特集●日本を問う沖縄の民意

大量難民を受入れた法治国家ドイツの苦悩

メルケル首相の難民歓迎挨拶―台頭する右翼勢力―”排外ではなく連帯を“で対抗する市民社会

ベルリン在住 福澤 啓臣

2015年のドイツへの大量難民流入は、ドイツ社会と政治に大きな地殻変動的ショックを与えた。秩序が社会の隅々にまで保たれた法治国家ドイツに、難民が中にはパスポートも持たず(ドイツでは国発行の身分証明書の提示がよく求められる)に、百万人もなだれ込んで来たわけだが、まず人道的支援という名目で、法治国家の規制を外して受け入れた。さらに高いエンパシーを誇るドイツ市民が躊躇せずに支援活動を開始した。

この政治、行政、市民の連携プレーはうまく働き、大混乱はなんとか避けられた。だが政治の世界では右翼党のAfD「ドイツのための選択肢」が、難民問題のおかげでこの間連邦議会に野党第一党として登場し、大きな波紋を投げかけている。今でも難民問題はドイツ社会を揺さぶり続けている。4年経過し、難民の方々は仕事、職業教育、学校の勉学に取り組み、いわゆるインテグレーション(社会統合)の過程の最中にいる。この4年間を振り返ってみよう。統計数字が多いが、全体像をつかむためには必要だった。

1.大国の犠牲者としての難民

命がけの難民の旅路  彼らはアフガニスタン、イラク、シリアなどの出身国を出てまっすぐドイツを目指すか、トルコの難民キャンプで一時滞在する人もいたが、時には交通機関を使いながら、3,000から5,000キロメートルもスマホ片手に踏破して来たのである。途中トルコとギリシャの間は陸路でも越えられるが、警戒が厳しく、国境を突破できない。エーゲ海を渡って島に到着する方が簡単だ。そのために多くの難民は非合法の運び屋の世話になる。ドイツの連邦移民・難民庁の調べでは平均して50万円近い額を払っている。

運び屋はゴムボートか沈没寸前の船(到着した時点で没収されることもあって)に定員の10倍もの人々を乗せて、海に出る。運び屋はその後、すぐに船を降りてしまう。残された難民たちは運を天に任せて乗り出す。運悪く、天気が悪化するか、途中でおんぼろエンジンが壊れてしまえば、沈没の危険に晒される。2015年だけで二、三千人の難民が溺れ死んだと推定されている。地中海の西のルート、つまりアフリカらイタリアへのルートでもやはり同じような数の水死者が推測されている。

ギリシャに到着すると、彼らはドイツを目指す。筆者も何人かと話をしたことがあるが、ある若い家族などは乳飲み子を抱え、3歳と5歳の子供を連れて何ヶ月もかけてたどり着いたという。ホテルに泊まるなどの経済的余裕はないから、野宿同然だっただろう。通常の気力とエネルギーでは踏破できなかっただろう。たくさんの仲間が一緒だったのと、一種のトランス状態に近い精神状態だったのかも知れない。命からがら逃げ出してきた出身国の状況が地獄だったから、あれだけの力が出たのだろう。

難民の生まれた経緯  これらの膨大な数の難民が生じた経緯を見てみよう。後の統計でわかるように2015年と2016年における難民の圧倒的多数がアフガニスタンとイラクとシリアから来ている。1979年から1989年までのソ連のアフガニスタン介入まで遡るのが妥当だろう。当時は冷戦の真っ最中であり、ソ連の侵攻はただちに米国の介入を引き起こした。大量の武器と資金がソ連軍と闘うムジャーヒディーン(イスラムの聖戦に参加する者)に渡された。それがソ連の撤退後、タリバン(イスラム神学生)勢力に引き継がれて、1992年のイスラム政権樹立につながる。冷戦の落とし子だったが、冷戦終了後も、火種は残った。

そしてムジャーヒディーンから生まれたアルカイダ(イスラム過激派のテロ組織)による2001年のニューヨークの貿易センター襲撃に至った。その報復措置として米国のG.W.ブッシュ政権が虚偽の情報を流し、イラクを攻撃する。そしてサダム・フセインが倒される。その後に、イスラム過激派組織ISIL(イスラム国)が誕生し、難民がトルコに流出し始める。2011年にチェニジアで始まったアラブの春の一環としてのシリアの民主化運動と西側軍隊によるISIL掃討とが重なって、シリアの状況は混沌としてくる。ロシアとイランのアサド政権支援が加わってシリア内戦は泥沼化し、500万人の難民が国外に逃れた。

ドイツへドイツへと向かう各国難民の旅路

ヨルダンに100万人(970万人の人口)、レバノンに150万人(620万人の人口だが、過去に45万人のパレスティナ難民を受け入れている)、トルコに300万人(8,200万人の人口)などが難民キャンプで生存ギリギリの生活を余儀なくされている。国連の推定ではイラクやシリア国内における難民の数を合わせるとその総数は1,400万人とされている。

これらの紛争と内戦に最も関与しているのは、米国である。本来ならこれらの難民に対して米国が責任を取るべきだ。

ドイツからの中近東軍隊派遣  ドイツは現在もアフガニスタンに戦闘部隊を送り込んでいる。 2001年のニューヨークのテロ襲撃後国連の決議により2014年までに国連アフガニスタン支援ミッションの一員として戦後初めて地上部隊を派遣した(ドイツ空軍は1999年にすでにセルビア紛争でNATO軍として空爆を行っている)。その後はアフガニスタン軍の支援と強化のために、2014年以来国際軍事支援団の一員として、1,300人(NATO全体としては15,000人)の部隊を派遣している。そして現在までに55人の兵士が死亡している。派遣された兵士の三分の一ほどが帰還後PTSD(心的外傷後ストレス障害)に悩まされているといわれている。

米国主導によるイラク侵攻には、当時の社民党と緑の党によるシュレーダー政権は国連の決議もない上に、果たして米国が主張しているようにサダム・フセインが大量破壊兵器を保持しているかが明確ではないという理由で、費用の一部負担はしたが、軍隊は派遣しなかった。結局後になって米国の情報は虚偽と判明した。

シリアの紛争にはISILのテロが激しくなった時点で、ドイツはクルド人戦闘員のための訓練団を派遣し、武器を供与している。

EUとドイツの法的枠組み  2015年の大量流入の際は、ほとんどの難民がどこにも登録もしないでドイツ国境まで到達したが、本来ならあり得ない状況だった。通常なら、ダブリン規約(1990年に締結されたEU国際法)によってEU域の国境に着いた時点で、彼らはそこで登録し、難民申請をしなければならなかった。トルコなどを経由してきた彼らが最初に着いたのはEU加盟国ギリシャだった。ギリシャは何十万人もの難民を受け入れるインフラはなかったし、財政的にも不可能だった。

難民自身もギリシャにとどまる意思はなかった。ドイツが主な目的地だったからだ。途中の国々も国境で全くコントロールしないで、通過させた。EUの加盟国(英国を除く)はシェンゲン協定(1995年)を結んでいるので、フリーパスで国境を越えることができる。だから、ある意味で合法的にドイツまで来られたわけだ。ドイツの国境にたどり着いた彼らは、そこで初めて登録をした。

ドイツで亡命及び難民申請をし、受理された外国人は、ドイツの基本法(第16条A項)とジュネーブ難民条約によって基本的人権が認められ、保護が受けられる。まず3年間の滞在許可と就労ビザがおりる。そして3年後に無期限の滞在許可が貰える。

2.なだれこむ難民

メルケル首相の難民歓迎挨拶  2015年に入ると、シリア、イラク、アフガニスタンの戦闘状況が急激に悪化し、難民の数が増え、ドイツを目指して移動を開始する。トルコとギリシャは難民の移動を止めようとしなかった。

5月7日:ドイツのデメジェール内務大臣は今年中に45万人の難民がドイツに入ってくるだろうと発表。
6月:国防軍が17万人収容のテントを設置し、20万人を運ぶ。
8月19日:内務省は難民の数を80万人と訂正。
1週間後に連邦内務省、州内務省、連邦移民・難民庁が会議を持ち、ドイツに到達した難民を通過国に送り返すことはしないと決める。
8月26日: ザクセン州ハイデナウ(旧東独)でメルケル首相は興奮した群衆から「売国奴」あるいは「売女」と罵られる。
8月31日:メルケル首相は記者会見で次のように語った。

難民の積極的受け入れを表明したドイツのアンゲラ・メルケル首相

「ドイツ社会は現在安定し、繁栄を享受している。ところが、外では大変な混乱と悲劇が起きている。命からがら逃れて、我が国を目指している人々がたくさんいる。我々の憲法は人間の尊厳を基本としている。この尊厳は我が国民だけに保障されてるのではなく、外国人にも認められている。つまり、彼らが我が国に入ってくるなら、我々は彼らを快く受け入れ、憲法の保障する人間の尊厳の実現に全力をあげなければならない。我々にはそれがやり遂げられる」と力強く語った。「毎日映像で見られるような歓迎のシーンを見て、私も感動し、ドイツ国民であることを誇りに思っている。彼らを拒否するような人がいたら、断固として反対しなければいけない。我々はドイツ再統一、脱原発を含むエネルギー転換などの挑戦もやり遂げたのだから、今度も我々はやり遂げるだろう」と結んだ。これがメルケル首相の「難民歓迎」の挨拶と理解され、さらに難民の流入に拍車をかけることになる。

メルケル首相は、EU加盟国の間で人口に比例して、振り分けることと難民の出身国及びトルコなどと協議して、難民をEUに向かわせないようにしようと提案した。だが、最初の案はハンガリーやポーランドなどが強硬に反対し、実現していない。二つ目の案は、EUがトルコに数千億円の支援金を提供することによってなんとか機能している。

難民登録者と申請者の数  では、具体的にドイツに入ってきた難民の数を見てみよう。2015年の登録者の数は100万人を超えている。この数字は実際にドイツの国境にたどり着き、到着した所の警察や市役所、あるいは難民受付センターで登録した難民の数をほぼ表している。とりあえず簡単な登録を済ませると、姓名、生年月日、出身国、言語が明記された仮身分証明書が作成され、手渡される。指紋も取られた。それが終わると、住民の数から割り出された比率に従って州別に振り分けられる。そこからさらに同様の割り当て率に従って自治体に送られ、難民受け入れ施設に入れられる。

表1:ドイツの難民登録者と申請者(申し込み)の数

 2014201520162017合計
登録者238,6761,091,894321,361186,6441,838,575
申請者202,834476,749745,545222,6831,647,811

出典:統計資料は断りのない場合を除いて全て連邦移民・難民庁による

その振り分けの割合は州および自治体の人口に従って前もって決められている。最も人口の多いNRW州は難民総数の21%、次のバイエルン州は16%、さらにバーデンW州は13%と続く。人口が360万人のベルリン州は約5%である。ということは、この5年間で10万人近い難民を受け入れている事になる。

どの自治体も大量の難民を予期していなかったので、大きなテントや市営の体育館、使われていない建物などがまず急場しのぎの住居にされた。とりあえずそこに住みながら彼らは連邦移民・難民申請センターに行き、申請をする。この申請手続きには書類審査とインタビューもあるので相当な時間がかかる。受け入れの職員を闇雲に増やすこともままならず、何百人もの申請者が辛抱強く一日中外で待っている姿が当時ニュースでよく流れた。これらの収容所的な状態を解消するために、市民に空いている部屋を難民に提供するようにキャンペーンが行われた。2015年の登録者に比べて申請者の数が半分にも満たないのは、申請の手続きには時間がかかるから、受け入れ業務が追いつかず、2016年にずれ込んだからである。難民申請がなされた時点から、法治主義が始まる。ただ、申請の基本になるデーターが怪しいとなると、法治国家は非常に苦労することになる。

どこに消えた難民?  これらの数字を突き合わせてみると分かるが、4年間の登録者数と申請者数の合計では190,764人の差がある。この差はどこから来るのか。登録後EU内の他の国に行ったのかもしれない。あるいはドイツ国内に滞在しているが、正式に申請をしていないのか。あるいは一人の難民が異なる州で何回も登録したのか。登録は主に州の組織が処理し、申請は連邦政府の管轄であったが、両機関のコンピューターは繋がっていなかった。連邦制なので異なる州の間のコンピューターも繋がっていないし、同じプログラムを使っていない。実際に偽名で数回も登録したテロ容疑者が何人も見つかっている。

もっとさかのぼってみると、ギリシャからEU域内に入ってきた難民の本当の数は誰も知らない。ギリシャでは全くコントロールしなかったのだから。それと、身分を証明するものを持っていない場合は、彼らの自己申告を受け入れるしかなかった。デメジエール内務大臣は、2015年のシリアからの難民の25%は正式のパスポートを持っていなかったと言っている。ドイツ語、英語も話さない難民とは通訳を介してしかコミュニケーションできないので、審査段階における厳しい追求はとても困難だ。問題を数え上げたら、気が遠くなるほどだ。歓迎の狼煙を上げたメルケル首相を非難したくなるのも分かる気がする。

3.働き盛りの多い難民

国別の申請者数  シリアが一番多いが、上位三ヶ国合わせて60.6%と全体の三分の二近くを占める。拙稿で主にこの三ヶ国からの難民を対象にするのも妥当と言えるだろう。国別の男女比は特に取り上げないが、軒並みほぼ2対1の割合である。

表2:2015年と2016年の国別の申請者の数

 2015年2016年両年合計
 %%%
シリア158,65735.9266,25036.9424,90736.4
アフガニスタン31,3827.1127,01217.6158,39413.5
イラク29,7846.796,11613.3125,90010.7
イラン記載なしなし26,4263.626,4262.2
エリトリア10,8762.518,8542.729,7302.4
全合計441,899100722,3701001,164,269100

表3:2015年と2016年の申請者の年齢別と比率

 2015年(申請数:441,899名=100%)
年齢層0~16歳16~25歳25~35歳35~45歳45~55歳55~65歳65歳~
人数117,008130,143113,95651,43320,3376,6276,627
比率26.5%29.4%25.8%11.7%4.6%1.5%0.5%
 2016年(申請数:722,370名=100%)
年齢層0~16歳16~25歳25~35歳35~45歳45~55歳55~65歳65歳~
人数218,996212,256171,00973,69030,68911,6014,142
比率30.3%29.4%23.7%10.2%4.2%1.6%0.6%

年齢層別で見ると16歳から25歳までが最も多く、偶然だが両年とも30%弱を占めている。次に多いのは25歳から35歳まででそれぞれ25.8%と23.7%。つまり、働き盛りが半分以上を占めている。16歳までの子供も26.5%と30.3%と非常に多い。ここでは示さないが、6歳から16歳までの義務教育年齢層がこの半分を占めている。彼らは直ちにドイツの学校に通うようにしなければいけない。それもドイツ語を習いながら。

表4:2016年の未成年者(18歳以下)の出身国の割合

国名アフガニスタンシリアイラクエリトリアソマリアその他
割合41.6%28.0%8.2%5.1%4.3%12.8%

保護者なしで登録された未成年者の数は2016年だけで35,939人もいた。最も多いのがアフガニスタンで、ずいぶんと遠いところから来たものだ。5,000kmも離れている。男女比は9:1だった。家族や親類縁者が全くいない場合は、養護施設に入れられる。里親が見つかれば、そこに引き取られる。

ここで断っておきたいのは、これまでの数字は申請者の数であって、彼らの何人が難民として受け入れられるのかはまだ分からない。ただ、もし拒否されたとしても、すぐに国外退去にはならないで、ほとんどが裁判に持ち込まれるので、短くても半年以上、あるいは数年にわたってドイツに滞在することになる。

申請(処理された)受理率  一言説明すると、表1と表5の申請者の数が一致しないのは、前者は申し込まれた数で、後者は処理された件数だからである。だから、2017年まで表示した。

表5:2015年、2016年、2017年の受理・暫定的保護・帰還禁止・否決・法的不備

申請数受理暫定的保護帰還禁止*否決法的不備**
2015282,726137,1361,7072,07291,51450,297
比率100%48.5%0.6%0.7%32.4%17.8%
2016695,733256,136153,70024,084173,84687,967
比率100%36.8%22.1%3.5%25.0%12.6%
2017603,428123,90998,07439,659232,30787,967
比率100%20.5%16.3%6.6%38.5%18.1%

*否決されたが、出身国に帰還すると命の危険があり、帰還させられない場合。

**すでに他国で申請済みなど。

2015年は受理された比率が50%に近いが、暫定的保護(受理されなかったが、出身国の危険な状況が流動的なので、様子を見る)が少なかったので、申請者の半分しかドイツに残れなかった。否決が多いのが目立つ。それと法的不備も多い。2016年は受理の比率は下がったが、暫定的保護が増えたので合わせて60%ほどの難民が滞在できるようになった。具体的には2015年は14万1千人、2016年には43万4千人、2017年は26万1千人で、合わせて83万6千人である。島根県や鳥取県の人口より多い。

表6:2016年の国別の受理・暫定的保護・退去禁止・否決・法的不備

申請数受理暫定的保護帰還禁止否決法的不備
シリア295,040166,520121,5629101675,881
100%56.4%41.2%0.3%0.1%2.0%
アフガニスタン68,24613,8135,83618,44124,8175,339
100%20.2%8.6%27.0%36.4%7.8%
イラク68,56236,80110,91243914,2486,162
100%53.7%15.9%0.6%20.8%9.0%
イラン11,5285,4432571503,8061,872
100%47.2%2.2%1.3%33.0%16.2%
アルバニア37,673187311930,0207,484
100%0.0%0.2%0.5%79.7%19.9%
エリトリア22,16016,6663,6521191351,588
100%75.2%16.5%0.5%0.6%7.2%

この表を見ると、シリアからの難民は受理と暫定保護を合わせてほぼ100%近くドイツで保護を受け、滞在できるようになっている。逆にアルバニアは内戦もないし、圧政的な体制でもないので、80%も否決され、法的不備も合わせると、ほとんどドイツに残れない。これらのアルバニア人は経済難民に分類されたのだろう。アフガニスタンの場合、否決されたにもかかわらず、内戦が続いているので、帰還させることは禁止されている。暫定的な保護とは違うが、とにかく滞在できる。

表7:審査期間の長さ

6ヶ月以内7~12ヶ月13~18ヶ月19~24ヶ月 残り  
56%23%10%5%6%

2015年に難民が押し寄せた当初、連邦移民・難民庁には職員が3,300人勤務していたが、翌年には7,300人に増やされた。ドイツ政府は審査期間の長さを二ヶ月に短縮しようとしているが、裁判も必要なので、簡単ではない。それに裁判官の数をむやみに増やすことはできない。

市民による支援  2015年は管理体制だけではなく、市民たちも大規模な範囲で難民をサポートした。多数の市民が食べ物、衣類などを持ち寄り、何か手伝えないかと難民センターに駆けつけた。空いている部屋を難民に提供する市民もたくさんいた。市民によるドイツ語コースがたくさん生まれ、市民との交流の場として難民カフェが組織された。そこでは週末には彼らをピクニックに誘ったり、バーベキューに招待したりしている。これらの活動を円滑、かつ持続的にするためにたくさんの難民支援NPOが設立された。

当時多くのドイツ人が熱狂的にボランティア活動をした。それまで福島デモなどの際に手伝ってくれたドイツ人に声をかけると、難民のために手伝いをしているから、時間もエネルギーもないという返事が返ってきた。資金カンパをしても同じような結果だった。ある研究所のアンケートによると、市民の74%が市民社会の活性化のためにボランティア活動が重要なので、難民支援に協力したと答えている。

4.ドイツ社会へのインパクト

難民の社会統合(インテグレーション)  ドイツ人と一緒に生活していく上で基本になるのはドイツ語である。そのために移民・難民庁のプログラムとして全国の様々な市町村で400時間から900時間のインテグレーション・コースが多数設けられている。一コマ45分のドイツ語授業だ。文字の読み書きを習わなかった人のためのコースもある。並行してドイツで生活する上で必要な知識、価値観、マナーなども教える。女性だけのコース、両親だけのコース、職業に特化したコースもある。週に20時間から25時間受けられる。

例えば2017年には全国各地で18,915のコースが始まった。一番多いのが一般ドイツ語コースの58.9%。次は文字の読み書きを習わなかった人のためのコースの31.8%。これだけ高い需要があるのだ。特に学校に行けなかった中年女性が多いと聞いている。次が女性だけのコースだが、2.5%。イスラム教では「男女七歳にして席を同じゅうせず」ではないが、中学校以上は共学ではないので、必要なのだ。

現在30万人が仕事を見つけて、働いている。さらに187,000人が長期失業手当(失業保険期間を過ぎても雇用がみつからない場合は、ドイツではこの長期失業手当が無期限に受けられる)を特例的に初めから受給している。

現在ドイツの経済は順調だが、職種によっては労働力不足に悩まされている。その不足を埋めるために難民に期待が寄せられている。申請が受理された難民は即雇用ができる。暫定的保護を受けて、職業訓練(主に3年間)を終了した難民も雇用できればいいが、この「車線変更」と呼ばれるビザの切替はできない。そのため、せっかくドイツ語も覚え、訓練もして、職場で気心も知れている彼らを雇用できないのは、全く理不尽だと経済界から苦情が出ている。だが、与党のCDU/CSUは、「車線変更」を認めると、もっとたくさんの難民が押し寄せてくると主張して、反対している。

難民の上限設定をめぐる争い  2016年と2017年に多くの保守系の政治家がメルケル首相に難民受け入れの上限数を設けるべきだと迫ったが、彼女は基本法とジュネーブ条約があるのでできないと答え、応じなかった。その間にEUはトルコから流れてくる難民の数を減らすためにトルコの難民収容所(300万人)への支援金(約8,000億円)の支払いを決め、現在も払い続けている。そのため、トルコからギリシャなどへの難民の数は急激に減った。さらにギリシャに渡れたとしても、途中のハンガリーなどの国々がシェンゲン規約の特例として国境警備を強めたので、通り抜けることはできなくなった。アフリカからの難民ルートである地中海を命がけで渡ったとしても、イタリアなどに簡単に上陸できなくなっている。

与党のCSU(バイエルン州のみ)の政治家は難民の数が減れば、AfDへの支持が減り、自分たちへの支持が戻ると考えている。だから、2015年の半ばから2017年までメルケル首相に圧力をかけ続けた。大連立政権の成立後にも、難民受け入れの上限を決めないと、CSUは連立を抜けるかもしれないと脅かし続けた。難民の上限は明確に決まっていないが、18万人から22万人が暗黙のうちに認められている。そして、この2年間は20万人以下に収まっている。

これまでに難民にかかったドイツ全体の費用は、2015年と2016年を合わせて約5兆円、さらに2020年までに10兆円は下らないと予想されている。これらの費用にはドイツ国内における難民の住居、食事、医療、教育などだけではなく、難民の生まれる源、つまりトルコや中近東の難民キャンプへの支援金も含まれている。

難民一人当たりにかかる経費は、全て合わせると一人当たり月1,000ユーロ(約12万円)と言われている。それだけドイツ国民の取り分が減ってしまう、とゼロサム的に捉えるドイツ人は少なくない。

難民の犯罪と法治主義  2016年の12月19日にアニス・アムリ(チェニジア出身)がトラックを運転して、ベルリンのクリスマス・マーケットに突っ込み、12名の市民を殺害した。彼は15年の7月にドイツに入り、いろいろな難民受付センターで14もの偽名を使って難民として登録していた。指紋がデジタル化されていなかったので、可能だった。イスラム原理主義者、つまり危険人物として州警察には知られていたが、どこの警察も逮捕し、国外退去にしなかった。彼のように危険人物と分類されていても、国外退去させるのは簡単でない。裁判でそのような判決が出ても、出身国のパスポートを持っていない場合はできない。

またそのような二国間協定が結ばれていなければならない上に、出身国の同意が必要だ。難民大量受け入れの際は人道的な見地から法治主義の規制を外したが、入国以降は法治主義が貫徹される。連邦内務省の発表によると、裁判も終了し、帰還(国外退去)の実施を待っている難民の数は現在24万人にも上る。

5.自国第一主義vs市民社会

振り返って見ると、あれだけ大量の難民を秩序好きのドイツ人が法的規制を全く外してまでよく受け入れたな、という感慨に襲われる。一時は与党のCDU/CSU内でもメルケル首相への批判、特に彼女の難民問題に関する批判は大きなうねりになり、AfDを中心とするポピュリズムの波がドイツにも押し寄せてきたと見られていた。

同党の得票率は2013年の連邦議会選挙の時の5%弱から2017年の選挙では15%と三倍に増えた。難民問題がAfDの躍進に大きく寄与したのは疑いない。大連立政権が成立する前の一昨年の秋にはAfDへの支持率が20%前後まで上っていった。逆説的に言えば、AfDはメルケル首相に感謝してもいいはずだが、AfDは当時「彼女の歓迎の言葉に惑わされて、途中で死んだ難民の犠牲者は彼女の責任だ」と決めつけ、「メルケル氏を殺人教唆の罪で訴える」と批判していた。

昨年初頭に半年もかかってやっと連立政権が成立し、メルケル内閣が通常の政治モードに入ってから、AfDへの支持は一時の勢いを失い、メルケル首相への支持が回復している。だが、難民問題の火種はまだくすぶっている。昨年夏に旧東独のケムニッツ市で移民の経歴を持つ若者たちにドイツ人が殺されると、瞬く間にケムニッツ市民とAfD政治家と全国から駆けつけたネオナチが集まり、数千人が肩を並べて「我々がドイツ国民だ。イスラムはドイツではない」と叫び、デモを行った。

それまでこの三つのグループが一致団結したことはなかったので、ドイツ社会へのインパクトは強烈だった。翌日には彼らに反対する難民連帯デモが呼びかけられ、前日のデモ隊の人数を上回る人々が参加した。このようにドイツ社会を分断する両陣営のデモが各地で行われている。

圧巻だったのは、昨年の10月13日に行われた「分断されないぞ」デモだった。「排外ではなく、連帯を!」の合言葉の下に450の団体が全国から参加し、当初見込みの5万人をはるかに超える25万人もの大デモ隊がベルリンの中心を歩いた。現在のところ、市民社会の成熟化を推し進める市民の勢力の方が強く、難民問題の危機は乗り切れたように見える。だが、難民の群れにまぎれて潜入してきたテロリストの恐れはなくなってはいないし、80万人ものイスラム教徒がドイツの文化規範を受け入れ、ドイツの市民になれるかは、まだ未知数だ。

ふくざわ・ひろおみ

1943年生まれ。1967年に渡独し、1974年にベルリン自由大学卒。1976年より同大学の日本学科で教職に就く。主に日本語を教える。教鞭をとる傍、ベルリン国際映画祭を手伝う。さらに国際連詩を日独両国で催す。2003年に同大学にて学位取得。2008年に定年退職。2011年の東日本大震災後、ベルリンでNPO「絆・ベルリン」(http://www.kizuna-in-berlin.de)を立ち上げ、東北で復興支援活動をする。ベルリンのSayonara Nukes Berlin のメンバー。日独両国で反原発と再生エネ普及に取り組んでいる。ベルリン在住。

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