特集●日本を問う沖縄の民意

“令和の喧騒” 今こそ天皇制を考える

徴用工問題の根本にある韓国からみる天皇制への視点

朝鮮問題研究者 大畑 龍次

4月1日、新元号「令和」が発表された。その日は朝からテレビでは特別番組が編成され、新聞社は号外を出した。この間、天皇の退位・即位が近づくともに、マスコミは何かにつけて「平成最後の…」を連発し、皇室報道が増えている。平成を振り返り、平成天皇の「業績」や裏話番組などで溢れかえっている。昭和天皇の死去直前の健康悪化報道よりはまだましだろうが、嫌になる。そこで改めて天皇制について考えてみたい。

活発な共和制論議を

生前退位と代替わりを迎えるにあたって象徴天皇制をめぐる論議も活発になっている。象徴天皇の論議をみると、およそ三つの立場に整理することができそうだ。第一は、現在の象徴天皇を元首化しようとする自民党などの立場。この勢力は、天皇明仁の生前退位の意向を無視し続けていたし、「お言葉」のあともしばらくは反対の立場だった。「お言葉」発表とともに国民的な支持が広がったことから、いやいや生前退位を認めるようになった。「令和」の発表が当初の予定から11分遅れたのも、主権者国民への発表の前に天皇・皇太子に伝達すべきとの尊皇的意向を尊重したとされる。

第二は、「よりまし象徴天皇制」の立場。天皇の「お言葉」が国民的に支持されたことを受け、尊皇派に対抗してより民主的な天皇制にしようというもの。代替わり行事の簡素化を主張した秋篠宮発言を支持し、政教分離の原則重視の立場である。より開かれた民主的に議論すべきとし、国会内野党勢力もほぼこの立場に集約される。

第三に、天皇制の廃止と共和制移行の立場。3月28日付の『朝日新聞』文化・文芸欄では、天皇・皇族には基本的人権が認められておらず、皇族には天皇制からの「脱出の権利」があると主張している。この立場は極めて少数であり、国会内ではこうした議論はない。象徴天皇制は憲法第一条から八条にわたって規定されているので、共和制への移行は国会での論議と改憲が必要なのだが、ほとんどタブーとなっている。

本稿では基本的に第三の立場を支持しつつ、その理由を述べてみたい。まず、象徴天皇制が生まれた歴史的経過を確認しておきたい。結論的に言えば、憲法のいう「国民の総意」などではなく、日米支配層の妥協の産物として作られたものにほかならない。日本側は「国体」護持を主張し、米側はスムーズな占領政策遂行のために天皇制を受け入れた。国民が主権者とはなったが、新憲法でも何よりも先に天皇条項が優先的に規定されている。

主権者である国民は、かつては「臣民」と呼ばれていたが、新憲法の発想に大差はなかった。行政を取り仕切る者たちは「大臣」であり、国事行為なしに国会も内閣も機能できないし、各国大使も着任できないことになっている。政治学の基礎的な知識では、これを立憲君主制と呼ぶ。歴史と世界の流れは共和制にあるというのに、日本はその流れに乗ろうとせず、時代錯誤も甚だしい。

象徴天皇制とはなにか

象徴天皇制は身分制度のもとで成り立っている。その身分制度には皇族と国民があり、厳格に分けられている。皇族は日本民族ではあっても、日本国民ではない。皇族内の女子は国民男性との婚姻によって国民になることができ、国民内の女子もまた皇族の男子との婚姻によって皇族になることができるが、それぞれの男子は決して身分の変更は許されない。皇族男子が少ないことから、女性天皇、さらに女系天皇が検討され、女性宮家も議論されているが、見送りになっており従来のままである。

皇族である以上、憲法が国民に認めている権利と義務の対象外である。「自由意思が認められない世襲制、職業選択も婚姻も不自由」なのが皇族である。一時的な留学は可能でも、基本的には日本への居住が義務付けられており、世界中の人間に認められている移動の自由もなく、国籍選択もできない。

この時代にこのような身分制度が許されていいものか。日本の皇族は他国の王室と比べてみても、その自由度は制限されている。自ら運転して公道を走ることも、街に出て自由にショッピングを楽しむこともできない。衣食住は保証されてはいるものの、そうした制限のなかで暮らすことが幸せなこととは思えない。

象徴天皇制には、天照大神以来の万世一系という世襲制が貫かれており、天皇明仁は125代だという。しかし、この万世一系なるものが証明されているわけではない。神武から9代開化までは信憑性に欠ける神話の世界でしかない。そして、天皇家の歴史には血を血で洗う抗争がつきまとっている。このような不確かで血まみれなものを伝統だの文化などというのはいかがなものか。大相撲の土俵を女人禁制とするという伝統・文化を見直そうという時世なのだから、天皇制も見直されなくてはならないのではないか。

もうひとつ象徴天皇制の特徴としてあげられるものにその宗教性がある。憲法の天皇条項にはその宗教性は規定されていないが、その宗教性を抜きに天皇制はありえないのは明らかだ。天照大神を主神とする宗教的宮中祭祀と固く結ばれている。「象徴」たる天皇がこうした特定の宗教と結びついていることは、国民に認められている信仰の自由を侵害し、政教分離原則に反する。天皇・皇族の存在は、国家機構の一部として「国民を統合する」ために必要とされているが、それなしにも立派にやっていける。

筆者は中国と韓国に居住経験があるが、いずれの共和国も愛国意識に富んだ社会を作り出し、自らの文化と伝統を守っている。共和制を目指すためには、好意的な天皇報道を抑制し、天皇制を眠り込ませる必要があろう。憲法に規定されていない「公的行為(公務)」の制限、皇族の各種団体における名誉職廃止、天皇杯ならびに皇后杯の廃止などが必要だろう。それと同時に、皇族の基本的人権の見直しと拡大がなされなくてはならない。

韓国から見る天皇裕仁の戦争責任

溢れるばかりの好意的な皇室報道のために、我々は天皇制を客観的に見ることができないのかもしれない。そこで、外側から天皇制を考えるヒントを得たいと思う。最近、韓国の文喜相国会議長が慰安婦問題に関連して「戦犯天皇の息子である天皇明仁あるいは安倍首相が元慰安婦ハルモニに謝罪すれば、解決できるだろう」という趣旨の発言をし、安倍首相は「極めて不適切」として発言の撤回を要求したが、議長は撤回には応じなかった。国会議長は日韓議員連盟会長も務めたことがあり、日本の事情も熟知している人物だけに失言の類ではなく、持論といえるだろう。

この発言で検討しなくてはならないのはふたつある。ひとつは、天皇裕仁が戦犯であるとの認識。確かに東京裁判などの戦後処理の過程で、天皇の戦争責任は不問とされた。しかし、明治憲法における天皇は主権者であり、軍の統帥者であり、日本国の最高責任者であった。したがって、そのもとで行われた戦争行為の責任を問われるのは当然なことである。日本軍は菊の紋章のついた銃とタバコをもって戦場に行ったのではないか。

前述のように日米支配層の妥協の産物として戦争責任が不問に付されたとしても、朝鮮植民地を推進し、慰安婦、徴用工、そして兵士を動員した日本の最高責任者の責任は歴史的に明らかである。徴兵された朝鮮人兵士のなかにさえ戦犯とされた者がいたのに、最高責任者が戦犯でないわけがない。被侵略国の国民として天皇裕仁が戦犯だというのは当たり前の認識だろう。

もうひとつは、天皇明仁に謝罪を要求したこと。国会議長の発言は、天皇明仁あるいは安倍首相というものだった。それは国家のしかるべき地位にあるものが謝罪すべきという趣旨だろう。日本国としての謝罪が必要であり、天皇明仁あるいは安倍首相が適当というのだ。それでは安倍の「不適切」とは何なのか。安倍の「極めて不適切」という発言の追加説明はなかったし、マスコミも明らかにしようとしなかったため、推察するしかない。

これまでの安倍政権の立場から推察すれば、1965年の日韓条約時に問題は処理されており、謝罪は必要ないということだろう。さらに、天皇には政治的発言が許されていないのだから、天皇明仁にそのような行為を要求するのは「不適切」と考えてのことだろう。しかし、昨年の韓国大法院判決では日本は謝罪していないと判決されており、その判決は歴史的真実に沿っている。天皇明仁が公務と称して災害被害者を見舞い、国籍を問わず戦没者への慰霊を行っていることを考えるならば、同じ趣旨で慰安婦ハルモニに対する謝罪はごく自然のことではないだろうか。

『金子文子と朴烈』

もうひとつの事例を指摘したい。最近、韓国映画『金子文子と朴烈』が235万人を動員するヒット作となり、2月から日本でも上映が始まった。日韓間では昨年から慰安婦合意問題、元徴用工問題など日本の朝鮮侵略に由来する問題が浮上している。このタイミングでこのような映画が作られ、大ヒットとなった事実はきわめて現在的な事象といわなくてはならない。

金子文子と朴烈(本名:朴準植 )は、いわゆる「朴烈事件」という大逆事件の関連者であり、事件当時彼らは20代前半の若者だった。二人は内縁・同棲関係にあったが、1923年9月1日の関東大震災のおりに予防検束され、その後皇太子裕仁の暗殺を計画していたとされ、大逆事件として死刑判決を受けた。これまで四件発生した大逆事件のひとつである。その後、恩赦により無期懲役になったが、金子文子は獄死し、朴烈は戦後釈放され、民団を組織して初代団長となった。韓国に帰国後、朴烈は朝鮮戦争の際に朝鮮に連行され、1974年にその地で亡くなったという。

映画は、二人が出会って同棲し、文子の獄死直後で終わっている。金子文子が収監されていた宇都宮刑務所栃木支所は縊死による自殺と発表したものの、遺体が引き渡されなかったことから、その真相は不明のままだ。このとき文子は23歳だった。文子と朴烈は当時、朝鮮人も多く参加していた15人ほどの「不逞社」を組織していた。社名の「不逞」とは「不逞鮮人」を自ら名乗ったものと思われる。

二人は皇太子裕仁の結婚式での暗殺を計画し、上海の義烈団(金九らが組織していたもの)から爆弾を入手しようとした。結果的に爆弾は入手できず、未遂に終わったのだが、1919年の3・1独立運動の記憶もあってか大逆罪に問われることになった。映画には出てこないが、文子には1912年9歳から16歳まで朝鮮生活体験があった。そのなかで日本の植民地支配の実態に触れ、3・1独立運動を目撃した。それが日本の天皇制への敵愾心を育て上げた。

文子は日本社会認識について予審廷訊問で次のように述べている。「私は国家社会組織を三段に分けてみております。第一階級は皇族であり、第二階級は大臣その他政治の実権者であり、第三階級は一般民衆であります」。さらに、「皇族は政治の実権者たる第二階級が無知な民衆を欺くために操っている可哀想な傀儡であり操り木偶」、「牢獄的生活にある哀れな犠牲者である」。このことを世に問うために暗殺を計画したという。二人は「不逞社」の仲間を守るため、そして天皇制批判を世に問うために積極的に訊問に応じて持論を展開し、自らの思想を明らかにしている。

映画は二人のラブロマンスというよりも、彼らの主張が随所に出てくるものになっている。金子文子については、瀬戸内晴美著『余白の春』(中央公論社)、鈴木裕子編『金子文子、わたしはわたし自身を生きる』(梨の木社)を参照されたい。ちなみに、1932年の大逆事件「桜田門事件」の犯人・李奉昌 も朝鮮人であり、死刑が執行された。彼は桜田門外で昭和天皇の馬車に手榴弾を投げ、近衛兵一人を負傷させた。李奉昌の遺骨はのちに韓国に移されて「義士」とされている。

日本の報道だけでは、天皇制の本質に迫ることはなかなかできない。象徴天皇制に形を変えたものの、天皇制の本質は変わらない。大逆事件には多くの無政府主義者が関与してきたため、共和制への移行が曖昧になっているように思われるが、いまこそ共和制の論議が必要なときだ。

おおはた・りゅうじ

1952年北海道生まれ。朝鮮半島や東アジアの研究に従事。朝鮮半島、中国に関するレポート、論考多数。韓国、中国でも居住経験。バンプ『朝鮮半島をめぐる情勢と私たち』(完全護憲の会)。共訳書として『鉄条網に咲いたツルバラ』(同時代社)、『オーマイニューの朝鮮』(太田出版)など。ブログ「ドラゴン・レポート」主宰

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