コラム/沖縄発

熊本鎮台分遣隊の沖縄派遣にみる─今も昔も「土人」です

出版舎Mugen代表 上間 常道

いま必要があって、明治時代中期、首里城正殿前の龍柱が当時城内に駐屯していた熊本鎮台分遣隊によって損壊された事件(首里城龍柱損壊事件)について調べている。

この事件については、きちんと文字化された資料がなく、古老による伝聞しか残っていない。それが尾ひれを付けて、今日ではネット上で「怪談」にまで仕立てられているしまつだ。

事件の実像はなかなかつかめないが、最も古い文字記録は、管見では、美術雑誌『アトリエ』の1927年(昭和2)3月号に掲載された比嘉朝健の「琉球の石彫刻龍柱」である。そこには、「明治12年の廃藩で国論が騒然としているとき、日本政府は鎮圧のために沖縄に分遣隊を派遣、その隊長は一身の欲望から首里城正殿前の龍柱を自分の郷里に移送することを命じ、龍柱の一つの胴体は破壊されたうえ、均等を得るため完全な方の胴体も破壊された」旨のことが書かれている。

また、『琉球新報』昭和15(1940)年1月1日から3回にわたって連載された比嘉景常「首里城正殿の龍柱に就いて」では、「廃藩後、分遣隊の一士官が『こんな支那臭味のある龍柱など倒してしまへ』と、乱暴にも部下の兵士をして引つこぬかしてしまったさうである。それを師団長に贈らうとしたとかの話も伝へられてゐる。けれども、この事を耳にした師団長が『そんな馬鹿な真似はするな、元通りにせよ。』とたしなめられたので、以前の様に立てることになったが、その時、石は破損して大分低くなったとのことである」と記している。

その実情をもっと知るために国立国会図書館所蔵の資料を調べていたら、原剛「明治初期の沖縄の兵備―琉球処分に伴う陸軍分遣隊の派遣―」(『政治経済史学』1992年11月号)という論文があることがわかったので、早速コピーを送ってもらった。わくわくしながら読んだが、龍柱損壊事件については何ら新しい情報は得られなかった。

しかし、この論文を読んでいると、琉球処分を断行するために沖縄に派遣された熊本鎮台沖縄分遣隊の動きがよくわかった。分遣隊については、これまで「琉球処分」に関する基本文献として広く知られている下村富士夫編『明治文化資料叢書 第四巻 外交篇』(風間書房、1972年) に収録されている処分官松田道之による編著「琉球処分」に顔を見せてはいたが、「琉球処分」という大きな潮流にときどき顔を覗かせるくらいで、全体像はよくつかめていなかった。

この論文では松田の編著からの引用だけでなく、旧日本陸軍の内部文書なども引用されていて、分遣隊派遣の意図がより鮮明にされている。その論文から、処分当時の文書の原文のいくつかを引用してみよう。いずれも松田編著「琉球処分」にも記載されているから、その頁数も示しておいた。ちなみに、論文の著者は執筆当時、防衛庁防衛研究所所員である。

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「番兵(分遣隊)ハ、外寇ヲ禦クノ備ニアラス、琉球国内ヲ鎮撫センカ為メナレハ、必シモ多人数ヲ要セサルヘシ。」(明治5年〔1872〕6月、井上馨外務大輔の建議に対する左院の答議、松田編著「琉球処分」9p。太字は筆者、以下同じ)

「抑モ政府ノ国内ヲ経営スルニ当テハ、其要地所在ニ鎮台又ハ分営ヲ散置シテ、以テ其地方ノ変ニ備フ、是政府国土人民ノ安寧ヲ保護スルノ本分義務ニシテ、他ヨリ之ヲ拒ミ得ルノ権利ナシ。」(明治8年〔1875〕7月14日、琉球処分に関する政府の御達書、同上書107p)

「遂ニ琉球藩ヲ廃シ沖縄県ヲ置キ、軍務以テ既ニ決定シタル所ノ分遣隊入琉ノ期限ヲ早クシテ、地方ノ暴挙ヲ予防スルナリ。」(明治8年〔1875〕9月25日、松田内務大丞第一回奉使琉球復命書、同上書159-160p)

原によれば、「この松田の建言は採用され、翌年5月24日、琉球藩警備のため歩兵分隊の派遣が発令され、同年7月1日、熊本鎮台の歩兵第十三聯隊の一分隊(橋本謙作少尉以下25名) が琉球に派遣された。」

兵営は当初、那覇西村に賃借していたが、明治9年(1875)8月3日古波蔵の兵営が完成し、9月3日には新兵舎に移転した。

その後、明治11年11月、松田(当時は内務大書記官)は「琉球藩処分案」を起草し、内務卿伊藤博文に提出している。その「琉球藩処分方法」の第一条で、「処分発令ノ以前ニ於テ藩地ノ分営ニ若干ノ兵員ヲ増スヘシ」と述べ(同上書204p)、第八条「処分官県官入琉ノ上ハ左ノ処分ヲ行フベシ」の「第七」では、「処分ヲナスニ当リ、土人狼狽騒擾スルハ必然ニ付、可成説諭スヘシト雖モ、若シ兇暴反人ノ所為ニ及フト視認ルトキハ、分営ニ謀リ兵威ヲ示シテ鎮撫スルモ苦シカラス」と記している(同上205p)。

翌明治12(1979)年2月18日、琉球への増員派遣が正式に決定され、25日、琉球処分官松田道之に伴って、鹿児島に分遣中の歩兵第一四聯隊第三大隊の半大隊 (大隊長波多野義次少佐率いる第一・第二中隊)は那覇港に到着、同月31日、波多野少佐は部隊を率いて首里城に入城、一中隊を駐屯させたが、4月4日、政府は正式に沖縄県設置を布告した。政府は、琉球処分に当たっての事態の紛糾を恐れ、陸軍部隊383名(うち歩兵半大隊380名〔将校14名、下士46名、卒320名〕、その他将校2名、下士1名)と警官160余人を派遣、処分は断行された。

明治13年7月、分遣隊は古波蔵の兵営を引き払い、全員首里城に駐屯することになったが、その年から日清戦争後の1896(明治治29)年7月、戦勝を契機に分遣隊は廃止され沖縄から帰還するまでの17年間に、派遣された中隊は21回も交代している。

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首里城龍柱損壊事件を調べるつもりで読んだ論文だが、読んでいるうちに奇妙な気分に襲われた。140年ほど前の沖縄と現在と、何一つ変わっていないのではないか、と。たとえば「土人」、たとえば「拒む権利なし」、たとえば「地方の暴挙の予防」、たとえば「兵威ヲ示シテ鎮撫」――辺野古や高江に沖縄の外部から派遣されている警官たち、高江工事への自衛隊ヘリの導入、そしてその背後にある日本国家、日本人のことばや態度に、140年前の先祖たちのことばや態度が、遺伝子のように染み込んでしまっているのではないだろうか。

風邪をひいて朦朧とした頭に、さらに病院でもらった風邪薬が作用して、昔の物語が現在の物語にだぶって見えた瞬間だった。

うえま・つねみち

東京大学文学部卒。『現代の理論』編集部、河出書房などを経て沖縄タイムスに入る。沖縄タイムス発刊35周年記念で『沖縄大百科事典』(上中下の3巻別刊1巻、約17000項目を収録)の編集を担当、同社より83年5月刊行。06年より出版舎Mugenを主宰。

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