特集 ● 続・混迷する時代への視座

「維新」の<民意>とは何か

大阪の「維新政治」を再考する(その1)⸺人びとの意思形成の「磁場」を奪
った新自由主義

元大阪市立大学特任准教授 水野 博達

これまで、「維新の会」(以下、「維新」と略す)について、筆者も含めて多くの論者が批判を行ってきた。それらの批判は、「維新」の理念・政策や組織の実態に迫るものが多かった。しかし、残念ながら、こうした批判が人びとの心に十分届いていたとは言い難い。

現に、「維新」の政策の一丁目一番地であった「大阪都構想」(大阪市をなくして大阪府に市の財源・財産と権限を奪って大阪の再生を図る構想)の可否を巡る大阪市民の住民投票では、2回も否定された。にもかかわらず、先の衆議院選挙で大阪府では、「維新」と選挙区の調整をした公明党を除いて、自民も立憲も小選挙区で全敗し、「維新」は、その勢いの強さを見せつけた。そして今、「維新」は、立憲民主党を超えて野党第1党へと躍進することを目指して、全国で来春の統一地方選挙に臨もうとしている。なぜ、このようなことになるのか。なぜ、彼らは選挙に強いのか。

「維新」が選挙に強いことを理解するためには、改めて3~40年前から投票率がどんどん下がってきた日本の政党と選挙民の関係の変化について、改めて考えて見ることが求められている。

この再考にあたって、橋下徹が「維新への支持は、フワッとした支持である」と言っていたことを手掛かりに考えてみることにする。今日では、地方議会議員の後援会を自民党にならって固めてきたので、「維新」への支持が「フワッとした」ものからは、違ってきている。しかし、彼らが政治の舞台に登場した時、この政党と選挙民の関係をわかりやすく語った橋下の言葉は、とても示唆に富んでいると考えるからである。

意思形成の「磁場」の変質と喪失

今日、人びとは、どの様な回路で政治的な意見・意思を形成しているか、言い換えれば、どんな「磁場」で自分の利害を認識しているか。この点について検討してみよう。

戦後、人びとが政治的意思を形つくる上で、テレビ・ラジオ・新聞や雑誌・書籍が大きな役割を占めていたことは誰もが認めるところである。しかし、それらマスコミが流し、世間に流布する情報を受けとる人びとの生活の有り様によって、政治的意思の中味は異なって来る。いわば、情報を受け取る磁場が、大きな意味を持つ。 

戦後に現れた階級的階層的な社会的組織~労働組合、農協や漁業組合、商工業者の同業者組合、看護師や弁護士、理容師等などの職能別団体、学生自治会、そして、コミュニティー的な組織~地域や集合住宅の町会・自治会、宗教団体、出身校の同窓会、出身地域の県人会、自主的なサークルや同好会など、更には、1980年代頃より急増した社会活動団体~自然保護団体や人権団体、NGO、NPOなどの集団・組織がある。これらのアソシエーション的組織とコミュニティー的組織は、必ずしも画然と区別できない。両義的な組織もあり、また、同じ組織であってもテーマや時期によって、その性格・機能が移動することもある。

しかし、いずれにしても、それらの組織が媒介となり、集団的討論や交流などを通じて人びとの意思形成と利害調整に大きな位置を占めて来た。これらの組織による共同の意思が、親密圏(家庭や親族など)、あるいは、社会全般へと広がり、それらが梃ともなって世論形成が起こり、また、新聞・テレビ・ラジオや雑誌・書籍に反映されていく。つまり、マスコミが流し、世間に流布する情報であっても、人びとが身近に関係する組織の磁場によって集団的に吟味されて来た。ましてや、自分たちの利害に直接関わるテーマについては、利害関係を同じくする人びとの中で共同のテーマとして検討され、社会的な政治意思が形成され、広く社会に発信されても来た。

資本家団体(経団連など)と労働組合(総評など)をそれぞれ支持基盤とする自民党と社会党の保革2大政党による政治構造が、いわゆる戦後の「55年体制」の骨格であった。そこでは、それぞれの支持基盤内の多数意見を、また、中小工業者や農民・漁民、そして、知識階層をはじめ都市中間層から支持をどう取り付けるかによっても政治が動いた。

周知のごとく、1970年代前半に高度経済成長が終わり、世界がスタグフレーション(インフレと不況の同時進行)に陥った。その後、各企業と資本は、生産拠点を海外に移すとともに、IT技術を駆使して金融資本を発達させ、利潤獲得と資本集積を目指した。世界的なコストダウン競争の中で、中小企業の倒産、工場閉鎖等国内産業の空洞化が進行した。社会のあらゆる分野に、効率化とコストパフォーマンスが求められた。完全雇用をベースにした福祉国家政策は放棄され、福祉事業や公共事業も民営化の嵐に見舞われた。

こうして、「万民の万民による競争」の時代、新自由主義・グローバリズムの時代が始まると、かつて人びとの政治的意思や利害を形成する上で大きな役割をはたしたアソシエーションやコミュニティーは、その磁場の機能を変質させたり喪失したりして、人びとの生活感を含めた意識形成は大きく変貌した。

例えば、広く労働者の立場に立っていた労働組合ではどうか。近年のトピックスで言えば、トヨタ労連は、民主党系支持から、自民党支持へとシフトを変えてきている。世界的に内燃エンジンからの脱却が求められる自動車産業の生き残り再編に向けた国際競争に勝ち抜くために、政府・自民党と結びつくことが企業利益でもあるトヨタ資本。トヨタ労連の自民党支持へのシフトは、資本の利益と運命共同体のトヨタ労連の選択である。

トヨタに限らず、グローバリズムの時代にあって、各資本は、日々、国際競争のるつぼの中に身を置いている。企業別労働組合の形態をとる日本では、労組は、企業と運命共同体的な習性をより強く持ち、各資本の利害に随伴し、自らの労組に所属する労働者の利益すら切り捨てることをいとわなくなる。大企業労組中心の「連合」が、自民党と共同歩調を取るのも、こうした傘下の労組と企業との積年の関係変化の現れでもある。

労働者一人ひとりの利害や意見を労働者(階級)の意思にまとめ上げていく磁場の機能を組合が失えば、一人ひとりの労働者は、バラバラに考え行動するしかなくなる。個人に分解された労働者は、職場の中でも人事考課システムなどを通じて、勝ち組と負け組への競争で分断される。勝ち組は、当然にも資本の側に立つことになる。

かつて強い自治の砦であった学園の学生自治会についても、学生たちは、その過去の姿を知る由もなく学生生活をおくってきた。今や、コロナ感染症対策で、学生相互の顔すら合わせられない「オンライン授業」を強制されている。受験競争や就活に追われ、学園生活でも居場所を失っている。

こうして、職場、学校、地域など人びとの生活のあらゆる場面で、自己の意思形成の磁場を喪失して来た。だから知らず知らずのうちに、「自立」という美名のもとで、「自己責任」が押し付けられ、かつて身近にあった人びとの繋がりを作って来た<居場所>が失われて来たのである。

個々人の反射的反応としての民意

さて、橋下徹が「維新への支持は、フワッとした支持である」と言ったことは、何を指しているのか。当時、橋下も「維新」も確固たる支持基盤があった訳ではなかった。しかし、これまであまり政治に関心のなかった層などからも広く支持を集めることができた。また、それは、テレビなどへの露出度が高く、マスコミが作り出した橋下人気であるということを彼自身が感じていたことを率直に表出したものでもある。

前節で述べた人びとが自らの意思や行動を集団的に形づくる磁場が失われている時代背景と重ねて考えると問題は深刻である。

仲間と意見を出し合い、討論する機会や場が奪われるならば、自分の存在の在り方を顧みたり、反省したりする契機を失うことになる。そして、人間は、一人ひとり孤立したままで自己形成をすることになる。消費や流行を煽る大量の宣伝を含めてマスコミが垂れ流す情報だけでなく、SNSなどを通じた検証困難な偏った一方的な情報に曝されることにもなる。また、ツイッターなどSNSなどで展開される多くの論争は、相手を罵るような短絡的・攻撃的言辞が飛び交い、もはや真っ当な討論とは言えないものとなり、相手の主張を罵倒し攻撃する素早い反射的能力を競い合うことになり下がる。自己を顧みたり、反省したりする契機を失った<孤立した個人>の実相がそこに表出されているのだ。

自己の存在の在り方を顧みないで発せられる「声」は、人びとが普段に感じている不安や怒りの感情の表出であったり、世間に流布されているいい加減で適当な考え方・情報(その多くは差別的で排外的であることが多い)のつまみ喰いであったりする。発する(あるいは発しようとする)言葉の語気がどんなに激しく強くても、自分の抱えるストレスの単なる発散であったり、言葉の内容に重みがなかったりすることが多いのだ。

ところで、社会は、政府(政治)と市場(経済)との2項関係からだけ成り立っているのではない。その中間に、前節で述べた社会的・市民的な組織が、人びとと重層的で錯綜した関係を持ちながら網の様に存在している。それは、私的な空間であると誤認されていることが多いが、この<社会的な中間の諸関係>こそが、人びとの生活の過去・現在・未来と深く結びつく公共空間でもあり、民主主義を発展させる磁場なのである。

今日では、SNSなどのネット上で個人と個人の繋がりが旺盛であると言われるが、諸個人が、一人ひとり孤立していて、この公共空間から切り離され、あるいは、共同で考える磁場を喪失しているとするなら、政治的にも社会的にも、この社会のあり方を深く論議する条件が奪われることになる。かつて、生活の身近にあった人びとの<寄る辺>や<居場所>であったものが、変質したり、喪失させられたりしていることは、民主主義の磁場が委縮し、傷つき、歪められることを意味する。

こう考えると、当時、「維新」が明確な支持集団を持っていない中で、橋下が「フワッとした支持である」と言ったことの意味は明らかである。

これまでの政府(自民党や民主党政府)やマスコミなどが流して作り上げて来た世間の新自由主義的な風潮、すなわち、「無駄を排し、効率化・民営化を」や「公共団体や公務員の持つ既得権をなくす」などの風潮に載って、それを煽り、さらに、既得権益の側にいると考えた「敵」を名指しで強く攻撃することによって、自らを改革者のリダーであることを演じたのである。まさにマスコミが育てたトリックスターである。

そこでは、人びとが感じていた時代の閉塞感に火をつける橋下と「維新」の政治と議論のつくり方では、大阪の経済的な地盤沈下による行き詰まりの原因や、その再生の方向が十分検討されることにはなり得ない。また、公務員の既得権(賃金・労働条件など)を奪うことが、民間の労働者、非正規労働者の権利とどう関係して来るのか等が議論された訳でもなかった。

ここに例を挙げた二つのテーマでも、本当に改革・解決する方途を導きだすためには、短絡的な議論ではなく、多面的で重層的な人びとの検討・議論が必要となる。橋下と「維新」は、こうした必要な民主的議論や識者の意見に対して「決められない政治だ」と罵倒し、自分たちの性急で独善的な意見を押し通すことに腐心して来た。橋下の独断的で強権的な立ち振る舞いが、あたかも求められる改革者のリーダーシップであるかのような虚像をつくりあげるのにマスコミも大いに力を貸したことは記憶に留めておく必要がろう。

このように、橋下の議論と政治の在り方は、くしくも、先に述べた「相手の主張を罵倒し攻撃する素早い反射的能力を」競うSNS上の議論と同質のものである。この手法によって、人びとが感じていた閉塞感に火をつけて、反射的な反応として支持を取り付けていたのが、橋下と「維新」の政治であった。つまり、橋下の言う民意とは、すでに醸成されて来た新自由主義的な風潮に乗って、熟議を避け、巧みに引き出された人びとの「反射的な反応」なのである。だから、その「民意」とは、慎重に議論されたら支持が危うく、底の浅いもので、橋下らによってデマゴギーをも含めて歪められた政治的発信への人びとの「反射的な反応」の組織化であったのだ。

都構想敗退は、自治なき民意の敗北

「維新」のいう「民意」や「フワッとした支持」が暴露され、否定された象徴的な出来事は、「大阪都構想」が住民投票で大阪市民によって2回否定されたことである。しかも、2回目は、公明党を恫喝して賛成に廻らせて行った上での敗北である。

市民の自主的な様々な団体、組織がそれぞれ学習会を持ち、協力し合って街頭に出て宣伝活動にあたった。自分たちで共同のビラを作成し、印刷費をカンパで賄い、街頭で市民に訴えた。文字通り手作りの市民運動であった。大阪の未来をどうするかを人びとが慎重に検討した結果が、2回の「都構想」No!であった。「フワッとした支持」ではなく、市民の自主的な議論と行動が、「維新」のいわば、「統治機構のつくり直し」の出発点でもある「大阪都構想」を葬り去ったのである。

前節で、社会は、政府(政治)と市場(経済)との2項関係からだけ成り立っているのでなく、その中間に社会的・市民的な組織と関係が網の様に存在している、と述べた。そこでは、主に、経済活動を通じて生み出されてくる近代社会の自然成長的な中間的組織を念頭に置いて話をしていた。

「大阪都構想」を葬り去った原動力は、こうした自然成長的に形成される中間的組織ではなく、共通の政治的意思を持った自覚的・自主的市民活動であった。つまり、住民の自治的組織であり、自治的活動であった。大阪市を廃止し、大阪府に市の財源・財産と権限を集中して大阪の再生を図る構想は、大阪市民の「反射的支持」を得ることはできなかった。住民の自治の力が、「維新」政治に勝ったのである。

この経験から見れば、「維新」が2012年8月に国政に打って出た際に、「日本再生のためのグレートリセット」と大風呂敷を広げた「維新八策」の「統治機構のつくり直し」のゴールとして謳った「道州制」実現等は、政治的生命力はもはや失っていると言えよう。

さて問題は、シングルイッシューでは、人びとが自覚的・自主的に考え行動した時には、「維新」政治に勝利できるとしても、議会制政治のもとでの選挙では、「維新」は相変わらず強力な勢いを持っている。この点をどう考えるかが、問われている。この課題に次回に検討を進めたい。

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

特集/続・混迷する時代への視座

第32号 記事一覧

ページの
トップへ