論壇

関東大震災朝鮮人・中国人虐殺100年

「官製ヘイト」認めぬ国――地域に根差した地道な追悼・真相究明の
取り組み

「新聞うずみ火」記者 栗原 佳子

1923年9月の関東大震災時、多数の朝鮮人、中国人が虐殺された。100年の節目となるこの夏は、史実を明らかにし、犠牲者を追悼する取り組みが、首都圏を中心に各地で行われている。フィールドワークも数多く企画され、筆者も、そうした機会に学びながら、月刊の「新聞うずみ火」で記事を書いている。100年前、何があったのか。東京から避難者が流入した地方でも虐殺は起きた。千葉、埼玉の現場を歩いた体験を振り返りたい。

県通達がデマにお墨付き

「朝鮮人が放火した」「井戸に毒を入れた」などの流言は、地震で甚大な被害があった東京や神奈川だけでなく、避難者が流入した近県にも広がり、埼玉県では200人以上の朝鮮人が殺された。7月半ばの猛暑日、さいたま市郊外の見沼区で行われたフィールドワークは、犠牲者の一人、24歳の青年、姜大興(カン・デフン)さんがたどった4㌔あまりを歩くという試みだった。

埼玉県に避難者が流入したのは2日未明からで、3、4日にかけてピークを迎えた。2日からは徐々に鉄道網も復旧。警察は避難してきたりした朝鮮人を県南部で「保護・検束」し、3日夜から県外への移送をはじめた。徒歩で中山道を北上する集団に姜さんもいて、現在のJR北浦和駅付近で岩槻への道に逃げ、集落に迷い込んだとみられている。

元高校の社会科教諭で、埼玉での真相調査を続けてきた関原正裕さん(70)=日朝協会埼玉県連合会長=の案内で、土手や田んぼのあぜ道、バス通りなどを行く。姜さんが自警団と遭遇した詰所は、100年前の面影を残していた。合図の猟銃、半鐘。姜さんは武装した男たちに追われ、逃げ込んだイモ畑でツルや溝に足をとられた。倒れたところを日本刀や槍で切り付けられた。夜が明け、息があることを知った住民たちが戸板に乗せ病院に運ぼうとしたが、途中で息絶えた。全身に二十数カ所の傷があったという。

姜大興さんの墓の前で説明する関原正裕さん。手前の碑は日韓W杯に際し、当時の住職が友好を願い建立したという=7月17日、さいたま市

近くの常泉寺には姜さんの墓がある。正面に「朝鮮人姜大興墓」、側面に「空朝露如幻禅定門位」の戒名と「染谷一般」と施主名が刻まれている。染谷はこの地域の名称である。「関東大震災の年に建てられたようです。この事件は、当時の片柳村という地名から『片柳事件』とも呼ばれています。犠牲者の名前がわかり、墓があり、殺害時の状況もある程度判明している稀有な例です。病院に運んだ例も聞いたことがありません」と関原さんがいう。墓は当時の区長、高橋吉三郎さんの子や孫が代々、守ってきたという。

関原さんらは100年の今年、「姜大興さんの想いを刻み未来に生かす集い実行委員会」を結成、学習会や朗読劇など様々なイベントを重ねている。フィールドワークもその一環だ。今年の9月4日、姜さんの命日には、実行委員会として事件を伝える銘板を墓の傍らに設置、遺族を招く準備も進めている。孫や甥が存命だという。10年前、韓国大使館の倉庫から犠牲者の名簿が見つかり、そこに姜さんの名前があることが判明し、韓国の遺族にたどりついた。姜さんは故郷に身重の妻がいたこともわかった。帰らぬ姜さんのため、墓がつくられたという。日本政府は遺族に通知するどころか、犠牲者の調査すらしていない。

埼玉県では、地震発生翌日の2日、県内務部長が「不逞鮮人暴動に関する件」の通達を県下1市9郡に発出。「東京に於て不逞鮮人の盲動あり」などとして、「町村当局者は、在郷軍人分会、消防隊、青年団等と一致協力して警戒に任じ」「一朝有事の場合には、速かに適当の方策を講ずるよう」促した。片柳村でも県通達を受け、3日に各区で自警団が作られた。染谷でも同日夜、区長の高橋さんの家の前に、日本刀や槍を携えた自警団が集合、初めての夜警に赴いた。姜さんはそこに鉢合わせしてしまった。

「県内務部長名で発せられた通達がデマに信ぴょう性を与えました。埼玉に大量の避難民が入ってくるのは3日からで、避難民からの流言よりも、通達のほうが早く、流言の一報だった可能性もあります」と関原さんは説明する。

しかし責任は一切問われなかった。当時の東京日日新聞が、県内務部長のこんな発言を伝えている。「僕と警察部長と相談の上だしたものであるが、アレがさほど自警団に刺激を与えたものとは思っていない。平地に波瀾を起こしたものならともかく、アノ当時の状態としてアレだけのことに気づいたのは、むしろよいことをしたと思っている位で、アノことについて責任を免れようとする気はない」(『かくされていた歴史ー関東大震災と埼玉の朝鮮人虐殺事件』より)

一方、姜さんが息を引き取った朝、2人が警察に出頭した。恩賞がもらえると思い名乗りを上げたのだ。この事件では5人が検挙され、3人が懲役2年、2人が懲役1年6カ月の判決を受けた。全員執行猶予が付き、翌年には恩赦が適用されたという。

在郷軍人が「不逞」扇動

5月下旬には埼玉県北部の寄居町でフィールドワークに参加した。虐殺の現場を歩くという「ヒロシマ講座(竹内良男さん主宰)」の連続企画で、同じく関原さんが案内役だった。

寄居駅からほど近い正樹院に具學永(ク・ハギョン)さんの墓がある。28歳。亡くなったのは大正十二年九月六日。「感天愁雨信士」の戒名も刻まれていた。

具さんは飴売りの青年だった。約2年前から寺の横の安宿に寝起きして朝鮮飴をつくり、売り歩いていたという。「寄居の町民で知らないものはいなかった。善良な人物として知られていたそうです」と関原さん。

その彼がなぜ殺されたのか。

県北部では4日、大規模な虐殺事件が相次いで発生した。移送中の人々が襲われたのだ。移送は駅伝のように村々の自警団が引き継ぐかたちで行われた。そんな中、熊谷町(現熊谷市)、本庄町(現本庄市)、神保原村(現上里町)では自警団や群衆が暴徒と化し、200人あまりが殺された。こうした状況が耳に入ったのだろうか、具さんは5日昼ごろ、寄居警察署に自ら「保護」を求めた。

寄居でも自警団は組織されたが、当時、町に殺気立った様子はなかった。具さんは「ただ厄介になるだけでは申し訳ない」と署内で草むしりをしていたという。

しかし翌6日未明、武装した百人超が警察署を取り囲む事態になった。署長の説得も聞かず建物を破壊、具さんを引きずり出した。隣村の自警団だった。必死に留置場に逃げ戻った具さんは、ポスターの裏に自分の血で「罰 日本 罪無」と書いた。そこを再び引きずりだされた。全身の傷は62カ所にも及んだという。

遺体はあんま師の宮澤菊次郎さんが引き取り、葬った。墓の側面には施主として宮澤さんらの名前。具さんの出身地は「朝鮮慶南蔚山郡廂面山田里」と字名まで刻んである。『九月、東京の路上で』(ころから)で著者の加藤直樹さんは「ある隣人の死」として具さんと宮澤さんらの交流に想いを馳せ、戒名の「雨」に「飴」を重ねていた。

具さん、姜さん。墓があり、名前が刻まれているのは、6000人以上といわれる朝鮮人の虐殺犠牲者のうち、ほかには群馬県の藤岡事件、成道寺の17人の例があるだけだ。

なぜ、具さんを襲ったのが隣村の自警団だったのか。5日夜、怪しい男を捕まえたが、実は神保原村の事件現場を逃れてきた警官だとわかった。その時、「隣村に本物の朝鮮人がいる。殺してしまえ」と演説であおったのが一人の在郷軍人だったという。この事件では13人が起訴された。この在郷軍人(懲役3年)ら3人が実刑判決を受けたが、恩赦となった。

自警団による虐殺事件の多くを主導したのは在郷軍人だった。『かくされていた歴史』は「朝鮮駐屯地帰りの在郷軍人が幅をきかせている」と分析、事件に関わった元軍人らの証言も記録している。関原さんは、熊谷、本庄、神保原の事件で起訴された被告の2割~5割は在郷軍人で「植民地支配を強めるなか、彼らが所属した部隊が朝鮮に派兵され、虐殺や迫害に関与した可能性がある」という。シベリア出兵、3・1独立運動、『間島』での虐殺。植民地支配に抵抗する人たちを「不逞鮮人」と敵視する空気は、兵役帰りの男たちを介し地域に伝播、新聞も「不逞鮮人」をことさらに書き立てた。その延長上に関東大震災が起きた。

船橋から全国にデマ発信

政府は2日には東京市に戒厳令を発令、3日に東京府、神奈川県、4日には埼玉県、千葉県へと拡大した。軍隊の警戒下に置くという戒厳令を主導したのは内務大臣の水野廉太郎と警視総監の赤池濃。2人は3・1独立運動直後に朝鮮総督府に赴任し、水野は政務総監、赤池は警務局長として朝鮮人を弾圧した。

3日朝には内務省警保局長が全国の地方長官宛に〈東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。すでに東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に各地に於て充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし〉と通達した。

通達が発信されたのは千葉県船橋市にあった海軍の無線送信所「船橋海軍無線電信送信所」。6月半ば、この跡地を訪ねた。「千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会」の平形千恵子さん(82)が案内するフィールドワーク(ヒロシマ講座主催)で、船橋、習志野、八千代を回る1日コースの起点だ。「公式の電波をうそだと思うでしょうか」。平形さんが参加者に問いかける。無線塔があった場所には記念碑が建ち、碑文には「関東大震災の時には救援電波を出して多くの人を助けた」とあった。デマや虐殺事件の記述はなかった。

ここ船橋では3日から5日にかけて自警団による虐殺事件が多発。犠牲者は当時、北総鉄道建設工事に従事していた労働者で、平形さんは「各地の飯場に約150人の朝鮮人労働者がいて、私たちが調べた限りでは59人が殺されています」と説明する。このうち、鎌ヶ谷の飯場の38人は船橋駅近くの現在の天沼弁天池公園で虐殺された。鎌ヶ谷の自警団によって送信所へ連行されたが、海軍は引き受けず、船橋警察署へ向かわせた。その途中で地元の自警団に襲われたという。

その送信所では、「朝鮮人が攻めてくる」と脅え、習志野の騎兵連隊に出動を要請、地域の自警団にも武器を渡して周辺の警戒を命じた。自警団は近くで13人を手にかけた。後年、自警団員の一人が平形さんらの聞き取りに対し「朝鮮人は殺していい」と伝えられたことや「褒美をもらえると思ってやった」ことを証言している。

デマの発信地となった船橋海軍無線送信所跡で解説する平形千惠子さん=6月11日、千葉県船橋市

船橋で殺害された犠牲者の慰霊碑は市立馬込霊園にある。「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」。戦後間もない47年に在日本朝鮮人連盟の支部や朝鮮人有志が建立した。慰霊碑は元々、市内の火葬場にあったが、63年に移設されたという。移設が決まった際、まさかの事態が起きた。慰霊碑の下にあるはずの遺骨がなかったのだ。ある時、日本人の老人から「ここを掘れ」と教えられた場所を掘ると、約100体の遺骨が埋まっていた。隠蔽されていたのだ。「掘り返して火葬した。骨の始末がつかないのでやむなく周辺の田んぼに埋めた」ことを元警官が証言したこともわかった。「上司の指示」だったという。老人はこの作業に関わり、埋めた場所を地図に記し、仏壇に長く保管していた。

軍が朝鮮人を選別し「払い下げ」

軍関係施設の多さから軍郷とも呼ばれた習志野。戒厳令下、千葉の各地から軍隊が治安出動したが、特に習志野の陸軍騎兵連隊は朝鮮人虐殺、中国人労働者が虐殺された大島事件、労働組合員らが不法検束され殺された亀戸事件などにも関与した。軍が実行した事件の氷山の一角に過ぎないが、戒厳司令部が後に「警備のため兵器を使用せる事件」として公表した20例のうち半分までが騎兵連隊によるものだった。

その習志野には4日、「習志野支鮮人収容所」が開設され、「保護」名目で3000人以上の朝鮮人、中国人が移送、収容された。デマを広げた政府はこの頃、打ち消しに走りはじめる。3日に臨時震災救護事務局警備部の打ち合わせで「一般朝鮮人の保護に関する件」を決定。「容疑なきものは保護」「容疑あるものは警察または憲兵に引き渡し適当に処分」と朝鮮人選別の方針をとった。この収容所では、朝鮮語が堪能な憲兵をスパイとして入れ、「思想的に好ましくないもの」を選び、施設内で秘密裏に殺害。さらに町役場を通じ、周辺の自警団に「くれてやるから取りにこい」と殺害を命じた。

八千代市高津地区の「なぎの原」と呼ばれる空き地では、8日から9日にかけて6人の朝鮮人が殺された。平形さんは「地域でひっそりと供養していたのです。卒塔婆があり、こぶしの木が、遺体を埋めた場所の目印だと聞きました」と振り返る。平形さんらは83年からこの地域の住民と共同で追悼行事を実施。98年にはその目印の場所から遺骨が掘り起こされ、99年、近くの観音寺に寺と住民、実行委員会の共同で「朝鮮人犠牲者慰霊の碑」を建立、遺骨を安置した。85年には韓国から「慰霊の鐘」と「普化鐘楼」が寺に送られた。

八千代市の大和田新田には「無縁仏の墓」(1972年)、萱田下の長福寺には「至心供養塔」(1983年)、萱田上の中大墓地には「無縁供養塔」(1995年)がある。「慰霊碑には、文字として刻んではいませんが、殺された朝鮮人を悼むために建てたのははっきりしています。殺された朝鮮人は4地区18人ですが、もっと多いはずです。軍は内部で口止めしたので、公的な記録は隠されたままです。住民に殺害させた側は一切処罰されませんでした。船橋の無線送信所でも、『ここを守れ』『武器を使ってもいい』と呼び出された側は処罰され、送信所関係者は一人も処罰されませんでした。そういう一つひとつをつなぎあわせると、この問題の本質が見えてくるのではないでしょうか」

平形さんらは毎年9月9日に行う追悼式には4か所の慰霊碑を全てまわり追悼している。70年代、中学校の郷土史クラブが聞き取りしたことが、地域の人々に徐々に重い口を開かせるきっかけにもなったという。千葉では市川、浦安などでも虐殺事件が発生した。県全体で三百数十人の朝鮮人が犠牲になったとみられている。

「言葉が違う」よそ者蔑視で凶行

地方出身者も「言葉が違う」などの理由で標的になった。千葉県では香川の薬行商人15人のうち9人が福田村(現・野田市)で自警団に虐殺された福田村事件、検見川(千葉市花見川区)で沖縄、三重、秋田出身の3人が虐殺された検見川事件などが起きている。

昨年、「関東大震災 千葉県『検見 川事件』」と題して一冊にまとめた島袋和幸さん(74 )=葛飾区=によると、3人は秋田県横手町(現横手市)出身の藤井金蔵さん(22)、三重県河芸郡出身の真弓次郎さん(21)、沖縄県中城郡出身の儀間次郎さん(22)。新聞によって名前や年齢などが若干異なるが、出稼ぎの労働者だったとみられる。

3人は5日午後、京成線検見川停留所近くで風体や言葉が怪しいと疑われ、自警団に拘束された。「日本人だ」と弁明したが聞き入れられず、針金で後ろ手に縛られ、200~300人に膨れ上がった群衆が取り巻くなか、殴られたり、罵声を浴びせられたりしながら花見川にかかる橋の脇の派出所に引っ立てられた。巡査は3人が所有していた警視庁の身元証明書をかざし群衆を説得したが、いきり立つ人々は逆に「朝鮮人に味方」する「ニセ巡査」呼ばわりし、派出所の戸を破り、3人を橋の上に引きずり出し、日本刀や鳶口などで殺害。遺体を川に突き落とした。「20㌔余り命からがら避難してきて、たまたま同じ頃、検見川にさしかかった3人。顔までぐちゃぐちゃにされ、海の藻屑です」。

現場となった派出所の跡地で、当時の状況を説明する島袋和幸さん=3月10日、千葉市

島袋さんの案内で3月半ば、検見川周辺を歩いた。駅から住宅に囲まれた狭いロータリーから路地、さらにかつての千葉街道へ。徒歩数分で現場だ。戦後の付け替え工事で元の川筋はサイクリングロードに変わっていたが、町の区画は当時とあまり変わらないという。自警団が詰めていた一角もあった。

一人は警察に呼ばれ、『忘れた』で通し、現場を取り巻いた群衆も口をつぐんだ。10人が逮捕され、最大懲役3年の判決が確定した。が、やはり恩赦になった。被害者の一人、真弓さんの父親は慰謝料請求の裁判を起こしたという。だが、23年11月28日付の地方版のベタ記事を最後に、島袋さんがいくら探しても、事件関連の記事は見当たらなかった。事件そのものが闇に消えたかのように。島袋さんは3人の郷里も訪ね手がかりを探した。「故郷に墓石があればせめて花を手向け『あなたたちを忘れない』と伝えたい。人災でもあった震災の歴史を直視することにつながると思うから」。沖縄の儀間さんの場合は、出身地と報じられた村が実在しないうえ、沖縄戦で住民基本台帳も失われている。3人の命日にあたる今年の9月5日も1人、現地で追悼をするという。

沖縄県北部の伊江島出身の島袋さんは個人誌「沖縄の軌跡」を発行、東京や近郊での同郷の人々の足跡を取材してきた。震災時の地方出身者の受難は80年代に知ったという。同じ沖縄出身で震災当時、改造社の編集者だった比嘉春潮も自伝で、自警団に「言葉が違う」とすごまれ襲われる寸前だった経験を記した。「沖縄人という地方人を『よそ者蔑視』した雰囲気です。こうした中で『日本人虐殺』も横行したのです。当時の新聞や多くの震災記録に目を通すと『一等国民』の日本人のよそ者蔑視や排外主義が垣間見えます」と島袋さん。

新聞や文献を長年精査し、「日本人の犠牲者は少なくとも数百人。重傷者も含めれば1000人近い」と推計している。ろうあ者などの障害者の受難の調査を進めているという。

100年をどう迎えるか

在野で一人、コツコツ調査を続けてきた島袋さん。複雑な記憶を抱える地域と信頼関係を結び、半世紀近く追悼と真相究明を続けてきた千葉の平形さんら。一人の青年の理不尽な死の意味を地域の人たちと共有しながら、未来につなげようと模索する埼玉の関原さんたち。地域に根差した活動の一端に触れながら、意図的に隠されてきた史実が市民の手で掘り起こされてきたことを教えられる。荒川河川敷で、虐殺された朝鮮人の遺体の発掘、供養に取り組んできた西崎雅夫さんら東京の市民グループ「ほうせんか」もそうだ。今年の慰霊祭は若い世代たちが追悼式の主体となるという。

朝鮮人犠牲者の半数が集中したのが横浜だった。しかし司法省の発表ではゼロ。山本すみ子さんらの「関東大震災時朝鮮人虐殺の事実を知り追悼する神奈川実行委員会」が2013年に結成された当時、虐殺の史料は出尽くしたといわれていたが、調べるうちに軍隊が虐殺したという資料が見つかった。「証言からも警察が流言を公認し、自警団を組織し、虐殺に導いた構図がわかってきた」という。

朝鮮人犠牲者のほとんどは名前も年齢も出身地もわかっていない。犠牲者や家族の尊厳はどうしたら回復されるのか。2003年、虐殺を目撃した在日朝鮮人の人権救済申し立てを受け、日弁連は、国の責任を認め謝罪すること、虐殺の全貌と真相を調査し原因を明らかにすることを政府に勧告したが、政府は無視したままだ。今年5月の国会質疑でも取り上げられたが、政府は「さらなる調査は考えていない」などと答弁した。軍隊など国家がかかわった虐殺は不問に付され、政府はいまも公式には虐殺の事実を認めていない。

小池百合子都知事は追悼文送付を拒否し続け、虐殺の否定論まで公然と語られる。100年前と重なる構図。フィールドワークで一緒に歩いた在日コリアンの参加者たちが、子ども時代に虐殺事件を学んだ際、「自分たちは殺されるのかと思った」と漏らした一言は重く響いた。中国人犠牲者の追悼と真相究明を担ってきた神戸在住の在日中国人2世の林伯耀さん(84)は嫌中、中国脅威論が語られるいまの空気を憂え、「自分たちは仮想敵性外国人ではないかと不安になる」と吐露した。戦時中、神戸では華僑の呉服商13人がスパイ容疑をねつ造され特高に捕まり、林さんの親戚の夫や義弟ら6人が拷問で命を落とした。関東大震災で林さんの両親は東京で震災に遭い、自警団の恐ろしさを語っていたという。

事実はなぜいまも隠蔽されているのか。なぜ国は事実を認め謝罪もしないのか。殺した側のマジョリティの側こそが問われていると思う。個人的な話だが、筆者の実家は埼玉県境に近い群馬県伊勢崎市で、本庄事件の現場とは約5㌔の近距離にある。神保原、熊谷、群馬の藤岡なども生活圏内だ。また、母方の祖母は13歳の時に東京の小岩で震災に遭った。再現してくれた「朝鮮人が来るぞー」という叫び声はいまも耳に残っているが、それ以上のことがわからない。生前、なぜ詳しく聞かなかったのか悔やんでいる。最近、「ほうせんか」の西崎さんらが編んだ各地の記録集を読みながら、がく然とさせられたことがあった。祖母の父、曾祖父はどこで何をしていたのだろうかという疑問に思い至ったからだ。100年前の大虐殺と自分。現場を歩き続けなければと思っている。

新聞うずみ火 2005年10月創刊。14年、第20回平和・協同ジャーナリスト基金賞(奨励賞)受賞。20年、第3回「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」大賞受賞。1部300円。年間購読料は300円×12カ月分で3600円。書店では販売しておらず、「ゆうメール」で送付している。ご購読希望の方は新聞うずみ火(電話 06・6375・5561、FAX 06・6292・8821 Email:uzumibi@lake.ocn.ne.jp ホームページはこちら) へ。

くりはら・けいこ

群馬の地方紙『上毛新聞』、元黒田ジャーナルを経て新聞うずみ火記者。単身乗り込んだ大阪で戦後補償問題の取材に明け暮れ、通天閣での「戦争展」に韓国から元「慰安婦」を招請。右翼からの攻撃も予想されたが、「僕が守ってやるからやりたいことをやれ」という黒田さんの一言が支えに。酒好き、沖縄好きも黒田さん譲り。著書として、『狙われた「集団自決」大江岩波裁判と住民の証言』(社会評論社)、共著として『震災と人間』『みんなの命 輝くために』など。

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