政治利用ではないのか、と言いたくなります。つまりは保守派も護憲派も自分に都合よく天皇と天皇制を否定したり、利用したりしているだけなのです」と。

この文章の趣旨を否定するわけではない。明仁天皇を利用しようとしているリベラル派もいようが、問題はリベラルの多くが天皇を味方だと誤解していることである。それ以上に重大なことは、象徴天皇を求めているのは、右翼やリベラル以上に多数の国民であるということである。その圧倒的多数の国民が、譲位を支持している。「高齢なのに、あれほど頑張ってお気の毒」という感情からである。

ここで「天皇の人権」について確認しておきたい。日本国憲法は第11条で「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」としており、第25条の生存権、第26条の教育を受ける権利、第27条の労働の権利も、すべて国民に対して保障している。国民ではない外国人や天皇に対しては保障していないのである。現実に外国人に対して相当程度保障しているのは、運用、すなわち解釈改憲によってである。

天皇と皇族については、それぞれ日本国民である、国籍を有しているということについて、肯定論と否定論があるようだ。憲法にも国籍法にも戸籍法にも明示されていない。国民はすべて戸籍法のもとにあるというわけでもない。ちなみに天皇以外の皇族はパスポートを所有しており、天皇も運転免許証を持っているとのことである。

元最高裁判事、元皇室会議議員で、今回もヒアリングを受けた園部逸夫は、著書『皇室法概論』(第一法規、2002年)で、「『象徴制』と『世襲制』がなぜ天皇の『人権』を制約する根拠となり得るのかについて考え方を整理し、この整理を前提に本書では、天皇・皇族を基本的人権の享有主体とは考えないこと、そしてそうした立場に立って考えた場合にも正当にいわゆる『人権』は保護される」、「天皇は、象徴であることから、その『人権』に制約があるが、この制約については、象徴としての地位が象徴という国家機関としての地位であり、国家機関たる象徴に実現を期待する価値との関係において人権の制約が正当化されることになる」とする。自然人としての人権はあるが、世襲の象徴であるがゆえに制約を受けるということである。園部は今回のヒアリングで、今回限りの特措法と、時間をかけた皇室典範の改正を主張した。

憲法学者というのは、自分の価値観に基づいて解釈改憲をするのが仕事だと見えてならない。天皇は「国民の象徴」であって、国民ではないというのが素朴な理解ではないだろうか。最近の明仁天皇は、昭和天皇にならってか、「皆が」ということばを使うようになった。上から目線の「皆」こそが国民であって、そのなかに天皇は含まれていないようにわたしには聞こえる。

1946年に「人間宣言」をすることによって天皇は人間になったのだから、天皇にも人権はあるのだという意見がある。1946年元日に発表された「新日本建設の詔書」は、GHQ、文部省、裕仁天皇の3者の合作なのだが、その際裕仁天皇は、「現人神であることは否定してもよいが、神である天照大神の子孫であることは否定してはならない」と万世一系にこだわった。この詔書の冒頭に「五箇条の御誓文」を掲げて日本は明治から民主主義だとしたこととともに、天皇が神の子孫であることを否定しなかったのも、裕仁天皇の主張が取り入れられてのことである。裕仁天皇は国民になったのではない。そのためわたしはこの詔書を、「終戦の詔書」に続く「第二次天皇制継続宣言」と規定した。それを勝手に「人間宣言」と名づけて広めたのはマスコミである。だからこそ今回のビデオメッセージについて、一部の人たちが「人間宣言」だと位置づけるのであろう。

今回、明仁天皇は「高齢になると仕事がつらいから譲位したい」とアピールした。それは天皇も自然人、すなわち生物学的には人間であることを訴えている。このメッセージは国民向けであるとされるが、保阪正康は、それ以上に天皇後継者に宛てたものだという。「後に続く者たちも、自分と同じように象徴としてがんばれ」と言いたかったのだろうと。わたしも同感である。

先述した井上達夫は「天皇制廃止論者」を自称する。「その最大の理由は、この制度が天皇および皇族の人権を著しく制限し、彼らの犠牲の上に成り立っているからです。職業選択の自由はおろか、政治的な信条・思想を表明する表現の自由さえも厳しく縛られている。私はよく『最後の奴隷制』と表現しますが、基本的人権尊重を謳う憲法によって人権を剥奪されている最大の被害者がまさに天皇自身だと言えるでしょう」と述べる。

天皇自身が天皇制の被害者であるという発想は、中野重治が月刊誌『展望』の1947年1月号に発表した「五勺の酒」が有名であるが、ほぼ同時期かわずかに早く、1946年11月3日、三笠宮崇仁が9600字におよぶ意見書「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」を枢密院に提出した。当時三笠宮は枢密院議員である(森暢平「三笠宮が残した『生前退位論』」、前掲『文藝春秋SPECIAL 』)。

日本国憲法とちがって、皇室典範改正についてはGHQの介入はなく、日本側の意思で行なわれた。そのために、現皇室典範は基本的に明治皇室典範を踏襲している。三笠宮はこの意見書で「天皇に…『死』以外に譲位の道を開かないことは新憲法十八条の『何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない』といふ精神に反しはしないか」と指摘した。新憲法で国事行為を行なうとき、たとえば内閣が開戦を決定して天皇が異なる意見を持った場合に天皇は自殺するか譲位するしかないではないかというのである。このほかに三笠宮は、女性天皇や皇族男子の結婚の自由についても異議を申し立てた。

しかし三笠宮の意見書は完全に無視されて、現行の皇室典範が定められた。そこには裕仁天皇の三笠宮への不信感もかかわっていたかもしれない。森暢平は「三笠宮は『天皇は象徴であり、無答責だからといつて馬鹿でも狂人ででもよい』という考え方に異議を唱えた」という。しかし同時に森は、「稲田陽一は『天皇の役割は……ロボットにすぎず、平均人以下の能力を有する者でさえ勤まり、何等常識的判断力すら要しない』と論じた。純粋な法理論としては正当な議論である」としながらも、「天皇が人間であり、意思と個性の持ち主であることは議論の外に置かれている。三笠宮が反発を覚えたのもこの点であろう」という(前掲森)。 

井上は象徴天皇制を求めているのは国民だから、国民自身が天皇制を継続させる手立てを講じるべきだという。そのためには天皇に政治的発言の自由を認める、皇族の皇籍離脱の自由を認めるというように、皇室に自由と平等を保障することだとする。そしてそれは、皇位継承権者を確保して天皇制を維持しようとする右翼と保守派がもっとも怖れていることである。

4.「負の宗教意識」としての天皇制

前号に書いたように、明仁天皇は強権を持たない天皇のうち、もっとも強い統合力を持つ天皇である。井上も「そもそも天皇制という制度は誰のためにあるのか? 天皇に『国民統合の象徴』や民族的アイデンティティの基盤を求めているのは、天皇ではなく、国民自身です」という。もちろん国民だけではなく、国民支配のために天皇を利用している勢力があるのだが、国民の多数は自発的意思によって明仁天皇を支持しているように見える。

NHKが5年おきに行なっている「日本人の意識調査」には、天皇に「どのような感じをもっていますか」という質問が含まれている。第1回の1973年調査から88年調査までは「何とも感じず」が45%前後、「尊敬」が30%前後、「好感」が20%強だったのが、1993年調査から「好感」が43%、35%、41%、34%、35%と上昇し、「尊敬」が21%、19%、20%、25%、34%と変化している。「反感」は1993年までが2%、1998年からは1%である。明仁天皇代替わりによって「好感」が急増し、その分「尊敬」が減ったが、2008年には「好感」がふえ始め、2013年には急上昇した。「好感」と「尊敬」を加えると、2003年56%と、昭和期とさほど違いはないが、2008年59%、2013年69%と激増し、特に「好感」が多くなっていることが注目される。その原因として、被災地慰問があることは大いに考えられる。この数字は何を意味しているのか。

2016年12月23日の反天皇制運動連絡会のシンポジウムで、米沢薫の興味深い体験談を聞いた。彼女は長くドイツに滞在していたのだが、ある教会が、クリスマスとキリスト教の関係を問い直し、クリスマスにツリーを飾ることをやめようとしたら、教会とは直接関係のない周辺住民から苦情が殺到し、結局教会はツリーを飾らざるをえなくなった。象徴天皇制を支持する人びとは、その教会と関係のなかった周辺住民と同じように、普段は天皇制のことなどほとんど考えていないのに、いざとなると口を出し、力を発揮する。

クリスマスとは、ヨーロッパにキリスト教が登場する以前に広く信仰されていた太陽信仰のミトラス教の冬至祭で、キリスト教が勢力を拡大するためにそれを組み入れた。キリストの誕生日でもない。キリストが生まれたのは夏だという説もある。19世紀アメリカ資本主義が贈り物の習慣を商業主義的に利用しようとし、サンタクロースなどの大騒ぎを始めた。キリスト教にとってクリスマスは降誕を記念する日であって、家で静かに祈る。商業主義的利用を始めたアメリカでも、年中無休の商店でさえ、クリスマスは閉店する。日本では何事につけ商業主義的利用が激しすぎる。フランスでは1951年、ディジョン大聖堂前で、キリスト教の原理に戻ろうとする聖職者や信者たちがサンタクロースを火刑に処した(レヴィ・ストロース『火あぶりにされたサンタクロース』)。ローマ教皇も商業主義的クリスマスを戒めている。

米沢薫は天皇制についての思考の出発点として、田川建三の「負の宗教性としてのイデオロギー状況と象徴天皇制」(菅孝行編『叢論日本天皇制Ⅰ』柘植書房,1987)をあげる。

今の日本人の宗教意識は、言ってみれば「負の宗教意識」と呼ぶことができると思う。……日常は宗教などに全然関心を持たない人たちが、しかし、何かの折には自分も宗教を信じることがあるかもしれない、という可能性だけは残しておきたいという、そういう精神状態なのである。大多数の日本人がそういう状態に居るから、積極的な宗教の批判に対してはそっぽを向くのである。そっぽを向くどころか、むしろ宗教の積極的な批判に対して彼らは腹を立てる。たとえば、宗教はやはり阿片なのだよ、というような批判がなされると、……そういう批判者をつまはじきするということになる。

誤解のないように一言しておくが、田川は天皇制と宗教を区別したうえで、関連させて論じている。田川がこの論稿を書いたのは、中曽根内閣が天皇在位60年記念式典を開催し、「戦後政治の総決算」を掲げて日本の政治と社会を大転換することに天皇制を利用しようとしているときであった。しかし田川が書いているように、特に若者たちは天皇制には無関心であった。にもかかわらず、天皇制批判者たちに対して、「負の宗教意識」からの反撃は強かった。

それから30年が経過した。「負の宗教意識」は相変わらず根強い。クリスマスツリーを求める意識と象徴天皇を求める意識は通底しているが、象徴天皇を求める「負の宗教意識」は明仁天皇によって「正」の意識に転換させられようとしているのではないか。天皇への好感度の上昇はそれを意味しているように思える。負から正への転換は、統合強化の面で極めて政治的な意味を持つ。

5.明仁天皇は国民によりそっているか

明仁天皇の「好感度」を上げているのは、被災地への訪問と、「国民とともにある」、「国民によりそう」ということばであろう。戦場への「慰霊の旅」も後押ししているようだ。元ハンセン氏病患者施設14か所すべてを訪れていることは、さほど知られていないかもしれない。即位後間もない1990年11月、雲仙普賢岳が噴火している最中に避難所を訪れ、床に膝をついて被災者に声をかけた。それはテレビで全国に放映されて話題となった。

「よりそう」とはどういうことか。最近二度、このことばに出会った。

ひとつは、阪神・淡路大震災で大学生の息子を失った広島の母が、死にたいと思うほどの苦しみを経て、東日本大震災後に津波被害を受けた福島県いわき市の高校生たちと交流を続けている姿である(広島テレビ「泣き虫かあさん~阪神・淡路大震災から22年~」)。もうひとつは幼いときに母を亡くして苦労した青年が、貧困に直面する子どもたちを支援するNPOの事務局長として奮闘する姿(NHK「ハートネットTV ブレイクスルー File.68」)。

「よりそう」ためには同じような体験をしていなければ無理だというわけではない。各地で行なわれている「傾聴」は体験を共有していなくても、時間を長く共有することによって何かを生み出す。

反差別運動にかかわる者は、「相手の立場に立って考えよう」ということばをほとんど使わない。生活史が大きく異なる者同士が、そう簡単にはわかりあえないからである。たとえば狭山事件の石川一雄さんが、第1審死刑判決の後、読み書きを学び、『刑法総論』などという本を暗記するほど読んで、はじめて弁護士は自分を守ってくれる人なのだということを知り、警察に騙されていたことを悟ったときの悔しさを、わたしはわかるとはいえない。わたしは石川さんに、「でも、自分の想像力のすべてをかけて、石川さんの悔しさを想像したい」と伝えた。高知県の70歳の北代色さんが識字教室に参加して、生まれて初めて書いた手紙に「夕やけを見てもあまりうつくしいと思はなかったけれど、じをおぼえてほんとうにうつくしいと思うようになりました」という感覚を、わたしには理解できるとはいえない。

1970年代後半、障害者解放運動のなかで、日本脳性まひ者協会青い芝の会は、障害者自身の主体性を回復するために、「介護者は手足に徹しろ、主張はするな」という方針をとった。介護者グループ「らくだの会」はそれに従ったが、わたしが参加していた学生グループは考え方を異にした。健丈者が差別する側であることは自覚しつつも、場合によっては喧嘩するほどでないと、健丈者は障害者を理解できないと考えたからである。

「よりそう」ためには時間がかかる。明仁天皇はひとりの被災者と数分話しただけでよりそえるのか。明仁天皇に「国民によりそいたい」という主観的な願望があることを、わたしは否定しない。問題は、天皇に声をかけてもらったことで喜ぶ、癒される被災者、それを報道で見て、「天皇は国民によりそおうとしている」と感じる国民の側にある。

水平社宣言の核心は、次の条にある。

過去半世紀間に種々なる方法と、多くの人々とによってなされた吾等の為の運動が、何等の有難い効果を齎らさなかった事実は、夫等のすべてが吾々によって、又他の人々によって毎に人間を冒瀆されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を労るかの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば、此際吾等の中より人間を尊敬する事によって自ら解放せんとする者の解放運動を起こせるは、寧ろ必然である。

天皇に声をかけてもらって癒された被災者は、そこで天皇とのあいだで互いに尊敬しあえる関係になったのか。明仁天皇の行為は「人間を労るかの如き運動」そのものである。夜間中学生のかるたに、「あったかいと感じたらやばいと思え」というのがある。あったかいと感じるのは気持ちがいい、しかしそれは人間を堕落させる。水平社宣言から学んだものである。問題は天皇と対面した側にある。天皇制は「差別の元凶」といわれる。それは天皇制の構造そのものであるが、それを受け入れて癒される国民の側にも責任がある。社会学の八木晃介は「差別は最大の癒し」だといった。「癒し」は往々にして問題の本質を隠蔽する。天皇と国民一人びとりは水平社宣言の「互いに尊敬する」関係になりようがない。

6.国家に象徴は必要か

天皇譲位をめぐる議論は、象徴天皇制を延命させるための論争である。万世一系の天皇制を維持するためのウルトラCもある。女性宮家の創設である。女性皇族は国民と結婚すると皇籍を離れなければならないが、皇室典範を改正して女性宮家を創設し、明治天皇のY遺伝子を継承する民間人である元宮家の男性と結婚すれば、明治天皇のY遺伝子を持つ男性皇族が誕生する可能性があるというのである。年齢的に可能性のある男性は5~6名だという発言が「朝まで生テレビ」で飛び出した。具体的な候補まで想定されているのである。

旧皇族の皇籍復帰も主張されることもあるが、「70年も国民生活を送った人を、国民は皇族とは認めにくいだろう」と支持は集まらない。女性宮家の創設は民主党の野田内閣が提起したが実現しなかった。今年になって民進党の野田幹事長は、再び女性宮家創設を訴えている。上記のようなもくろみがあることを野田幹事長も知らないはずはないのだが。女性皇族に結婚相手を特定少数の男性のうちから選ばせるというのは、人権無視、女性差別の政略結婚である。

先述したように、日本の憲法学では「正当な議論」としての「純粋な法理論」が通用しない。憲法に純粋な法理論が通用しないということは、国家のありかたとしてはいかがなものか。また、皇室典範は日本国憲法のもとにあるひとつの法律であるが、天皇が「男系の男子」と定めていること、女性皇族が結婚すると皇族を離れなければならないということが女性差別であるということについて、労働基準法を改悪した男女雇用機会均等法に賛成した男女平等派も違憲訴訟を提起しない。これは国民に保障されている憲法第14条の男女平等が天皇・皇族には適用されないということが一般的な了解事項になっていることを示している。

象徴天皇制の持つこのような矛盾は、ひとえに自然人を国家の象徴としていることに起因している。国家の象徴とされるものは、一般的には旗が多いが、ウェールズの国章は国民に親しまれているネギであり、ラグビーの国際試合など様々な場面にも登場する。

それでは象徴をモノにすればよいのか。たとえば富士山を日本国の象徴にしたとしてみよう。反対論は少ないだろうが、たとえばアイヌ民族の内部からは批判が出てくるかもしれない。何を象徴にするとしても、そこには強制性が生じる。

地方自治体には、たとえば「市の花」などや市章、たとえば東京都でも明治に作られた東京市の紋章を継承した丸いものと、1989年に制定されたシンボルマーク(失礼かもしれないが銀杏の葉に似たもの)がある。これらに強制性を感じて不快感をおぼえるという声は、あるのかもしれないが聞いたことはない。それは国が国民に対して持つ強制力と自治体が住民に対して持つ支配的強制力の違いではないか。

そうだとすれば、問題は象徴のあり方ではなくて、国家のあり方ではないか。前号の末尾で、何物にも統合されたくない、何物にも象徴されたくないと書いた。自治と相互扶助を社会の基礎としていけば、国家の象徴は必要ではない。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て昨春より 名誉教授。日本国公立大学高専教職員組合特別執行委員。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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