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歴史から照射する安倍政治

戦前史を見なおしながら

筑波大学名誉教授・本誌代表編集委員 千本 秀樹

1.政治の劣化

ようやく安倍内閣が退陣して6か月以上たった。史上最悪の安倍内閣が残したものは、何であったのか。

ひとつは、政党と政治を極端なまでに劣化させたことである。国会においても記者会見においても、質問にまともに答えようとせずにはぐらかすだけではなく、平気で嘘をつく。数の力で国会を支配し、人事によって自民党と官僚組織を壟断した。首相をはじめとして、失政や悪事について、何の責任もとらず、開き直る。それを他の政治家がまねをする。戦後の保守政治家であれば、早々に辞任していたはずである。

「西のレーニン、東の原敬」と独裁者の代表のように呼ばれた原首相は、小選挙区制を採用して得た政友会の絶対多数を背景に政友会独裁をもくろみ、1920年、憲政会と国民党の普通選挙法案を葬り去った。しかしその時の帝国議会の質疑を読むと、現在の国会よりは、はるかにまともな論争を展開している。憲政会と国民党も、民衆運動の激化を恐れて、それを予防するための普選論ではあったが、与党議員をふくめて、議員それぞれが国家の進むべき方向を考えたうえで論争に臨んだ。

1925年、第2次護憲運動後に成立した加藤高明護憲三派内閣に続く政党内閣を、大正デモクラシーの大きな一翼と位置づける論者が多いが、はたしてそれは妥当なのであろうか。わたしは大正デモクラシーの核心は民衆運動だと考えるのだが、政党内閣についての評価は本稿では控えるとして、最後の政党内閣とされる犬養毅政友会内閣の成立のときから、政党はすでに政治の当事者としての能力を失っていた。老齢で引退し、政友会歴の短い犬養を、政友会領袖たちが政友会総裁に飾り物の看板としてかつぎあげたのは、たんなる政権欲しさによるものだった。党内基盤の弱い犬養はほとんど実績をあげられず、5・15事件で凶弾に倒れる。

後を継いだ海軍大将の斎藤実内閣は、誰もが中間内閣と認識し、いずれは政党内閣が復活すると考えられていた。政党政治家自身も権力ほしさに策謀をたくましくした。とりわけ見苦しいのは政友会で、民政党や非政党内閣などの対立勢力に打撃を与えるためには、従来の政治的主張もかなぐりすてて、足をひっぱった。天皇機関説事件で美濃部達吉が右翼に攻撃されているとき、海軍大将の岡田啓介首相が学問の自由を主張するのに対して、美濃部処分まで岡田内閣を追い込み、国体明徴運動にまで進ませたことに政友会は大きな役割を果たした。これは一例にすぎない。政友会は、政権欲しさにやっていることが、自分たちの首を絞めることになるということにさえ気づけないほど堕落していたのである。

軍部が権力を奪うために、政党の腐敗をあげつらったことは、軍部の政治進出を容認するわけでは決してないが、政党が腐敗していたことは事実であり、政党を軍部の被害者であるかのようにしか見ないことは、歴史認識として誤っている。

戦前の事例を引っ張りだしたのは、現在における政党の腐敗も、そこまで進行しているのではないかという危機感からである。政友会は、戦前においては、もっとも主要な政党であった。戦後は保守合同によって、政友会系も民政党系も自民党に合流するのだが、もっとも主要な政党が堕落することは、当然のことながら、政治そのものを堕落させる。そこからの回復は、容易なことではない。野党にしても、旧民主党は、ファシストといってよい小池百合子都知事の政党になだれ込もうとし、選別されて分裂するという失態を演じた。

わたしは議会政党に多くを期待しない立場ではあるが、当分のあいだは政党政治が続くであろうから、無関心ではおれない。政党の再建は、有権者の政治センスを研ぎ澄ますことを基礎に、政治家個人の成長を待たなければならない。現存する政党にこだわらず、まったく新しい政治・社会システムを展望するにしても、気を長く持つしかない。

2.軍事国家への道

安倍内閣が残したもうひとつの遺産は、戦争のできる国家に日本をつくりかえたことである。安保法制をはじめとした諸立法によって、国民を監視し、国家に奉仕させ、集団的自衛権にもとづいて、世界のどこでも戦争ができることになった。また、小学校から大学までの教育・研究システムを改変し、国家のための教育・研究という方向性を露骨なものとした。

これらの動きについて、これは戦後まもなくからであるのだが、「戦前のファシズムへの回帰」という表現がしばしば使われる。これも戦前に立ち戻って考えてみよう。

1945年にいたる悲惨の責任を軍部、とりわけ陸軍のみに押しつける見方が、歴史教育やマスコミによって行なわれてきた。これは、昭和天皇と文民・政党政治家の責任を隠蔽するためである。反証のための事実は数限りなく存在するが、満州事変と日中戦争を例に取ろう。

満州事変は1931年の関東軍による満鉄爆破という謀略から始まるのだが、関東軍による決行は、謀略を天皇が容認するだろうという読みがあったからだとわたしは考えている。

1928年、関東軍の河本大作は、奉天付近で、これまで日本が利用してきた軍閥の張作霖を列車ごと爆殺した。陸軍はこれを中国人によるものとしたが、関東軍の仕業ということは国際的にも知られており、田中義一内閣は一度は厳重処分、綱紀粛正の方針をかためて天皇にも報告した。すると一部閣僚が「そうすれば、これまでの謀略をすべて暴露する」と脅迫したために、閣議は結局、中国人によるものとし、河本大作について、爆破を防止できなかったとして、軽い行政処分とした。

田中首相がそれを報告すると、天皇は「前にいったことと違うではないか、もうお前の顔は見たくない」と言い放ち、田中首相は辞任、まもなく死亡することになる。しかし田中の報告の直後に白川陸相が河本処分案を天皇に報告すると、天皇はあっさり裁可した。天皇の怒りは、謀略で中国人のせいにしたことではなく、報告が前回と異なっているということにすぎなかった。関東軍から見れば、天皇が謀略を容認したということになる。

1931年の満鉄爆破直後、関東軍支援のために、朝鮮軍が独断で越境して満州に侵入した。当時朝鮮は日本の領土であり、朝鮮軍が越境することは、国内の軍隊を外国に派兵することになる。天皇の命令なしの海外派兵は、司令官の死刑にも値する重大事件であった。奈良武次侍従武官長が陸軍参謀総長と林銑十郎朝鮮軍司令官の処分について天皇の考えを尋ねると、天皇は「総長は叱っておいたから処分しなくていい、司令官は軽い処分でいい」と答えた。

さらに満州で張学良軍が再組織されたことをきくと、「余は事件の拡大に同意するも可なり」と発言し、それどころか、日本が経済封鎖を受ければ「列国を対手として開戦したるときの覚悟其準備」をうながした。総長と司令官が処分されると、満州事変はさほど拡大できなかったであろう。天皇は陸軍以上に前のめりになっていた。これでは「陸軍の暴走」ではすまされない。

日中戦争も誰が撃ったかわからない銃声で始まった。日本軍の謀略の可能性はあるが、事実関係は明らかではない。参謀本部の不拡大方針に対して、近衛文麿内閣は現地邦人の保護を名目に派兵を決定した。その直後、現地軍が暴走したことは事実である。ただ、その後も参謀本部は不拡大にこだわり、停戦を模索した。ところが近衛首相は3次にわたる近衛声明を発表した。第1次「国民政府を対手とせず」、第2次「東亜新秩序声明」、第3次は汪兆銘を利用する「近衛3原則」である。これによって、蒋介石政権との交渉の道は完全に断たれた。国家総動員法の施行など、近衛が強力に戦争準備ができたのは、天皇の親密な支持があったからである。

日中戦争泥沼化の責任は、ほとんど近衛首相にある。その後、1940年に民政党の斎藤隆夫が近衛の日中戦争処理について、帝国議会で弾劾的な質問をした。これを「反軍演説」と呼んでいるのは、ピントはずれである。内容は近衛批判であった。この演説を理由に、政党が圧倒的な多数を占める帝国議会は、数少ない硬骨の政党政治家斎藤隆夫を議員除名とした。

戦後、戦犯として連行される直前に近衛が服毒自殺したのも、さもありなんである。しかし戦後の近衛文麿イメージは、「清新な若い貴公子」のままであった。細川内閣成立時(1993)も、それは変わらなかった。近衛を守ろうとするのは、彼があまりにも昭和天皇に近かったのもひとつの要因かもしれない。

もうひとつ、例を加えておこう。1918年のシベリア出兵の際、山縣有朋は消極的出兵論ともいわれるが、おとしどころ、すなわち撤兵の見通しのない派兵はやるべきではないと反対した。山縣は藩閥、陸軍の代表、悪の権化のようなイメージがあるが、現代の政治家よりはよほどまっとうではないだろうか。

戦後、軍部、特に陸軍だけを悪者にする風潮が強いのは、天皇、文官、政党政治家を軍部の被害者のように描き、責任を免罪するためである。

1940年の前後10年間を、天皇制ファシズム、あるいは軍部ファシズムと規定することが多い。軍部が権力を握ったことは事実であるが、そこには政党の腐敗・堕落も大きな要因として見逃せず、近衛のような天皇側近をのぞいては、ほかに政権担当能力を持つ集団が存在しなかった。日中戦争における、近衛内閣と陸軍の関係を見れば、軍部ファシズムという規定は不適切である。

そもそもこの時代をファシズムと呼ぶべきではなく、現代の方がファシズムに近いということは、かつて本誌に書いた。ここで繰りかえすつもりはないが、爛熟した資本主義の危機と共産主義革命の可能性、それに恐怖した小ブルジョアによる下からのファシズム大衆運動の存在というファシズムの必須条件が当時は欠けている。強権政治とデマ政治という、どの時代にもあるような要素だけでは、ファシズムと規定すべきではない。

1935年、コミンテルンが社会民主主義の影響下にある民衆を横取りするために、反ファシズム統一戦線戦術を採用しようとしたときに、モスクワにいた野坂参三が、突然、日本はファシズムであると主張しはじめた。青年将校の動きが下からのファシズム大衆運動であるというのである。

国内にいた神山茂夫が反論した。共産主義運動は非合法状態であったが、国際航路の日本人船員、アメリカの共産主義者を通して、連絡、論争は可能であったのである。神山はコミンテルンの32年テーゼの原則を守り、日本帝国主義はファシズム段階ではなく、軍事的・封建的帝国主義であると主張した。

わたしは32年テーゼをそのまま承認するものではないし、32年テーゼは、金解禁などの浜口内閣の金融資本優遇政策を軽視しているとも思える。問題は、明治維新以降の半封建的・強制的資本主義化段階から、独占資本主義段階に、いつ移行したかということである。わたしは、1920年代の戦後恐慌、震災恐慌、金融恐慌、1930年の昭和恐慌、そして浜口内閣の政策に注目すべきだと考えている。その大きな転換期を、32年テーゼは読み違えているので、32年テーゼが社会科学分野の歴史的文献として重要なものであることは承認しながらも、わたしは神山のように忠実な国際共産主義者ではないから、見解は異なる。

しかし、神山と野坂の1930年代の論争を読むと、神山がこれまでの自分の主張をふまえて、真摯に論理的に議論しているのに対して、野坂は主張を変えた理由については口をつぐみ、コミンテルンに迎合し、論理も雑駁である。当時の日本がファシズムであるという見方には、まったく賛同できない。

当時にくらべれば、現在の日本のほうが、よほどファシズムと呼ぶにふさわしい。共産主義革命こそ切迫していないが、大企業は今後の経済的激変に備えて内部留保資金をため込み、賃金を抑え、民衆の暮らしは、戦後の混乱期を脱出して以来の困窮に陥っている。脅威は、共産主義革命のかわりに、中国の覇権主義的膨張を強調する。ヘイトスピーチや維新の会などの下からのファシズム大衆運動は中央政界にも進出しつつある。安倍内閣によるデマ政治は、戦後の保守政治には見られなかったものである。

3.軍事的独立へ

安保法制によってアメリカの戦争政策に巻き込まれるのではないかとよくいわれる。このような見方は、60年安保闘争以来、一貫して存在した。しかし新左翼は、ベトナム戦争をきっかけに、そのような発想から脱却したはずである。復活した日本帝国主義は、ベトナム戦争を利用した特需によって、高度経済成長をより大規模なものにした。もちろん吉田茂の系譜をひく戦後保守政治は、軽武装経済成長路線をとったから、軍事面については、「アメリカの戦争政策にまきこまれる」という表現はまったくのあやまりというわけではなかったが、岸首相の60年安保改定の意図は、対米完全従属の52年安保条約を少しでもより対等なものに変えることにあった。

安倍前首相が祖父の岸政治を手本とするという場合、軍事的自立の方向をめざすという側面にもっとも注意を払う必要があるだろう。安倍前首相は、これまで閣外にある場合には、日本が核武装する可能性にも言及してきた。集団的自衛権の行使の容認は、より一人前の軍事大国としての国際的認知を得るためであろう。

戦前の日本軍部は、文民内閣と対立しながら軍備を拡張し、政治に介入した。しかし1930年代後半になると、文民内閣自身が軍事路線に積極的になる。近衛内閣についてはすでに述べた。その前に組閣した広田弘毅は協調主義的、平和主義的外交官のイメージがつくられており、東京裁判で処刑されたのは不当であるとよくいわれるが、岡田内閣の外相として中国に日本の要求を一方的に突きつける「広田三原則」を提案して政府の了解事項とし、首相時代には日独防共協定を締結し、軍部大臣現役武官制を復活させ、軍拡予算を策定した。軍部の要求があったとはいえ、すべてを軍部の責任にするわけにはいかない。

このように日本では戦前から文民内閣による軍事国家への推進という歴史があるのだが、安倍前内閣の場合、自衛隊制服組から疑問が出されるほどに突進した。アメリカからの要請という圧力があるにせよ、それは世界の帝国主義支配のための応分の負担を求められているのであって、安倍前首相はそれを利用して軍事国家としての自立を実現しようとしたのである。

たしかに一見、戦前と現在の日本が、軍事化、強権国家化という点で共通するところはある。韓国や北朝鮮を敵視することによって、岩盤支持層を維持するという排外主義的傾向も共通する。しかし資本主義の発展段階の相違、ブロック経済か帝国主義の協調体制かという点で根本的に異なっており、「戦前への回帰」では済ませられないのではないだろうか。

4.アメリカ合衆国が問われる

もう1点、安倍内閣がトランプ政権から中古の軍需品を爆買いした件で、安倍内閣のアメリカ従属を指摘する向きもある。トランプ政権にとってもありがたかったであろうが、安倍首相としても、自主開発するよりは手っ取り早く軍拡できる手段ではあった。

トランプは何よりも不誠実であり、またアメリカ国民のあいだに深刻な分断をもたらした点で、大統領としてはあまりにも不適格な人物であった。4年の任期をまっとうさせた責任は、アメリカ合衆国の政治、司法、そしてアメリカ国民にある。安倍前首相も不誠実な点で共通しており、首相として最長の在任期間を記録させたのも、われわれ日本国民の責任である。安倍首相在任中に、一貫して30%を超える岩盤支持層があったのも、実は日本でも分断が進んでいることを示しているのではないだろうか。

しかし、アメリカで民主党政権が実現し、それでよかったとなるのか。トランプ政権は、一度シリアにミサイルを撃ち込んだが、歴代アメリカ政権のうち、これほど戦争をしなかった大統領はまれであった。わたしがそれをいうと、千本は日本の右翼と同じことをいってトランプを擁護するのかと批判もあろう。しかしトランプを平和主義者だというつもりはないが、事実は事実であって、わたしが強調したいのは、民主党政権も積極的な戦争政策を展開してきたことを忘れてはならないということである。

オバマ前大統領がパキスタンで極秘の軍事作戦を展開し、ビン・ラディンを殺害したとき、それをリアルタイムの映像で見ていたオバマ大統領が手を打って笑顔で喜んでいるのをみてぞっとした。外国で当該国政府の了解を得ずに軍事行動を展開するのは、主権侵害のなにものでもない。それを国際社会はなぜ問題にしなかったのだろうか。アメリカが民主党政権になり、ふたたび世界中で戦争をしかける国家になるのではとおそれる。

大統領が誰になろうと、アメリカが覇権を握っているかぎり、世界は平和にはならないだろう。それはアメリカ合衆国のなりたち自身が病んでいるからである。マイケル・ムーア監督が、一人あたり銃所持数が合衆国より多いカナダでは、発砲事件が多いだろうと取材をしたら、逆であった。それが合衆国の病んだ状況を象徴している。

満州国、満州帝国は存在してはならない国家であった。アメリカ合衆国も同じではなかったかとわたしは考える。建国以前にそこに国家というシステムが存在していたかどうかが異なるが、それは問題だろうか。合衆国地域にも、国家を必要としない、土地の個人所有の習慣のない先住民が暮らしを営んでいた。

満州国では、まったくのたてまえに過ぎなかったが、五族協和、日・満・漢・朝・蒙の五民族の共同発展がスローガンとして掲げられていた。しかしアメリカでは、先住民虐殺が当然のこととして行なわれていた。リンカーン、ワシントン、トマス・ジェファーソンらは、アメリカ民主主義の旗手とされているが、先住民からみれば、最大の虐殺者である。アメリカ民主主義とは、侵略者にとってだけの民主主義にすぎないといえば言い過ぎだろうか。

だからといって、日本がアメリカ合衆国よりましな国家であるというわけではない。北海道、アイヌモシリで展開してきたアイヌ民族に対する政策は、アメリカ合衆国と同様である。現在でも日本政府は、アイヌ民族の先住民族としての権利を認めない政策・法律を出し続けている。

カナダのバンクーバー冬季五輪の開会式では、カナダの大地が先住民のものであって、あとから来た者は先住民の土地に住まわせてもらっているとの認識が強調された。開会式の映像アトラクションも、圧倒的に多くの時間が先住民の歴史に割り振られた。アメリカ合衆国にも日本にも、そのような共通認識はない。

アメリカ国民の分断の遠因は、建国のありようにまでさかのぼるのではないだろうか。先住民虐殺の歴史に目をつぶってきたからこそ、現在になって排外主義が噴出しているのである。アメリカのリベラル派にも、その点を重視してほしい。

トランプ大統領が行なったことは、アメリカ社会の分断ではなく、基層に存在していた 建国以来の分断と差別を露出させたことである。民主党政権になって、その分断と差別を「国民の団結」ということばでふたたび覆い隠すのではなく、差別が存在するという現状認識を共有することが必要である。

トランプ支持の白人は、「自分は親に教えられた誰もが平等だという強い信念のもとに生きてきた、ところが今の人は、『黒人の命だけが大切だ』というから分断をもたらした』(NHKスペシャル「揺れるアメリカ 分断の行方」2020年11月)という。これは日本で、「わたしは差別していないのに、差別、差別というから差別が続くのだ」という、聞き飽きるほど聞かされたセリフと同じである。

「現在は南北戦争のころに戻ったようだ」というアメリカ人の感想がある。誰が大統領になろうと分断は深まるという見方もある。建国の時点にさかのぼって、アメリカ社会のあり方を考え直してほしい。日本社会が直面しているのも同じ課題である。

ちもと・ひでき

1949年生まれ。京都大学大学院文学研究科現代史学専攻修了。筑波大学人文社会科学系教授を経て名誉教授。本誌代表編集委員。著書に『天皇制の侵略責任と戦後責任』(青木書店)、『「伝統・文化」のタネあかし』(共著・アドバンテージ・サーバー)など。

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