特集 ● 内外混迷 我らが問われる

維新は、どこへ向かうのか?

「第二自民党でよい」(馬場発言)で馬脚か、真意と狙い

元大阪市立大学特任准教授 水野 博達

日本維新の会は、次期選挙で、立憲民主党を超えて「野党第一党」を目指すことを宣言し、選挙準備を加速させている。維新の主張と動向は、日本の政治に何をもたらすか、その意味は何か。 この問題をなるべく広い視点から検討することで、「維新は、どこへ向かうのか」を明らかにしたい。

秋の総選挙、新たな政党再編の始まり

衆議院の解散・総選挙は、今秋10月にも予想される。この国民的審判にどう臨むかが、問われている。ところが、日本の、世界の将来に向けて、各政党がどのような向き合い方をするのか、肝心の問題は、いっこうに明らかになっていない。選挙戦での政党間の支持・推薦関係、あるいは競争・対立関係だけがマスコミを賑わせているのが現状である。

自公連立政権において、東京での自・公の選挙協力の停止、連合の共産の排除の圧力による小選挙区での野党候補一本化の環境が崩れ、立憲と国民の対立、関西6選挙区で公明党候補へ維新が候補者擁立と、従来の選挙の協力関係が各所で揺らいでいる。この揺らぎは、一時的ものではなく、今後の政党間の関係を方向付ける契機となる可能性が大きい。つまり、新しい政党再編の始まりと見ることができる。

これらの動きを見れば、それぞれの組織の存立根拠に関わる自意識が強く表出した結果で、一時的ものではない。今後の政党間の関係を規定することは間違いがないであろう。

しかし、問題は、これらの政党・組織の主張が、いかなる社会、政治を産み出すための政策に裏打ちされているかが、見えづらい。つまり、外に向かって主張する政治内容が希薄で、内省的な議論から生まれた積年の思いの表出のようにも見えるのである。

さらに言えば、今日進行している世界の変貌が、大きな歴史的な転換の様相を呈しており、その産み出す結果はきわめて深刻で、その解決の道筋を描くことは、従来の政治の枠組みを超えていることにも起因している。言葉を変えて言えば、従来の国民の政治選好、文化・歴史・思想を含めた国民意識の変革を求めるような改革の戦略・計画が要求されている。にもかかわらず、そのような歴史的課題に取り組む構えは、今日の自公政権にはなく、維新の政治にも見えない。

先が見えない「ポスト資本主義」の時代

今から、40年前を思い出してみよう。自民党政権で、電電公社、国鉄の分割民営化の中曽根と、「自民党をぶっ壊す」といって郵政民営化を図った小泉が突出しているが、総じて日本の新自由主義的な経済・政治・社会の再編は、欧米に比較して緩やかで、非効率や非合理な社会環境(例:韓国やアジアに対する蔑視、古い家族観、女性・性的少数者への差別)が広く残存した。とりわけ、公的権力の近くに保守的で非合理な既得権益が温存され、経済・産業の改革・革新も進まず、「停滞の30年」と語られてきた。

このように日本の自民党による保守政治が、世界の動向から取り残され経済・社会発展の停滞が続いたことが、政治改革と新党乱立を産み、一時期の「ニューパブリックマネジメント」「コンクリートから人へ」を掲げた民主党の躍進と政権樹立をもたらしたのである。

筆者は、かつてと同様、今日の政治的変動の土台には、世界的な時代の変貌があると見る。

資本主義の行き詰まりは、産業革命以来の生産・消費の在り方の危機にも現れている。化石燃料による地球温暖化/先進国における人口減少、第3世界の人口急増と食料危機。全世界的な開発と都市化による自然と人間の接近による新種の感染症の流行。そして、IT技術の発展と連動した「労働の二極化」(所謂「ブルシット・ジョブとエッセンシャルワーク」)。個人の自立が、今や孤立した個人・個人責任論へ等々。

そして、追いかけるように、ロシアのウクライナへの侵攻によって、国際平和の秩序が軍事力への依存へと移り、米欧日とロシア・中国を軸にした対立へと世界の分断が進んでいる。   

こうして、人々が生きていく目標や価値を実感できず、未来への希望や期待を感じることができない社会が到来している。「ポスト資本主義」の到来である。

しかし同時に、経済成長の時代の夢と残像がどこかに残っている。現に豊で幸福そうな生活をしている人がおり、日々、マスコミやNSNなどで、晴れがましい画像が流れ、手が届きそうな楽しい旅行、スポーツ、趣味・娯楽や美味しい食べ物やスイーツが大量に流される。広がる貧困と孤立の状況は、社会的排除によって見えなくされている。

モノや情報が大量にあふれているが、それには届かない。「ルサンチマン(恨みつらみ)」がタワマンションの住人までに広がる。俺は、こんなに頑張って仕事もしているのに、楽をして豊かな生活を享受している奴らがそこにいる。『親ガチャ』でカスを食らったらあきらめるしかない・・・。いたるところに「ルサンチマン」が充満しているのが現代社会である。

自民党は、本当にこれからも強いのか?

ところで、自民党は、他の政党と比して、政権政党として強いと言われてきた。一面は、政権を維持するための政策立案と政権運営能力の保持である。長い政権政党として、中央官僚や各種団体出身の政策立案に力のある人材を議員や政党本部に集めることができてきた。これは、他党には真似ができない。また、他の一面として、地方議会の議員と後援会などに分厚い地域の草の根的な保守勢力を持っている。これは、中央・地方を貫く政治の復元力と安定性を担保してきた。そのため、野党が一時期勢力をふるっても、民主党がそうであったように、政策面での統一性や整合性が確保できず、対立と分裂が起こり、持続的に政権を維持することが困難になる。結果として、自民党が政権に返り咲くことになる。

こうした自民党のこれまでの強さから、自民党は、自民党に対立する政治勢力を分裂させたり、取り込んだりして政治の中心に位置し続け、「一強多弱」の時代が今後も続くと論評する者もいる。

しかし先に見たように、時代の転換が、大きな歴史的な転換の性格を持ち、その産み出す結果は政治的にも、社会的にもきわめて深刻なものであるので、従来の政治の枠組みからでは、その解決の道筋を描くことができない。つまり、従来通りの政策立案能力は通用せず、先の未来が見通せないことによる人々の不安や要求を自民党の政策に取り込むことができなくなっている。

また、時代の変化の中で、地域の保守的岩盤は、徐々に衰え、とりわけ、都市においてはその傾向が急であった。これを補完するものこそ、小選挙区毎に、2万から1万5千票の基礎票を持つと言われる公明党との連立であった。そして、「旧統一教会」との繋がりである。

自公連立政権において、公明党は自民党政治の補完勢力であったが、政党として自民党に取り込まれていた訳ではない。彼らの政党の独立した施策に基づいて、自民党との関係を結んで来た。今回、東京都において、公明党が自民党の支持・推薦を取りやめて選挙を闘うことの意味は、彼らの独自性を証明するものでもある。と同時に、自民党の政権政党としての統率力・包摂力が、時代の転換の中で、揺らいでいることも示している。

日本維新の会は、第二自民党でもよい!?

日本維新の会は、次回衆議院選で立憲民主党にかわって野党第一党の座を獲得し、5~10年かけて政権を狙う党への発展を展望している。今年の統一地方選挙での躍進の勢いを嘗て、これまで候補者を立てていなかった選挙区にもできる限り候補を立てるという。彼らは、当面、選挙における他党との協力は考えず、独力で政党の強化・拡大を目指す方針を明確にした。

そこで、「第2自民党でもよい」と、馬場伸幸・日本維新の会の代表が述べ、各方面から冷笑を浴びている。しかし、この発言は、維新の当面の成長戦略をわかりやすく表現している。

自民党と公明党の間の隙間風を見こして、軍備増強や改憲に向け自民党の動きに協力し、他方、維新の目玉政策の関西万博やカジノへの協力を自民党から取り付けるという自民党との親密な関係を築こうとしているのである。その限りで、「第2自民党でもよい」のである。それは、公明党に替わって、自民党との政権連携(連立か、部分連立か、閣外協力か等連携の選択の幅は大きいが)を図ることであり、5~10年かけて政権を狙う党への成長を実現する道筋である。公明党の党是のベースには、平和や福祉の重視がある。維新にとっては、それは気に入らないことであり、彼らが求める『改革』の立場からすれば、打倒の対象である。今秋の総選挙は、維新の会の本音が爆発的示されることになるであろう。

「身を切る改革」と維新のブランド

統一地方選における維新の勢力拡大は、大阪以外でも維新の「改革」姿勢への好感が力となっている。曰く「身を切る改革」である。

この「身を切る改革」の実態について正しく人々が知っていたかと言えば、それは、大いに疑問である。むしろ時代の閉塞感が、実態の不明な「身を切る改革」に期待を寄せたともいえる。時代の閉塞感を強く感じているのは、必ずしも貧困層ではない。この層の多くは、もはや、政治に関心をもたない。先に述べた述べた既得権益を享受していると思われる者へのルサンチマンを抱く層であるといえる。30歳代から50歳代の所得中間層が、維新に最も親和的である。例えば、藤田文武・日本維新の会幹事長に象徴されるようなベンチャービジネスに関わる層から、維新は人材を補給してもいる。

松井一郎が政界を引退し、大阪維新の会は、吉村府知事が代表となり、若い第二世代が執行部を担うことになった。(幹事長:横山英幸・39歳、政調会長:守島正・39歳、総務会長:岡崎太・53歳)この若返りと組織運営のエネルギーは、他党を圧倒しているように見える。

比喩的に言えば、自民党は、オジンの政党で、維新は、少しヤンチャな兄ちゃん(ネイちゃん)の政党である。官僚や地域の名士などから議員の人材を補給している自民党は、若者、女性が少なく、政治的意識も含めて「オジンの政党」と見なされることになる。

他方、新興の政治勢力、維新の会は、もちろん、官僚や地域の名士などから人材を求めることができない。政治塾や公募にとって、政治家志望の人材を獲得しようとしてきた。とにかく「政治家になりたい」という意思を持つ人材は、政治経験や社会経験に乏しい。しがらみがないという利点があるが、しかし、問題も多い。

議員になる「テスト」に応募することは、合格することを目指して就職試験を受けることとの差異はほとんどない。つまり、政治家・議員。なって,何をしたいかではなく、議員になること自体が目的となっているものが多い。(必ず維新である必要もない。議員になれるなら、立憲でも自民でもいいのだ)政治的信念が希薄であるから、不祥事を起こす所属議員が続出することになる。

維新は、当面、個々の議員の政治的能力を大切にして党の成長を図ることを考えてはいない。議員と秘書団の「軍団的力」で、あたかも「改革政党」を演じることによって党勢の伸長を考えている。すなわち各候補者に「維新ブランド」のイメージを背負わせ、選挙を闘い抜けようとしている。人材養成・育成は、選挙の事後処置となる。問題議員は、素早く処分して、組織を守ることになる。

しかし、このような「維新ブランド」のイメージ選挙がいつまで通用するか。秋の総選挙は、そのことを問う機会となるであろう。

選択と集中がもたらす維新の行く末

今日進行している世界の変貌が、大きな歴史的な転換の様相を呈しており、その産み出す結果はきわめて深刻であることは、すでに述べた。政党である限り、この社会の変貌にどう立ち向かうかを全く問われないで政治を執り行うことはできない。維新の統一地方選挙では、身を切る改革と子育て支援が判りやすい施策の二本柱であり、「成長を止めるな」が副首都構想の説明になっていた。

今日、大規模開発が困難になり始めており、過剰資本・過剰生産を解決/解消する道はそう多くはない。しいて言えば、以下のようなことがあげられる。

・「イベント資本主義」による需要喚起である。維新が進める大阪・関西万博やカジノ・IRの実施がこれである。巨大イベントだけでなく、中小の地域的イベントやフェアー、あるいは、お祭り、スポーツ大会等々がある。

イタリア・ローマの「コロセオ」でローマ市民に饗宴と快楽を与えた皇帝が賞賛され、征服地から集めた富がローマで消費された。この享楽文化と政治がローマの衰退につながったとも言われる政治手法である。

・戦争による軍需生産と物資と人(兵士・労働力)の国家への集中。また、占領地の獲得と戦争による破壊で「新しい市場」の形成である。これは、アメリカが戦後、繰り返し行ってきたことであり、現在の対ロシア戦争もこれである。

・大規模災害の期待である。

これらの過剰資本・過剰生産の解決方法は、カンフル剤としてしか作用せず、今日の「ポスト資本主義」の時代の先を見出すことはできない。 

また、これらのカンフル剤の注入についても、国家財源の限界を超えて実施できない。だから、「選択と集中」という政策展開がどうしても求められる。この選択と集中を実現する政治とは、「独裁的政治=決められる政治」である。この「選択と集中」は、施策の多様性を排除し、反対派や熟議を嫌う。敵か味方かの2分法による政治的対立を演出したり、事実の捻じ曲げや隠蔽が横行したりする。

「おいおい、それは、維新政治ではないか?」 そう、その通り!なのだ。

独裁的に集中したい政策を実現するためには、政権(政党)への民衆の大きな支持を集めることが必要である。そのためは、民衆意識(『民意』)の所在をつかむことが常に求められる。これまでの維新政治の特徴は、大阪の民衆の「ルサンチマン」を組織し、煽る手法であった。

・首都圏に遅れた大阪の経済を立て直すという「経済成長神話」を語ること。(「副都心構想」)

・社会的正義より現世主義、=カジノによる「経済効果」(博打のあぶく銭を都市運営の財源!)

・将来の財源や予算の限度を無視した「現金バラマキ」施策=異次元の子育て政策。

要するに、維新政治は、「わが亡き後に洪水よ来たれ」である。オジン政党・自民党保守政権もそこは同じであるが、これまでの政党の成り立ち(「国民政党」として多様な階層の利害を組織)から、極端な「選択と集中」は馴染まなかった。

カジノ、大阪・関西万博の混迷と維新の末路

さて、維新は、先の統一地方選で、カジノ・IR、関西万博が争点になることを避け、「身を切る改革」を前面に押し出して勝利した。

しかし、再び、カジノ、万博の問題が浮上している。2025年4月に開催が予定される万博のパビリオンなど開催に不可欠な施設の建設が全く進んでないのだ。

大阪・関西万博には、153の国・地域が参加を表明し、約50の国・地域が自ら建設費を負担してパビリオンを建設することになっている。遅くとも、2023年末には着工していなければ、2025年4月開催に間に合わない。

ところが、メイン会場の万博日本館も入札不成立が続き、随時契約により、設計と工費の見直しを強いられている。さらに、約50の国・地域のパビリオン建設では、7月中旬段階でも、どこからも建設の申請が上がっていない。建設資材の高騰や人手不足による工費の高止まりが、申請を押しとどめていると見られている。万博協会は、パビリオン建設の「肩代わり」も提案し、8月末までに問題の解決を図りたいとしている。

しかし、建設費の高騰だけの問題ではなく、参加を表明してきた国・地域が、大阪・関西万博への参加意欲を失っているという根本的問題が、横たわっているようにも見える。世界の産業発展を集約してきた万国博覧会の歴的意味や意義が、新型コロナウイルスの流行もあって、万博がその歴史的使命と意味を失ってきたことが、その背景に潜んでいるとも言えそうである。万博の混迷は、同時に夢洲の隣で予定されるカジノ・IRの開業にも影響する。

維新の会が、関西財界だけでなく、全国の財界と結び付き、中央政界とも繋がって全国へと飛躍するステップピング・ボードとしての大阪・関西万博の行き詰まりと混迷は、維新の将来構想を大きく揺るがすことは明かだ。

10月に予測される総選挙の後に、カジノ、万博の問題がさらにはっきりと問題化させるであろう。

さて、「どうする維新?」

さて、在版マスコミ各社は、その道義的責任は問われないのか? 維新を支持し守って来た責任はないのか?

みずの・ひろみち

名古屋市出身。関西学院大学文学部退学。労組書記、団体職員、フリーランスのルポライター、部落解放同盟矢田支部書記などを経験。その後、社会福祉法人の設立にかかわり、特別養護老人ホームの施設長など福祉事業に従事。また、大阪市立大学大学院創造都市研究科を1期生として修了。2009年4月同大学院特任准教授。2019年3月退職。大阪の小規模福祉施設や中国南京市の高齢者福祉事業との連携・交流事業を推進。また、2012年に「橋下現象」研究会を仲間と立ち上げた。著書に『介護保険と階層化・格差化する高齢者─人は生きてきたようにしか死ねないのか』(明石書店)。

特集/内外混迷 我らが問われる

ページの
トップへ