論壇

「ストの時代」の痕跡を読む(下)

シリーズ⸺ちんどん屋・みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

朝も早よから待ち合わせ競争、1969年11月17日、1971年5月14日、順法闘争…(以上前々号

靖国法案、スト権スト、1976~79年(以上前号

国鉄分割・民営化(以下本号)

「マル生運動」第二次臨調三塚委員会と「国鉄バッシング」動労の手のひら返しと国鉄解体

おわりに

国鉄分割・民営化

「マル生運動」

国鉄は1964年から赤字に転落し、それ以来借金は膨れ上がっていった。その大きなきっかけは新幹線の建設とそのため発行した債権の利子といわれるが、国のインフラである公共事業に民間のような効率を求めるのも無理がある。国鉄は赤字補填のために運賃を上げることも国会に諮らなければ出来なかった。また、度々余剰人員の整理や合理化を進めようとしたが、その度に労組の強い抵抗を受けた。

その最たる失敗例が70~71年に吹き荒れた通称「マル生運動」。元々経済同友会や経団連などがアメリカから輸入した生産性向上運動は、国鉄においては労使協力の下「顧客への誠意と企業への愛情」(当時の磯崎総裁が強調した言葉)を職員の心構えとする「一つの精神運動」となったが、その真の狙いは「企業の中で敵対し、闘うことに意義があると思っている労働者は、もう民間にはいなくなりつつあるということを、国鉄職員は目を開いて直視せねばならない」(当時の真鍋職員局長の言葉を升田氏が引用)という言葉通り、「国労・動労の階級闘争主義批判」(升田)。

つまり生産性より労組の抑え込みが目的になり、さらにはっきりいえば、「そのころ27万人だった国労組合員数を20万以下に組織崩しすることが目標に変わっていった」(1982年4月19日朝日夕刊連載「国鉄はいま」①)。そのため国労からの脱退を働きかけるなどした現場管理者(助役や駅長など)と組合員との溝が深まり、総評やマスコミを巻き込み反対運動が展開され、しまいに当局が組合に完敗して収束した。上から言われてやったのに“はしごをはずされた”形になって、萎縮した管理者と対立する組合員に分断された現場の運営状況は、後に国鉄批判の的となる。

第二次臨調

第二次臨時行政調査会、略して「第二次臨調」。「鈴木善幸内閣に入閣した中曽根康弘行政管理庁長官の発案にもとづき」、1981年3月に諮問機関として設置され、土光敏夫が会長。「行政改革」が主眼らしい。

「現代の理論」第32号に書いた(ちんどん屋にみる巷の流通史・序 みどりやの「仕事帖」から)が、1981年からみどりやは流通と消費の構造変化に伴い、徐々にマーケットや商店街の仕事を減らしていく。企業に属する労働者、特に非正規労働者の増加をも意味するこの変化は、第二次臨調によって目指される変革とも無縁ではない。

「臨調発足直後には、同盟、政策推進労組会議、金属労協、化学エネルギー労協の労働四組織が臨調応援団ともいえる行革推進国民運動会議を発足させたが、同会議の世話人には」「民間労戦統一運動のリーダーが顔を揃えており、臨調の国鉄分割民営化をめぐる論議と労戦統一の動きが響き合っていたことを物語っている。」(升田)。民間労戦統一運動は、スト権スト後の76年、16の民間有力組合と全国民労協が参加して発足した政策推進労組会議が機運となり、公労協のような「官」でなく、「民」が主導する労働戦線として統一しようとする運動で、総評も波に勝てず、79年7月の定期大会で「当面民間先行を認める方針を明確にうち出した」(升田)。「民」の主導になるということは、単に総評が力を失うということではなく、“企業の中で敵対しない労働者”の組合ばかりになるという、まことに経営側にとって都合のいい労戦統一であり、しかも臨調と手を取り合うという御用聞きぶりである。

少し先回りしていうが、82年7月30日提出の臨調基本答申時、土光敏夫は国の財政負担を増税なく果たすには、出来るものは官から民へ移行し、国民には「自立・自助」の精神を持って欲しい、「小さな政府」を今こそ、と臨調の基本姿勢を示した(82年7月31日朝日朝刊)。これは現在でいう新自由主義の考え方である。今まで知らずに来たが、第2次臨調で今の不幸な日本の在り方が定まったようなものだ。しかも基本答申の内容を見ると、官公庁の財政合理化は曖昧で、はっきりしているのは社会保障や教育の分野での個人への負担を迫るものと、三公社の民営化だけ、特に国鉄の分割・民営化はきっぱり「5年以内」と期限まで区切り、内容も詳述している(31日朝刊に掲載)。ともかく「国鉄分割民営化が臨調の最大の眼目になり、さらにいえば唯一の眼目になる」(升田)。

ところが、先に引いた森功氏の『国商』によると、「この国鉄分割論に立ちはだかったのが、田中角栄であり、加藤六月である。」私は前回、田中が早くから分割民営化を図っていたと書いたが、朝日の記事では民営化はともかく、分割案は田中本人の言葉でなく官僚の意見なので、確かに勇み足だったかも知れない。ここで訂正、おわびしておく。森氏によると、田中はご存じの通り運輸族であり、しかもマル生闘争を指揮した国労委員長の細井宗一の戦友で、「国鉄に限らず、労働問題全般について常に細井のアドバイスを受けてきた。田中は国鉄の息の根を止めるような分割民営化には徹底して反対した。」(森)。

国鉄自身も手をこまねいていたわけではなく、生き残りを賭け、臨調以前の79年に「国鉄再建の基本構想案」を提出、81年5月に「経営改善計画」が運輸大臣の承認を受けていた。いわゆる「後のない計画」で、85年度までに7万人以上の人員削減をし、35万人体制にするのが眼目の一つだった。

三塚委員会と「国鉄バッシング」

81年7月27日、臨調は部会編成を4つに改め、第四部会が三公社五現業、特殊法人の在り方を担当することになった。82年2月、自民党内に「自民党国鉄基本問題会議国鉄再建に関する小委員会」が発足、委員長に三塚博衆院議員が就き、「三塚委員会」(或いは「小委員会」)と呼ばれる。ここに国鉄内から太田知行職員局長と後の通称「国鉄改革三人組」、葛西敬之、井出正敬、松田昌士が集まり、国鉄内部からの解体を画策する出先機関となった。

この「三塚委員会」発足の2週間前、朝日新聞は「赤字国鉄がヤミ手当」という見出し(1月23日朝刊)でのちに「ブルトレ事件」と呼ばれるスクープを放った。過去十年以上、ブルートレインに必ず添乗するはずの機関車検査係が実際には乗らずに手当だけを支給されていた事件で、リークしたのは森氏によれば「改革三人組」である。「マル生」の時には組合側についたマスコミだったが、ここに到って国鉄総叩きの様相と化した。これまで新聞は全て朝日新聞を参照してきたが、これが例えばサンケイだったらまったく違う見え方になっただろう。確かに朝日は国労寄りといわれてきたが、82年以後はガラリと変わる。

例えば82年の朝日における国鉄関連の記事の中で、規律の乱れ、悪慣行に関する報道は3月、4月共に14件、自民党・政府の国鉄批判に関するものは共に2件、三塚委員会に関するものは1件と2件、国鉄の赤字問題と対策に関するものは1件と3件と、日を置かずに話題に上る。特に本数の多い規律乱れ・悪慣行関連の記事内容は、ヤミ手当、ポカ休(突発的休み)、ブラ勤(仕事をしない)、事故隠し、拘束時間中の泥酔、管理職に備品を私費で負担させる、列車ドアの開閉忘れ、停車駅を飛ばすなど。またそれに対する国鉄当局の対応も含む。さらに朝日は4月に夕刊で5回にわたり、「国鉄はいま」という記事を連載し、荒廃した労使関係、貨物・旅客の競争力の低下、巨額赤字にローカル線の廃止、政治とのからみなどの項目を挙げ、国鉄の抱える問題を分析した。

「国鉄は、職場の荒廃に対する世論の批判にこたえ、今月初めから全国各職場の総点検に入っている」(3月19日朝刊)。朝日が自分であおっておいて「世論の批判」もないものだが、国鉄当局は各職場の管理者にアンケート形式の調査票を配布し、4月に総点検結果を発表。ヤミの超過勤務手当が職場の35%、ヤミ休暇が28%、ポカ休が52%などと共に、組合と管理者の「現場協議」という話し合い制度のあり方が問題となり、時間が長い、回数が多い、管理職をつるし上げるなどの上に、ポカ休の埋め合わせで管理職が休めないなど、様々な問題点を国民の前にさらした(4月24日朝刊)。

これに先立ち、三塚委員会は国鉄の職場管理者に向け、アンケート調査を行い、職場へ直接調査に赴き、4月13日に15項目にわたる「提言」をまとめた(4月14日朝刊)。いわく、「現場管理者が『組合の不法な要求に屈した例が多い』として」、違法行為に対する処分の厳正化、違法ストに対する刑事罰、202億円訴訟の促進など、対処が組合に対する圧力に傾いているのが顕著だ。

調査結果やバッシング報道の影響かどうか、6月に到って朝日全国世論調査では「分割・民営化 5割が支持」(6月15日朝刊)した。

動労の手のひら返しと国鉄解体

このような状況に、組合の対応が分かれる。国鉄の労組は国労(主流派は民動左派と呼ばれる社会党系)、動労(元は機関士の職能組合)、鉄労(国労から右派が分裂して統合、民社党支持で同盟に所属)、全施労(保線職員の職能組合・右派)、全動労(動労から共産党系が分裂)などに分かれていた。組合員の数は77年時点で、国労は253210人、動労は47584人、鉄労は58606人、その他は7788人(「交通年鑑」から升田氏引用)で、国労が圧倒的な数と勢力を誇っており、国鉄当局は従来国労と宥和関係を図って運営してきた。ストを主に闘ってきたのは国労・動労だが、ここにきて「鬼」と呼ばれたほどの極左と目された動労が、ブルトレ手当の返済に応じるなど、当局に対し柔軟路線を取り出す。

1982年11月、中曽根が自民党総裁選に勝利し、内閣総理大臣に就任。83年6月、臨調基本答申で予告されていた、国鉄分割・民営化を実行する首相の諮問機関として「国鉄再建監理委員会」を発足。84年7月に小委員会の三塚が、『国鉄を再建する方法はこれしかない』という本を出版、分割・民営化論をぶちまけた。この本も森氏の引く「三人組」の一人、井出の証言によれば、「三塚さんから本を作るから協力をしてくれ」と頼まれ、「三人組」らが協力して作成したものだ。同年8月10日、再建監理委として初めて「分割・民営化を正式に提言」した(84年8月11日朝刊)。

この頃国鉄は、84年7月にさらなる余剰人員削減のために、組合側に対して勧奨退職、一時帰休、出向・派遣の「三本柱」対策を提案する。これを飲まなければ「雇用安定協約」(62年3月に締結され「本人の意に反する免職及び降職はおこなわない」という内容、以後自動延長)を破棄するという厳しい姿勢に、動労、鉄労、全施労は提案通り妥結、抵抗する国労と全動労が無協約になり、雇用を巡って分断状態に陥ったのである。

84年10月6日、有楽町に「マリオン」(阪急と西武の2つの百貨店や映画館、ホールなどの複合施設)がオープンし、みどりやは10月4,5日の2日間、西武デパートの前宣伝に2組で出向いている。朝日新聞の広告では「有楽町・銀座の新しい時代をになう情報発信スポット」(84年10月4日朝刊)と、空間としての「新しさ」を強調するそのビルには、確かにわくわくするような華やかな、しかも誰にでも届く消費生活の匂い(今では珍しくもないショッピングセンター街のコンセプトではあろうが)が、特に銀座という場所を背景にすることによって満ちていた。大型商業施設にはどちらかというと取り残されそうなちんどん屋がその宣伝を担い、やがて来る「バブル」時代へと足がかりをつかもうとしている。

85年2月、田中派の竹下登らが結集して新たな派閥、創政会(のちの経世会)を結成。同月27日、田中角栄が脳梗塞で倒れた。森氏によれば、これで中曽根は田中のくびきから解き放たれ、「そしてここが国鉄改革の大きな転機となった」。 

85年6月21日、分割・民営化に消極的だった「仁杉国鉄総裁を更迭」「総裁交代テコに再建 首相意向」(85年6月22日これのみ毎日新聞朝刊)、常務役員も半数がやめ、これで国鉄内部は「『三人組』を中心にする改革派が完全に主導権を掌握する」(升田)。内閣では、同年12月、三塚が運輸大臣として入閣、「国鉄改革の主導権を握」る(森)。

86年1月、杉浦国鉄総裁と各組合が個別に会談、「労使共同宣言」の調印が提案される。その内容は「安定・安全輸送のため労使は諸法規を遵守」「折り目正しいサービスのため服装を整えるなど(組合章などのリボン・ワッペン不着用含む)」「合理化に協力推進」「余剰人員対策に一致協力」と、具体性には欠けるが「法規遵守」で“スト放棄”と「労使協調」で“組合として抵抗するのを放棄せよ”と言っているに等しいが、動労、鉄労、全施労はその場で同意し、国労、全動労は拒否。完全に対決の構図が固まった。「雇用安定協約」の無締結と「労使共同宣言」の拒否と、次々にはしごを外される国労内部から脱退する動きが現れる。国労からすると「国労内“革マル派”」が先頭に立ち、「反国労の分裂策動」(『国鉄労働組合50年史』労働旬報社)により、「真国鉄労働組合」が結成(4月、1208名)され、「共同宣言」と「雇用安定協約」を締結した。

なぜ”革マル派“かというと、松崎明という革マル派結成時の副議長が動労の幹部で、実質動労を仕切ってきたからであり、この人物は森氏によれば、「三人組」の一人、葛西と深いつながりを持ち、「中曽根康弘政権の主導した社会党、国労潰しのための国鉄改革に歩調を合わせた」(森)。そして「松崎はJR発足後も8年間にわたり東日本旅客鉄道労組の委員長をつとめ、同時にJR総連の事実上のトップとして長年君臨していた」(升田)。ちなみに千葉動労は成田空港反対闘争を闘った中核派が中心となり、革マルが支配する動労から分裂したものである。

86年7月6日、衆参同日時選挙が行われ、自民党が圧勝、社会党は惨敗した。7月18日、6月時点で「三塚運輸相は『国鉄再生に向けて一つの組合になるよう取り組んでほしい』と述べ」(『国労50年史』)たのを受け、労使共同宣言締結4組合が「国鉄改革労働組合協議会」(改革労協)を結成する。さらにこの改革労協との間で、8月27日、分割民営化後の合意事項をまとめた「第二次労使共同宣言」が締結され、9月3日、国鉄は動労に対しスト権ストの置き土産「202億訴訟」を取り下げた(国労とは訴訟継続)。

86年9月12日、中曽根首相は所信表明演説を行った。その内容は「国鉄法案成立に全力」(9月12日朝日夕刊見出し)以外に特に具体的な指針が見当たらないものだった。その翌日、みどりやの「仕事帖」に「国鉄分割民営化反対 上野不忍池 集会」の文字。進と妻・いく、妹久子が行っている。反対集会にみどりやが呼ばれているのだ。時代の位相にちんどん屋の姿が映りこんでいる。呼んだのは国労の団体だろうか。実はちんどん屋には時々デモや集会の仕事がある。主義主張とは関係なく受けるのだが、私はバスの運転手さんの組合が不当な首切りや賃下げに反対するデモに呼ばれて、一緒に演説したことがある。みどりやは得意の口上で、何事か語っただろうかといろいろ想像してみたくなる。

86年11月28日、国鉄分割・民営化関連8法案成立。87年4月1日、JR発足。国鉄は北海道、東日本、東海、西日本、四国、九州、貨物の鉄道と新幹線鉄道保有機構(のちに東日本、東海、西日本が買い取り)、清算事業団、関連数社に解体された。「国鉄改革三人組」は葛西が東海、松田が東日本、井出が西日本へ、のちにそれぞれ社長(のち会長)に就任している。

おわりに

森氏によれば、「親米の首相はレーガノミクス、市場開放要求に応じて三公社五現業の民営化を打ち出した。その中曽根行革のメイン政策が国鉄の分割民営化であり、それは同時に国労潰しでもあった」。中曽根自身も「総評を崩壊させようと思ったからね。国労が崩壊すれば、総評も崩壊するということを明確に意識してやったわけです」(AERA1996年12・30から升田氏が引用)と語っており、事実総評は89年解散、「連合」に合流し、総評に支えられた社会党は凋落した。そして経営側と労使協調した組合ばかりになり、ストライキはなくなり、荒廃した労働環境が恒常化する現在に到る。

竹信三恵子氏は『賃金破壊-労働運動を「犯罪」にする国』(旬報社)で、辻本清美議員が上記のような一連の中曽根発言に対して2006年6月6日の質問主意書で政府の見解を問うた件に触れながら、「オイルショックへの国民の危機感をテコに、経済界が労使交渉を飛び越して賃金に政策的枠はめを行い、首相が、野党の支持母体である労組の力を削ぐため、賃上げ装置だった労組の『崩壊』に乗り出す。こうして、『賃上げ勢力』は、ひっそりと、大幅に、縮小され、『賃金が上がらない国づくり』が着々と進められていくことになる。」と、この経緯が経済界と政治が手を組んだ労組潰しの手法であり、結果であったことを明確化している。

一方、木下武男氏は『労働組合とは何か』(岩波新書)で、欧州で労働組合が形成される過程と比較して、日本型労働組合の違いを指摘し、1974年の春闘勝利後、スト権ストのあった「1975年の決定的な転換局面」については、「1975年以前に何かがあった」。「つまり、1960年代からの経済発展の『平時』につくりあげた企業主義的統合の仕組みを、経済的危機の『戦時』に作動させたら、瞬時に威力を発揮した。」「企業主義的統合とは企業の労働者に対する強い『強制』と、その支配への労働者の『同意』とを統合させたシステムのことだ。」「年功賃金と終身雇用制によって労働者に安定した生活の基盤を提供しつつ、労働者の企業意識や忠誠心という精神的な『同意』を調達している」「この統合は、権力による抑圧ではなく、市民社会における企業という社会領域でなされている。だから強固であり、見えにくいのである。」と、労組の在り方が元々内包する敗北の要素を指摘する。

これは「民」も「官」も同じことだ。升田氏は国労が86年10月の修善寺臨時大会を最後に分裂、瓦解したのを「これほどもろくも瓦解する存在が何故わが国最強の労組と自他ともに許す存在たりえたのか。」「それは雇用が保障されていたからである。」「だからウソの首切り(合理化)には勇ましく対抗したが、雇用保障がホントウになくなったとき、なす術もなく瓦解するほかなかったのである。」と説明する。だが「官」の労組の場合、組織が大きく、全国規模でつながることも出来、広い横のつながりを構築しやすい。だから強くなれる。しかしだからこそその絆を絶つため分割して民営化した。これははっきりと振るわれた政治の鉈だ。労組とストライキを絶つための。

もはや終身雇用制も崩壊し、木下氏いわく、「国家による規制もなく、またユニオンによる規制もない、19世紀型の野蛮な労働市場」のいま、新しい「ユニオニズム」の創生が必要なのは勿論だが、ヒントがたくさん詰まっている木下氏の本を勧めたい。

国鉄分割・民営化後、最後まで抵抗した国労組合員には過酷な現実が待っていた。国鉄バッシング当時の調査結果で、労組が悪慣行し放題でのさばっていると悪いイメージを持たれた方もいるかも知れないが、一連のヤミとかポカとかブラとかいわれるものが、見方を変えれば、合理化という人減らしや労働強化に対して、組合が「現場協議」を通じて手に入れた成果や抵抗の方法でもあるということだ。泥酔勤務は言い訳の余地が無いが、現場の要員を減らされ、勤務時間と仕事量が増やされたのでその分の手当を要求し、現場協議の結果名目の違う手当をあてがったら「ヤミ」になる。配置転換を強制され、抵抗して居残ったら「ブラ勤」になる。「現場協議」は合意事項の運用について話し合う場、らしいが、ならば余計団交の様相を呈することもあろう。すべてそうだとはいわないが、印象操作で「犯罪」とされ逮捕まで到る例がある(「関西生コン事件」)ことを、竹信三恵子氏の『賃金破壊』は伝えている。

抵抗した国労組合員(闘争団)の姿を伝えるドキュメンタリーが『人らしく生きよう―国労冬物語』(DVDビデオプレス制作・発売)である。国労員の強制収容所のような「人材活用センター」の経験を語り、仕事を求め、闘う国労員の、一人ひとりがまっとうな労働者でありたいと思って生きている姿を活写する。86年から2001年まで追っているので、分割・民営化以降の流れを知りたい方にも必見だ。

本稿はみどりやの「仕事帖」にある「スト」の記述から導かれ、ここまで来たが、図らずもかねてから関心のあった労働運動とそれに対する反動の記録を追うことにもなった。みどりやから随分離れてしまったかも知れないが、最後に労組とみどりやが分割民営化反対集会で接触する瞬間を捉えられてほっとしている。次回はどっぷりとみどりやと「サブカルチャー」について浸かってみたい。

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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