特集●次の時代 次の思考Ⅱ

西欧世界の限界と戦後民主主義の国際的意義

若い世代との対話─21世紀の日本のポジションを求めて

日本女子大学教授・本誌代表編集委員 住沢 博紀

1.2014年―深い悲観論と普通の悲観論のはざまで

2014年春、『現代の理論』をデジタル版で復刊するに際して、いろいろ考えることがありました。わたしは第3次『現代の理論』(2004年~2012年春)では、主として進行中の日本政治を論じていました。とりわけ鳩山民主党政権が成立した2009年9月から、『現代の理論』が終刊した2012年春までは特別の時期でもありました。野党の立場からの政府批判ではなく、与党としての民主党、つまり政府と行政組織を掌握したうえでの改革政治の可能性や問題点を論じることになったからです。

『現代の理論』が2012年春に終刊を迎えたことは、今ではよかったと思います。その時点で、民主党分裂の可能性も含め、「2009年民主党革命」というプロジェクトの命運はほぼ尽きていたからです。もちろん『現代の理論』が、民主党政権と運命を共にする必要はありませんが、少なくとも日本政治を担当した私にとっては、もう一度、出発点に戻ってすべてを再検討する必要性に迫られました。どこまで戻るべきでしょうか。それは単に2009年―2012年の民主党政権の失敗、鳩山政権・菅政権・野田政権の失敗を検討すれば済むことではないことは確実です。

民主党政権論に関しては、『現代の理論』でも常時寄稿者であった山口二郎さんが何冊かの岩波新書を書いています。最近のものでは、山口二郎・中北浩爾『民主党政権とは何だったのか―キーパーソンたちの証言』(岩波書店 2014)が、結局は政権与党として機能しなかった民主党と、リーダーシップなき政治家たちの体験を踏まえた本音を明らかにしています。また中北浩爾『現代日本の政党デモクラシー』(岩波新書 2012)は、政治改革の中心となった選挙制度改革の背景とその帰結(競争型デモクラシーとマニフェスト選挙、その過程と限界)を的確に整理しています。また山口二郎さんと日本政治史の坂野潤治さんとの対談集『歴史を繰り返すな』(岩波書店 2014)は、昭和初期からの政党政治も含めて、より長期的な視点からの民主党政権の位置づけと、安倍政治批判を試みています。

私の個人的な結論としては、55年体制のような官僚内閣制でやるなら、幾人かの派閥の領袖か長老が次の総理大臣を決めることができれば、個々の政治家の資質はそれほど問われなかったと思います。現在の安倍政権のように、官房長官さえしっかりしていれば、首相は外遊に明け暮れても粛々と政治は進行するでしょう。しかし鳩山民主党のように国会内閣制に変革しようとするなら、行政経験豊かな政治家が今の何十倍かが存在し、しかも政党が組織末端からの積み上げにより政策を形成する能力が必要です。民主党は両方とも極めて不十分でした。

安倍政権が官邸主導の官僚内閣制を復活させたところで、危機の時代に対応できるわけではありません。とりわけ2014年は、現在までのところかなり危ない年です。シリア、イラク、ウクライナの内戦は、アメリカや戦後の西欧世界がつくりあげたグローバルな制度や秩序を侵食しつつあります。グローバル金融資本主義は、リーマンショック後もふたたびその力を復活させ、社会をますます一部の富裕層と多くの貧困層に分裂させています。とりわけ中国とアメリカの証券市場の融合は、グローバル金融資本主義のパワーと予測不可能なリスクを増大させています。安倍政権の集団的自衛権の容認は、尖閣列島をめぐる日中の対立を「力の均衡」へ変容させる可能性があります。一見リアルに見える抑止力論も、長い目で見ると衝突のリスクを高めています。1980年代初頭の、欧州への中距離核ミサイル配備をめぐる米ソの「抑止力」の競争は、ソ連の国力消耗により平和裏に解決できました。しかし現在の中国は成長過程にある国ですから、軍拡競争には先が見えません。平和の道を求めることがただ一つの道です。

今年は第1次世界大戦勃発100年ということもあり、最近、1914年こそ殺戮と文明の破壊の始まりの年であったという報道番組が増えています。1989/91年の冷戦終結とともに、「戦争と革命の20世紀」も終了したと論じられました。しかし最近では、むしろ第一次世界大戦前との類似性が語られています。2014年はどうなるでしょうか。もっと大きな危機や破壊が訪れる年になるのでしょうか。

深い悲観主義にも良い点があります。問題を深く理解し根源的に考えようとする態度と意欲を呼び起こすことです。中国やインドなど人口大国の台頭は、確かにこれまで慣れ親しんだ欧米中心の価値や世界秩序に混乱を与えるかもしれません。しかしそれは同時に、私たちの知らなかった世界や新しい時代の始まりを意味しています。それはそれで興奮させられることです。ただそうした新しい時代に、私たちはどのようなポジションを占めるのか、それは私たちの慣れ親しんだ戦後日本の価値観や社会像にとって好ましい世界なのかどうか、こうしたことへの考察と議論が必要でしょう。私たちは傍観者ではなく、積極的なアクターでもあるわけですから。

現実に立ち向かう深い悲観主義は、未来への希望に転化する可能性を秘めています。これは私が『現代の理論』終刊号に引用した、E.ブロッホの「希望の原理」の立場です。もちろんそのためには、現実の悲惨さを徹底して考察する必要があります。日本の場合には逆に悲惨さは隠蔽されがちです。大きなリスクを持ち続ける福島原発事故も、事故処理の日常的な作業に解消され、本来の原因追求と根源的なリスク回避を巡る議論はなおざりにされています。

2.私たちのLebenslüge(生き延びるための欺瞞)―しかし若い世代は?

どの国家や国民も、ドイツ語でいうLebenslüge[レーベンスリューゲ](生き延びるための欺瞞、既得権や体制を維持するための虚構)を持っています。ドイツでいえば、「ユダヤ人虐殺はナチの仕業であり、多くのドイツ人は知らなかった」というような言説です。現在なら、グローバル企業・金融と協働する中国共産党にとっての「社会主義国家中国」や、日米安保体制のもとでの「9条をもつ平和国家日本」などもそれにあたるかもしれません。一方では、敗戦後の日本は、戦前の軍国主義と決別した「平和国家」として再出発すると宣言し、都合よくアジア諸国に対する戦争責任を曖昧にしてきました。「平和国家」とは、アジアにおけるパクス・アメリカーナのもとに包摂されることを意味していました。他方では、1945年の後もアジアでは多くの戦争があり、アメリカはしばしばその当事者でした。中国1949年革命、朝鮮戦争、ベトナム独立をめぐるインドシナ戦争とその後のベトナム戦争などです。

この関連では、2冊の興味ある本が出版されています。ジェン・W.ダウワー他『転換期の日本へ』(NHK出版新書 2014)は、その副題『「パックス・アメリカーナ」か「パックス・アジア」か』が示すように、戦後日本が内政も含めてアメリカの世界戦略の中に組み込まれてきたことを、豊富な資料を用いて解読しています。また白井聡『永続敗戦論―戦後日本の核心』(太田書店 2013)も、「敗戦を否認しているがゆえに、際限のない対米従属を続けなければならず、深い対米従属を続けている限り、敗北を否認し続けることができる」(48頁)とダウワーに似た視点で、戦後日本の根本的な虚構構造を抉り出しています。

確かに鳩山政権の東アジア共同体構想と普天間移転問題をめぐり、外務省・防衛省、大手メディアのリークや妨害は、そもそも日本は主権国家であるのかどうかを疑わせるに十分でした。この意味では、ダウワーや白井のいう構造的対米従属と中韓やアジア諸国への戦争・戦後責任の放棄が、一体となっていることの指摘は非常に重要です。それは民主党への政権交代があって改めて浮き彫りになりましたから、私たちにとっても民主党政権を論じる場合に大事な論点です。

東京裁判と9条を持つ日本国憲法は、清算されるべき「戦後レジーム」のシンボルとして、安倍首相や保守ナショナリストの批判の対象となってきました。他方で、「平和と民主主義国家」日本は、アジア諸国への戦争責任と向かい合わず、日米安保体制のもと沖縄に米軍基地を提供し、アメリカに追従してきました。この意味で白井の『永続敗戦論』の論旨は明快であり、その主張も自然に腑に落ちます。しかしそれは私が団塊の世代であり、マルクス主義や日本の戦後民主主義・55年体制・戦後革新勢力の運動などを、同時代の一員として体験的に知っているからです。『永続敗戦論』は5段の大きな広告が、8月初旬の朝日新聞に掲載されていました。30数名ほどの読者の感想が掲載されていますが、そのうち50歳以下は3人です。執筆者の白井さんは1977年生まれですが、その主張は私たち団塊の世代以上に(つまりは戦争体験世代、60年安保、全共闘運動)に届いても、彼の同世代や20代・30代には届いていないのではと恐れます。

ここで私たちは大きな壁にぶつかります。おそらく若い世代にとって、日中・日韓関係が双方の国民の意識レベルで悪化している中では、そもそも「戦後レジーム」も「その自己欺瞞」も、テーマとして浮かんできません。10年ほど前までは、1989年/91年冷戦終結・ソ連解体も、ある程度の実感を伴って、学生に講義することは可能でした。しかし今の若い世代には、1995年阪神・淡路大震災とオウムテロ、2001年WTCテロとブッシュのイラク戦争、2002年小泉北朝鮮訪問と拉致問題、2011年3月11日、東日本大震災と福島原発事故などが主要な年代記と思います。2009年8月の民主党の勝利と政権交代もある種のエピソードであり、関心のある学生でも何かが「失敗」したというイメージでしょう。最近の尖閣列島・慰安婦問題をめぐる日中・日韓関係の危機も、中国の「覇権主義」の脅威や「いわれのない批判」を受けているという被害者意識からの視点が多数を占めると思います。ここでは戦争責任も、戦後民主主義も、1960年も、1968年も、1989年も、私の方から積極的に講義で提起しない限り存在しません。あるいは講義しても届かない場合もあります。しかし別の回路からは、「平和な日本社会」という自己欺瞞がほころびを見せています。

3.今の「危険」(リスク)から出発すること

若い世代は、私たちの世代以上にリアルな危険に直面しています。福島原発事故はまだ同じリスクを抱えて継続中です。これから何十年も続きます。しかもその隠されたテーマは、「原子力の平和利用」ではなくプルトニウム所持とその再処理技術です。他方で地球温暖化が着実に進行し、天候不順が続発しています。非正規雇用の増大とともに、就活に成功するかどうかが人生の成否の分かれ目であるかのようなプレッシャーを与えられています。東アジア諸国・インドなどの学生は野心的で勉強も熱心で、日本の若者はこうした過酷な国際競争に直面していると煽られています。このため入試改革やカリキュラムの変更など、当事者である若い世代が関与しないところで、政府や企業の手で一方的にルール変更が行われようとしています。1986年から施行される男女雇用機会均等法から30年近くたちましたが、出産―就業継続の女性の割合はほとんど変化がありません。女性の大学進学率は50%を超えましたが、欧米諸国に比べ高学歴女性のライフコースの将来設計は狭いままで留まっています。高齢社会や1000兆円以上の累積赤字など、前世代からのつけも残されています。尖閣列島問題も、集団的自衛権の解釈改憲も、こうした深刻なリスクの一つにすぎません。

最後の問題は、『現代の理論』の読者には最大の関心事かもしれません。しかし私はこの問題で決定的に大事なことは、憲法9条擁護ではなく、平和運動だと思います。1980年代初頭、当時のソ連の東欧への中距離核ミサイル配備に対抗して、NATOはドイツへの中距離ミサイル配備を決定しました。要するに、ドイツが限定核戦争の戦場になるかもしれないというリスクを目のあたりにして、旧西ドイツでは大規模な平和運動が起こりました。首都ボンの人口よりも大きなデモが2回ほど組織されました。この発展上に、「緑の党」の全国政党化がありました。現在の保守ナショナリストは、可能であれば改憲するでしょうし、それが不可能であれば解釈改憲で進むでしょう。国民の戦争へのリアルな危機意識と平和運動がなければ、「抑止力」の名のもとの地域的軍拡競争をそれこそ「抑止」することは困難です。

2014年の若者が直面するリスクの多くは、1985年―1995年の転換期における日本の構想力の不十分さや施策の失敗が遠因となっています。これがこの論文で私が最も主張したいことです。団塊の世代が40歳~50歳と社会の中堅であったわけですから、全部ではないにせよ私たちも大きな責任があるといえます。2009年―2012年の民主党政権の「失敗」も、この延長線上にあります。

2014年の視点から1985年―1995年の転換期を振り返る場合、とりわけ私たち団塊の世代の責任と若い世代が直面する問題との関係も含めて考えると、次の3つのことが重要だと思います。

(1)1985年プラザ合意により、グローバルな金融連携に日本も組み込まれます。これから後、民営化、規制緩和、貿易・資本自由化と日米構造協議など、新自由主義の波が日本を襲います。歴史的な円高や株・土地のバブルを引き起こし、1997年の金融危機からあとは、現在に至る異常な長期的デフレに陥ります。日本の対応策は業界保護や農業保護などが優先基準となり、雇用保護や生活者の視点などが、もう一つの基準となることはありませんでした。「経済大国から生活大国への転換」という課題が盛んに議論されましたが、現実は社会の市場化が進行し、とりわけ非正規雇用の増大へと展開して行きました。全体を振り返ってみると、経済のグローバル化に伴う雇用・生活保障の再構築や効果のある地域政策の視点が決定的に欠落していました。社会格差の拡大、地域格差の拡大がその結果です

(2)金権政治や政・官・業の癒着、行政官僚の劣化など「55年体制」の限界はだれの目にも明らかになり、「日本改造計画」(小沢一郎)、「平成維新」(大前研一)、「分権改革」(細川護熙)、「政治改革」などが叫ばれました。結果としてこれらは、選挙制度改革と政党助成金を軸とする、「政治改革」に集約されていきました。とりわけ1992年に設立された「民間政治臨調」(住友電気工業相談役・亀井正夫会長)は、人的資源としても政策提起としても、1993年細川非自民連立政権や2009年の民主党政権への出発点となりました。しかし2014年の視点からは、「55年体制」の構造改革が、「政治改革」と「地方分権」に絞られたことの不十分さを議論しなければなりません。

(3)1985年―1995年の転換期は、冷戦の終結や経済・金融・情報のグローバル化など、世紀レベルの変動期として議論されました。そのため、「明治維新」や「戦後改革」に次ぐ「第3の改革」というポジションを与えられました。この時代認識は誤っていなかったと思います。しかしそうであれば、「第3の改革」にふさわしい将来構想とその具体化のための戦略が必要でした。2014年の視点からは、将来構想はあまりにも市場自由主義・小さな政府・グローバル化への適合に傾きすぎていました。さらにもっと大きな欠陥は、それらの構想は、国民の広範な議論を経た結果ではなく、政治家やオピニオンリーダー、シンクタンク組織の提言にすぎなかったことです。実現のための権力構造の分析や利害関係者の調整の過程、さらには政党組織を通して国民の声を集約することもありませんでした。国民は賛成か反対かのみの選択を迫られ、小泉郵政改革や民主党マニフェスト政治も、結局は混乱と挫折に終始しました。

4.「第3の改革」が実現できなかった理由―権力と構想

1985年―1995年の「第3の改革」は、むしろ失敗の事例として分析したほうが適切かもしれません。80年代の“Japan as No.1“から、円高・バブル経済とその崩壊、そして「日本の失われた20年」と長期デフレという失敗の連続ですから。

そもそも「第一の改革」の明治維新、「第2の改革」の戦後改革は、明確な将来ヴィジョンとそれを実現する権力基盤を持っていました。

明治維新は、三谷博『愛国・革命・民主』(筑摩書房 2013年)が述べるように、王政復古という「過去」を理想として出発しながらも、しかし岩倉使節団のもとでの指導層の欧米滞在での共通体験を経て、近代集権国家建設に向かいました。「復古」が「進歩」に逆転する東洋的な「近代化革命」でした。イギリスの支援を受けた西南雄藩連合のパワーは、幕府勢力に対して優越していました。

戦後改革は、天皇を国家のシンボルとして残したうえで、日本社会を脱軍事化・民主化しようとする、アメリカの占領戦略の結果です。もちろん日々の食糧すら不足する生活を立て直し、焦土化した国土の経済復興を成し遂げ、さらには戦争のない平和国家を希求した国民の総意も戦後復興の原動力になりました。温存された経済省庁と官僚たちも、「脱軍国主義・経済大国」の路線を占領軍とともに進めました。このように、戦後改革は将来ヴィジョンとそれを実現する権力構造をともに十分にもっていました。

この視点で「第3の改革」を考察すると、こうした前提条件が全く欠けていたことがわかります。「55年体制」の変革が必要なことは広く承認されましたが、将来構想に関しては、個人や個別組織の見解にすぎませんでした。国民的な基盤も、国民との対話もありませんでした。現代では国民政党がこうした役割を果たすことになっています。しかし1990年代にイタリアの著名な政治学者、マウロ・カリーゼが『政党支配の終焉―カリスマなき指導者の時代』(法政大学出版局 2012)で結論付けたように、政党はもはや国民の多様な意見を集約する組織ではなく、首相個人や党首のパーソナルな組織に陥っています。これはイタリアだけの問題ではなく、政党政治そのものの限界・変容としてどの国でも問題となっています。

冷戦終結後にそれまでの政党システムが崩壊した国としてイタリアが有名ですが、日本も先進諸国では例外的に、イタリアに近いレベルで政党システムが激震に見舞われました。1992年に発足した「民間政治臨調」が、日本の構造改革のための政党の役割を代替していました。日本生産性本部を母体とし、労使、学者、それに日本新党、さきがけ、自民党小沢グループ、社会党・民社党、公明党などの中堅・若手政治家を集めていました。しかし民主党の統一性のない歴史観と同じで、「政治改革」と「地方分権」以外では、右から左までの価値観や多様な政策が混在していました。また「民間政治臨調」も実態は緩やかな各界・政治家のネットワークにすぎません。官僚の既得権と本気で対決し、本来の意味での政治主導のための改革を進める権力基盤はないに等しかったといえます。

1985年―1995年の「第3の改革」は、むしろ戦前軍部の失敗や、福島原発事故に至った失敗と同じ系譜の問題だと思います。「原子力ムラ」についてはすでに多くが語られていますので、ここでは川田稔『昭和陸軍の軌跡―永田鉄山の構想とその分岐』(中公新書 2011)の新解釈を参考にします。

満州事変から第二次世界大戦に至る陸軍の行動は、国民総動員と長期戦のための資源を確保し、総力戦を戦い抜くための一連の政治的(ある程度定着しつつあった政党政治を陸軍の国家に変える)、軍事的構想・戦略のもとにあったという見解です。しかしここで私が興味を持つのは、第一次世界大戦が生み出した「総力戦」を根拠とする構想や戦略があったかどうかではなく、こうした基盤となる構想が、長州閥、皇道派、統制派など派閥の力関係によって決定されていくことです。もちろん海軍との整合性もありません。さらに基本構想や戦略は、最悪の事態を想定して練り上げられたものではなく、あちこちの箇所で、楽観的かつ不完全な情報によって構成されてゆきます。そしてこれらは想定を超える相手の対応により、もろくも崩れ去るわけです。福島原発事故に至る「原子力ムラ」の失敗といかに類似点が多いかがわかります。

私たちは、丸山眞男の『超国家主義の論理と心理』や山本七平の『「空気」の研究』などにより、理念も論理もなき無責任の体系としての権力組織、したがって失敗の場合は、権力者の責任追及ではなく『一億総懺悔』になるという日本の意思決定のあり方を学んできました。しかし川田論文からは陸軍中枢には一貫した論理も構想もあったことがわかります。責任の所在も明確です。ただ彼らは「外部の検証」を持ちませんでした。冷静で客観的な検証ではなく、結論も内部者間の派閥や組織間での対立と妥協の産物でしかありませんでした。そのため、リスクの検討もつじつま合わせであり、データは集めてはいましたが(ソ連軍の近代化、総力戦に必要な資源の計算、米国との総力戦の国力の差)、多くは内部者を説得するためのご都合主義的な利用に終始したことになります。

この「外部者」を持たない(つまりあらゆるリスクは想定されているとして処理)、あるいは排除することから生じる決定的な欠陥を、1985年―1995年の転換期において検証します。

5.1985年―1995年「政治改革」の議論が見逃したこと

ここで注目すべきことは、第一の明治維新においては、それまで「くに」としてあった藩が解体され、初めて日本という国家が集権国家として実在することになった点です。実際は、自由民権運動を経て、日清・日露戦争までの長いプロセスであったかもしれませんが、それまでの「くに」に代わって、民族国家が登場したのです。第2の戦後改革においても、それ以前に存在していたのは、台湾・朝鮮半島・南樺太・千島列島、南洋群島などをふくむ大日本帝国と入植者を送った満州国であり、敗戦時には軍隊も合わせると660万人が海外に在住していたといわれています。それらが解体され、1946年末には500万人以上の海外からの引揚者をもって、戦後の小「日本国」が出発しました。

1985年―1995年が戦後世界の大きな転換期であるなら、「戦後日本」の自明性を問うところから議論を出発する必要がありました。小沢一郎らが国連PKO(平和維持活動)など自衛隊の国際貢献との関連で、「普通の国」というテーマを当時出しました。もちろんそれも一つの「戦後の自明性」を、冷戦後の国連中心の世界でどのように変更できるのか、すべきであるのかという問いでもありました。しかしここでの私の提起はこの「普通の国」の議論とは異なります。

同時代のドイツ再統一の過程を思い出してください。1989年にはベルリンの壁が崩壊し、翌年のドイツ再統一に人々は熱狂しました。当時のドイツでも「普通の国」論争が生まれ、統一によってはじめてドイツは本来のドイツを回復したという主張です。しかし当時から、「ヨーロッパの中でのドイツ」という発想がとりわけ旧西ドイツには強くあり、この中ではドイツ統一はエピソード、EU統合への一つのプロセスにすぎなくなりました。四半世紀を経た現在、ユーロ圏で経済的に繁栄する「ドイツ優位のヨーロッパ」を危惧する声もありますが、戦後の繁栄のシンボルでもあったドイツ・マルクを放棄するという決断がなければ、現在の安定した地位をEU内で得ることは難しかったでしょう。

ドイツが分裂国家であったゆえに特殊な事例であるのではなく、80年代の先進国首脳会議G7の諸国は、どこもこのようなグローバルな変動に直面していたのです。残念ながら日本の90年代の議論は、このような深さと射程を持っていませんでした。機能しない政党システムとしての55年体制や劣化した官僚・行政機構をどのように改革するか、という国内向け「政治改革」に限定されていました。グローバル化への対応や東アジアとの新しい密接な関係を築くことも、個別的な政策課題としては議論されました。しかし主要なテーマは、湾岸戦争後の日米安保の再定義や日米構造協議など、戦後の継続ともいえるアメリカとの交渉が中心でした。

私たちはあきらかに日本史のレベルでのみ考え、時代を世界史的な視野で洞察し、未来を構想する力に欠けていました。ですからこの議論も、2014年の視点からの、いわば「あと知恵」としてしか提起できないわけです。世界史的な視野とは、外部者の視点で現在の日本の問題を見るということです。1985年―1995年の戦後日本社会の転換期を、アジア全体のなかという外部者視点で見るなら、私たちは1840年のアヘン戦争までさかのぼり構想する必要があったということがわかります。その理由は次節で述べます。

進むべき道は、戦後日本が経済関係のみに限定してきたアジア諸国に対して、「東アジア共同体」を目標とする包括的な関係を作り始めることでした。それには時間がかかります。1990年代に初めても、欧州諸国のEECからEUへの発展速度をみても、2014年段階でどの地点まで達成できたかはわかりません。とりわけ人々の意識に深く根付く、偏見や外国人への恐れなどを取り除き、パートナーとしての関係を国民レベルで構築することは、非常に困難で時間のかかる課題です。だからこそ、その段階で始める必要はあったのです。EUでは1993年に発効したマーストリヒト条約において、欧州市民権という言葉が使われました。2013年のEUの世論調査(ユーロオバロメーター)では、81%の市民がそれぞれの所属する国と並んで、EU市民でもあるという意識を持っているそうです。

私たちは、日本人という意識とともにアジア市民であるという意識を持つことは現状では困難です。しかしどのような形態であれ地域経済統合を進めていけば、いずれアジア市民権という言葉が必要な時代がやってきます。しかしそのためには、日中戦争や朝鮮半島の植民地化など、戦前日本の責任を認め、相手に伝わる形での謝罪をし、問題によっては個別賠償を改めて開始するという決断も必要でした。「南京虐殺」や「慰安婦問題」は、その枠組みで対話を進めなければ双方にとっての解決にはなりえません。戦後ドイツの謝罪と賠償をみても、相手にとっての解決とは何かを優先的に考えることが重要であり、和解を進める基盤となりました。しかしそれでも最終解決はありえません。戦争責任とはいかに長期的で、繊細な対応が迫られる問題であり続けるかを示しています。

この意味での「外部者視点」、つまり中国や韓国の人々はどう考えているかという視点を原則とすることが日本にとっても重要でした。これは80年代左翼の「自己否定」論でも、ナショナリストのいう「自虐史観」でもなく、侵略―敗北した日本が、戦後世界の中で近隣諸国とともに共生していけるためのリアルな認識に他なりません。冷戦終結後の河野談話(1993年宮沢内閣)や村山談話(1995年自社連立)は、日本をアジアに着地させるための出発点となりえたかもしれません。自民党リベラル派の河野官房長官や村山首相談話に見られるように、政府中枢の政治家が自発的に日本の侵略戦争の責任を明らかにし、慰安婦問題や個人賠償など戦後責任の問題にも踏み込んだ動きもありました。またアメリカの介入で不発に終わりましたが、1997年通貨危機に際して、アジア通貨基金設立のプランもありました。こうしてASEAN+3(日・中・韓)という意味での「東アジア共同体」が、さまざまな国際会議や制度により具体化されていく時代もありました。

しかし「あと知恵」として90年代を振り返るなら、この何十倍もの政治パワーと構想力がそのためには必要でした。この間生じたことはまったく逆の方向でした。政治家の多数は、世代交代や「維新の会」などのポピュリスト政党の躍進もありナショナル保守になりました。社会も多くの出版物やツイッターの世界では、反中・反韓の言説で溢れています。在日韓国・朝鮮人に対するヘイトスピーチは、国連人種差別撤廃委員会による対日勧告案がまとめられる事態に至っています(8月末現在)。9月10日付け朝日新聞では、「言論NPO」と中国日報社の共同調査で、2014年のそれぞれの国に「良くない印象を持つ」は、93.0%(中国に対して)、86.8%(日本に対して)という驚くべき数字が報じられています。「印象を問う」という設問にも問題があると思いますが、2005年にはそれぞれ、37.9%、62.9%であったのですから、とりわけ日本の変化は、この間にバランスの取れたメディアの働きかけがほとんどなかったことを暗示しています(同時に今年初めての問いで、両国とも「心配だ」「改善する必要がある」が70%を超えている点にも注目)。安倍首相が第1期の2006年から、日中関係の改善にむけ「戦略的互恵関係」を提唱しています。しかしそれぞれの国民の不信感や敵対感覚を払しょくしなければ、単なる損得勘定となり壊れやすい代物です。

ここで注目すべきことは、企業では90年代の円高の時代からすでに日本を離れ、アジア・太平洋の時代を実践していたことです。現在、1ドル100円~105円と2年前のピーク時の80円を割り込んだときに比べれば、20円以上の円安になっています。それでも貿易赤字は続いています。要するに企業は円高対策でとっくにアジアに生産拠点を移しているからです。日本社会をアジアに開く代わりに、日本企業がアジアに出て行ったわけです。現在は、企業活動と日本社会・政治が分裂している状態です。

1985年―1995年の失敗は、今、ボディブローのように日本に負の連鎖をもたらしています。もともと「民間政治臨調」も、市場リベラル派と歴史ナショナリスト、そして一部にリベラル派と社民派が混在していました。民主党の混乱もここに起源があり、それが民主党の強みであり弱さともなりました。現在の安倍自民党政権も含めて、多くの政治家は、現在の日本の利益を守るという現状維持的な発想しか持てなくなりました。それだけ日本は余裕をなくし発想が貧困な国になりました。結果としてアメリカ依存をますます強めるという袋小路に陥っています。

クールジャパン、アジアからの観光客誘致と観光立国戦略、2020年東京オリンピックなどにより、「最新テクノロジーと自然・芸術の美しい国」として、今、日本の政官業のリーダーたちは強行突破を考えているのかもしれません。あるいは外務省テクノクラートは、アメリカ・日本・ASEAN・インドという中国包囲網で対抗し、力の和解を企画しているのかもしれません。最悪のリスクを軽く見る戦前の軍部の戦略を見ているようです。

中国や韓国に距離をおく路線は、EU中心諸国に対するイギリスの関係を見ているようです。しかし「美しく衰退する国イギリス」もEUの一員であり、なによりアングロサクソン諸国との「きずな」を残しています。日本の自称ナショナリストたちは、アメリカと並ぶ強国として登場する中国、グローバル市場拠点である韓国・台湾・シンガポール、先進国となるベトナム・タイ、人口大国インドネシアなど東アジア・東南アジアの発展の中で、自らのポジションを見つけることがむつかしくなるでしょう。そしてアメリカに対しても、東京裁判を否定する歴史修正主義を続ける限り、真の友人となることはできません。行き着く先は「アジア・太平洋の孤児、日本」であり、ナショナリストの名に値しなくなります。

「国益」という概念は、20世紀の政治共同体(民族国家)に不可欠のものでした。同時にそれは二度の世界大戦を引き起こしました。21世紀の現在も、多くの国で、また多くの地域で、そのための戦争や内乱が勃発しています。しかし、ポスト・ナショナリズムにたつ地域や政治共同体も生まれてきました。EUがその例です。EUでも生みの困難が続いていますから、まして日本では、「国益」以外の政策目標や戦略設定はむつかしいかもしれません。しかしその課題こそ本来の1985年―1995年の構想であるべきものでした。

6.西欧的価値の限界と戦後民主主義のグローバルな意義

確かに東アジア・東南アジアは、まだポスト・ナショナリズムの地域ではありません。1970年代後半から、日本はG7の枠組みで欧米諸国とともに自由貿易と西欧的価値観にたつ制度作りを担ってきました。いま日本がこのようなグローバルな課題よりも「国益」を優先する路線を明確にするなら、戦後日本が築き上げてきた最良のイメージを自ら否定することになるでしょう。ドイツが露骨な「国益」を主張しないように、第二次世界大戦の敗戦国である日本が「国益」を前面に掲げることは、愚者の政策であるといっても間違いありません。

わたしはここで「たてまえと本音」の話をしているのではありません。文字通り、平和で共生できる「東アジア」を創出することが、結果として、もっとも日本の人々および東アジアの人々の幸福につながるということを主張しているわけです。そしてそのためにはコストがかかります。またこれまでの国内の既得権や日米関係を中心に構築されてきた権力のインサイダーグループの利害とぶつかることも想定できます。鳩山政権が普天間県外移転や日米関係の相対化をめぐる政策でぶつかった壁です。そのための具体的な政策課題を練り上げ、それを実現するための戦略と日程表の作成にとりかかる必要があったでしょう。もちろん、これは日本一国の作業ではなく、複数の国との共同作業です。しかし90年代には、今よりもっと有利な環境がありました。

最適の時期は逸しましたが、今からでも私たちは日本の21世紀を、アジアの中でしかも他者の視点も含めて構想しなければなりません。ただ一つの利点は、四半世紀を経て、私たちは日本の置かれた状況をより冷静に、客観的に把握できるようになったということです。そうした前提の下では、以下の二つの補助線を引いて構想することが助けになるかもしれません。

第一の補助線は、1840年のアヘン戦争から出発して現在のグローバルな問題状況と新しいアジェンダを考察することです。いいかえれば戦後民主主義の意義を、1945年とパックス・アメリカーナの下でのみ考察するのではなく、幕末からの欧米・アジアと日本の関係を包括的におさえる中で、21世紀の役割を検討してみようという立場です。

もう一つの補助線は、市場原理主義と力の安全保障に立つアメリカとの関係だけで世界を見るのではなく、欧州も含めた西欧社会的価値観と社会・経済システムも含めて日本の将来を構想することです。そうすれば、グローバル市場化や軍事同盟としての日米安保の強化だけではなく、人々の生活保障やアジア共通の安全保障政策の必要性も浮かび上がってきます。

ここで第一の補助線である、1840年のアヘン戦争に出発点を設定することの意味を考えてみましょう。欧米列強の武力を行使した東アジアへの進出が明確になり、東洋の大国、清が西洋に敗れた年です。以後、明治維新・辛亥革命など、欧米諸国をモデルとした近代国家の樹立が東アジアにおいて模索されます。日本はいち早く「脱亜入欧」を果たし、富国強兵政策と日清・日露戦争により欧米列強の一員として朝鮮・南満に支配権を構築していきます。昭和前期の日本が欧米文明の鬼っ子であったとすれば、戦後日本は欧米の模範生となりました。

戦前・戦後を通し共通していることは、アジア諸国に対しては「欧米諸列強」あるいは「欧米先進国」として対峙してきたことです。中国がアメリカに匹敵する「大国」として登場する時代が見えてきた現在、こうした2世紀に渡る日本の特異なポジションの歴史的な意味と将来を検討する必要があります。しかし再審の場に出されるのは日本だけではありません。帝国主義の時代を担い、西欧的価値の普遍性を主張した欧米諸国も同じです。何が21世紀も継続可能なユニバーサルな制度や価値であり、何が再検討を迫られるものであるかの検証です。とすれば戦後民主主義の意義も、日本や1945年以後に限定されず、1840年からの射程でグローバルに位置付ける作業が必要となります。

戦後民主主義のグローバルな意義には、もちろん憲法9条の戦争放棄と脱軍事化も含みますが、それだけではありません。明治国家の成立のあとには、自由民権運動、大正デモクラシー、そして昭和初期の短い政党政治が続きます。1945年の日本の脱軍事社会化と民主化は明らかにアメリカ占領軍の力と占領目的に依りますが、日本社会もその平和と民主主義を受け入れ安定化させる基盤がありました。そして自由民権運動までさかのぼると、アヘン戦争も見えてきます。宮崎滔天や初期の北一輝など、自由民権運動の影響を受けた世代は、中国人のための中国革命を支援しています。アジア主義の系譜は、日中戦争後は三木清らの東亜共同体論や大戦末期の大東亜共栄圏に行きつきますので、今日からの評価はむつかしいところです。しかしアヘン戦争・明治維新・自由民権運動・大正デモクラシー・アジア主義・戦後デモクラシーの系譜が成立するのか否かが、2014年の現在、問われているといえます。言いかえれば日本の戦後デモクラシーが、一国を超える柔軟性と発展能力があるかどうかです。ここで戦後デモクラシーとは、欧米起源の自由で多元的な社会に立脚するデモクラシーの意味です。

第二の欧州社会という補助線はどうでしょうか。過去30年ほど、経済・金融のグローバル化が時代の流れとなり、日米構造協議においても、アメリカを基準として規制緩和や完全な自由貿易の交渉が進められてきました。しかしEUを含めると、地域経済圏の形成というもう一つの流れが見えてきます。さらに地域経済圏とは、EUにみられるように、たんに市場・経済統合であるだけではありません。もう一つの柱として歴史や価値観の共有という文化的側面や、20世紀を通して発展してきた社会的な諸権利を発展させるという要請も伴います。

このことは現在のTPP交渉を見るとき、非常に重要な論点です。TPPが単なる自由貿易とサービス・金融・情報のグローバル・スタンダード化(アメリカ基準へ)ということであれば、それが私たちにとって経済的に損か得か、という判断基準でしかありません。結果として官僚・業界団体・専門家の間での交渉に依存することになります。私たちの発言権は、せいぜい、消費者として有利か不利かという論点に限定されます。しかし地域経済統合とは、同時に文化的・社会的価値観の共有でもあるとするなら、私たちはTPPに対する自前の判断基準を提示することができます。

この2つの補助線は相互に無関係のように見えますが、実は密接に関連しています。

21世紀の東アジア・太平洋の新構想にヨーロッパ世界をもって来るということは、パクス・アメリカーナという第二次大戦後の世界だけではなく、19世紀帝国主義時代を含めて、欧米とアジアの関係を考えようとすることを意味します。ここで最初に述べた「社会的ヨーロッパ」という補助線を引いて発想することの重要性が生きてきます。私たち全共闘世代は、マルクス主義や社会主義の影響を受けた最後の世代であることも関係して、80年代からのネオリベラルの台頭には、常に批判的な観点から考察してきました。もちろんEUも、市場統合と社会的ヨーロッパの理念という二つの柱を設定しながらも、現実には経済・通貨統合が先行し優先されています。しかし1961年に制定された「欧州社会憲章」、1993年に発効したマーストリヒト条約の欧州市民権、また2000年に公布され2009年に発効した「欧州連合基本権憲章」では、基本的人権、労働権と社会保障を中心とする普遍的な権利を宣言しています。

後者の「基本権憲章」は7編54条の構成の中です。そのうち最初の6編は、尊厳、自由(難民庇護を含む)、平等(性的指向、すべての差別の禁止、子供と高齢者の権利など)、連帯(平等な労働条件、不当解雇保護、医療、生活保護、住宅扶助など社会的権利と労働者の権利)、市民権(欧州議会の投票権、域内移動の自由など市民の権利として身近なものにする)、司法(法的救済、司法の権利)からなります。

19世紀からアジア諸国にとって欧米とは、軍事力を背景に自国の植民地化、あるいは半植民地化にしようとする帝国主義諸列強でした。しかし同時に、先進技術と産業発展、近代国家制度、法治国家と立憲主義、伝統的社会から個人を解放する自由・平等の理念など、のちには社会主義の理想も含め、アジアの国々が近代化の目標とすべき先進国モデルでもありました。それから約2世紀が経過し、欧米モデルの普遍化、近代化の時代は少なくとも東アジアに関しては終了しました。工業化、市場経済と資本主義、自由な企業制度、近代国家、憲法体制、身分社会から近代社会へなど、数多くの欧米モデルが実現されました。他方で、基本的人権、法治国家、デモクラシー、個人の親密圏や市民的公共性の保障など、中国を筆頭に不十分のまま残された領域もあります。さらにはアメリカ発のネオリベラルの台頭により市場優位社会が復活し、欧米諸国においても20世紀に獲得された労働権や社会権が後退している領域もあります。近代化の到達段階の時間的なずれではなく、進むべき方向性自体が多様になってきていることも想定しなければなりません。

西欧社会は、戦後においては冷戦時代ということもあり、自由やデモクラシー、社会的公正など普遍的価値を掲げて世界のヘゲモニーを争いました。その背景には、力による支配という裏付けがあったにせよ、法や理念が単なる隠れ蓑であるだけではありませんでした。地域や国より、デモクラシーや法の支配、基本的人権の保障などに濃淡の差がありましたが、目標や価値としては共通の理解がありました。19世紀・20世紀前半の帝国主義的分割と戦争の時代を引き起こしたのは西欧諸国でしたが、同時にそこから学び、20世紀後半は基本的人権、デモクラシー、国際平和などが共通の理念や価値観として承認されつつありました。1944年国連憲章や1948年世界人権宣言などがその成果といえます。

西欧から生まれたこうした価値は、今でもグローバルな妥当性を持ち、国境を越えて承認されています。しかしいくつかの国や地域では、それらの支持者は少数派の地位に追い込まれ、宗教的原理主義や19世紀型の民族戦争に先祖返りする傾向もみられます。「アラブの春」とイスラム原理主義、さらには軍部独裁とは隣りあわせであり、クリミア半島のロシアへの編入は、冷戦後の旧ユーゴスラビアの「民族浄化」テロと内乱を想起させます。

欧州社会モデルも、今やアジアでそれを担う国、あるいは勢力が存在しなければ、欧州だけに限定されその普遍的な意義を喪失する恐れがあります。基本的人権、法治国家、社会権、市民的公共性が、今や普遍性を持たないといっているのではありません。それが制度や権利として実質的に保障されているかどうかは別にしても、少なくともこうした諸価値を普遍的なものとして承認し、その実現を目指すグループや勢力はアジアのどの国にも存在しています。問題はそうした勢力が、知識人や小政党、メディアの一部に限定されており、将来的に民主化や西欧化が社会全体に拡大する可能性は、現段階では高くはありません。中産階級が増加すれば西欧モデルの市民社会が実現するという見解と、それでも宗教原理主義、独裁や権威主義体制、あるいは一部の突出した巨大企業体制に向かうという見解が拮抗しています。

振り返って日本を考えると、日本の西欧化はもはや引き返しが不可能なほど展開されているともいえます。これは社会権や市民的公共性よりも、商業化された社会、個人化や都市化が進んだ社会という意味です。欧米との比較では伝統社会の束縛を多く残していますが、個人の価値観の多様性、社会の多元性と多様な団体、地域の豊かさなど、戦後日本社会が達成した資産と遺産とでもいえるものが数多く存在します。今1985年―1995年の転換期に実現できなかったことを、「あと知恵」としてこれから段階的に実現しようとするなら、21世紀日本のアジアにおける役割が見えてくるはずです。それはおそらく『現代の理論』がその当初から目指してきたものと大きな違いはないと思います。

7.最後に:若い世代へのアピール

現在の若者は、1945年も1960年も1968年も1989年も知らないと言っておきながら、1840年をもちだすことに違和感があるかもしれません。同時代の体験がないのなら、1840年も、1868年も、1945年も、1989年も一つの塊として新しく考えることはできないのだろうかということです。何の先入観も思い入れもなければ、私たちの世代とは異なる視点と発想で、東アジアの200年を受け入れる新しい歴史像を持つことができるかもしれません。

ただし現在の2チャンネルなどデジタル空間の言論、それに雑誌メディアを中心とする嫌韓・反中の氾濫状況をみると、この中で「外部者視点」を持つ若い知性が生まれるのかどうか悲観的にもなります。若い世代の人間関係や情報源の中心であるSNSはどうでしょうか。

外部者視点を持つためには、日本の若者に人気のツイッターやLINEはあまり適切ではないかもしれません。ツイッターは、特定の著名人(たとえばフォロワー数が圧倒的である橋下大阪市長や安倍首相など、とりわけ安倍首相はプロフェッシナルの手で活用していると想定できる)のフォロワーになり、同じ見解を増幅して聞くことになるかもしれません。LINEも基本的にはすでにある友人間でのメール回覧ですから、最近しばしばその弊害が指定されている、グループ内の空気を読むという傾向がさらに強化されるかもしれません。外部者視点や海外にも開かれたネットワークという点では、おそらくface bookが最も望ましいと思います。

わたしはどちらかというと、face book はその成立からしてあまり好きではありませんでした。創始者のザックバーグなどハーバード大学のエリートたちのネットワークとして発足し、当初はアングロサクソン系のエリート大学のネットワークで拡大していったのですから。しかしこの間、アラブ、アフリカ、アジアの学生たちの間に拡大してゆきました。外部に開かれた情報交換という点では、またネットワークの拡大という点では、おそらくもっとも適切なメディアではないかと思われます。ですからface book で、できるだけ日本人だけではなく、国内・海外に住む外国人と英語で交流するようになれば、政治経済問題の見方、社会問題の考え方は飛躍的に拡大すると思います。

次にお勧めできることは、自ら進んで海外に行くことです。考えてみれば、私たち全共闘世代には「ベ平連」は身近な存在であり、その呼びかけ人の一人であった小田実は、欧米と中東・インドを放浪して『何でも見てやろう』を1961年に書きました。この本はまだ中学生であった私たちに大きな影響を与えました。私たちもその気になれば世界を一人で旅することができると。未知の世界を直接体験することができると。

もっとも海外の体験をした人が、ここで述べてきた「アジアの中での日本」に貢献できるかどうかはわかりません。海外生活を体験すれば、当初は多かれ少なかれナショナリストになります。それだけ80年代までの戦後日本は、自分たちの過去に無自覚のまま繁栄してきました。「失われた20年」ではそのトーンは下がったかもしれませんが、逆に屈折したナショナリズムが強くなったかもしれません。これにアメリカに留学したエリートたちが、ネオリベラルの台頭をそのままで新しい時代の流れとして摂取したとき、屈折したナショナリストの誇りとネオリベラルの市場主義という最悪の結びつきができました。留保をつけず国益を追求することと、自由競争・自己責任の世界観を一つに体現化すること、それが若き政治家やエリートたちの自画像になるからです。

2014年の若者は、アメリカだけではなくアジアやヨーロッパにも同じように関心を持ち留学するとすれば、事態は少し変わるかもしれません。しかしその場合でも問題は残ります。シンガポール、韓国、中国などダイナミズムをもって成長している国では、若きエリートたちはアメリカ以上にアメリカ的競争万能主義の影響を受けた人々だからです。

どちらにしても、男女を問わず青年には好奇心と知性のタフさが必要です。またこうした能力を自然と持っていることが若さの特権でもあります。もうひとつ若さの特権とは、悲惨な現実に直面したとき、共感の感情や正義感を呼び起こす潜在力を持っていることです。幸いなことに、日本の戦後教育や戦後社会のある種の「やさしさ」の遺産として、日本の若者は欧米諸国や新興アジア諸国のエリート意識の強い若者と比べ、庶民感覚で行動する感覚を持っています。私たちの世代もなおもこうした共感や正義感では若者に負けない気持ちですが、いかんせん行動力が伴いません。

『現代の理論』がデジタル版として再刊することの最大の意義は、こうした新しい世代の知的好奇心を少しでも刺激できるような素材、コラムや論文を提供することにあります。それがある程度、実現できれば、次には双方向の対話の可能性も出てくるかもしれません。若者の提起に刺激を受け、もう一度、新しく考えてみる。その程度には私たちの世代もまだまだ柔軟です。デジタル版『現代の理論』が少しでもこのような世代を超えた、国境を超えた、そして人々と地域を結び付ける言論空間を実現できるなら、それは私たちにとって最大の喜びです。

すみざわ・ひろき

1948年生まれ。京都大学法学部卒業の後、フランクフルト大学で博士号取得。現在、日本女子大学教授。本誌代表編集委員。専攻は社会民主主義論、地域政党論、生活公共論。主な著作に『グローバル化と政治のイノベーション』(編著、ミネルヴァ書房、2003)、『組合―その力を地域社会の資源へ』(編著、イマジン出版 2013年)など。

特集・次の時代 次の思考 Ⅱ

第2号 記事一覧

ページの
トップへ