特集 ● 続・混迷する時代への視座

芳野会長が映し出す連合運動の荒野

連合は出直し的再生へ、第3の道を一丸となって真剣に探れ

労働運動アナリスト 早川 行雄

Ⅰ.国葬に参列した連合会長

国葬の何が問題なのか

筆者は、なぜ芳野友子を連合会長にしてはいけないのかについて警鐘を鳴らし続けてきた。遺憾ながら、芳野会長がこの1年にわたる在任期間中に示した、社会的批判に包囲されたニワトリからレイムダックへと至る経過をつぶさに観察すれば、筆者の指摘した懸念事項が決して杞憂ではなかったことは誰の目にも明らかであろう。極めつけが今般の安倍元首相の国葬に参加するという「苦渋の決断」である。事ここに及んで、初の女性会長に何とか立ち直ってもらいたいと僅かな期待をつないでいた数少ない人々の間からも、今度ばかりは堪忍袋の緒が切れたとの声も聞かれた。

岸田首相は7月8日の安倍元首相銃撃事件からほとんど間を置くことなく、死亡した元首相を国葬とする検討を始め、自民党内の調整のみを経て、7月14日の記者会見で安倍元首相の葬儀を国葬として今秋に実施すると表明し、7月22日の定例閣議で国葬を9月27日とすることを決定した。国会での審議も野党への根回しも欠いた、あまりに拙速で強引なやり方は多くの国民世論の反発を招き、労働組合や各地の弁護士会、地方自治体ばかりではなく、「憲法研究者」「日本ペンクラブ」「日本ジャーナリスト会議(JCJ)」「平和をつくり出す宗教者ネット」「国際婦人年連絡会」など各界から安倍元首相の国葬に反対する声明が出され、決議が行われた。

9月27日の国葬当日には会場の日本武道館に内外から4200人が参列し、弔問台には長蛇の列ができたという。一方国会周辺には市民団体や労働組合のメンバーなど約15,000人が結集して安倍国葬に反対する抗議の声を上げたほか、全国津々浦々で抗議行動が展開された。直前の世論調査では6割前後が国葬に反対と答え、国葬反対の署名は40万人を超えた。まさに国論を二分する国葬となった。

安倍元首相の国葬は何が問題なのか。ひとつは法的な問題である。行政実務の通説(侵害留保説)によれば、国民の権利を制約したり、国民に新たな義務を課す内容でなければ、国が行う儀式に一々法律の裏付けはいらないことになっている。例えば全国戦没者追悼式などがこれにあたる。岸田首相が国民に弔意を強制するものではないと繰り返していたのはこのためだ。

毀誉褒貶の多い一政治家の葬儀を、故人に対する敬意と弔意を国全体としてあらわす国葬として行うことは、憲法第14条「法の下の平等」や第19条「思想及び良心の自由」に抵触し国民の権利を侵害しないか。憲法学者の石川健治(東京大学教授)は「国葬は、国家作用としての祭祀行為を通じて、特定の人間を象徴化する行事です。とりわけ日本におけるそれは、歴史的背景から、特別な重みをもつ例外的な行事になっています」(現代ビジネス10.5)と述べ、民主主義の観点から国葬には法的根拠が必要だとの議論の余地があるとしている。

しかし安倍国葬の法的な問題の核心は行政実務の解釈にあるわけではない。国葬が憲法上の権利を侵害するならば、いくら国葬に法的根拠を与えてもそれは違憲立法にしかならないからだ。この論点については敗戦まで継続していた国葬例が廃止された経緯に照らしてみる必要があろう。政治学者の杉田敦(法政大学教授)は「戦後に国葬令が廃止されたのは、これが天皇主権を前提とした制度だったからだ。国民が主権者となり、政治体制そのものとの間に矛盾が生じるため、維持できなくなった」(毎日新聞9.22)として、国葬そのものが主権在民の現行憲法の理念と相容れないものとの判断を示している。

見識を問う「踏み絵」としての国葬

安倍国葬の今ひとつの問題は、岸田首相および与党自民党が国葬に託した政治的目論見である。岸田首相には自民党内最大派閥である安倍派におもねる気持ちは当然あったであろうが、何よりも非業の死を遂げた元首相を国葬によって英雄に祭り上げ、その遺志を継ぐと称して憲法改正をはじめとした一連の反動政策を一気に実現しようと画策したことは疑い得ない。しかしこうした思惑は安倍元首相を筆頭に、多くの自民党議員が反社会的団体である統一教会と癒着関係にあったことが暴露されてゆくにつれ、文字通り墓穴を掘る逆効果となっていった。

それでもなお、安倍国葬に政治的意味合いがあるのは、政府からの招待に応じて国葬に参加した者と、参加を見送った者との政治姿勢の相違を鮮明にしたことである。思想家の内田樹(神戸女学院大学名誉教授)は「安倍氏は国民全体の代表だったのではなく、支持者や自民党の代表にすぎなかった。国葬への招待状が、届いた人の見識を問う一種の「踏み絵」になっているのは、その表れだ」(神戸新聞9.26)と述べている。

芳野会長は招待に応じて国葬に参加するという「踏み絵」を踏むことで、岸田政権へ恭順の姿勢を示したことになる。そのことは芳野会長自身が語った国葬参加に対する「苦渋の決断」にも明確に現れている。曰く「海外から来賓が多く参列する中で労働側代表としての責任をどう果たしていくべきなのかということ、国葬のあり方については整理されるべきですけれども、総理大臣経験者が凶弾に倒れたこと自体に弔意を示すこととは区別する必要がある」。

国葬と弔意表明を分けて考えるということは、立憲民主党の泉代表のようにむしろ国葬に出席しないことの理由である。すると唯一の参加理由は、海外から多くの来賓が来るのに、労働界が欠席して岸田首相の顔を潰すわけにはいかないという、政権与党への深い配慮のみとなる。この発言は多くの組合員や世論を敵に回すものであり、連合構成組織からも反対声明が出された事態を受けて竹信三恵子(和光大学名誉教授)は「このような一線の働き手の疑問がくすぶる中で「国葬への出席」を決めたことは、労働者の間の分断を深め、要求を勝ち取る力をさらに削ぎかねないという懸念も出ている」(東洋経済ONLINE9.26)と苦言を呈している。加えてこの芳野会長の言い訳は、国葬を欠席した政治家や有識者らを、責任を果たさない者として侮蔑するものであることを銘記しておくべきであろう。

何があっても自民党批判はしない

こうした与党自民党に対する過度の配慮は、芳野会長が就任して以来の一貫したスタンスである。7月12日、NHKのクローズアップ現代で「どうなる日本政治」が放映された。企画段階で筆者も取材を受けて協力した番組だが、その冒頭近くでJAMの安河内会長(連合副会長)は「自民党のこれまでの政策というのは、労働者の立場に立った政策とはとてもいえない。そこと対峙してきた歴史です」と自民党を批判している。これは連合役員が有する自民党観の「最大公約数」であったはずだ。ところが芳野会長の自民党に対する見方はこの範疇から大きく外れている。

芳野会長の何があっても自民党を批判しないという心遣いは、定例の記者会見にもはっきりと表れている。7月の会見では政府の働き方改革関連法案について、時間外労働の上限規制は評価できる部分だと述べているが、そこを評価するのは日本の労働界では芳野会長だけではないか。また9月の会見では安倍政権の政策評価についての質問に、しかるべき機関でしっかり検証して戴きたいと逃げを打ち、しかるべき機関とは国会の審議や有識者の客観的判断であるとして連合の主体的判断は回避してしまった。

一連の発言の中でも聞き逃してはならないのが自民党との関係を直接語った部分だ。芳野会長は繰り返し、財界を支持基盤とする自民党を連合も支持すると政治に緊張感が失われると述べている。聞きようによってはあたかも自民党とは一線を画するとの見解にも聞こえるが、そうではない。これは自民党と認識に大きな差はないが、政治に緊張感が失われるので仕方なく支持を見合わせているという態度表明なのである。

芳野会長の言葉とは裏腹に、自民党の連合に対する緊張感はすっかり弛緩してしまったようだ。無論これは芳野会長に連合を右へ右へと誘導する指導力があるとみなしているわけではない。そうではなく、芳野会長がさまざまな逸脱行動を繰り返しても、更迭の動きはおろか、目立った批判の声すらも表面化して来ない実態を捉えて、かつて、いわゆる残業代ゼロ法案の修正合意に対し、臨時中執を開催して撤回したような、従来の「最大公約数」的認識に立った反発力や自浄作用が失われた連合は与しやすしと高をくくっている節がある。

連合結成に際して暗黙の前提とされたことのひとつに、憲法改正や明らかに日本国憲法が定める平和と民主主義の理念に背いた趣旨の集会には、ナショナルセンターを代表する立場の人間は参加しないということがある。こうした観点からも今般の国葬参加は連合の政治スタンスから大きく逸脱するものと言わざるを得ない。勝手に労働界を代表されることは甚だ迷惑千万な話であるが、芳野会長の国葬参加は連合運動史上に深く刻まれた汚点として、いつまでも記憶にとどめておくことが重要である。

Ⅱ.ジェンダー平等と性別役割分担

反共運動の役割は終わらない

この項における論点は本誌前号で特集された「混迷する時代への視座」とも関わる。

安倍元首相銃撃事件を契機として、与党自民党と統一教会=国際勝共連合の深い癒着関係が次々と明らかにされている。ソ連が崩壊し、東西冷戦は遠の昔に終焉しているにも関わらず、なぜ国際勝共連合や日本会議あるいは神道政治連盟など宗教右派の反共組織は政権与党とともに日本政治の中枢にその座を占めているのか。反共運動の本質は既存体制を擁護し、そこから永続的な利益を確保しようとする資本主義の謀略的な政治運動を担う支配層の「護民官」である。従って、ソ連の崩壊により東西冷戦が終焉しても、格差と貧困を不可避的に増殖する市場原理主義に支配された社会を解体して平等な社会を築こうとする闘いが続く限り、民主主義に対する弾圧装置としての反共運動の役割が終わることはない。むしろ既存体制の危機が深まるほどに、その重要性は増してゆく。

因みに言えば、東西冷戦の東側でも一部の特権的な官僚の利益を防衛する体制が確立されており、反官僚的民主化の闘いに対しては「反革命」であるとか「トロツキスト」といったレッテルが貼られ、苛烈な弾圧が加えられていた。これは西側と左右が逆になった鏡像のような相似形であり、冷戦下の東西対立には相手陣営を仮想敵とした相互依存の側面もあった。西田(幾太郎)哲学の言う「絶対矛盾的自己同一」の好事例かも知れない。

真の対抗軸は東西の両国家陣営間ではなく、1%の特権富裕層と99%の勤労庶民の利害対立にあることは、近年のオキュパイ・ウォールストリート運動などが明らかにした通りである。現下の国際情勢においても、民主主義国家対覇権主義国家なる虚構の対立構造が喧伝されているが、これは冷戦思想の安直な焼き直しに過ぎないことも見ておかねばならない。

冷戦終結後、とりわけ今世紀に入って以降、反共右翼団体はジェンダー平等政策への攻撃を強めている。日本会議の関係組織が発行した「これがジェンダー・フリーの正体だ」と銘打たれたパンフレットには「暴力革命は不可能になった代わりに、共産主義者は別の方法で必ず日本解体を目指す(略)ジェンダー・フリーによる性別秩序の解体という事態とは、まさしくこの『暴力革命』を代替する『別の手段』の一つなのです」と記されているという。前近代的な家族観に固執する安倍元首相らが中心となって自民党が制定を進めてきた「家庭教育支援法案」に統一教会=国際勝共連合が深く関わり、地方議会での条例制定に肩入れしてきたことも明らかになっている。

社会変革の核心としてのジェンダー平等

なぜ体制補完組織としての右翼反共団体はジェンダー平等政策を目の敵にするのか。結論的に言えば、封建時代から資本主義市場経済に持ち込まれた、家父長制に淵源を持つ性別役割分担が今日の支配体制を維持するための社会構造に深く組み込まれており、この性別役割分担を廃絶しようとするジェンダー平等政策は、社会変革を目指す運動における最前線の課題とならざるを得ないからである。

ケインズは「一般理論」の末尾に近いところで、資本蓄積が進み投資に見合った利潤が確保できなくなった段階で「資本の希少価値を搾り取るために累積された資本家の抑圧的権力」は利子生活者とともに安楽死を迎えるだろうと予測した。またケインズは別の論考の中で、テクノロジーの進歩により、先進国では20世紀末までに週15時間労働が実現しているだろうと予言もしている。週15時間労働の社会とは、J.S.ミルが『経済学原理』の中で予測した、技術革新など(後にシュンペーターが定義づけたイノベーション)の成果が経済規模の拡大ではなく、人間の精神生活の豊かさに直結する定常状態社会とも重なるものだろう。しかしこれらの予言は実現しなかった。

D.グレーバーはテクノロジーの観点からすれば、週15時間労働は完全に達成可能だと述べている。なぜならば、家事労働や保育、医療、介護のような、主として女性が担ってきた狭義のケア・ワークに加えて、他者のニーズを満たすのに役立つという意味でのケアリング(広義のケア・ワーク)のみが、人々の日々の営みを継続してゆくために消し去ることのできないエッセンシャル・ワークとして残されるからだ。ところがテクノロジーは逆に、より一層人々を働かせるための仕事を作り出すことに活用されてきた。資本主義は利潤獲得のために、無駄なものを過剰に生産する性質を有するが、今日ではとりわけ不要なサービスの生産が際立っている。この不要なサービスを担う仕事をグレーバーはブルシット・ジョブと名付けた。

今日の社会は無意味だが高給な仕事と、不可欠だが無償ないしは低賃金の仕事に二分されている。前者は賃労働こそが道徳的な価値であり、厳格な労働規律に従わない人間は無価値であるという奴隷の観念に支配されており、後者は主として女性に担われたケア・ワークに由来するもので、「資本家の抑圧的権力」を維持する基盤としての性別役割分担の紋章が刻印されている。

近代経済学がその理論の中核に据えてきた「ホモ・エコノミクス(利己的経済人)」は、いまやその大半がブルシット・ジョブに従事しているが、『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?』の著者カトリーン・マルサルは「フェミニズムなしにホモ・エコノミクスに立ち向かうことはできないし、ホモ・エコノミクスと立ち向かうことなしに今の社会を変えることはできない」と言っている。

それ故に、ジェンダー平等が目指す性別役割分担の廃止は、ケインズの予言を妨げてきた障害を打ち砕く、社会変革に向けた運動の前線であり核心でもある。グレーバーはオキュパイ運動を「ケアリング階級の最初の大反乱」と評価したが、女性解放運動の歴史的展開過程においても、ドイツ共産党の創設に参加したクララ・ツェトキンが3月8日を「国際女性デー」にと提唱したことや、英国議会で最初に女性参政権を訴える演説を行ったのが社会主義者を自任していたJ.S.ミルであったことは理由のないことではないのである。

反共主義とジェンダー平等は両立しない

芳野会長にあっては体制護持を目的とする反共思想と体制変革の思想であるジェンダー平等が併存しているらしい。これは前出の「絶対矛盾的自己同一」というような高尚なものではなく、反共主義者の頭の中にあるジェンダー平等思想はまがい物である可能性が高いということである。そのことを傍証するいくつかの事実がある。

芳野会長はJAMの安河内会長との対談ビデオの中で、ベストセラーにもなった黒川伊保子の『妻のトリセツ』にいたく共鳴したとして周囲にも薦めている。折角の推奨なのでデジタル版を通読してみたが、男性脳と女性脳の違いを強調する点などにかなりの違和感が残った。そこで黒川伊保子について調べてみたところ、同氏が監修し江崎グリコが展開した、子育て中の夫婦向けスマホ・アプリ「おしえて!こぺ!」で、夫婦間のすれ違いは「脳の差異」が原因だとしていること対して、SNS上で「性別役割分担を助長しかねない」などの苦情が寄せられ、同アプリは非公開となった。脳神経科学専門の四本裕子(東京大学准教授)も「安易に『脳科学』に理由を帰属させることは浅慮である」と問題視している。

神経科学者ダフナ・ジョエルは著書『ジェンダーと脳』において、「大半の脳はそれぞれ男性的な特徴と女性的な特徴の≪モザイク≫からなる」として平均的性差を認めつつ、それは個体の特徴を説明できるものではないと述べている。男性脳・女性脳の二分法は、「脳科学」にかこつけて男女の役割を固定化する「ニューロセクシズム」を助長しかねないとの批判は、”#Metoo運動”の中でも主張されてきた経過がある。

黒川の主張は性別役割分担を助長しかねない疑似科学だが、資本主義社会の矛盾を共産主義の脅威にすり替える反共思想の似非社会科学的性格と相通じるところもある。こうした疑似科学的主張を違和感なく受け入れられるのは、性別役割分担社会を克服する体制変革の指針たるジェンダー平等思想の核心を理解していないためであろう。

また、芳野会長はジェンダー平等を語る際に、しばしば「男社会をぶっ壊す」という表現を用いる。その心意気やよし、と言いたいところだが、性別役割分担社会を男性支配の社会とみなして、性別間の対立関係に解消する発想は、例えば生活保護バッシングや公務員バッシングのように、あるいは移民や外国人に対する排斥運動のように、社会的支配構造やその諸矛盾がもたらす不条理の本質を見誤り、身近に安直な敵を見出して攻撃する反知性主義的な態度にも通じるものがある。こうした発想を克服しなければ、世代間の対立や雇用形態間の対立を煽り、広範な労働者の連帯に分断を持ち込もうとする支配層の政策にも有効に対処することができないであろう。

連合のジェンダー平等・多様性推進委員会には、芳野会長の思想性に関わりなく、性別役割分担社会の克服に向けた取組みを着実に進めてゆくことを期待したい。

Ⅲ. 23春闘で目指すべきこと

民主主義の学校としての労働組合

労働組合の活動が徹底した民主主義に基づかねばならないのは、労働組合こそ職場や社会における民主主義の学校であるからにほかならない。雇用契約による賃労働と資本の関係は、就業時間中は使用者の指揮命令権の下で基本的人権の一部が制約される。主権在民の民主主義国家においても企業の内側は治外法権であり、労働者は個々に分断されている限り職場の主権者たりえない。

自発的結社としての労働組合は使用者と対等な立場を確立することで、企業内に労働者を主権者とする民主主義的対抗軸を持ち込むものであり、その意味で民主主義の学校と位置付けられる。逆に言えば、会社組織は誰でも容易に理解できるとおり軍隊を模したものであり、そこでの意思決定は民主的になされることが期待されているわけではない。従って企業内のヒエラルキーを前提にいくら経験を積んでも民主主義の何たるかを体得することはできないのである。それは例えば、株主総会の評決が労働者協同組合のように1人1票ではなく1株1票の多数によってなされることからも明らかであろう。

筆者は国軍によるクーデターで現在は軍事独裁政権下に置かれているミャンマーにおいて、2015年および2018年の2回にわたって労働組合活動家研修を行った経験がある。民主化途上の当時のミャンマー労働法も、日本国憲法第28条が保障しているのと概ね同様の権利を労働者・労働組合に認めていた。研修の中で強調したのは労働三権、とりわけ争議行為(ストライキ)についての正確な認識を持つことである。

団結権については、すでに自発的に組合を結成して参加している役員や活動家が対象であるから、あえて釈迦に説法のようなことは言わない。重要なことは民主的な職場要求の策定と要求実現に向けた対企業交渉、そして交渉を有利に進めるための争議行為の配置である。会社との交渉は集団的物乞いではないので、争議行為を構えてこそ労使対等の交渉ができる。ただし、企業状況や彼我の力関係の実態を把握して、間違ってもストのカラ打ちにならないこと。実力行使に入ることなく譲歩を引き出すのが最善の交渉であることなどを伝えた。

スト権投票や模擬団交を交えた活動家研修の講義はここまでだが、実はこの争議行為を巡る議論の中には、逆説的ではあるが、生産を止めるストライキにおいてのみ労働者が生産点の主人公となるという論点が含まれている。労働者はストライキで潜在的な生産点の主権者であることを学ぶ。労使関係は利害の対立が前提となり、争議行為または争議を構えた団体交渉の経験のみが、緊張感ある相互の均衡関係の構築を可能にするのである。前述した、労働組合が企業内に持ち込む民主主義的対抗軸とは、具体的には争議行為を含む労働三権の行使によって担保される。このような労働運動の原点を踏まえることなしに、「DX」「ジョブ型雇用」「人(人的資本)への投資」といった経営側が繰り出してくる人事・労務政策上の「幻術」に惑わされることなく、すべての働く者の権利を守る護民官としての役割を果たすことはできない。

翻って、今日の日本における企業別労働組合役員はどうだろうか。新入組合員はユニオンショップ協定で自動的に加入してくる。組合費もチェック・オフ協定で労なく集められる。会社との交渉もサロン的な労使協議で、正当な理由なく会社が拒めば不当労働行為となる団体交渉は行わない。従ってスト権を立てての交渉はしないし、ましてストライキを指導したこともない。詰まるところ、実体験として労働三権を行使したことがない役員が大半ではなかろうか。芳野会長もまた、そうした幹部の一人であるとみて大きな間違いはなかろう。

23春闘を賃金倍増の起点に

目を海外に転じれば、インフレによる生活不安を背景に欧米や南アフリカなどの新興国でも頻繁にストライキが実施され、同時多発的労働攻勢の様相も呈している。いずれの国でも民主主義の学校によるOJTが繰り広げられている格好だ。ときあたかも日本では23春闘の方針論議が開始され、連合はベア3%を含む5%程度の要求を中心とする基本構想を提示した。しかし春闘の総指揮をとるべき芳野会長の采配は、22春闘時の発信力欠如からも明らかなように、まことに心もとない。昨年芳野会長が就任した直後に、会長の出身産別JAMの元政策担当役員は、春闘が分かっていない会長で来春闘(22春闘)は大丈夫なのかと既に懸念を表明していた。また同じJAMの元賃金担当者は、芳野会長の出身単組は(産業別統一闘争としての)春闘にはあまり関心がなかったとも証言している。

案の定、22春闘方針の記者発表では、諸外国と比較して日本の賃金は労働生産性の上昇に見合って上がっていないことをグラフも示しながら得々と説明したところ、記者から何故そのような乖離が生じたのか、連合としてどのように考えているのかと問われたことに対し、連合としての評価は各年の春闘総括の中で明らかにしてきたと逃げるだけで、正面から答えることができなかった。芳野会長の出身単組と同じJAM東京千葉傘下のある組合の元委員長は、ずっと労使協調で来てまともな交渉経験もない人が連合会長などあり得ないという趣旨の手厳しい批判をしている。

23春闘基本構想を巡る論議の中で、一部の産別からもっと大幅な賃上げを要求し、単年度ではなく中期的にも賃金水準を引き上げて行く方向性を示すべきだとの意見が出されたという。交渉現場を抱えた産別の危機感に基づく、こうした前向きの姿勢に依拠しながら春闘の再構築を図ることが、正念場の23春闘における最大の課題であるが、与党自民党との協調を最優先する芳野会長の下では、政府・日銀筋から今次基本構想には「よい傾向も出てきている」などとおだてられ、日経の社説に「物価高見すえ労組は賃上げで存在感示せ」と尻を叩かれながら、官製春闘の延長線上で、「新しい資本主義」構想の一環として岸田首相が提唱する「構造的賃上げ」に取り込まれてゆく懸念の方が強い。

岸田首相が提唱した令和版所得倍増計画が、資産所得の倍増という格差拡大を煽る投機への誘導に変質したことに対抗するため、春闘の中期目標として賃金倍増のスローガンを掲げるべきだ。ただしこの賃金には給与所得に加えて、住宅や教育さらに育児から医療・介護・年金に至る全般的な公的給付の形をとった間接賃金も含めて考える必要がある。

かつてオイル・ショックで原油価格が高騰し、狂乱物価に見舞われた1974年に、労働組合は生活防衛を掲げて32.9%の大幅賃上げを獲得した。この年、実質賃金は6.2%上昇し、労働分配率も大きく上昇することとなった。一方実質GDPは敗戦後初めてマイナスを記録し、経営側はこれまでにない危機感を募らせた。翌1975年の春闘では経営側が背水の陣を敷き、賃上げ率を一定水準以下に抑えるガイドラインが設定され、75春闘賃上げ率はガイドライン以下に抑え込まれた。ここからいわゆる春闘の連敗が始まり、それは今日に至るもなお尾を引いているとみるべきなのだ。春闘48連敗である。

賃金倍増のスローガンはこうした歴史に終止符を打ち、反転攻勢に転じる決意表明でもある。74春闘の生活防衛の果実を取り戻すような春闘の再構築に向けては、指導力と求心力のあるリーダーへの交代が不可欠だ。江本孟紀(元阪神タイガース)の言葉を借りれば、トップに人望を欠いた人物が座れば「ベンチがアホやから野球がでけへん」という事態にならざるを得ない。

連合が進むべき「第3の道」

かくも人望のない人物が連合会長の座を占めるに至った経過を振り返れば、労働運動を取り巻く情勢が混迷と閉塞感を極める下で、どの産別も会長を出したくないという袋小路に陥り、産別に責任を持たない女性枠副会長に白羽の矢が立ったというのが実態であろう。そうであるなら、実は芳野会長の選出過程そのものが、当人が批判して止まない「男社会」の悪弊そのものだったのではないか。本質的なところでジェンダー平等に無頓着な組織を温存したまま、たまさかトップに女性を据えてみたところで本来の内容を伴った男女共同参画が進むわけではない。

英国では、トラス首相が就任直後に発表した大規模減税政策が英国債やポンドの急落など金融市場を混乱させた責任を問われ、減税策の大半を撤回し、保守党内部からの批判も強まった結果、就任44日という異例の速さで辞任に追い込まれた。不人気絶頂の芳野会長には、せめて引き際の潔さだけでも見習ってもらいたい。それには保守党内部からのトラス批判のような連合内部からの批判ももっと大きくならなければいけない。何の指導力も実績も示せず、批判を浴びながらポストに恋々と居座り続ける様は、芳野会長自身が攻撃の対象としてきた「男社会」の悪習をなぞるもので、今日の与党自民党の無様な姿とも二重写しになる。まさに類は友を呼ぶというところか。

自民党政権と真剣に対峙するためにはトップの交代を反撃の狼煙とすることが避けられない。逆に自民党と正面から衝突することを避けたい思いが芳野会長温存の背後に透けて見えはしないか。連合内でもジェンダー平等、非正規、外国人、中小など諸問題で漸進的解決に向けた取り組みが進められているが、芳野会長の下では自民党中心の政権を維持した政治支配の継続を阻害しない範囲に押し込められてしまうことは必定だ。芳野会長が映し出す今日の連合運動の荒野は、今年2月にサンデー毎日誌が掲載した芳野会長批判の企画「翼賛化か自然死か・岐路に立つ「連合」」そのままである。もとより連合には、出直し的再生に向けた第3の道がある。

はやかわ・ゆきお

1954年兵庫県生まれ。成蹊大学法学部卒。日産自動車調査部、総評全国金属日産自動車支部(旧プリンス自工支部)書記長、JAM副書記長、連合総研主任研究員などを経て現在、労働運動アナリスト・中央労福協幹事・日本労働ペンクラブ幹事・Labor Now運営委員。著書『人間を幸福にしない資本主義 ポスト働き方改革』(旬報社 2019)。

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