特集 ● 続・混迷する時代への視座

失敗を失敗とし、間違いを間違いとする勇気

三つの E(エビデンス・エッセンシャル・エコノミー)から考えるコロナパンデミックの教訓(その1)

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

三つのEとは

中国武漢市で未知のウイルスによる肺炎の発生が伝えられてから三年、WHOがパンデミックを宣言してから二年八ヶ月、世界は、ようやくコロナパンデミック終息の兆しが見え始めたと言われるようになった。しかし、世界では、今年二月にロシアが始めた戦争による食糧・エネルギー問題の深刻化をきっかけとして経済的・社会的な危機が全地球的規模に広がり、政治的にも不安定化の要因は先進諸国にも例外なく増大している。そのせいもあって、コロナパンデミックへの関心も明らかに低下し始めていると言ってもよいであろう。

実際、感染者数も死者数も、地域ごとの差異はあるものの世界全体で見れば減少しつつある。感染により、あるいはワクチン接種によって抗体獲得者が爆発的感染拡大を防止する程度には増加したこと、特効薬の開発には至っていないが、検査体制も整備され感染の早期発見が可能になり、対症療法的には治療法が確立されてきたこと、そして三密回避などの予防意識の徹底などの要因が複合的に作用した結果であろう。しかし、気を緩めればリバウンドの危険もあり、コロナウイルスの新たな変異株の出現の可能性も残っている。

長期にわたる様々な行動制限や自粛が緩和された解放感からか、多数の死者を出すような群衆行動による事故も世界各地で相次いでいる。インドネシアのサッカー場暴動、韓国ソウルのハロウィン群衆圧死事故、インドの吊橋落下事故など、直接の原因とは言えないが、コロナパンデミックからの解放感が背景にあったことは否めないであろう。

それはともかく、現在の世界的感染状況は、いわば小康状態というべき状況であり、解放感に浸るにはまだ早すぎる。今この時期になすべきことはパンデミックが始まってからこれまでのことを振り返り、何がどうなっていたのかを明らかにし、予想される最悪の事態に備えるとともに、今後に生かすべき教訓を確認することではなかろうか。

人は、えてして「のど元過ぎれば熱さを忘れる」という。三年も自粛生活が続けば「いい加減にしてくれ」と言いたくなる気持ちも分からなくはない。しかし、まだ完全に危険が去ったわけではない今こそ、事態を反省的に考察する絶好の機会である。以下、パンデミックの中で問題提起的に使われた三つの言葉を手掛かりに反省的考察を試みてみたい。その三つの言葉とは、「エビデンスEVIDENCE」「エッセンシャルESSENTIAL」「エコノミーECONOMY」といういずれも「E」を頭文字とする言葉である。この三つの言葉を取り上げるわけは、以下の行論で明らかにするつもりであるが、まず「エビデンス」から検討を始めよう。

最初は攻撃するための言葉として使われた

日本のコロナウイルス感染症への対応は、初期の段階では明らかに緊張感に欠けたものであった。中国武漢の厳しい状況が伝えられ、在武漢の日本人の緊急帰国の措置にしても、当初、政府は帰国費用は帰国者の自己負担とする方針であったし、帰国後の隔離施設についても十分な準備ができず、民間ホテルの善意に頼らざるをえない有様であった。クルーズ船ダイヤモンド・プリンセス号の乗客中にコロナウイルス感染者が報告された時点でも、十分な防疫体制がとられず、船内でクラスターが発生し、国内へのウイルスの侵入を防ぐこともできなかった。

武漢の惨状がテレビで大々的に報じられ、世界への感染の急速な拡大やクルーズ船での感染阻止の困難さが明らかになってくると、国内でも危機意識が高まり、それに押されるように政府も対策の強化に乗り出さざるをえなくなった。政府に感染対策の助言を行う専門家会議の初会合が二月半ばに開催され、法制度を含む体制整備の課題も意識されるようになったが、その頃には国内への感染の拡大は阻止しえないほどになってしまっていた。

その後、感染拡大が続く中で、感染防止のための医療物資、マスク・防護服・消毒用アルコールなどの不足が深刻化し、病院ですら入手困難に陥りかねない深刻な状況が生じた。政府は、習近平国家主席の来日やオリンピックなどの政治日程に縛られ、積極的対策を打ち出せず、対応が後手後手になり、突然全国の小学校中学校高等学校の春休みまでの一斉休校を通知し、全国民に布製マスクの配布を決定するなど、場当たり的な対策を連発するだけであった。とにかく、感染拡大の初期段階は、コロナウイルス感染症の実態も分からず、参照すべ過去の経験も少なく、百年前のスペイン風邪の記録を引っ張り出さなければならないような状況だったので、対策の不十分性もある程度許容せざるをえなかったかもしれない。また、対策・方針についての社会的合意がなかなか形成されないという問題もあった。

ウイルスの正体・性質、感染ルート、感染症の具体的症状、重症化・死亡の危険性の程度、感染確認の方法、治療方法など、確かな情報が決定的に不足する中で、感染拡大を阻止するにはどうすべきか手探り状態が続く。そのような不確定要素が多い事態においては、人々の反応は、極めて大雑把な分類であるが、できる限り危険を避けようとする慎重派と心配のし過ぎを回避しようとする楽観派とに分かれがちである。そして、この二つの傾向は、一方が他方を「根拠のない楽観論に陥った愚か者」、あるいは逆に「インフルエンザ程度なのに騒ぎすぎの臆病者」というような非難をぶつけ合う対立関係にはまり込む。

コロナ感染症への対応については、特に検査をめぐる問題についてその対立はエスカレートしがちであった。前者は、できる限り広範に検査を実施し、できる限り早く感染者を発見し、隔離・治療を実施し感染拡大を防止せよ、と主張する。後者は、全国民に検査を実施することは不可能だ、検査の精度も無症状者の問題についても有効であるかどうか「エビデンス」がない、「エビデンス」が無いことを無理に実施しようとすれば、不安を煽り、混乱をもたらすだけだ、と批判する。

コロナウイルスに感染しているかどうかを確認する検査、なかでもPCR検査について、その方法、精度、実施する機関、処理能力、費用など検査全体について一般人に理解可能な程度に情報が得られるようになるずっと前から、マスコミやSNS上で前記のような「論争」が繰り広げられていたことを考えると、そうした主張のどちらが正しかったのか議論することはあまり意味がない。大事なのは、その「論争」の中で、「エビデンス」という言葉が、政治的言葉として、言い換えれば論争相手を非難攻撃する言葉として使われてしまったことである。

「エビデンス」を確定することは容易ではない

ところで、「エビデンス」とは何か。日本語に翻訳すれば「証拠」「論拠」あるいは「証拠・論拠とすべき事実」ということになろう。そして、「証拠・論拠とすべき事実」は、ある一定の判断・決定の妥当性を証明することができるということになって、はじめて証拠・論拠とされうる。したがって、ある事実を証拠・論拠とするためには、事実それ自身を事実として確定することから始めなければならない。

ウイルス感染の検査についていえば、検査の対象となる検体が、検査対象者の物であることが確実でなければならない。その上で、検査機器に対象となる検体以外の夾雑物が紛れ込まないこと、他者の検体と取り違えられないことが求められる。そして、十分な環境条件の下で正しい手順で解析が行われて、はじめて感染の有無が確かめられる。しかし、これだけでは対象者がウイルスを保有していることの証明であっても、症状がウイルスによるものか、他者への感染可能性があるかの判定はできない。その判定には、ウイルス量の定量的検査や専門の医師による診断などを組み合わせる必要がある。さらに、検査が感染防止に有効かどうかの「エビデンス」を得るためには、上記の検査を一定地域で一定の人口規模を対象に一定期間続けなければ、判断に必要なデータは得られない。

こうした「エビデンス」確定の大変さは、裁判における証拠調べの大変さを想像すればわかりやすいと思うが、感染症のような地球大に大規模な現象の場合には、その大変さは想像を絶するものがある。その大変さを避けることができる方法は、国家的規模さらにはそれを越えた国際的な情報の共有以外にはない。しかし、その場合でも、どの情報が信頼に値する情報であるかを判断することも簡単ではない。

日本国内での問題を指摘する場合、よく国際的比較事例が参照されるが、その場合参照しているデータがどのようなものかについてはあまり触れられることがない。西欧では、感染者・死亡者数は減少し、規制は大幅に緩和され、人々はマスクなしで自由に活動しているというようなことが言われ、日本だけが未だにマスク着用者が多いのは国際的にみて異様だなどと言われることがあるが、その場合、参照されている諸国のデータがどの程度信頼に足るものか十分に検討されているようには思われない。

これは、既に指摘されてきたことであるが、感染者や濃厚接触者、感染による死亡などの定義は世界的にWHOのガイドラインは示されているが、各国がそれを遵守しているわけではない。データ自身の信頼性もそれほど大きくはない。データの公開に積極的ではない国家もある。マスク着用について、着用しない者に対して同調圧力が加わる国もあれば、着用している者に対して臆病者という罵倒を浴びせがちな国もある。マスクの感染防止効果ぐらいは「エビデンス」に基づいたしっかりした議論がなされてしかるべきだと思うが、依然として文化論的・イデオロギー的問題にしてしまう傾向が克服できていないのが現実である。

それはともかく、「エビデンス」に基づいた議論や対策決定の作業が十分とは言えないのは、「エビデンス」を確定する作業自身の困難さによるところが少なくないが、データや研究の信頼性を保証するシステムがないことにも原因がある。現在、多くの研究分野で大学をはじめとする研究機関があり、それらの研究機関・研究者を包含した学会や国際学会があり、定評ある学術誌がある。そして、それらの機関・組織の多くは、研究者の相互チェックのための査読や研究倫理審査のためのシステムを備えている。そうしたシステムによる審査を通った研究論文やデータは、一応信頼に足ると考えられるが、現実には、少なからず疑問が残ると言わざるをえない。詳細は省くが、筆者の大学や学会での経験は、そうしたシステムに全幅の信頼を置くことはできないことを教えている。また、そうしたシステムがきちんと作動するためには、研究者と研究機関、学会等の組織の自立性が不可欠の前提条件になるが、日本の場合には、その条件が極めて不安定な状況にあると言わざるをえないことも指摘しておかなければならない。

いずれにしても、大学教授や政府の審議会委員などの身分や肩書などをそのまま信用することは間違いの元であることが少なくない。たとえノーベル賞受賞者であろうとも、専門外のことについての発言にはその賞が正しさの保証書にはならないことは知っておくべきであろう。

専門研究者軽視は巨大なツケを抱えることになる

この三年の経験で分かってきたことの一つは、未知の感染症に対応するためには、感染症に関する「エビデンス」を確定し、できるだけ多角的かつ大量に「エビデンス」を積み上げることが必要だということであった。そうした観点から、日本の現状を検討してみると、未だに重大な欠陥が解消されていないことが見えてくる。その欠陥とは、感染症対策に必要な専門研究者の層の薄さという問題である。

感染症対策には、実は、多様な分野の研究者・実務担当者の協働が欠かせない。もちろん、中心になるのは、医療分野それも各種感染症を専門とする専門家や公衆衛生にかかわる専門家であろう。それでも感染症の原因となるウイルスの研究者、呼吸器系疾患の専門家、感染経路の研究者、感染症の地域特性の専門家、予防医学分野の研究者、医療統計解析の専門家などの専門家が必要である。さらに、医療行政の専門家、医療分野に関わる法律家、行動規制の在り方を検討する社会学者、広報戦略を考える情報の専門家、経済的影響を評価する経済学者も欠かせないだろうし、なによりも医療の現場をささえる医師・看護師・検査技師などの実務担当者の参加がなければ実務的に必要な問題の検討ができない。素人がざっと考えただけでもこれだけの分野に関わる専門家が必要だとなると、はたして現実にこれだけのメンバーを揃えたチームを作れるのか疑問が湧いてくる。

この感染症がマスコミで取り上げられるようになった初期の段階で、テレビに登場したある感染症の専門家が、あまり脚光を浴びる分野ではないので、研究者の層が薄いのですとこぼしていたのを覚えている。実際、医科大学で感染症についての学科・専攻分野を設置しているところは多くはないという。テレビに登場した専門家も、大学教授であっても「特任」とか「客員」とかがついた非専任の教員が多いという印象があった。感染症対策は基本的に都道府県・特別市単位の組織が中心に担われているが、そこを担う専門家は本当に十分なのか。中央政府でも国立感染症研究所はあるものの、その所員・職員数、予算額などはアメリカ合州国のCDCなどとは比較するのもおこがましいほどの貧弱さだという。

もちろん、たった三年ばかりで、専門家の養成ができるわけはない。せめて、その数を増やし、体制を整えるための施策は開始されたというならばよいが、政府が発する政策は掛け声ばかりで全く具体性に欠けていると言わざるをえない。少し感染者の数が減少し、医療逼迫の厳しさが緩むと、規制緩和だ、ウイズコロナだ、ゴーツートラベル・ゴーツーイートと「エコノミー」関連の話ばかり。マスコミやSNS上では、マスクをいつはずすか、はずさないのはなぜか、というような議論ばかり。

大事な「エビデンス」の話はどこに行ってしまったのだろうか。まだ沈静化したとは言い切れないコロナ感染症に対しても、今後予想される地球規模の感染拡大を招く恐れのある未知の感染症に対しても、きちんとした対策を立てるための体制や心構えの形成が喫緊の課題であるはずにもかかわらず、効率化や費用対効果ばかりを気にする政治や社会的意識の在り方は、いつか巨大なツケをはらわされることになる。

失敗や間違いを認めず、何でも忘れたことにして済ませてしまう政治家が、閣僚辞任願のインクも乾かないうちに、コロナ対策本部長に就任するという。こんな政権党には、「エビデンス」を確認し、できるだけ多様かつ大量に収集・蓄積するという根気のいる地道な作業の重要性が理解できるはずがない。はっきりしているのは、それだけというのでは、あまりにも情けない。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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