特集●次の時代 次の思考 Ⅱ

〔連載〕②君は日本を知っているか

日本は果たして「絆」社会か

神奈川大学名誉教授・前本誌編集委員長 橘川俊忠

ブラジルにて

今から十年以上も前の事になるが、客員教授としてサンパウロ大学に招かれ、ブラジルに三カ月ほど滞在したことがあった。客員教授としての義務は週一回一日二コマの講義だけだったので、時間が空いている限りいろいろなところを見ておきたいと思って方々に旅行に出かけた。ポルトガル語もまったくできないのに、我ながら無茶だったと思うが、その旅行の大部分は長距離夜行バスの一人旅であった。そんな旅行の一つで、サンパウロ州の西部にあるアダマンチーナという町に行った。

アダマンチーナは、私の講義に出席していた大学院生の出身地で、日系移民の実際の生活を見てみたいという私の希望を聞いた彼女が実家に連絡をしてくれたおかげで訪問することができた。サンパウロから夜行バスで七、八時間かかったと思うが、なにせブラジルのバスは日本のような車内放送というものがないので、いつ着くのか気が気ではなかったことを覚えている。ついでに言っておくと、バスでも電車でも、しつこいくらい丁寧に車内放送で案内してくれるのは日本だけと言ってもよい。

それはともかく、アダマンチーナに着いたのは朝の五時ごろで、まだお宅に伺うには早すぎたので、町の周辺を歩いてみた。薄明の中に浮かび上がった町は、高い建物はほとんどなく、どこまでも続く大平原の緩やかに盛り上がった土地の上にあった。ここなら地平線から上がる朝陽も、地平線に沈む夕陽も両方が見られるに違いないと思ったら、実際にそうであった。その朝夕の太陽を見て、これは日本では見られない景色で、遠くまで来たという実感が迫ってきた。

八時になって彼女の実家に電話を入れ、父上に迎えに来ていただいた。実家では、大変に歓迎していただいた。父上は、もう年金暮らしに入られたそうで、質素な生活ぶりであったが、彼の「家庭菜園」を見せてもらって驚いた。一反歩もあろうかという菜園に、野菜はもちろん、バナナ、マンゴウ、パパイアなんでもあり、木の幹にブドウのような実がびっしりとなるジャボーチカバまであった。そして菜園の作業小屋には釣り道具がいっぱい。聞けば釣りが趣味で、近くのパラナ川まで釣りに行くのが趣味だという。失礼ながら現金収入の点ではそれほど豊かではないかもしれないが、生活自体はゆったりとした、都会に住む日本人には想像できないような「豊かさ」があるように感じられた。

その日の午後、アダマンチーナには案内するところもないのでというので、近くのバストスという町に連れて行ってもらった。車で一時間ほどのところだったが、その車はエタノールとガソリンの混合燃料で走る車であった。十年以上も前からエタノールを自動車の燃料としていたわけで、初めて乗ったその車は「馬力はちょっと」という話だったが、快調に走ってバストスに着いた。

バストスは、古くからの日本人の入植地で、生糸の生産を中心として発展し、今でも製糸工場が操業しているが、最盛期には日系人が人口の半分以上を占めていたという町であった(現在では日系人の人口は大分減ったそうである)。そのバストスに日系人の資料館があり、そこに案内してもらった。公園に囲まれた資料館は、広い前庭に富士山型の築山があり、ブラジル特有の赤土色に塗られた立派な建物であった。どういうわけか庭には捕鯨船の銛打ち銃が置いてあるし、鯨の骨の全身標本もあった。移民の生活道具やお雛様などがところ狭しと陳列されていた。最も多いのは写真であった。展示された大量の写真は、日が当っていたせいで、大分傷みが激しく、維持管理の難しさを想像させた。いずれジャイカか何かの援助で建てられたのであろうが、建てた後は面倒をみないという日本の文化行政の貧困さを、地球の反対側でも見せられた気がして気が滅入った。

そういう展示の中で、私の目を引いたのが、A3くらいの紙にびっしりと細かい字で何やら書き込んである一枚の資料であった。

「血のつながり」の重み

太枠で囲われた「血のつながり」「伊予清水家譜」というのが表題らしかった。「清水尚久様 昭和三十五年 月 日 安岡勉」と書かれた添書きが右上にあった。おそらく清水尚久という人が、この資料の作成者と思われるが、確実なところは分からなかった。また、安岡勉という人は、正月には一族そろって教育勅語を読み上げるという古いしきたりを守り続けているブラジルでも有名な安岡一族の御当主で、その方の添書きかとも思ったが、これも確かめることはできなかった。

全体的に字がかすれ、判読するのも困難であったが、それが系譜に類するものであることは分かった。代数にすると六世代分くらいがかなり詳細に記述され、「現在の世代」が太枠で囲われ、その下に「次の世代」「将来の世代」と子・孫の世代の人名が書き連ねてあった。人数はそれぞれ、六、七十人で、結婚している者は夫婦連名になっているらしかった。「現在の世代」から上は、父母・祖父母・曾祖父母の世代まではかなり詳しく書き込まれ、その上の世代は当主のみが数代にわたって記されていた。つながり方は、曾祖父母の兄弟・姉妹から下の世代へと広がりながらつながっていた。そこに記載されている総数二百数十名が伊予清水家出身の清水尚久氏の意識する「血のつながり」の範囲なのであろう。

これが何故私の注意を引いたかというと、自分に引き比べてみたのが第一の理由であった。自分はそんなに一族の事を知っているだろうかと考えてみると、私の場合知っている範囲は、せいぜい従兄弟・従姉妹どまりで極めて限られていた。上は祖父母の兄弟姉妹はまったく知らないし、下は従兄弟・従姉妹の子供のことになるとほとんど知らないというのが実情である。二男の私は故郷を離れて都会暮らしも久しいし、六男で末子の父も戦前は中国で生活し、戦後引き揚げてきたという私の個人的事情の特殊性のせいもあるかもしれないが、「伊予清水家譜」のような世界にはどうしても実感がわかない。

清水氏はどうしてこんな家譜を作る気になったのだろうか。この家譜の中のどの人がブラジルに移民してきたのか、現在どなたがブラジルに住み、どなたが日本に残っているのかまったく分からないので、想像するしかないが、一族の記録は、遠い異国に暮す身として自分の出自を確認するためにどうしても必要だったかもしれない。また、日本に残る一族とのつながりを確保しておきたいという思いもあったかもしれない。しかし、それなら自分より上の世代の系譜を確認するだけでよさそうだが、何故次の世代、将来の世代まで書き込む必要があったのか。ブラジルで暮らす一族の長としての責任感が、将来にわたって一族の歴史を引き継がせようとしたとも考えられる。

もしそうだとすると、せっかく作ったこの家譜が、移民資料館の壁に資料として展示されることになったのは何故か。大事なものであれば個人として所蔵されているはずではないのか。これだけ多数の名前が記されているのだから、一族のだれかは残っているであろうし、プライバシーに関わる情報を公然と人目にさらすはずはない。おそらく、作成者の意図が伝わらなかったか、何かの事情で諦めたかした結果としか考えられない。

そういえば、ブラジルの日系人からこんな話を聞いた。日本の親戚を訪ねると、一度目は大歓迎、二度目はまあまあ、三度目、四度目になると又かという顔をされる。だから自分はもう行かない。いかにも有りそうに思われるし、実際にもそういう事はあったであろう。「血のつながり」の重みを感じているのは、出て行った者ばかりで、残った者は忘れがちになるのは仕方のないことかもしれない。

少し話は変わるが、三度目にブラジルに行った時にこんなこともあった。その時は東日本大震災の半年後で、マスコミでは、海外の有名人の日本支援の話題がしきりに取り上げられていた。レディー・ガガやシンディー・ローパーが、いくら義捐金を出したとか、被災地を慰問で訪問したとかがテレビでも報じられていた。そういう時に、サンパウロの日本人街と言われていたリベルタージのある日系人県人会を訪ねた。ちょうどテレビで台湾からの寄付のお礼のイベントの様子が流れていた。それを見ていた日系の老人が、ぼそりと「ブラジルの日系人も寄付を集めて送ったのに、ちっとも報道されないね」とつぶやいたのが耳に入った。そういえばたしかに日本ではブラジルからの救援については、あまり報道されていないようであった。少なくとも私は目にしたことがなかった。

思い出してみると、戦後すぐにブラジルの日系人から砂糖や衣類といった救援物資が日本に送られていたはずなのに、それについてもあまり知られていない。それどころか、昭和二十四、五年ころのニュース映画で、ブラジルの「勝ち組」(戦後も日本が勝っていると主張していた日系人)の帰国の様子を報じているのを見たことがあるが、報道の調子は、いかにも無知な田舎者がやっと気がついたかというような感じであった。ブラジルは、連合国側であったので、戦争がはじまると大使館や領事館の役人はさっさと引き揚げてしまい、情報も遮断され、日系人は厳しい監視下に置かれた。生活は厳しく、情報もない中で「祖国」の勝利を信じる人々が、戦後もしばらく敗戦の現実を受け入れた人々と激しい抗争を続け、死者さえ出たという。そういう現実を知らず、救援の恩さえ記憶にとどめる努力をしてこなかった日本が、また、東日本大震災に対するブラジル日系人の救援活動についても同じ事をしているのではないか。その時も、「血のつながり」と題された資料のことが思い出されてならなかった。

「系図」と「族譜」

「清水家譜」と題された資料に心引かれた理由は、もう一つあった。それは一族の系譜を記したものには違いないが、どうも系図ではない、むしろ中国や韓国で一般的な族譜に近いのではないか、と思われた点であった。

族譜は、系譜を示す資料ではあるが、一族の始祖から代を追うごとに、同一の姓を名乗る者が、原則としてすべて記載される事になっている。したがって、一族の構成員は末広がりに拡大していき、最後の世代には何百人、何千人も記載される事になる。形式も、書冊が普通で、古い家ではそれが何冊にもなっている。私が中国の調査で見た族譜は、印刷されたもので、七百ページにも及ぶ大冊であった。

それに対して日本の系図は、記載されているのは歴代の当主夫妻と当主の兄弟だけというのが普通である。歴代当主の甥や姪が記載されているものは極めて稀であり、その子孫となるとまったく記載されていない。まるで血統というものは、歴代当主によってのみつながっているだけであるかのような印象を与える。したがって、その形式は、巻物仕立てになっている。ようするに縦には伸びていっても、横には広がっていかないのである。

そうしてみると「清水家譜」は、明らかに系図の記載方法ではない。比較にならないほど小規模ではあるが、族譜に近い記載方法になっている。この作成者が、意識していたかどうかはさだかではないけれども、そういう形式をとったことにはたしかに何かの意図があったのであろう。移民という環境がそうさせたかもしれない。つまり、異国の地で、少数移民として生き残るためには一族の団結・協力は欠かせないものであったから、その教訓を後の世代に伝えたかったのかもしれないのである。

それにしても、何故日本では「血のつながり」を表現する手段が、先に述べたような系図という形をとるのであろうか。実は、バストスで見た資料に考えさせられたのはそのことであった。私は、大学に勤務していたころ、古文書や古書籍の調査で各地の旧家を訪ね歩く機会が多かったので、よく系図を見せられたことがあった。その度に考えさせられたのは、この系図から消えて行った人々のことであった。私自身が、六男末子の二男だから、系図には載らない人間であるということが、そんな事を考えさせるのかもしれないが、とにかく気になった。

そう思って系図を見ると、当主の兄弟の中には、何々家の祖という注記がされている者がいる事に気がついた。その祖となった人物は、別に家を起こし、その初代となったわけで、その家は家で系図を作成することになったであろう。そうすると、その別の家で作られた系図と本家の系図とを合わせていけば、横へのつながりも見えてくるはずである。縦のつながりだけの系図も、そうして横につなぐ事が可能であれば、消えていった人々はいない事になるかもしれない。理屈からだけはそう言えるが、実際はそうはいかないのである。別に家を起こすのは、分家という形式をとることが多いが、その分家を出す事がそれほど多くないのである。私の調査した中世以来の旧家では、実在が確認できる近世初期からでは、分家は一度しか出していなかった。なかには、分家を出さない事を家訓にしている家もあった。分家を出すという事は、地域によって異なるが、一定の財産を分与して新しい家を立てる事で、それは財産争いの元になったり、本家の衰退を招く結果になったりする危険があった事によると考えられるが、とにかく分家は意外と思われるほど少ないのである。

新たに家を立てる別のケースは、二男以下が特別に成功して、その子孫に受け継がせるに足るだけの家産を形成した場合である。しかし、それほどの成功者がいつも出るわけではないので、結局、系図からはずれていき、どこに行ったか分からない者は必ずいることになる。貴族や有力な武家ならばとにかく、一般庶民の家では系図を持っている家自体が少ないし、持っていたとしてもそこからはずれた人間の方が圧倒的に多いのが実情であろう。

ようするに、系図は、いつも支配者の側にいる有力な家か、残すに足る家産を形成した成功者の文化であって、普通の庶民には関係ない世界に属しているのである。そして、その原理は、時間を縦にさかのぼる事にあって、その時間が長ければ長いほど価値があると主張される。「万世一系」こそが最高の価値あり、とされる世界の文化と言うべきだろう。その世界は、はずれていった者、出て行った者には関心を持たない冷たい文化の世界でもある。そこでは主人公は「家」であって、人間はその「家」に従属しているにすぎないとも言いうる。移民社会と日本本土社会との関係にも、そういう社会の構造が反映されていると言ったら言いすぎであろうか。

移民と本土との関係と言えば、沖縄は日本本土とは違った関係があるようだ。沖縄では今でも、世界沖縄移民大会という催しが毎年行われており、沖縄出身の世界中に移住した人々が交流し、親睦を深めているという。そういう例は、他の都道府県では聞いたことがない。沖縄の系譜書きも族譜型であることと関係があるのであろうか。一度確かめてみたいと思っている。

「絆」とは何か

東日本大震災以来、「絆」という言葉が、一日たりとも聞かなかったり、目に触れなかったりする日がないほど巷に溢れている。災害に苦しむ人々になんとか救援の思いを伝えたい、震災を忘れてはいけないという善意に発している事とは思うが、いいさか疑問なしとしない。「絆」という言葉で、われわれは何を言おうとしているのか分からなくなる事があるからだ。「絆」という言葉は、もともと情緒に訴えやすい言葉である上に、余計情緒的に使われると意味がますます不明になりかねない言葉でもある。情緒ばかりでは事態は改善されない事は分かり切った事だから、ここらでどういう意味なのかを検討しなおすことも必要だろう。

復興には妨げになる可能性が高いオリンピックの招致に浮かれる者、原発事故の深刻さに眼を覆い再稼働・原発輸出を主張する者、そういう人々の口からすら「絆」という言葉が吐かれる。困難な現実を隠ぺいするために、情緒的な言葉が振りまかれているようにすら見える。歴史を省みると、社会の分裂が進み、階層的な対立が強まった時、そういう情緒に訴える思想が主張された事があった。明治の末、日露戦争が終わったころ、富国強兵政策の矛盾が露呈し、社会が分裂の危機にみまわれていたころのことである。日本は「家族国家」であるという思想がしきりに叫ばれだした。それは、第二次大戦まで続いた。その結果が敗戦であった。「家族国家」観と「絆」では、まったく違うというかもしれないが、「絆」の基礎に、家族とか、血縁とか、共同体とかを持ちだしてくれば、その違いはあっという間に小さくなる。

すでに述べてきたように、日本は血縁に基礎を置く「絆」社会ではない。血縁は、「家」を単位として時間を縦に遡るだけで、横には広がっていかない。族譜の社会とは決定的に異なっている。「家」は家族でもなければ、一族でもない。人々の避難所となるどころか、その存続のためには人々を追い出し、あるいは「部屋住み」として飼殺しにする冷たさを抱え込んだ組織である。にもかかわらず、「家幻想」「家族幻想」にとらわれている人々が少なくない。これだけ階層間格差が拡大し、社会の分裂が進んでいる現実を直視し、幻想から覚めなければならない。分裂が進むほど、幻想が振りまかれ、それにすがろうとする態度も増えることは、現象としては理解できるが、それではいつまでたっても問題は解決しない。

日本には、面白いことわざが多いが、「絆」に関することわざにもいろいろある。「血は水よりも濃し」と言うかと思えば、「兄弟は他人の始まり」とも、「遠い親戚より近くの他人」とも言う。「袖振り合うも他生の縁」とか、「一期一会」というのもある。ようするに人と人とを結びつける「縁」には、いろいろあるということなのである。血縁を重視するのもいいが、それもいろいろある内の一つに過ぎないと見切ることも必要だ。肝心なのは、そういう多様な「縁」=つながりを自分の廻りにどれだけ多様に、多層構造的に作り出せるかということである。

これだけのことを考えさせてくれた「血のつながり」という資料は、今でもブラジルの地方の町の資料館の壁に掛っているのだろうか。ブラジル・ワールドカップの中継を見ながら多少の感慨を催した。

きつかわ・としただ

1945年北京生まれ。東京大学法学部卒業。現代の理論編集部を経て神奈川大学教授、日本常民文化研究所長などを歴任、昨年4月より名誉教授。前現代の理論編集委員長。著作に、『近代批判の思想』(論争社)、『芦東山日記』(平凡社)、『歴史解読の視座』(御茶ノ水書房、共著)、『柳田国男における国家の問題』(神奈川法学)、『終わりなき戦後を問う』(明石書店)など。

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