論壇

学生の反応から考えた「美味しんぼ」騒動

風評被害を発生させている者は誰なのか

明治大学兼任講師 飛矢﨑 雅也

出来事が「事件」として仕立てられ、情報として流され消費され、またたく間に消えていくようになって、久しい。そういう現代においては、どんなに深刻な問題もその運命を免れないのであろうか。数ヶ月前に耳目を集めた『美味しんぼ』をめぐる一連の騒動を扱おうとするとき、胸に去来するのはそんな苦い思いである。しかしこれは決して消費されて済ませられるような問題ではないであろう。それどころか、一連の騒動は反対にそれを通してわたしたちの社会が抱える様々な問題を照らし返すように思われる。そのためにはこれを問題として理解し、わたしたちの精神風景の中に位置付けなくてはならない。

この論考では、わたしが大学で学生たちから集めた反響をもとに「美味しんぼ」騒動の問題点を考えてみたい。まず事件の経緯を記し、次に学生の反響とその内容について批評し、最後に問題を総括する。

事件の経緯

騒動の発端は、2014年4月28日発売の『週刊ビックコミックスピリッツ』5月12、19日合併号(小学館)で、連載中の人気漫画『美味しんぼ』の主人公が東京電力福島第一原子力発電所を訪れた後に鼻血を出し、福島県双葉町の井戸川克隆・前町長が「福島では同じ症状の人が大勢いる。言わないだけ」と語る場面が描かれたことによる。続く5月12日発売号では、井戸川前町長の「鼻血が出たり、ひどい疲労感で苦しむ人が大勢いるのは、被ばくしたから」「今の福島に住んではいけない」との発言が紹介され、荒井田岳・福島大准教授が除染作業の経験をもとに、「福島がもう取り返しがつかないまでに汚染された、と私は判断しています」「福島はもう住めない、安全には暮らせない」と語る場面も描かれた。

これに対して「風評被害を助長するのではないか」という批判が相次ぎ、ネットを中心に「炎上」。新聞やテレビがこぞって取り上げた。こうした事態を受け、原作者の雁屋哲氏が5月4日付の自身のブログに、「自分が福島を2年かけて取材をして、しっかりとすくい取った真実をありのままに書くことがどうして批判されなければならないのか分からない」と記述した。

一方で、『美味しんぼ』の内容に対して福島県や閣僚らからは批判が続出した。5月7日、福島県双葉町が発行元の小学館に抗議文を送付し、9日には石原伸晃環境大臣が不快感を表明。さらに12日には、佐藤雄平福島県知事が報道陣に「風評被害を助長するような印象できわめて残念」と述べ、菅義偉官房長官は記者会見で「住民の放射線被曝と鼻血に因果関係はないと、専門家の間で明らかになっている」と断じた。続いて13日の閣議後記者会見で根本匠復興大臣や森雅子消費者担当大臣が遺憾の意を表明。環境省はホームページに除染の効果は確認しているとの見解を発表した。そして17日、安倍晋三総理大臣が福島県立医科大学を視察した後、福島第一原発事故の影響に関し「放射性物質に起因する直接的な健康被害の例は確認されていないということだ」と記者団に強調した。

このように事態が推移するなか、わたしは問題の『美味しんぼ』を解説的な新聞記事と一緒に授業を受け持っている東京経済大学と明治大学の学生にそれぞれ印刷の上配布した。そしてリアクションペーパーの形で感想を回収し、一連の騒動について学生の意識を探ってみた。

反響の内容とそれに対する批評

その結果、東京経済大学144名、明治大学130名の学生から感想を得た。その内訳を紹介すると、東京経済大学の学生では、『美味しんぼ』に対して肯定的感想が63名、否定的感想が47名、その他が34名だった。明治大学の学生では、肯定的感想が66名、否定的感想が23名、その他が41名であった。その他とは、肯定、否定どちらでもないものや、『美味しんぼ』の内容に答えていないものなどである。

学生の感想を読んで第一に気になったことは、「福島県に一生戻れないということは、今の福島県民が復興に向けて努力している中で言うべきことではないと思う」とか、「この漫画を読んで福島の人は、苦しかったときの思いを、また今の苦しい状況をより強く感じてしまったと思う。この漫画の作者の人は実に軽率で人の気持ちを考えられない人であると思う」とか、あるいは「作者はなぜこのような内容を掲載したのか疑問に思った。この内容により良い思いをする人は誰もいないだろう。むしろ、福島県の人々から批判を浴びることは目に見えていたはずだ」というように、「気持ちを考えて」『美味しんぼ』の掲載や内容を非難した感想が散見されたことである。これについては、民主社会を成り立たせる土台の点から考えてみる必要があるだろう。

当然のことながら社会には心地好い事実ばかりがあるわけではない。むしろ問題のほうが多いのが実状である。そして問題を指摘するのもされるのも、決して気分の良いものではない。それでは、「良い思いをする」ように、「他人の気持ちを害さない」ように、問題の存在から目を背けたり、それをなかったことにしたり、はたまたそれを指摘する者を排除した社会ではどのようなことが起きるだろうか。それは見張り人からの警告を不都合な事実として無視して、パーティーに興じる船の場合のようなことが起きるであろう。事実、福島第一原発事故は、様々な方面からの警告を無視して、「安全神話」の上に胡座をかいていた中で起ったのである。したがって、どんな「不都合な」事柄でも、率直に議論できることが社会を健全に維持していくためにも必要である。そしてそういう自由な言論を保障するという点で、民主社会には大きな効用がある。

しかし民主社会は単に効用の面からだけ支持されるのではない。それは自由な言論を保障するということそのものにおいて価値を持つ。例えば、「他人の気持ちを考える」という理由から、疑問に思ったことや言いたいことを自粛する社会を考えてみよう。それは非常に息苦しい社会ではないだろうか。日本社会はややするとそういった同調圧力がかかりやすい。自由に自分の意見を堂々と言える社会はそれだけで生きやすい社会である。その点から、「私は、よい部分だけしか直視せずに、都合の悪い部分には目をつむり、都合の悪い部分に触れた者を徹底的に叩く日本の風潮に疑問を感じた」という問題意識があったことは貴重だった。

最後に表現という観点からこの問題を考えてみたい。少し考えると分かるが、表現と「心地好い」ということの間には必然的な連関はない。否むしろ、衝突することのほうが多いというのが実状であろう。なぜなら、表現とは本来的に真実を追求するものだからである。たとえば大正時代の社会思想家である大杉栄はこれについて、「美は乱調に在る。諧調は偽りである。真は乱調に在る」と述べた。そうであるならば、表現は「不都合な真実」をも明るみに出し、当然それを隠そうとする者を不快にすることもあるであろう。しかしそれによって人びとは生を刷新することができるのである。そういう典型として私たちは芸術を持っている。それ故表現は真実を追求するその性格によって、前述した民主社会の土台となるのである。またもし主権者である国民の意思を政治に反映させる手段である言論や表現活動を弾圧すれば、それは「民主主義の死」をも意味する。それだからこれは人格権として、憲法上も最高の価値を保障されている。

ちなみに、「私は経験をしていないし、周りに経験をした人もいないから、何とも言えないというより、言ってはいけない立場の人間なんだと思っている。だから口出しはしてはいけない」という感想があったが、それは「逃げ」であるということを指摘したい。その理由は、人間には想像力があるからである。事件を知り、反省力を働かせ、共感することによって人間は可能な限り、当事者に自己を重ね合わせることができる。もちろん謙虚さは必要であるが、そこから人は発言できるのである。その点で、「現在の福島の状況がどれほどのものであるかと言われたら、多くの人が答えることができないと考えられる。それはこの現状を理解しようとしないためである。この時点で、われわれが福島に対する思いやりが少ないと感じました」という感想には考えさせられるものがあった。

第二に気になったことは、否定的感想の中で最も多かった内容が、「風評被害を助長する」という非難だったことである。このことに驚くと同時に、政府・メディアによる刷り込みが一定程度に成功しているという事実について、再確認させられた。そこで再考してほしいのは、一体「風評」とは何かということである。「風評」とは辞書を引くと「うわさ」(『広辞苑』)とある。ところで言うまでもなく、『美味しんぼ』は「うわさ」ではない。それを「うわさ」(=風評)にするのは読者である。それには当然、政府やメディアも含まれる。つまり、「風評」を作り出して、それによる被害を引き起こすのはあくまでも読者なのである。

これに関係して例えば「『美味しんぼ』が掲載された後、予約がキャンセルされるなどの被害が福島県内で起きている」という報告がされた。しかし、『美味しんぼ』の作者は「福島に住んではいけない」とは書いていても、「福島に行ってはいけない」とは書いていない。事実、作者自身、2年余りにわたり福島を訪れている。つまり、福島へのツアーがキャンセルされるのは、あくまでも読み手側の問題なのである。上の報告をした学生は続けて、「震災以後の風評被害のせいで福島県は経済面で苦しんでいる中で、この事件だ」と作者を非難しているが、風評被害を発生させている者は誰であるか、ということにもっと反省的になるべきであろう。同時に福島県の経済面の困難を「風評被害のせい」とすることが問題と責任のすり替えにつながることを自覚してほしい。

福島の現在の苦難を招いた元は、風評ではない。原発事故である。それを「風評被害」のせいにすることは、問題の本質から人びとの目をそらせ、さらには事故の責任の所在をうやむやにすることになる。「風評被害」を言い立てることにより、誰が得をするのか、よく考える必要がある。その意味で、「テレビは『美味しんぼ』が悪いことを書いているみたいな表現で、マスコミが『美味しんぼ』を悪者に仕立て上げようとしているという印象を受けた。政府が原発事故に関する情報を隠すというか、作者が悪い、前町長が悪いという印象を持たせて、原発や放射能、政府の問題から目を反らさせているようにも見える」という指摘については聞くべきところがあったし、また「問題は『美味しんぼ』ではなく、東電や政府の対応だと気づかないことが哀れだと感じました」という感想も正当であった。

ちなみに『美味しんぼ』の掲載について、「日本人が自分で日本を壊しているようなことだと思います」という感想があったが、原発を建て、事故を起こすことこそが「日本を壊しているようなこと」であろう。また、『美味しんぼ』を軽率な発言とし、「明るくなるようなニュースが福島にも届いてほしい」という感想があったが、本当に被害者の心が晴れるのは、事故の責任の所在を明らかにし、事故原因を究明し、原発事故の収束と被害者の救済策を万全な形でとっていくことではないだろうか。

真実とは―誘導された批判の鉾先

『美味しんぼ』の掲載がこれほどの騒動に発展したのには、「原発事故」による様々なひずみや問題が未解決なのにもかかわらず、あたかもそれらが解決されたかのように装われながら復興や原発再稼働が進められようとしている、という背景があった。しかし実際には問題は解決されていないのだから、残り続ける不満や欲求、そして不安は人びとの心の中に確実に沈殿していたように思われる。それがたまたま『美味しんぼ』を切掛けにして爆発したのであろう。そこに政府が躍起になって『美味しんぼ』を批判した理由もあったように思われる。彼らは自分たちに当然向けられるべき批判の鉾先を恐れて、問題を提起した『美味しんぼ』そのものに向けてその鉾先を誘導したのではないだろうか。そしてそのことを知ってか知らずしてか、メディアもそれに乗ったのである。結果として、本来なら政府・東電の無責任と無作為に対して向かうべき批判が作品に向かってしまった。

学生の反響は、事件に纏わるこうした性格をよく映し出していたといえる。そして感想を読んでいて改めて認識させられたのは、ものが見えるということがどれほど難しくなっているか、ということだった。メディアと情報手段が発達した今日においては特にそうなのであろう。

騒動を受けて『週刊ビックコミックスピリッツ』6月2日号に組まれた特集記事には、福島県庁から寄せられた抗議文が掲載されている。その文章は次の一文で終えられている。

 「美味しんぼ」及び株式会社小学館が出版する出版物に関して、本県の見解を含めて、国、市町村、生産者団体、放射線医学を専門とする医療機関や大学等高等教育機関、国連を始めとする国際的な科学機関などから、科学的知見や多様な意見・見解を、丁寧かつ綿密に取材・調査された上で、偏らない客観的な事実を基にした表現とされますよう、強く申し入れます。(傍点――引用者)

「偏らない客観的な事実を基にした表現」とは何であろうか。それは官庁文書以外にあるのだろうか。そしてどれほどみずからが「偏らない客観的な事実を基にした表現」と言い張ってみても、「官庁文書」とは紛れもない統治者の側に立った表現なのである。

「今回『美味しんぼ』を読んで何が本当の事かわからなくなりました。」「現在福島のことについて本当のことを報じている機関があるのかも分からなくなっている。私は真実を知ることができない。今の日本は大丈夫なのであろうか」。学生から寄せられた感想である。偽らざる切実な思いであろう。しかし真実とは与えられるものではない。それは自分自身が考えて見つけ出すものである。それだけは、いつの時代であっても、変わらない真実である。

一連の騒動から学ぶべきことがあったとしたら、そのことではないだろうか。

ひやざき・まさや

1974年、長野県生まれ。明治大学兼任講師。昨年末に『現代に甦る大杉榮 自由の覚醒から生の拡充へ』(東信堂)を刊行。

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