論壇

「ストの時代」の痕跡を読む(上)

シリーズ⸺ちんどん屋・みどりやの「仕事帖」から

フリーランスちんどん屋・ライター 大場 ひろみ

朝も早よから待ち合わせ競争

昔、ちんどん屋の弟子だった時代、仕事先の待ち合わせは大体他のちんどん屋の親方やおかみさんなどと最寄りの駅で、だった。仕事に遅れたらクライアントから予め約束しただけのギャラをもらえないことを想定し、絶対遅刻は許されなかった。勿論早めに親方の家を出るのだが、いつでも待ち合わせ場所には、その日一緒に仕事をさせてもらうベテランの(つまり年配の)方が先に来て待っていて、遅いの何のとなじられるのが朝の挨拶代わりだった。

フリーになってから、何とか先に着こうと思うのだが、こちらが早いつもりでもいつでも彼らが先んじて、してやったりと待っている。一体いつから駅にいるんだよ、この人たち、あんな目立った格好で・・・とてもじゃないが勝てない。ある時1時間半前に着くようにして、よし!今度こそ、と思ったら、お面を被ったような分厚いメイクと演歌歌手みたいな派手な着流しのあやめさん(男性のいかつい親方)が「よお!」とニヤニヤして物陰から現れた。「若い衆」と呼ばれる弟子の世代で、先んじることが出来たのは多分A君という楽士だけだろう。彼はいつも2時間前には到着していた。

親方衆がやたら早く待ち合わせ場所に来るのは、勿論遅刻が許されないからだが、当時は携帯電話も無くてトラブルがあっても連絡出来ないし、乗換案内のような便利なアプリもない。あらゆるリスクを避けるにはとりあえず早め早めに行動するしかないのだ。とりわけ起こりがちなトラブルは、電車やその他の乗り物の遅延や停止だ。吹けば飛ぶような不安定な職業のちんどん屋には、乗り物のトラブルは致命傷になりかねない。そのためやたら早く駅に着く競争のような習慣が生まれたのだろう。

みどりやの「仕事帖」には、時々「スト」の記述がある。それで仕事にあぶれたり、現場に遅れたりして悔しい思いをしたのだろうなと想像していたら、昔はこんなに「スト」があったことを自分の経験としても思い出した。ストライキをするのは労働者の権利を守り行使するためだが、当時は子供だったのでそんな想像力は及ばなかった。では昔の、やはり働く人間だった他の大人たちと「スト」の関りはどんなだったろう。みどりやの記録に残った「スト」と新聞記事を照らし合わせて考えてみた。

1969年11月17日

と言っておきながら、いきなり「スト」でなくてごめんなさい。「仕事帖」の1969年11月17日の日付には、「佐藤総理訪米 学生反戦造反デモで仕事中止 雨」の記述がある。これは言うまでもなく戦後史上有名な事件の一つで、当時の佐藤栄作首相は沖縄返還交渉の仕上げと70年の日米安保条約延長について当時のニクソン大統領と話し合うため、17日渡米する予定だったのを阻止しようと、16日羽田空港につながる蒲田や品川などに学生や労働者が集結し行った一連の抗議行動を指す。17日の朝日新聞朝刊によると、代々木公園には公労協、公務員共闘会議、民間労組などの組合員や学生7万人が抗議集会、全国では210か所、72万人が参加。「べ平連」は日比谷公園に1万5千人が集まった(数字はいずれも主催者調べ)。午後3時過ぎから一部が実力行使に出て、蒲田、品川、池上駅付近で4か所バリケードが築かれ、新宿でも警官隊と応酬、東京では10か所で火炎ビンが投げられ、2か所の警察署(蔵前、品川)が襲撃され、東京駅では学生ら約5百人がホームから飛び降り、山手線外回りの電車などが一時ストップした。

翌17日は大雨。朝早くから機動隊による残党狩りが始まる。羽田空港では国内発着便がすべて止まり、機動隊員ら3千人で警戒、蒲田、羽田方向への道路は百m間隔で機動隊の車が2,3台ずつ待機。佐藤首相は朝食にモチを二切れほおばった後、首相官邸から自衛隊のヘリで空港まで移動、何事もなく10時4分アメリカへ飛び立った。その頃蒲田では素手の50人ほどの学生らが機動隊に暴力を振るわれ、腹をけられて泣き出した女子学生を近所の主婦らが救出した(17日夕刊)。この一連の行動での東京での逮捕者は1640人(17日朝刊)。17日までの全国逮捕者は2139人(17日夕刊)。16日、蒲田駅では何度も襲撃に会って電車がストップしたのを受け、翌17日朝国鉄は蒲田を迂回し、間引き運転を行ったため大混乱した。

そんなこんなの騒ぎでみどりやの仕事は中止になったのだろう。都立大学の家から向かう現場は何処だったのか記述は無いが、東急線の池上もバリケードが張られたので、その沿線付近か或いは蒲田を経由する川崎のお得意か。しかし記述の文は冷静で、まるで新聞記事の見出しのようだ。何を反対、抗議していたのかよく把握して書かれている。「造反」は学生運動の波の一環であることも受け止めた言葉だ。学生たちの肩を濡らす冷たい雨の音もする。仕事が無くなったことについては無論怒っていたのだろうが、同じ時代を生きる人間の自覚を感じるといったら深読みが過ぎるだろうか。

「核なし、本土並み」の沖縄返還という佐藤首相のおためごかしに対して、抗議、阻止行動に出た学生、労働者らは「沖縄『返還』の名のもとに進められている日米交渉の実態が、安保条約を長期にわたって固定化し、さらに『核安保』『アジア安保』に拡大強化し、日本全土の核基地化、基地自由使用化をねらうものであることは今や公然の事実である」(社会党、総評、中立労連系と沖縄連共催の16日代々木公園集会での決議より)。

「佐藤訪米の意図は、沖縄の恒久核基地化を図り、(中略)日米安保条約を自動延長して(中略)わが国の防衛力の強化を約束することにあり(中略)アメリカにかわって日本は朝鮮、中国、ソ連人民を蔑視する『アジアの憲兵』になろうとしているのです。日本の将来を左右するこのような重大問題について、われわれはひとり自民党にその決定をゆだねた覚えはありません。(中略)沖縄の即時無条件全面返還をかちとり、安保を廃棄する政府の樹立をめざし」(同アピールより)たのだ。最後の方は当時の社会党の政治欲も見え隠れするが、今でもそのまま現政府への批判として通用する、通用してしまう言葉ではないか。沖縄への核再持ち込みなどについても、数々の密約があったことがアメリカ側の公文書の存在によって明らかになっている(「現代の理論」内 シリーズ『抗う人』西村秀樹 1,西山太吉 沖縄密約を暴いた記者参照のこと)。

今年1月12日の東京新聞では、岸田首相が米製長距離巡航ミサイル「トマホーク」最大5百発爆買いに加え、この日にも着手される鹿児島県馬毛島の米軍機訓練場建設でも23年度予算案で「米軍再編関係経費」として3030億円を盛り込み、13日の日米首脳会談に臨むことを「米へ『手土産』」と批判している。佐藤首相の訪米時に重なる、アメリカへ尾を振りアジアへ牙をむける姿はより浅ましく露骨になっているのに、全国の労働者や学生が立ち上がり、そろって抗議、行動し、一ちんどん屋もその日を書き留めた69年に比べ、今私を含む人々の声は小さい。何故か?ちなみに同じ12日の記事では、フランスで年金開始を64歳に引き上げる法案に対して、「労組反発 デモ再燃も」、翌13日の朝刊では、英国で記録的なインフレに対し賃上げを求め、「英公共部門スト拡大」の見出しが躍る。

1971年5月14日

この日は「〆香」という親方の所へ進だけが出方で仕事に出ているが、「私鉄スト」と一言書き込みがある。1971年5月14日の朝日新聞朝刊によると、私鉄大手が24時間ストを打つことがほぼ決定していた。いわゆる「春闘」交渉の決裂である。私鉄には私鉄総連という産別共闘組合があったが、この当時は大手各社の組合の代表が集団で会社の代表の集団と交渉する「中央集団交渉」という形で春闘が行われていた。

交渉というのはなるべく多くがまとまって行う方が強いし、社会全体への影響力も大きい。春闘はいうまでもなく賃金交渉だが、この頃は大手労働組合、それも各社でなく産別に統一して交渉し、全ての労働者の賃金アップにもつながるような大きな役割を持っていた(「労働組合は誰を代表しているのか?」首藤若菜参考)。ちなみにこの日は公労協もストを予定していたが全林野、全電通、全専売、全印刷が取り止め、国鉄の国労、動労が順法闘争を行い、国内航空は乗員組合(パイロット)と国内航空労組(スチュワーデスと地上勤務者)がストを決行した。

70年代前半はストの時代である。厚生労働省の「労働争議統計調査時系列表」によると、「半日以上の同盟罷業及び事業所閉鎖」を伴う労働争議は1960年に1063件、69年に1783件だが、71年に2527件、74年に5211件でピークを迎え、75年に3391件、その後数を減らし、81年に955件と千件を切った後、2001年には91件、2021年には32件と、ストは無きに等しいものとなる。この経過をこの後の章で追っていくことになるのだが、71年の人々はストにどう対応していたのだろうか。

この日ストに突入したのは私鉄大手、東武、京成、京王、東急、営団地下鉄、南海、阪神、阪急、京阪、西鉄の10社で、名鉄が集改札スト(乗客は無賃乗車できるが乗り換え時に混乱)のみ。みどりやの最寄りは東急だから影響はあるが、無事に出方の仕事に行っている。

14日の朝日の朝刊は、ストありきの労使のだらだらとした交渉を「利用者忘れた」と見出しで揶揄しているが、この「だらだら」は労使の間でも「スト慣れ」が生じている証拠だ。朝日は乗客側の混乱への用意として、地下鉄千代田線が乗り入れているため普段は常磐線快速が止まらない綾瀬、亀有、金町の利用者が迂回に利用するとみられる松戸駅で大混乱への準備に大わらわの様子や、日本橋のデパートが一部の女子従業員を寮に宿泊させるやらの傍ら、組合員が慣れた手順でビラの用意やピケ要員配置を済ませ、そしてストの度に恒例の、泊りの会社員のために貸し布団屋さんが大忙しと、前日の模様を報じた。

14日夕刊は「乗客、ストを肩すかし」と、さしたる混乱もなく朝のラッシュをやり過ごしたことを伝えた。当日、大手私鉄に加え、私鉄経営のバスもスト、ハイヤー、タクシーの全自交もストに加わり、国鉄も順法闘争を行ったが、国鉄は常磐線や中央線がやや混んだ程度の他、ストを行わない私鉄の小田急、西武、京浜急行もほぼ平常。混乱が予想された松戸駅には機動隊、警察官も2百人待機したが何事もなく過ぎた。国鉄池袋駅ではむしろ普段の乗客より3割減。車で通勤する人が増えて道路に渋滞が出た程度。通勤客はどう自衛したかというと、休校にした学校が多かったし、早起き出勤でラッシュのピークがずれた。東急目蒲線の武蔵小山駅辺りで大勢のサラリーマンが線路を歩き出勤する姿が写真で捉えられている。

早く出過ぎて日比谷公園で暇をつぶしたり、早朝サウナや喫茶に入ったり。長距離を自転車で通勤する人もいる。松原団地や多摩ニュータウンなどの遠い団地族は代休を取ってのんびりする姿が目立ったという。14日は金曜日なので、代休を取れば三連休だ。霞が関では各省庁の20%くらいが「『スト休暇』を楽しんだ」。文句はあるが、利用客もある程度、ストに慣れ、「ストのたびに、カッカとするようなかつての光景など見られなかった」(14日朝日夕刊)。この頃までストと人びとはある程度共存できていたともいえる。

順法闘争

だが、72年から73年に頻発した国鉄の順法闘争が、乗客の怒りを爆発させる。升田嘉夫氏の「戦後のなかの国鉄労使―ストライキのあった時代」(明石書店)から経過を要約させていただくと、72年3月28日、総武線船橋駅で起こった停車中の列車に後続列車が追突する事故(乗客7百人以上負傷)で、運転士が逮捕される。この時の事故原因に信号機の不点滅とATS操作が絡んでいたが、動労は運転保安対策と運転士の釈放を要求して4月3日から首都圏国電で順法闘争に突入した。

この時の闘争方法は、ATS(自動列車停止装置)を逆手に取ったもので、列車が赤信号に近づくとATSが作動しブザーが鳴りだすのを、基本動作としてはブザーを切り列車を止めるが、列車間隔が短い首都圏の路線ではいちいち止めては遅延するので、実際はブザーを切り徐行運転を続けるところを、基本動作を遵守していちいち止める。これを繰り返すと電車は限りなく遅延する。「ATS闘争」とも呼ばれる。この後春闘とも重なって延々25日間に及び、5月末から6月にも動労の一部や国労・動労とで様々な理由を基に闘争が繰り返された。

73年は1月から3月初めにかけて首都圏の国労・動労によって順法闘争が繰り返されていた。3月10日朝、立ち往生した高崎発上野行きの通勤電車の乗客3百人がドアを開けて線路を歩いた。12日夕方には上野駅で乗客80人が騒いだ。そして13日朝、高崎線上尾駅でホームにあふれた乗客約6千人が騒ぎ出し、施設や電車を破壊、駅員に暴行、駅構内が無法状態に陥り、午後7時まで上野・高崎間は全面運休となった。「上尾事件」と呼ばれる。 

4月24日、公労協が春闘第三波統一闘争に突入、国労・動労は順法闘争に入る。特に動労は大阪・東京の国電に新幹線でATS闘争を含む強力順法闘争を行った。この日の夕方から、大宮、川口、赤羽、上野、東京、有楽町、渋谷、新宿、池袋など38駅で通勤客などが暴動を起こし、盗みや放火などで138人が逮捕、首都圏国電は翌25日夕までマヒする事態となった。「首都圏国電暴動」と呼ばれる。

 「ささいなきっかけでも順法闘争が始まり、泥沼化し、輸送の混乱が大きくなり、旅客の苦難は募った」(升田嘉夫同書より)。順法闘争は事前に通告され対応できるストと違って、乗客にとっては先も見えず延々と続く拷問のようなものである。「闘争」しか見えていなかった労働運動は人々の共感と理解を失う。

 ちなみにみどりやの「仕事帖」には、順法闘争の記録はない。私鉄沿線の移動が主だったため、国鉄の混乱に巻き込まれることは少なかったのだろう。事件のあった日も順法闘争中も毎日無事に仕事をこなしている。3月13日も4月24日も火曜日で、仕事先は毎度のお得意さん、たまプラーザの「美しが丘ショッピングセンター」だった。

1974年3月26日

1974年3月26日には、「石川台マーケット」の仕事が「ストで休み」になっている。この年は春闘史上最大のストライキが繰り広げられ、先に挙げた「労働争議統計調査時系列表」でも最もストの多かった年である。3月26日はその春闘第二波のストであり、4月11日から13日未明中止までのストが最大のヤマ場となった。

これに先立つ3月20日の朝日新聞朝刊では日教組が4月にストを計画、動労は順法闘争中、政労協(政府関係特殊法人の労組)も「天下り反対」と3万円以上の賃上げ要求で20日ストに突入、また「デパート春闘」の見出しで各デパート労組が約30%、3万円近い賃上げ要求を掲げ、慣行で満額回答は「確実のよう」と報道。今から見ると上昇幅に驚くが、73年から始まった「狂乱物価」で、74年1月の全国消費者物価指数は前年比23.1%増加し、「終戦直後の経済混乱期に迫ってきた」(3月1日朝日夕刊)ので当然の数字である。

20日の朝日新聞には気になる記事がいくつもある。当時の田中首相が3月16日の参院予算委員会での答弁で打ち出した、国鉄や専売公社などの民営化構想についての検討記事だ。「問題山積み『民営移管』」という見出しで、巨額の赤字を抱えた国鉄に昨年、10年間国の金をつぎ込む決定を下し、新幹線をまだまだ作る計画の後押しをするのは当の田中首相なのに、民営化案は矛盾するし、「(運輸省は)約五十万人という国鉄の組織が、民間企業としてふさわしいものかどうか、(中略)国鉄分割論も、民営移管という観点からもう一度研究する必要がある、ともいう」と、戸惑う様子を伝える。既にこの当時の首相の頭には、80年代に民営化される専売公社と電電公社、分割民営化される国鉄、そして小泉政権によって押し切られる郵政民営化の構想があって、手を打ち出したのだ。

民営化案は、公労法に縛られてスト権のない三公社(国鉄、専売、電電)五現業(郵政、林野、印刷、造幣、アルコール専売)の労組がまとまった巨大労組協議会、公労協などが掲げる今季春闘の中心テーマの一つ、スト権回復(注:1945年いったん認められ48年公労法によって否定)要求を念頭に、「いまのままではスト権を認めるわけにはいかない、というところに重点がある(政府首脳)」というが、じゃあ民営化してスト権を認めるのか、という意味ではなく、あくまでスト権要求するなら民営化するぞ、という脅しなのだ。実際、以後、民営化への道のりと共に労組はズタズタにされていく。

また、田中首相は19日、参院予算委員会で、社会党議員に「“教育内容を精選する”とは何か」と質問されると、「知育、徳育、体育とあるが、徳育の面を相当重視しなくてはいかん」と述べ、13日には「教師が中立でなければならないことは不変の鉄則だ」と強調。17日には「道路の真ん中をジグザグ歩く先生はやめてもらいたい」と日教組を批判。14日には「日の丸」と「君が代」を国旗、国歌として法律で制定する時機に来ていると発言。「問題は教員の政治活動規制強化だろう。『かつて教育の中立確保のための法案を審議した際、刑事罰を削除し、行政罰だけにしたのは失敗だった』というのが首相の本心」と記事は首相の狙いを指摘。

当初GHQの後押しで作られた反共団体であるはずだった総評(公労協や日教組、私鉄総連などが傘下の労組連合体)は社会党の支持基盤であり、「反戦平和」を唱えて、日本を軍事利用したいアメリカの意向に反する。田中は総評の強力な労組を解体した後、教育によって、手を組んで反抗する労働者が二度と生まれてこないようにしたかったのだ。そしてこの狙いは全て後の中曾根首相によって実現されていく。

3月26日、「インフレからの弱者保護や交通政策確立など国民的諸要求と官公労働者のスト権回復を前面に掲げた」春闘第二波統一ストは、官庁・民間を合わせて63単産(産業別単一労働組合)、244万人が参加して最高半日行われた。国労・動労が太平洋ベルト地帯を除く拠点で、私鉄総連、都市交通労連が始発から正午までスト、全電通は交渉決裂で午後6時まで、政労協が午後から半日スト。以上を報じる26日朝日夕刊の見出しは「3200万人の足混乱」だが、「首都圏はほぼ平静」、人びとのスト慣れした様子も伝えられている。春闘のヤマ場は4月半ばに予定され、労使ともどもこの段階で手が打たれるとは考えていないので、これほど大規模でもまだ前哨戦だった。

26日の朝刊には、明日ストで止まるため、前日移動する人々で満員の長距離列車が描かれている。携帯用の小さな椅子を持ち込んで通路にうずくまる子連れの夫婦は、ガソリン代が高くて車での移動をあきらめたので、「今回のインフレ春闘はわかる気がする」と、ストへの一抹の共感を寄せている。

1974年4月11日

この日、みどりやは世田谷区奥沢と西調布のマーケット、相模原の卸売市場と、3か所へ仕事に出かけている。「スト」の記述はない。親方も「スト慣れ」して、何か妙案を生み出したのだろうか。

74年春闘は「国民春闘」と名乗り、「弱者救済」として低所得者層への一時金(一世帯3万円支給)や、年金などの社会福祉手当は物価スライド制を導入するなどのインフレ対策を前面に出した上、官公労働者へのスト権回復、賃上げ要求が主なテーマとなった。「弱者救済」はストで影響を被る人々へ理解を求めるためでもあったろうが、労組員だけでなく、国民全体の生活を守るという一歩前へ進んだ主張は、「わが国の春闘史上、歴史に残るべきもの(春闘共闘委幹部)」と自負させる画期的なものだった。それに対し、政府側は「いわゆる政治スト」と、違法であると批判(3月1日朝日朝刊)。特にスト権に対し、田中首相は共闘委側に何の相談もなく、「関係閣僚協議会を設けて2年内で結論」と、4月10日勝手に閣議決定(4月11日朝日朝刊)。強い反発を引き起こし、4月11日の第三波スト(ゼネスト)は火ぶたを切った。

国労・動労は新幹線を含む全線とバスで72時間、私鉄総連は48時間、都市交通労連(公営の地下鉄・路面電車・バス)は最大60時間、タクシーの全自交は24時間、日教組・高教組は1日、自治労は最大24時間、全逓(郵便)・全電通(電電)は72時間の波状スト、他の公労協も1日、公務員共闘は1日、飛行機は日航、東亜国内航空の労組が12~24時間スト。他民間では、電機労連の51組合50万人、政労協は3万人、電通共闘加盟の75組合(国際電電労組など)が72時間、全国金属16万人が48時間、医労協が383病院・診療所で29分から最高1日スト。官民81単産、約6百万人参加の巨大ゼネストである(11日朝日朝・夕刊)。

これに対し、東京都心は前日から職場やホテルに泊まりこみする人も多く、10日夕方の駅ホームはやけにすいていた。11日夕刊には「交通ゼネスト 日本列島空前のマヒ」の見出しが躍り、人気もまばらな銀座の光景もあるが、動いている私鉄(西武・小田急)の最寄り駅で出迎えの会社の車を待つ人の群れの様子が、涙ぐましい出勤風景を伝えている。一方で休みを取って花見を楽しむ家族連れも見える。やはり「スト慣れ」してさしたる混乱はないようだ。11日朝刊ではワシントン・ポスト紙の東京支局長が「賃上げ要求は当然のこと」という意見と共に「この三月に交通ゼネストの取材に行ったが、まったく驚き、日本人に感心したのは、ほとんど混乱がなかったことだ。日本人はよく準備をする国民だと思う」とストへの“順応性”に対し感想を述べている。

しかしこのまずまずの静けさの陰で、警察が動いた。11日の日教組・高教組の1日ストに対して、地方公務員法第37条1項(争議行為などの禁止)違反の疑いで日教組本部・支部・分会・幹部の自宅など12都道府県で8百数十か所を捜索して、ストの計画書、指令書、ビラなどを押収、地方公務員法で禁止されているストの「あおり行為」があったか容疑を固める方針。勿論春闘共闘委は「官憲による弾圧」は「国民春闘に対する挑戦」と猛抗議(12日朝刊)。12日夜にはスト関係の書類などを車で運んでいた埼玉県教組書記次長を、証拠隠滅の疑いで逮捕した(13日朝刊)。

実はこの警察の一連の行動には最高裁判決の逆転が関わっている。1969年4月「都教組事件」で「官公労働者といえども、労働基本権は保障され、その制限は必要最小限にとどめるべきだ」との基本的立場から、争議行為を原則として刑事罰から解放し、「あおり行為」についても限定的適用のみとする最高裁判決が下ったが、1973年4月「労働三事件」で、「公務員については争議行為は認められず“あおり”についても限定解釈の余地はない」とする最高裁判決が下り、判例を覆した(12日朝刊)。田中首相の構想する教員の政治活動規制強化につながる判決だ。逮捕された書記次長は13日午前1時釈放されたが、田中首相の「教員への刑事罰」への意思を示すような見せしめ逮捕だった。

このような一連の動きの中、ストは12日2日目に突入。55単産、330万人が参加。要求の一つ、「弱者救済」については11日、衆議院社会労働委員会で年金、福祉年金、児童扶養手当などに17%スライドさせ上乗せを決定。低所得者層に対する一時金は3月支給の130億円より上乗せなし。「スト権」については田中首相の政府決定を巡って攻防。「賃上げ」については私鉄総連の交渉が難航したため、ストが長期化した(京浜急行、東急、京王、名鉄は中止)(12日朝・夕刊)。

この一方で、他の民間では既に高額回答を受けている組合も多数あった。全国金属の9団体や全自運の4団体などは4万円代、全日本海員組合は35530円で40.7%アップなど、10日までに265組合が妥結、平均額28020円(11日朝刊)。11日にはトヨタが平均25300円、30.5%アップ、日産が平均24000円、29.9%プラス約千円を回答、妥結の見込み(12日朝刊)。

13日午前9時、労使交渉をあっせんする中労委は私鉄大手労使に対し、平均28500円賃上げを提示し、双方妥結した。それに伴い、三公社五現業へも平均27594円を提示(13日夕刊)。「スト権」に関しては1年半以内に解決を図る、教職員など非現業公務員については検討するが団交権については政府も異論はない、処分問題についても実質的救済措置を講ずる、と双方歩み寄りで首相も了承した(13日朝刊)。春闘共闘委員会は13日午前、ゼネスト収拾を宣言。国電は夕方までに動きだす予定だが、新幹線は大幅な間引き運転。13日朝には動き出した私鉄でみんなどっと出勤(13日夕刊)。土曜日だがまだ週休2日制は普及していなかった。

13日夕刊の「『国民春闘』を振り返る」と題する記者座談会で、「大幅賃上げが実現したといっても、実質はこれまでの物価値上がり分を補うのがやっと」と指摘。「(民間の大企業経営者が)春闘の賃上げ要求を見越して製品を先取り値上げ」、実際14日朝刊では私鉄・国鉄・航空・郵便・電話料など軒並み値上げの動きと報じる。電気料金は既に3月18日以降検討が開始、大幅値上げの見込み(3月17日朝刊)。ガスは京葉瓦斯が他社に先駆け37%の値上げ(4月11日朝刊)。「今度の大幅賃上げが物価をさらに刺激する」「賃金上昇分をすぐに製品価格にかぶせられない中小企業も苦しい」「大企業と中小企業の賃金格差は、この春闘でますます開くだろう」(13日座談会)。大きな組織労働者のみが守られるようでは、「インフレ下で大幅賃上げ要求は当然」で、「弱者救済という考え方が共感を呼ん」で「トラブルがほとんどなかった」(座談会)国民から、結局労組だけが得をする「労組エゴ」の失望を持たれかねない。

格差の拡大は非正規労働者が多数を占める現在にも通じる問題である。「日本の労働運動は今後、ますます企業の外で、いわゆる生活・制度要求に取り組まざるをえなくなってきている。この闘争には、一般国民の支持の有無が重要な決め手となる(13日夕刊稲永金仁記者)」。「強大なグループパワーの一員として、実質賃金をいかに守るかという社会的責任を負っている(14日朝刊社説)。しかし労働運動が社会を引っ張って変えていくのは、この時がピークだったのか。「芳野会長が映し出す連合運動の荒野(早川行雄)」(現代の理論第32号)によれば、以後「春闘48連敗」である。

なお、春闘中の4月12日、自民党は「“スト一色”に乗じて」「靖国神社法案」を衆院内閣委員会で強行可決した(13日朝刊)。どさくさに紛れて、強引な策を次々繰り出す田中首相のやり方は、今の自民党の手本でもあろうか。紙数が尽きたので「靖国法案」については次回に回す。

おおば・ひろみ

1964年東京生まれ。サブカル系アンティークショップ、レンタルレコード店共同経営や、フリーターの傍らロックバンドのボーカルも経験、92年2代目瀧廼家五朗八に入門。東京の数々の老舗ちんどん屋に派遣されて修行。96年独立。著書『チンドン――聞き書きちんどん屋物語』(バジリコ、2009)

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