論壇

生命倫理は高校でどう教えられているのか(上)

新科目「公共」教科書を読む

元河合塾講師 川本 和彦

私の父は数年前、施設で息をひきとった。晩年は認知症で、私のこともわからなくなっていた。見舞いに行くと「ああ、亡くなった島田さんの息子さんですねえ。お父さんによう似とらす」と言われたことがある。島田って誰だあ?!

医師からは、なるべく話を合わせるようにと言われていたため「生前、父がお世話になりました」などと返しながら、こういう場合インフォームド・コンセントとかリヴィング・ウィルとかいうものは、成立するのかと考えたものである。

「公共」教科書における生命倫理

「地理総合」「歴史総合」とともに高校の必修科目となった「公共」は、従来の倫理分野と政治・経済分野を網羅する内容となっている。倫理分野では思想・哲学が中心であるが、環境倫理や生命倫理といった現代の問題も取り上げられている。

科学技術の力で生命を操作するバイオテクノロジーが発達して、かつては「神聖不可侵」であった生命が、ある程度は操作できるようになった。これによって、生命に関する従来の考え方では解決できない問題が生まれている。これは医学の問題にとどまらず、哲学や宗教、法律などの視点を総動員して考えるべき問題であり、生命倫理の確立が必要となった。

すべての高校生が政治家や実業家になるわけではないが、誰しも有限の生命を生きている以上、そして生涯に何度かは病院へ行く以上、教科書で学ぶにふさわしいテーマである。

もっとも、唯一の正解が見えにくいテーマでもある。遺伝子組み換え技術によって農産物の増産は期待できるが、安全性や生態系への影響という懸念が残る。安楽死・尊厳死についても賛否があるだろう。その点は教科書も配慮しており、一方的な結論・断定を避けている。これは当然であり、両論併記で逃げているマスメディアと同列に論じることはできない。

とはいえ例外はある。いずれの教科書も、インフォームド・コンセントとリヴィング・ウィルについては何の疑問もはさまず、無条件に肯定・尊重すべきものとして扱っている。

この拙文は、そのことに対する疑念の表明である。インフォームド・コンセントやリヴィング・ウィルを否定したり無視したりするものではない。ただ現行教科書のままでは、悪い意味でバランスを欠くと思うのだ。

インフォームド・コンセントとは

インフォームド・コンセントには、適切な訳語が見当たらない。一時期、「納得診療」という訳語が充てられていたが、定着しないままに消えてしまった。

第一学習社の教科書は、こう説明する。

「現在では、医療の場面でも、患者の自己決定権を保障するために、患者に施術の内容を十分説明した上で同意をとるという仕組み(インフォームド・コンセント)が普及してきている」

ちなみにこの記載は倫理分野ではなく、政治・経済分野の基本的人権という項目で扱われている。

数研出版の教科書は、もう少し詳しい。

「従来の医学では、医師が一方的に、患者にとって最適と考える治療法を決定していた。こうしたパターナリズム(家父長的権威主義)を反省し、患者の自己決定権を重視するインフォームド・コンセント(「十分な説明に基づく合意」を意味している)が実践されるようになった」

こちらは倫理分野で扱われている。

いずれも語句の定義としては正しいが、不十分ではないだろうか。

インフォームド・コンセントが提唱された理由は、パターナリズムへの反省だけではない。歴史的な背景がある。

歴史的背景の説明が欠落

1945年11月から1946年10月まで、ナチスを裁いたニュールンベルク裁判が開廷された。人体実験を含むナチスの医学研究は、あまりにも倫理に反する、非道な犯行であった。

その衝撃から、世界医師会は1948年に「ジュネーブ宣言」を、1954年には「研究及び実験の原則」を、そして1964年には「ヘルシンキ宣言」を発表した。ヘルシンキ宣言では医学を進歩させるためには人体実験が必要だとしたうえで、被験者の利益・福祉を科学や社会に対する貢献よりも優先すべきであるとしている。これがインフォームド・コンセントの第一歩である。

日本でインフォームド・コンセントという考えの普及が欧米より遅れたのも、歴史的背景を抜きに語ることはできない。旧満洲で行われていた731部隊(石井部隊)の犯罪は、アメリカとの裏取引のため、極東軍事裁判で裁かれることがなかった。九州大学の捕虜生体解剖にしても、担当教授の自殺で幕引きとなってしまった。この無反省ぶりが、遅れの遠因である。

普及した理由

医学評論家の水野肇氏は、遅ればせながら日本でもインフォームド・コンセントが普及した理由として、医師らの声を以下のようにまとめている。

医事訴訟が頻発するようになった

医学情報が行き渡り、市民の医学知識が高まった

医師が威張っていられなくなり、患者と話し合わざるを得なくなった

一つの病気について、いくつもの治療が可能になった

医学が進歩したため、医療技術そのものが「諸刃の剣」となることが多くなった

患者の権利意識が強くなった

患者本位の医療が求められるようになった

すべての医師が、上述のように考えているわけではないだろう。だが、一部の医師は「面倒だなあ。でもまあ、時代の流れだから仕方ないか」という本音を持っていることは否定しがたい。患者の主体性を、全面的に尊重しているとは言えない部分がある。悪く言えば、「説明はしましたよ」というアリバイ作りだ。大規模開発工事前の公聴会にも似ている。

まあ、本音がどうであれ、患者の病状や治療方法、副作用、さらには費用まで説明してくれるのは患者にとって良いことだ。私も癌手術の経験がある。手術前に丁寧な説明をしてくれた医師に対して「医師として当然だろう」とは思わなかったし、純粋にありがたく感じたものである。

有効に機能しないケース

ところが根本的な問題がある。インフォームド・コンセントが有効に機能しないと思われるケースである。インフォームド・コンセントは万能ではない。

(1)患者との対話が困難・不可能な場合

意識不明の重体患者や乳幼児、認知症の高齢者、知的・精神障碍者の場合、患者が自分の意思を伝えることが困難もしくは不可能である。

もちろん法的には親権を持つ親の存在、あるいは成年後見人制度がある。だが親も後見人も、本人自身ではない。生命に関わる問題に、どこまで踏み込むことが許されるのか。法的には問題なくても、倫理上の疑問は残る。

判断力が残っているのに、患者自身がその判断力を誤作動させている場合もある。ある種の宗教的信念を持ち、「私の腫瘍は先祖の祟りです。でもこの壺を拝んでいれば腫瘍は消えます」という信念の前には、いかなる説明も無力であろう。

(2)患者が医療情報の開示や意思表示を放棄している場合

癌告知を望む人の割合について、2018年に日本ホスピス財団が調査をしている。少し前であるが、5年で劇的に変化したとは考えにくいので紹介しておこう。

・治る見込みがあってもなくても知りたい:62.9%

・治る見込みがあれば知りたい:11.2%

・治る見込みがあってもなくても知りたくない:7.9%

・わからない:18.0%

告知を望む人が多数であるが、望まない人もいる。ちなみに告知を望む人は男性より女性の方が多い。

「素人でわかりませんので、先生にすべてお任せします」と言う患者が多い、という話を複数の医師から聞いたことがある。「お任せします」が意思表示だと言えなくもないが、納得したうえでの治療とはどこか違う気がする。

(3)情報開示が不合理な結果をもたらす場合

「うそも方便」というのは、ある程度は真実ではないだろうか。医師と家族が話し合って、患者本人に真相を告げないまま、患者本人が心穏やかに旅立った例を具体的に知っている私としては、カントの道徳法則をいつでもどこでも適用すべきだとは考えられないのである。

医師と患者が、情報を共有することは大切である。だが、それができないこと、すべきではないこともあるのでは、という視点を持っておくことも重要だと思う。

リヴィング・ウィルとは

類似性を持つのが、リヴィング・ウィルだ。「生前の意思」と訳されることがある。「遺書」でもいいのだが、パソコンやスマホに遺された場合は文書と言えるかどうか微妙である。また遺産や葬儀のあり方よりも、終末医療の迎え方や脳死の判定などに限定していることが多いため、遺書という訳語はここでは使われない。臓器提供に関するドナーカードは、リヴィング・ウィルの一種とされる。

第一学習社の教科書には、こう記されている。

「自分にとって望ましい死のあり方を文書などで生前に意思表示するリヴィング・ウィルを用いて、過剰な延命治療を拒否する人もいる」

そもそも何をもって「過剰」というのかが問題であるが、それについては別の機会に述べたい。

この教科書を含め、リヴィング・ウィルに批判的な記述の教科書は存在しない。だがリヴィング・ウィルも、万能とは言い難い側面がある。

それに関して述べる前に疑問を一つ。教科書は人がリヴィング・ウィルを残していることを、当然のように書いている。だが、エンディング・ノートなどを記している人がどれだけいるのだろう。遺書を書く意思はあっても、その前に亡くなる人が相当多数存在する。リヴィング・ウィルが確認できないときに、家族はどこまで決定できるのか。家族がいない場合はどうするか。結論は出さずとも、教科書で一言触れるのが妥当と考える。

変わる意思、意思への影響

意思が不変とは限らない。元気なときに「延命装置なしでは生きていけない状態になったら、治療は中止して構わん」と考えていても、そういう状態になった場合、もし意識があれば「まだ殺さないでくれえ」と思うかもしれない。

私自身がそうなる予感がある。いやいや、予感というより鉄壁の自信がある。

フーコーの言う自発的隷従ではないが、自分で決断したと思っていることが、周囲の影響を受けていることも多い。映画「PLAN75」(早川千絵脚本・監督)では、75歳以上の高齢者が「自分の意思」で、安楽死を選ぶ制度が存在する近未来日本を描いている(倍賞千恵子さんが素敵です!)。空気が支配するこの国では、決して空想とは言えないものを感じた。

家族がいれば、「経済的に迷惑をかけたくない」と考える患者がいるだろう。

そうなると、所得や資産の多寡が選択に影響を与えることにもなる。

アドバンス・ケア・プランニング

何%が本人の意思で何%が周囲の影響なのか、数字で明確に示すことは不可能であろう。ならばいっそのこと、初めから周囲を意思決定に参加させる方法もある。

アドバンス・ケア・プランニング(ACP)は、その一つである。患者や家族が医師らと相談しながら、医療について意思決定していくプロセスだ。患者自身の価値観・死生観から信仰、信条、生きる目的などを家族や医師、看護師、介護士らと共有する。診断と治療の選択肢、予後の情報も共有して、治療を含む生活のあり方を共同で決めていく。プラン作成後も、相互のやりとりによって修正することができる。

おわかりのように、これには膨大な時間と人手が必要である。これを支える財源の確保も課題であるが、それは防衛費倍増計画をやめればいいだけの話ですよね。

本人の意思が、より強く周囲の影響を受ける懸念はもちろんある。だが影響が目に見える分だけ、本人の責任はむしろ軽くなるのではないだろうか。

ぜひ教科書に載せてもらいたい事項である。また、教科書になくても議論の対象とすることを、高校教員の皆様にはお願いしたい。

生命倫理で扱う内容は、多岐にわたっている。数研出版の教科書だけでも人工授精、体外受精、代理出産、着床前診断、遺伝子組み替え、クローン、ゲノム編集、脳死、SOL、QOL、ES細胞、iPS細胞、などが記載されている。東京書籍の教科書は、エンハンスメントを取り上げている。

これらについては、次号で述べたいと思う。

かわもと・かずひこ

1964年生まれ。日本経済新聞記者、河合塾公民科講師を経て現在、フリーランスで執筆、編集、校閲に携わる。著書に『理解しやすい公共』(文英堂)など。

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