特集●日本を問う沖縄の民意

自国第一主義の呪縛を解くために

不安と不満が充満する時代に政治は何ができるか

神奈川大学名誉教授・本誌前編集委員長 橘川 俊忠

不安・不満はどこからくるか

数年前にはマスコミにもさかんに取り上げられ、注目されてきたが、最近はあまり耳にしなくなった政治哲学者マイケル・サンデルは、1996年の著書 『民主政の不満』の冒頭で、現代アメリカの民主主義の問題について次のように書いている。「私たちの公共的な生活は、不満に満ちている。アメリカ人は、自分たちがどのように統治されるかについて十分な発言力を持っているとは思っていないし、政府が正しいことをすると信頼してもいない。第二次世界大戦での勝利、空前の豊かさ、女性やマイノリティにとっての社会的正義の進展、冷戦の終結といったような、最近の半世紀におけるアメリカ的生活の華やかな達成にもかかわらず、アメリカ政治は、不安と不満に満ちあふれている」と。

このサンデルの指摘した不安と不満は、21世紀に入ってますます増大し、ついにトランプという異様な大統領を登場させるに至った。トランプは、不安と不満を解消するのではなく、フェイクニュースを垂れ流し、かえってそれを煽り立て、政権維持のための策略の道具としようとしているようにすら見える。不平や不満が、手続きを重視する民主主義やリベラルなエリート層へと攻撃の矛先を向けているかぎり、ポピュリズム的政治手法が効果をあげ続けることができるからだ。

こうしたアメリカ政治に似たような状況は、日本でも指摘することができる。多くの日本国民は政治に対して十分な発言力を持っているとは思っていないし、政府が正しいことをすると信頼しているわけでもない。第二次世界大戦には敗北したが、驚異的なスピードで復興を遂げ、世界史にも稀な高度成長を達成し、それなりに豊かな生活を実現し、平和国家として国際社会に確かな地歩を築いたにもかかわらず、日本の政治にも不安と不満が蓄積されている。そして、嘘と居直りを繰り返す安倍政権が、理性的な批判には一切耳を貸さず、多数をたのんで法案を押し通す姿は、強大な大統領権限を振り回すトランプと共通するものがある。

それだけではない。不安と不満にとらわれた状況を利用して、右派的政治勢力が伸長している現象は、ヨーロッパでも目立ってきている。それが、自国第一主義を標榜し、民主主義とリベラルな価値観を危機にさらしているという点でも、アメリカや日本と共通しているように見える。そのことは、さらに、第二次世界大戦後の国際協調の枠組みを揺るがし、国際的緊張を高め、不安の雰囲気を醸成し、自国第一主義の拡大再生産を推し進めるという悪循環を引き起こす。このような不安と不満を操作する政治が、行き着く先はどこか。それは、全体主義と戦争への道であることは、歴史の示すところである。

今、世界がそういう道を再びたどりつつあるのかどうかの検討はしばらく置くとして、まず、不安と不満を充満させている要因は何かについて検討しておこう。サンデルは、その要因として「一つは、個人としても集団としても、私たちは自らの生活を統御する力を失いつつある、という恐れ」と、「もう一つは、家族から近隣関係、国家に至るまで、共同体の道徳的骨組みが、私たちのまわりで解体しつつある、という感覚」すなわち「自己統治の喪失および共同体の侵食」という二つの恐れをあげ、それが「この時代の不安を規定している」と主張している。

本稿は、サンデルのコミュニタリアン(共同体主義)としての立場やリバタリアンへの批判について論じることが目的ではないので、その問題にはこれ以上深入りはしない。いうまでもなく、サンデルの議論は20世紀末のアメリカの状況を前提としており、そこに現代世界の一部として共通する要素があることは否定できないとしても、アメリカとは異なる歴史的条件を持つ日本にその議論をそのまま適用することはできないからである。この日本において不安と不満を規定している要因について、もう少し検討しておこう。

現在、日本で直接的に不安と不満の要因となっているのは、急激な少子高齢化の進行、雇用の不安定化と格差の拡大、地方の疲弊、頻発する災害、原発事故に始まる安全神話の崩壊、そして冷戦終結以後の東アジア情勢の変化、特に韓国・中国の台頭、北朝鮮の核武装問題などの要因である。こうした問題は、情報化し、グローバル化した現代では、国際社会の変化への迅速な対応を求められ、国内での出来事がよかれあしかれ国際社会の反響を呼び起こすという状況の中で、スピードと複雑さを増し、個人や小集団の努力ではどうにもならない規模の影響を及ぼしてくる。グローバル化は、他面では企業を中心とした経済活動を巨大化させるが、そのこともあいまって、大多数の個人にとっては「どうにもならないという感覚」すなわち無力感を蔓延させることになる。

他方、GAFA(グーグル、アマゾン、フェースブックなど主要IT企業)を筆頭とする情報産業は、大量の情報を収集し、大衆さらには個人の嗜好を分析し、それに合わせた商品・サービスを提供することによって、新たな欲望を掻き立て、人々を消費へと誘い込む。欲望は、次々と新たな欲望を生み出し、人々は、満たされることのない欲望の渇きに苦しむという悪循環に引きずり込まれる。そこに、欲望の充足に成功したごく少数のセレブ達の映像がまき散らされる。そして、「夢をあきらめるな」「願いを持ち続ければいつかはかなう」「そうすれば楽しい未来が待っている」というたぐいのメッセージがメディア上に溢れかえる。

さらに、ソーシャルメディアの普及によって、ネットの中で注目を浴びるという小さな成功体験のチャンスが与えられる。そのチャンスをたまたまうまくつかめれば、欲望の渇きを一瞬癒すことができる。快適さと楽しさを求めることは善であるという快楽原理と褒められ認められることを求める承認欲求にとらえられた者には、たとえそれが些細なことにすぎなくて一瞬のことであっても、その癒しは千金の値を持つ。それが、無力感・敗北感から抜け出す唯一の道に思えるからだ。それは、一種の中毒症状を呈することすらある。

こうした無力感と欲望充足を渇望する心理は、大きな状況への関心の低下と小さな自己周辺の人間関係への関心の集中という関心のあり方と対応する。それはまた、新自由主義的競争原理が強要する激しい緊張から避難する場所を確保したいという意識とも連動して、自分の関心をますます狭小な世界に閉じ込める傾向を助長する。しかし、その狭小の世界で承認欲求を完全に満たすことが不可能である場合、その欲求は代償物を求めて動き出し始める。それは自己の夢をアイドルに託すという形をとることもあれば、国家や民族という巨大な集団に自己を一体化させるという形をとることもある。

いずれにしても、現在の日本は、それが幻想に近く、個人の自立と自由を阻む面があったとしても、人々の精神を安定させる機能を果たしてきた企業における終身雇用と地域社会における家族を含む共同体という二つの制度を完全に破壊してしまった。その破壊の速度があまりにも急激であったこと、それと表裏をなす新自由主義的競争原理の浸透とが、「不安と不満の充満する時代」を作り出しているのである。

忍び寄るディストピアの影

現代の不安を考える場合、もう一つ忘れてならないのは、科学技術のあまりにも急速な「進歩」がもたらすかもしれないディストピア(反ユートピア社会、暗黒郷)の恐怖である。ジョージ・オーウェルが、『1984』 で描いたビッグブラザーが支配する徹底した情報管理と秘密警察組織によるディストピアは、技術的には完全に実現する段階に達してしまった。識別機能付き監視カメラシステム、あらゆる個人情報の集中管理は、すでに独裁政治の言論抑圧の手段として現実に動き始めている国家も登場した。テロ対策あるいは犯罪抑止のためという名目で、監視社会化は日本でも急速に進行しており、国家・警察の権限強化への布石も着々と打たれつつある。

オーウェルよりも、ある意味でもっと恐ろしいディストピアを描いたのは、オルダス・ハクスリーである。ハクスリーは、『すばらしい新世界』の中で、完全に階層化された社会を描いているが、その社会では「孵化・条件付けセンター」で人間の再生産および選別そして徹底した教育が行われ、「ソーマ」という快楽物質によって心理的に操作され、どの階層も不安も不満も持たないという状態が作られる。

このハクスリーの「新世界」の技術的基礎は、試験管ベビーとパブロフの条件反射、それに麻薬を組み合わせたもので、今日の技術から見れば極めて低水準と言わざるを得ない。しかし、遺伝子組み換え技術、クローン技術、情報操作による心理的誘導という現代の技術を組み込んで「新世界」を描き直してみれば、その恐ろしさははるかに大きなものになるだろう。

クローン技術といえば、ノーベル文学賞を受賞したカズオ・イシグロの『わたしを離さないで』も、ディストピアを描いているといえなくもない。移植する臓器を提供することを目的として「作られた」クローン人間が、人間としての意識を持ち、それでも臓器提供を運命として受け入れていく悲劇を描いた小説だが、臓器の提供を受けるクローンではない本体の人間のことは全く描かれていない。その全く描かれていない部分にこそ、本当のディストピアがあるのではないか。

さらに、現代では、オーウェルやハクスリーの想像力をはるかに超えて、予測もつかないような技術的発展段階に入りつつあるという議論がなされつつある。シンギュラリティとか2045年問題といわれているのがそれである。シンギュラリティとは、ウィキペディアによれば「再帰的に改良され、指数関数的に高度化する人工知能により、技術による問題解決能力が指数関数的に高度化することで、(頭脳が器械的に強化されていない)人類に代わって、汎用人工知能あるいはポストヒューマンが文明の進歩の主役に躍り出る時点のこと」、もっと簡単に言えば人工知能(AI)が人間を越える時点のことで、その時点が2045年に来るというのが2045年問題だという。

この種の未来予測が、そのまま実現した試しはあまりないが、AIとバイオテクノロジーの「進化」が、世界を確実に変容させることはまちがいない。しかし、その変容の方向や人間と社会に与える影響はほとんど予測不能であろう。しかし、その「進化」が、すべての人間に明るい未来を約束するとは限らないことだけは確実にいえる。

世界的ベストセラーとなった『サピエンス全史』を書いた歴史家ユヴァル・ノア・ハラリは、その続編というべき『ホモ・デウス』の中で、「私たちは健康と幸福と力を与えてくれることを願って『すべてのモノのインターネット』の構築に励んでいる。それなのに、『すべてのモノのインターネット』がうまく軌道に乗った暁には、人間はその構築者からチップへ、さらにはデータへと落ちぶれ、ついには急流に呑まれた土塊のように、データの奔流に溶けて消えかねない」という暗い可能性を、そして、シンギュラリティ以後の世界では、一部の超エリートだけが「不死へのチャンス」を手に入れ、残りの大部分はそれと気づかないうちに奴隷の役割を負わされるという極限的格差社会を招来し兼ねないことも指摘している。

ハラリの議論には検討すべき余地が少なくないが、そうした暗い可能性を提示することによって、科学・技術の「進歩」が人類文明の発展に寄与し、人間に明るい未来を約束するという進歩史観・発展史観が最早成立しえないことを示していることはまちがいない。皮肉なことに科学技術の進歩は、未来展望の不確実性を増してしまっているのである。そして、その不確実性は、先の見えない個人的将来への不安の底流をなすことになる。その底流は、容易には自覚化しえないが故に、不安自体を対象化し、それを克服しようとする努力を妨げることになる。

そうした漠とした不安にとらわれた時、人は、情報の洪水に身を任せ、刹那の安心や快楽に逃げ込むか、かつて知った古い観念にしがみつくかということになりがちである。安全・安心・快適そして時には生き甲斐さえも与えてくれそうなもの、それを古い観念の中から探すとすれば見つかるのは国家や民族・家族という集団的表象であろう。

それは、血統・言語・習慣・共有の価値観などによって同質的であるという錯覚の上に成り立っているのであるが、自国第一主義はその錯覚を最大限に利用して政治的影響力を拡大する。さらに、自国第一主義は、不安と不満の原因を外部に求め、外部の「敵」の脅威を煽り立て、自国内部に現実に存在する格差を覆い隠す。自国第一主義が容易に排外主義や異質なものの排除に転化するのは、そこに根拠がある。

しかし、自国第一主義も、不安と不満を完全に除去することはできない。市場も、自国第一主義が新たな利益を生み出すことに失敗すれば、ただちにそれを見放すであろう。また、いったん戦争でも始めることになれば、国家や民族というものは簡単に個人の安全や安心を踏みにじり、個人にとんでもない犠牲を強要することを知ってしまった醒めた眼を持つ者にとっては、そういうものに全幅の信頼を置くことはできない。また、そう考える層は、戦後は遠くなったといっても第二次世界大戦以前に比べれば確実に増加している。かといって、確かな未来像を提示できないとすれば、その醒めた意識も、政治や社会の問題から自分を遠ざけるシニシズム(冷笑主義)に陥る危険性をはらむ。そこからも、不安と不満の種は発生する。かくして、不安と不満の充満する状況は、依然として続いているのである。

政治に何ができるか

さて、不安と不満が充満した日本で、政治はどうなっているのか。安倍政権は、第二次世界大戦の敗戦国であるがゆえに、トランプの「グレートアメリカアゲイン」のように「偉大なる日本の復活」というわけにもいかず、軍事・外交政策であまりにも対米従属の姿勢が強いため、自国第一主義の印象は弱いものの、実質的には国家の強権化と軍事化を推し進めようとしていることは歴然としている。また、小泉政権以来の新自由主義的政策によって、格差の拡大に有効な手を打っていないことも明白である。

少子高齢化問題に対しても、やっているのは当面の、それも選挙目当ての弥縫策ばかり。個人の生活に対して最低限の保障となってきた年金や健康保険制度も崩壊の危機にさらし、安全神話が完全に崩壊した原発に見切りをつけることもできず、地方創成も掛け声倒れ。野放しの忖度行政に象徴される官僚組織の自壊の進行。ましてや、忍び寄るディストピアの脅威には何の手も打とうとはしない。政治家に人材が集まらないことに危機意識もない。オリンピックや天皇の代替わりというイベントばかりが喧伝される。これで、日本社会がそれなりに回っているのが不思議なくらいの惨状である。

ここまでひどくなった政治の状況を変えるのは容易なことではないが、政治がコントロールを失ってしまえば、剥き出しの個人や企業利益だけがのさばり、社会的混乱が発生する恐れがある以上、政治の再建に真剣に取り組む必要があることはいうまでもない。その再建の道の一つは、行政組織の改革である。そのためには、情報の管理・公開制度の全面的強化が不可欠であろう。それによって行政の透明性が確保され、行政の責任が明確にされなければ、行政への信頼は生まれない。

政策的には、経済成長至上主義、科学・技術信仰からの脱却が求められる。現在のような異次元的金融緩和と復興に名を借りた公共事業による景気刺激政策の組み合わせでは、かえって傷口を大きくするだけである。所得再配分のための税制の大胆な改革も必要になる。空き家や耕作放棄地の問題も、今のうちに対策を講じなければ取り返しがつかない事態に立ち至ることは目に見えている。この問題は、中央政府・地方自治体、個人・民間が連携して取り組まなければならない課題であり、その中で行政の新しい役割を見出す試金石となるであろう。

長期的には、人材の育成と急速に進む情報化への対応が最も重大な政策課題として意識されなければならない。といっても文部科学行政の強化をすすめているわけではない。反対に文部科学省の廃止、廃止まで行かなくても無用な教育現場、研究活動への干渉を停止することを提起したい。教育現場を委縮させ、疲弊させてきたのは文部科学省の過度の干渉であり、大学や研究機関の自由な研究を妨げてきたのも文部科学省の競争原理の導入とか実用の重視による学部編成の再編とかという無用かつ有害な干渉である。そういう干渉ほど、新たな発見を導く自由な発想を妨げるものはない。

規制緩和を主張する政府が、この面では規制を強化し続けているのは大いなる矛盾としかいいようがない。政府は、高等教育の無償化の検討を始めたというが、それが規制の強化と連動することになれば、政府の意向を忖度する者ばかりを育成することになり、有為な人材はますます生まれなくなる。

情報化への対応も人材育成に関連する課題である。情報化の進展は、ビッグデータとアルゴリズム(データを分析し、一定の結論を導き出す手順)への依存を高め、人間から自己決定のチャンスも意欲も奪う危険を伴うことは、すでに多くの論者によって指摘されている。どんな小さなことであれ自己決定の経験を積み重ねることが社会や政治への参加意識を高め、政治や社会を変える原動力になることはまちがいない。政治家の質は、国民の水準を反映するといわれるが、政治の世界での人材の払底は、国民の自己決定権の放棄の現れといえなくもない。

政治とは無縁に見えるGAFAを頂点とした情報産業は、すでに個人の嗜好や健康状態に至る膨大なデータを集積し、それをアルゴリズムにしたがつて一定の消費行動をとらせる方向に誘導している。そうした状況に対してEUは、個人情報の無制限の集積と無秩序な利用とに歯止めをかける制度の導入の検討を始めたという。遺伝子操作の問題も含めて、科学の無制約な展開をコントロールすることは、基本的には倫理に関する領域であり、権力的に規制すれば済むような単純な問題ではないが、少なくとも政治はそこに含まれる重大な意味について考えるべきであろう。

以上、ランダムに政治の課題について提言めいたことを不十分ながら書いてきたが、最もいいたいことは、現代に生きる人間の一人一人が自己決定の意欲を取り戻すことの一点である。自己決定には当然責任が伴う。他者との軋轢を生むこともある。その重みに耐えることができなければ、民主主義は崩壊し、国家依存を強め、自国第一主義の罠に陥ってしまうだけであろう。自治の経験を積んできた市民は確実に増えている。その市民には、その罠を跳ね返すだけの力があることを信じたい。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任。現在名誉教授。本誌前編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)、『丸山真男「日本政治思想史研究」を読む』(日本評論社)など。

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