特集 ● 内外混迷 我らが問われる

ある色川大吉考──「昭和」との格闘(後編)

みずからの主体を現わしつつ歴史に向き合い、そのことによって、歴史の主体としての「民衆」を描き出す歴史を提供

日本女子大学名誉教授 成田 龍一

1.色川大吉の<冒険> 飛翔と再整理

(1)あらたな認識と論点の提示

2.不発の論争 「現代思想」との出会いそこね(以上前号

3.方向選択と総括(以下本号)

(1)柳田国男の方向へ
(2)色川自身による総括

4.あらためて、色川大吉とは

3.方向選択と総括

(1)柳田国男の方向へ

色川自身は1985年ころと認識しているが、みずからその歴史学―「歴史叙述」を転換させていく。色川にあった、AとBとを接合するあらたな方法と叙述を試みる営みと言い得る。入口となるのは、柳田国男であった。「戦後歴史学」を経て来た歴史家たちは、敏感な歴史家であるほど、ある段階で柳田に入り込む傾向がみられる。色川も例外ではなく、『柳田国男』(講談社、1978年)を著し、柳田国男との格闘をおこなう。「日本民俗文化大系」の第一巻であり、居並ぶ民俗学者たちに加わっての「柳田国男」の執筆であり、色川の意気込みが感じられる。

すでに色川は、戦時期に柳田を読んでいたが、柳田と日本浪漫派は「その情緒」がほとんどかわらず、「日本の民族」のために死すことを要請しており、戦後しばらく「許せない存在」であったという。しかし、『明治精神史』によって「民衆思想史」の「原野」に足を踏み入れたとき「越えられない壁」にぶつかり、「壁の向こうに民間伝承の沃野」が広がっているのを発見したと記す(『柳田国男』)。

「私は大きな回り道をしたことを知り、おのれの不明と不遜を恥じた。彼ら(柳田国男ら―註)は文字にたよらぬ民間伝承から新しい国史学の方へ、私は文字にたよった民衆史研究からもっと大きな史学の方へ、歩み寄っていたのであった」   『柳田国男』

と述べ、「生き方の追及」とともに「常民文化論」を主題とするとする。ここにも、色川の「反省癖」をうかがうことができるが、

「一個の歴史家として、柳田国男の一生をどう評価し、叙述するか、彼の残した大きな仕事から何をいったい引きつぐことが出来るか」   『柳田国男』

と、歴史学の立場を保持しての柳田の摂取ということである。歴史家として、模範的な姿勢であるとともに、柳田の「世界」は「近代主義の罪業」があばかれた1960年代に、一般に価値が見出されたとする。色川のAの所産であり、「高度経済成長による日本の国土と伝統文化の破壊」への批判とも重ね合わされている。柳田を、『明治精神史』の問題意識と重ね合わせながら解読するのである。

色川は、「山人」への関心から出発した柳田の「常民」概念を三段階に分けて把握する。第一段階は「「山人」の副次的概念」としてほぼ1910年代における使用である。第二段階は、1930年代の「一国民俗学」樹立の過程と対応した「民俗学の基礎」としての「常民」であり、そして第三段階は「躍動性を失った静的なものへの退行」とする。この推移は「常」と「民」との関係性の変化とするが、色川が着目するのは、むろん第二段階で

この「常」「民」の複合概念には、昭和10年代の国体論的な一枚岩的イデオロギーや官学アカデミズム、西欧モダニズムなどに対する批判と抵抗の契機が内在していたのである。   『柳田国男』

と捉える。歴史学における「底辺民衆」と、この「常民」に対し、前者は「支配・被支配の関係を前提として党派的な思想性をひきだす政治的な概念」であり、後者は「「民間伝承」を主として担う文化概念」とした。そして、そのうえで、両者の「異質な概念の枠」をはずし、「もう一つ高い次元で止揚した新しい民衆概念」を作ることを構想する。

『遠野物語』『山人考』『木綿以前の事』『雪国の春』あるいは『日本の祭』『先祖の話』などをたどってきて、「歴史家の立場から」方法的に学ぶべきは、『明治大正史 世相篇』とする(「強く魅かれたのは」『遠野物語』と述べており、このことはこれで、色川のAの心情をよく示している)。

色川にしてみれば、「民衆思想」をとらえるといっても、『明治精神史』では「その数人の代表者」を掘り起こし、その「精神構造」を「類推」しただけであり、「もっとたくさんの、一般の、無名の底辺民衆が、どのように感じ、なにを考えていたか」を探る「方法」の探究である。それを『明治大正史 世相篇』に求めたのである。

だが、色川はその「大胆な野望と失敗をおそれない実験精神」を評価しつつ、その検討を通じて

『明治大正史 世相篇』のうち、成功したのは最初の四章と第九章であり、「全体として成功した作品だと思っていない」   『柳田国男』

と述べる。色川の面目躍如といったところであろうか。同時に、色川は柳田研究にのめり込むのではなく、「常民文化」を世相史として体系化した『明治大正史 世相篇』の「切り口」を学ぶ点に趣意がある――「それは生活上の大革命下にある1970年代の日本の世相篇を書くために、方法的な啓示をもたらすかもしれない」。

実際に、10数年後、色川は、『昭和史 世相篇』(小学館、1990年)を上梓することになった。柳田の方法―影響を、書名自体に示している。昭和史を、(α)軍事大国の時代、(β)転換期-占領時代から戦後復興へ、(γ)経済大国の時代と三区分し、(γ)を、「生活革命」と把握する。この1960-85年の期間に、「生活革命といってよいほどの空前の大変化」が見られたとし、7つのテーマで叙述をおこなう――①通過儀礼と国民的儀礼、②情報という社会の変動要因、③衣食住におけるハレとケの転換、④都市空間のフォークロア、⑤群衆の欲望=犯罪にみるフォークロア、⑥天皇をめぐるフォークロア。その後も、叢書「現代の世相」に関わった。

 

色川が柳田国男を論じ、『昭和史 世相篇』を上梓した時期は、日本の歴史学においても大きな変動が見られる時期であった。「戦後思想」と共振する「戦後歴史学」は、ゆっくりと「現代思想」と接する「現代歴史学」へと推移していった、というのが私の観察である(拙著『歴史論集1 方法としての史学史』、岩波現代文庫、2021年)。社会史研究の台頭はこの流れであり、さらに歴史社会学の領域では、世相史―大衆文化史に対し、多くの関心を示していた。こうしたなか、色川のあらたな選択は、あらたな展開を遂げ得たであろうか。

色川が立脚するのは、あくまで「民衆史研究」であった。先に記した『明治の文化』が文庫化されたとき(2007年)、「多くの欠陥はあれ」「そこに提起されている歴史認識の視角は意味を失っていない。そう今も信じている」と記し(「同時代ライブラリー版へのあとがき」)、さらに

「最近、アメリカで私の名をあげ、「民衆史はもう古い、彼の時代は終った、過去の遺物だ」と言い歩いている男のことを聞いた。笑止千万だが、その人たちは真剣に私の本を読んだことがあるのか(とくに最近のものなど)」。   「同時代ライブラリー版へのあとがき」

と、苛立ちを隠さない。

(2)色川自身による総括

晩年の色川大吉さんと著作

1990年代半ば、色川は自らの営みを再考察する。いくつかの柱を指摘しうる。第一は、これまでの論稿を、再構成して『色川大吉著作集』(全5巻、筑摩書房、1995-96年)として刊行することである。この著作集において、『新編 明治精神史』こそ第1巻として丸まる収められたが、第2巻目以降は、単行本として刊行した著作を解体して、あらたに編み上げるという力技の編集である。続刊は、第2巻『近代の思想』(「天皇制論」「ナショナリズム論」「共同体論」)、第3巻『常民文化論』(「常民文化論」「民衆史論」「自分史論」)、第4巻『地域と歴史』(「困民党と自由党」「東北日本の近代史」「中部日本の近代史」「西南日本の近代史」)、第5巻『人と思想』(「明治の先駆者」「明治人」「自由民権の人びと」)として再編集された。(  )は各巻の柱建てであるが、みずからの軌跡をみごとに編みなおしていると感心するとともに、この時期の色川の歴史認識―歴史学の姿勢がよく示されている。

第2巻で「近代」を批判的に考察する論を集成する一方、第5巻では、「自由民権の人びと」とともに、岡倉天心、柳田国男、田中正造を論じた稿が集められる。晩年に、宮沢賢治を論じたこととあわせ、西洋型の「近代」に疑義を有する人物がならぶ。ただ、植木枝盛や幸徳秋水も顔を見せるが、思想の内在的分析よりはその行動―生き方に焦点があてられる。第4巻の「西南日本の近代史」では「水俣病事件史序説」の副題をもつ「不知火海民衆史」が収められ、沖縄をめぐっての論稿が前面には出されていない。色川の沖縄論を集成した、三木健編『沖縄と色川大吉』(不二出版、2021年)などを思うと、いささか後景に退いている。第3巻には「柳田国男の常民文化論」が収められ、依然として柳田への強い関心がうかがわれる。

だが、「著作集」において興味深いのは、各巻に付された「著者による解説・解題」に示された1970年代以降の歴史学と自己との関係である。ここでは、相反するような色川の認識が、問わず語りに表出している。

「私は1970年代のわが国の新思潮に無関心でありすぎ、自分の既成の歴史理論を克服する努力を怠ったのだ。そして自分の方法の欠陥を補なうために、柳田民俗学に傾斜していった」(「著者による解説・解題」「著作集」第2巻、 1995年)。

あるいは、第3巻では、記号論とか、社会史を知ったのは、アメリカに行った「1970年の秋以降」であり、しかし、と続ける。

「格別に興味をそそられなかった。私は柳田国男の仕事に注目しながら、自己流に民衆思想史や常民文化論を試みでいただけであった」(「著者による解説・解題」「著作集」第3巻、1996年)

同時期の総括であり、念頭に置かれているのはともに社会史研究であるが、力点の置き所が異なり、温度差がある総括となっている。うかがえるのは、色川における社会史研究―「現代歴史学」への違和感と距離感である。歴史学の転回に対する拒絶とは言わずもがな、違和感を有していることが率直に記されている。

「民衆史研究」と「社会史研究」の関係であり、「民衆史研究」の史学史的位相を測り、歴史学の在りようを考えるうえでは重要な論点にほかならず、色川に展開してもらいたかった議論である。

 

いまひとつの色川自身による自己の総括・点検は、「自分史」の本格的な刊行である(2005-2010年)。『ある昭和史』で端緒を作りだした「自分史」の刊行である。版元をかえての5部作となり、『廃墟に立つ』『カチューシャの青春』(小学館、2005年)、『若者が主役だったころ』(岩波書店、2008年)、『昭和へのレクイエム』(同、2010年)とつづく。詳細な「自分史」であり、総括の方向に沿っているが、「自分史」の主語の乱れがあり、その点については、前稿(「過剰な歴史家・色川大吉」)で簡単に指摘をしておいた。

さらにこの流れで、『戦後70年史』(講談社、2015年)が記される。「自分史でもなければ、民衆史でもない、それらを含んだ全体史、国民体験史の総合叙述を試みたものである」としている。

「敗戦から70年間という激動の時代の民衆の息吹を書き起こすためには、これまでの自分史的な記述方法では言い尽くせないと考え、時代状況、置かれていた場と切り結ぶ叙述を重視する方法を選んだ」「世界と日本の変動の渦中、人々が何を見聞きし。何を体感したか。その民衆の一人である私がどう生き、何を考え、何を痛覚したか。これをベースンに据えて内容を構成し、叙述することにした」  『戦後70年史』

色川におけるAとBとの再度の接合の試みといいうる。ただ、ここでもその試みが成功したとは、なかなかいいがたい。課題は、依然として残されているといえよう。

しかし、『北村透谷』(東京大学出版会、1994年)と、『不知火民衆史』(上下、揺籃社、2020年)を刊行し、出発点に当る透谷の評伝と、生涯の課題とした民衆史の叙述という二つの課題を成し遂げたことを付け加えておこう。ここでは「方法」の工夫ではなく、人の生きる重みが記される。こうした「歴史叙述」にこそ、色川の神髄があったと思う。

4.あらためて、色川大吉とは

色川大吉は、どのような存在であったのだろうか。その生涯は、「昭和」との格闘にあったといいえよう。「戦中派」としてうまれ、青春期を戦争とともに育った。同世代として、三島由紀夫(1925年生まれ)、橋川文三(1922年生まれ)、司馬遼太郎(1923年生まれ)、石田雄(1923年生まれ)らがおり、それぞれイデオロギー的にはふり幅があるが(いや、イデオロギーに過敏であること自体も、戦中派の特徴のひとつであるが)、心情的にはロマンを求め、独特の死生観を共有している。

色川が、戦争―軍隊生活を経験し、戦後には社会運動(山村での教員生活や演劇活動、安保闘争、市民運動)に携って来たことはすでに記したが、高度経済成長以降の戦後の変質に警鐘をならし、昭和天皇へのこだわりを有しつづけたことも大きな特徴である。この点も「戦中派」としての共通性であるが、戦争と戦後を生き、戦争と戦後を綴ったといいうる。あえて図式化してみると

G 戦中派として「戦後 Ⅰ(戦後民主化)」に参加

H 戦中派として「戦後 Ⅱ(高度経済成長)」にむきあう

I  歴史家として、あらためて「昭和」を歴史化する

となろうか。

歴史認識の観点から論じなおしてみると、(1)マルクス主義を含む「西洋」思想―エリートたち―アカデミズムを内容とする「近代主義」と格闘し、反転して(2)「土着」思想や、反近代の思想に惹かれ、民衆への共感を前面に出したといいうる。歴史学の枠に収まり切れない――収まることを拒絶する歴史家であり、経歴といい、問題意識といい、活動のスタイルといい、あらたな歴史家――過剰な歴史家として振舞い、歴史家としての過剰さを発現した。

歴史学をアカデミーに閉じ込めないための活動として、国立歴史民俗博物館の設置に携り、自由民権百年記念全国集会を主導するひとりとなった。あるいは、日本自費出版文化賞の最終選考委員長(1998―2017年)をつとめ、その「個人誌部門」にかかわった。最晩年の『不知火海民衆史』(上下、揺籃社、2020年)も自費出版であり、第24回日本自費出版文化賞 特別功労賞を受賞している。

また、直接に社会に対し発言し、行動し、異議申し立てをおこなう歴史家でもあった。地域の住民運動に参加し(八王子中央高速道路のインターチェンジ、採石ダンプ公害)、「日本はこれでいいのか市民連合」(1980年)にも参加している。不知火海総合学術調査団(1976年)については先に記した。こうしたなか、「強者の市民運動」と「弱者の住民運動」との指摘も行う。加えて、多くの歴史家が忌避するメディアとの関係も積極的で、広範な読者とあわせ視聴者も意識し、「朝まで生テレビ」などにも出演した。

いくつもの側面を列挙したが、あらためて色川は、「民衆」に、「民衆」の歴史を説き、歴史に参加する歴史家として存在したといいうる。感慨深いのはその人間観であり、「運命」に対し、主体的にたち向かう民衆史像を描きだしたことである。

近代日本の歴史は、色川によって、「45年」と「60年」とともに、「68年」と「89年」の切れ目が指摘される、その切れ目――転換を、色川は「戦後思想」とその延長での対応してきた。歴史家としては、「近代歴史学」と格闘してきた。このことは、反面、「現代思想」との出会いそこね――「現代歴史学」との距離感を、読者に感じさせることともなった。史学史における色川大吉の意義と位置については、なおも継続していくことが必要となろう。

 

最後に、「歴史家の嘘と夢」を論じた色川の言葉を引いてこの稿を閉じたい。周到に、色川はピカソの「フランコの夢と嘘」にも言及しつつ、歴史家の嘘と夢に言及する――

 

「虚構を使うことによって真実を述べようとするのは、なにも作家ばかりではない。歴史家は単なる歴史の“事実の証人”ではない。歴史家がながい研究のすえに、その成果を歴史叙述としてあらわすときに、その背後に隠されてあるものは、かれ自身の“夢”であり、また“嘘”であることが多い」「そのうえ、歴史家の認識対象としての事実すらが、多数の人間による、ながい歳月にわたる夢と嘘の分かちがたい複合なのである」『歴史家の嘘と夢』(朝日新聞社、1974年)

 

なりた・りゅういち

1951年大阪市に生まれる。早稲田大学文学部、同大学院で日本の近現代史を学ぶ。民衆史研究のさかんな頃であった。大正デモクラシー期の考察が出発点であったが、次第に19世紀から20世紀にかけての文化、思想の考察に関心をひろげる。同時に、これまで農村の歴史が中心であったのに対し、都市の歴史の重要さを主張するようになる。近ごろは、戦後史についても考えている。東京外国語大学で日本史(日本事情)を教えるが、そこで社会史研究に接する。そのあと、日本女子大学で30年間、社会史を教えた。文学や映画を用いて、日本の近現代史を考える授業をおこなってきた。

主な著作

【テーマに即して】・『大正デモクラシー』(岩波新書、2007年)・『増補「戦争経験」の戦後史』(岩波現代文庫、2020年)

【戦後日本史として】・『戦後史入門』(河出文庫、2015年)・『「戦後」はいかに語られるか』(河出ブックス、2016年)

【通史として】・『近現代日本史との対話』【幕末・維新―戦前編】【戦中・戦後―現在編】(集英社新書、2019年)

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