「現代の理論」(デジタル)論文アーカイブ(再録)   デジタル6号(2015.11.1)より

今に続く「琉球処分」―歴史と現在

植民地沖縄が告発する日本の人権侵害

沖縄キリスト教学院大学名誉教授 大城 冝武

はじめに

「琉球処分」という歴史用語は明治政府の行政用語である。1979(明治12)年前後の「琉球―日本」の「国際」関係の事件を表す用語である。特に「廃藩置県」を指す言葉として人口に膾炙してきたが、近年論調に変化が生じている。我部政男(1997)は「琉球処分」について「明治国家の琉球併合」と主張している。西里喜行(2004)は「廃藩処分」を「廃琉置県処分」し、これを「琉球併合」と捉えている。波平恒男(2014)は「琉球藩処分」または「廃藩置県」処分としての「強制併合」としている。後田多敦(2014)は次のように述べている。

「日本の明治政府によって「琉球処分」と呼ばれた十九世紀末の琉球国併合は、琉球側からすれば国家の解体・滅亡の過程であり、この事件を明治政府の名づけで呼ぶことには課題が残る」(96頁)と主張している。

このように、処分から併合へと論点のパラダイム変換が生じているのである。

本論では、併合を超えて植民地の視点を導入している。吉田健正(2007)は「沖縄は軍事植民地である」する矢内原忠雄(1957)の論稿を自著の巻頭に引用し「軍事植民地沖縄」論を展開している。「琉球処分」後の沖縄の政治社会状況を「植民地」としてとらえる視点を平良勝保(2011)は示している。松島泰勝(2012)は「日米の植民地である琉球の人民」(ii頁)と述べ、琉球(沖縄)の状況を「植民地」であるとの認識を提示している。

1.「琉球処分」再考

琉球国は琉球処分の前哨として幕藩体制下の薩摩藩島津の襲来にさらされていた(1609年)。琉球国を武力で制圧した島津は、尚寧王以下国の高官を捕虜とし薩摩に連行する。ついで尚寧王の一行は、徳川家康および二代将軍徳川秀忠と謁見している。家康は琉球国を薩摩に賜った。薩摩藩の島津家久は琉球国王以下に「御法度」なる服従約定に従う旨の「起請文」を提出させた(1611年)。同時に「掟一五カ条」を布達した。一人謝名親方(鄭迵)のみ「起請文」提出を拒否し死刑にされた。「起請文」には歴史的に事実無根の文言が見られる。たとえば「琉球国は昔から薩摩の属領でありました」。政寧王以下琉球の高官たちはこれに服したのである。

「掟一五カ条」は苛斂誅求を極めた。

大城喜信(2013)は「起請文」について「家久が琉球国の主権を奪取して意のままに琉球国を支配する意思が読み取れる公文書である」(24頁)と述べている。また「掟一五カ条」については「琉球の財産を根こそぎ強奪する意図が明記されている公文書である。」(同)とし「この二つの公文書こそ一六一一年から現在に至るまで、四百年以上の長期にわたってすべての琉球人を呪縛し続けて、琉球国の運命を決定した最も注目すべき重要な証拠となるものである。」(同)と主張している。これらの文書は公的には現在も生きている。

19世紀中葉、西欧の列強はアジアに進出し蚕食しつつあった。琉球国は米国、フランス、オランダと条約を締結した「独立国」であった。ペリーは琉球国を経て日本国に至り日本国の開国を迫った。時あたかも「尊王攘夷」と「勤皇佐幕」の対立が激化し明治維新(明治革命)へと政治体制が激変する。この変動の狭間に「琉球処分」問題が出来するのである。

維新祝賀のために上京した琉球使臣に対して、天皇は尚泰王を「琉球藩王」に冊封する詔書を交付した。1872(明治5)年のことである。もともと琉球王の権力の源泉は中国皇帝にあった。つまり「朝貢―冊封」関係の中で確立したものであった。尚泰王は3歳で王位に就き、19歳で冊封された(1866年)。明治政府(明治天皇)による琉球藩王冊封は琉球国を、王政復古なった天皇体制へ琉球を臣従させるものであった。これは「廃藩置県」への伏線であった。藩王に封じることで、西里(2004)は「一方的に琉球王国を琉球藩とし」(229頁)としているが、この詔書に「琉球藩」立藩の文言は認められない。「琉球藩」というのは歴史的な虚構である(大城冝武、2014)。

明治政府はあたかも「琉球藩」があるかの如く琉球国統治施策を実行した。「琉球藩」が存在しなければ「廃藩置県」は成り立たない。

琉球王の冊封と琉球藩王の冊封とは、日清両属の構図を際立たせる。明治政府は松田道之(内務太政)を琉球国に出張せしめ、清国への朝貢を止めること、冊封を受けてはならないこと、明治の年号を使用すること、等を命じた(明治8年)。明治政府は清国との通行を禁じ日清両属体制を廃し、日本専属を企図した。外交権の奪取である。明治年号を遵奉することは天皇制の下に服することを意味する。したがって、琉球政庁はこれを遵奉しなかった。そこで明治12年1月、再び松田に出張を命じ、最後通告を突き付けたが琉球国の反応は頑なであった。同年3月、内務大書記官に就いていた松田道之は処分官として来琉した。

なぜ琉球国は日本国に「処分」されなければならなかったのか。明治政府の「琉球処分」の論理は、天皇への不恭順の処罰、である。琉球国からすれば理不尽な所業である。松田道之は32人(42人の説もある)の内務官僚、160余名の警官、熊本鎮台分遣隊、を率いて「廃藩置県」を令達した。「琉球藩」の廃藩置県は明治維新(明治革命)の最後のピースの完成を意味する。日本史の中で言えば、天皇から安堵されていた版籍(土地と人民)を返還する過程を踏まなければならない。形式的には自発的に、実際は強権的脅迫によって。この事件は日本国が富国強兵策によって政治体制としては帝国主義的段階に来たことを意味するだろう。そして琉球国はその最初の植民地とされた、と解釈できる。やがて朝鮮、台湾、満州の併合、南洋諸島の植民地化政策が遂行されていくことになる。

2.沖縄植民地

沖縄県に関連する、米軍関係の事件や事故とそれをめぐる処理、政治問題等、総じて「沖縄問題」が露見するたびに、米軍の占領者意識だとか沖縄は植民地かなどの憤懣が噴出する。沖縄人(?)は、自らを独立国日本の住民だと無意識に思っている。沖縄が「植民地である」ことに無自覚である。沖縄は明治期に日本に併合、植民地化されたとは考えもしない。また、サンフランシスコ講和条約を機に、米国の植民地下に落とされ、かつ米国から日本国への沖縄の「施政権返還」後、沖縄・日本・米国のいびつなトライアングル構造の国際関係の中で「植民地」であることにも気付いていないように見える。己が植民地の住民であること気づけば「独立」の思想や運動が芽生えるであろう。このような沖縄の状況は「日米安保条約」によって日本が米国の「植民地」になっていることに無頓着な日本人と同列であろう。

サンフランシスコ講和条約第3条をつぎに掲げる。

日本国は、北緯二十九度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む。)孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む。)並びに沖の鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託統治制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。

この条約第3条こそ日本国が沖縄を米国に割譲し、米国は司法立法行政の諸「権利」を行使する、すなわち「植民地」支配することを許容する源泉である。見ようによっては「琉球処分」の様相を呈する。しかし、この場合「処分」の名分はない。しかし、天皇裕仁(昭和天皇)は、1947年9月にいわゆる「天皇メッセージ」を宮内庁御用掛の寺崎英成を通じてシーボルト連合国政治顧問に伝えていた。沖縄の永続使用を提案するものであった。
(http://www.archives.pref.okinawa.jp/collection/2008/03/post-21.html 沖縄県公文書館参照のこと)

この文書によると、天皇は私利私欲(self-interest)の為に沖縄を米国に差し出す趣旨の提案をしていたことになる。そして条約第3条は天皇裕仁の要望に沿っていたことになる。1879(明治12)年、明治天皇によって「廃藩置県」(「琉球処分」)が断行されたように、1952年発効の講和条約は沖縄を切り捨てたのである。裕仁天皇(昭和天皇)の意志によって「琉球処分」されたのである。実際には実現しなかったが「信託統治処分」であり、実質な植民地として米国に割譲されたのであった。沖縄県は消滅し、「琉球」が誕生した。

米国は国際的に獲得した権利を存分に活用し、軍用地として「剣とブルドーザー」でもって土地を接収し、人権を蹂躙し、財産を奪った。これらの事態は沖縄住民の「祖国復帰」気運を醸成したものと考えられる。当時、天皇メッセージは沖縄の住民に知られていない。ともかく紆余曲折を経て1972(昭和57)年に施政権は日本に返還された。「沖縄県」が復活した。では処分は撤回されたのか。

講和条約によって、日本は占領から抜け出したが、条約調印と同日に締結された「日米安保条約」によって日本国もまた米国の植民地となったのである。もちろん、条文には「植民地」云々の文言はない。そのためか日本人は自国のポジションに無自覚である。安保条約には米国の特権を認め、米国の行動に対して日本国が手を出さないことを認める「地位協定」が付随している。沖縄住民の地位協定改定の要望に政府は関心を示さない。それは日本国が米国の植民地であり、かつ沖縄が日本国の植民地であるからである。日本国は宗主国の米国に何らの主張もしえないでいる。

地位協定が沖縄住民を苦しめる。米軍の理不尽な行動、例えばオスプレイの配備とヘリパッド基地の建設、辺野古埋め立てによる新米軍基地建設などが強行されつつある。とりわけ辺野古新基地建設は米国の外圧を梃子にして、強権的に工事を強行している。形式的には,当時の植民地エリート仲井眞弘多知事の辺野古埋め立て承認がある。仲井眞弘多は日本国に隷従し、日本国からの何がしかの振興策や予算、普天間基地の5年以内の閉鎖等の飴に狂喜して見せた。しかし、続く選挙で翁長雄志候補に敗れた。翁長雄志新知事は埋め立ての取り消しを表明した。(2015年9月14日)。翁長雄志は踏みとどまることができるだろうか。政府ペースの非生産的な交渉を続けて「苦渋の選択」と言い訳にしつつ政府の軍門に下るのだろうか。翁長は日米安保条約を容認する。ここで、昨年の沖縄県知事選挙で喜納昌吉候補が「取り消し」ではなく「辺野古承認撤回」を公約に掲げて、翁長候補に挑んでいたことを想起するのは無駄でないだろう。

植草秀一(2015)はそのブログで「辺野古問題の「核心」は、国が本体工事に着工することを、翁長知事が阻止できるかどうかにかかっていると言って過言でない。」と述べ、工事着工前の埋め立て承認取り消し、ないし撤回を強調し、政府との事前協議は「すべて本体工事着手実現へのアシストだった?」と疑念を示していた。
(http://uekusak.cocolognifty.com/blog/2015/07/index.html 7月28日、31日参照)

昨今、中国の脅威を煽り、沖縄県の八重山や宮古に自衛隊を常駐させ抑止力を企図するが、抑止力幻想そのものが中国と日本の緊張を高めているのである。辺野古基地建設の遂行は高度に緊張を高めることになるだろう。

3.沖縄基地問題は人権問題である

辺野古新基地建設問題は、現在の「琉球処分」の象徴として位置付けることができる。

なによりも、植民地統治の暴政としての象徴であろう。植民地化された地域の住民にとって、よほどのことがない限り、植民地身分からの解放が第一の要諦である。「琉球藩」に対する「廃藩置県」(狭義の琉球処分)は、明治政府による琉球国の簒奪、併合と再定義されるが、一歩踏み込んで、琉球/沖縄を日本国の版図としながら実質「植民地」化したのだ、と考えたい。辺野古問題は「宗主国対植民地」の枠組みで捉える必要がある。

沖縄植民地の宗主国である日本国自体が米国の植民地(属国または従属国、との説もある)であるので、植民地エリートである日本政府は米国の意図を忖度し、「自発的従属」を旨として沖縄に強権的に振る舞う。普天間基地の移転に関して、日本政府も仲井眞弘多知事(当時)政府も自民党沖縄県連も「危険性の除去」を理由として辺野古に新基地を建設する政策を推進していた。この主張には反知性が濃厚である。危険性の除去なら、基地の撤去がコモンセンスあろう、移転ではなく。移転先として「辺野古を含むあらゆる可能性」を考えて「辺野古しかない」として埋め立てを認可したのが仲井眞弘多であった。2014年11月の知事選挙で翁長雄志は勝利を得たがその時のインタビューで次のように述べていた。

―何が有権者に支持されたか。

「沖縄県民としてのアイデンティティだ。変わらない基地の重圧に対しオール沖縄や保革を乗り越えて当たってほしいという県民の想いに応えられた」

―普天間飛行場移設問題で政府とどう向き合うか。

「まずは、真実の声を届けたい。県民は民意を出した。日本国民全体で日本の安全保障を考え、国土の0.6パーセントの沖縄に74%の米軍基地をおしつけてはいけないよと申し上げたい。」

―埋め立て承認の取り消し、撤回についてどう考えるか。変更申請に対する対応は。

「埋め立て申請を厳しく調査したい。取り消し、撤回に向けて県民の心に寄り添って断固とした気持ちで取り組みたい」変更申請も私なりにしっかり審査して名護市と意見調整しながら知事の権限を行使したい」(『沖縄タイム』2014年11月17日)

辺野古基地建設着工前に政府と沖縄県は「事前協議」することが付帯条件となっていた。

沖縄県は沖縄防衛局に「意見聴取」を求めたが、応諾せず、「聴聞」を要求した。防衛局の申し出に応えて沖縄県は「聴聞」を設定したが、防衛局は「文書でもって回答している」との理由で欠席した。聴聞は国対国民(私人)の場合に適用されるものであるが国は私人(私企業)に成り済まし作戦のようである。承認取り消しの前の「意見聴取」の機会や「聴聞」機会を放棄しているようである。あくまで、防衛局は法的身分を「会社」と同じものと強弁するつもりらしい。三宅俊司弁護士は「行政不服審査を国が乱用していると批判している(『沖縄タイムス』 2015年10月4日)。

この間、翁長雄志知事は国連の人権理事会に出席し演説した(ジュネーブ、9月21日(現地時間))。2分間のスピーチで長いものではない。一部を引用する。

このように沖縄の人々は自己決定権や人権をないがしろにされています。
自国民の自由、平等、人権、民主主義、そういったものを守れない国が、どうして世界の国々とその価値観を共有できるのでしょうか。(『沖縄タイムス』2015年9月22日)

この演説で、沖縄の基地問題は新たなステージにステップ・アップした、といえる。世界の国々は軍隊を持ち、軍備を整え、軍事基地を確保している。そのような中で「基地反対」では、世界の支持はおそらく得られない。翁長の国連人権理事会での演説は、沖縄の基地問題は人権問題へと、より普遍的な問題へと異次元の飛躍を成し遂げた。翁長は「私は、あらゆる手段を使って新基地建設を止める覚悟です。」(同)という演説は「人権」と「自己決定権」をベースとすることによって、世界の共感を呼ぶ主張になるだろう。翁長は「自己決定権」を主張するが沖縄の「独立」を直ちに主張するものではない。沖縄県議会9月定例会で「新基地建設に反対することが独立の志向に直ちに結び付くものではないとの考えを示した。」(『琉球新報』2015年10月3日)。

佐藤優は、翁長雄志の国連演説について「歴史的、政治的に大きな意義を持つ」と書いている。(『琉球新報』2015年9月26日、佐藤優のウチナー評論400)その理由は「まず第1に沖縄県の民意によって選ばれた沖縄の最高指導者が史上初めて、国連の場で沖縄の自己決定権に基づく自己主張をしたことだ。」(同) 第2の理由は2分間という時間で「文法的に正確な英語で、沖縄が置かれた状況を過大な形容詞や修飾語を用いず力強く訴えた」ことである(同)。簡潔にアピールしたということであろう。翁長の演説はテレビニュースで何度も放映されていた。

日本政府の嘉治美佐子次席大使は流暢な英語で翁長雄志の演説に反論した。中でも「軍事基地の移設問題を人権理事会で取り上げるのはなじまない」とするものであった。対して翁長は記者会見で「基地問題が一番大きな人権問題だ」と反論している。佐藤優は「翁長演説に対する外務省(在ジュネーブ国際機関日本代表部)の対応は、特命大使小田部陽一大使ではなく、格下の嘉治美佐子次席大使に反論を行わせたことに象徴されるように腰が引けている」(佐藤、同)と揶揄している。佐藤は、嘉治が反論を行なったのは本国からの「訓令」に従った、嫌々ながらの反論だったのではないかという趣旨の発言をしている(沖縄キリスト教学院大学で開催の講演会、2015年9月26日)。

翁長雄志は知事選の公約に国連で辺野古問題を訴えることをあげたが、国連演説の実現は一朝一夕でできたのではなかった。照屋みどりは次のように述べている。

今回の翁長知事の国連演説・シンポジウム実現をけん引したのは「島ぐるみ会議」だ。そして、その背景には1996年の大田昌秀元知事の代理署名訴訟の最高裁での敗訴後、日本国内での解決は困難と考え、沖縄の問題を国連へ報告し続けた国連NGO「琉球弧の先住民族会」等の粘り強い活動があるといえるだろう。(『沖縄タイムス』2015年9月28日) 

日本政府は、辺野古が唯一の選択肢と強弁する。辺野古基地建設運動を推進する自民党の島尻安伊子参議院議員を安倍晋三総理大臣は沖縄・北方科学技術大臣に据えた。翁長知事の国連演説へカウンター・パンチを繰り出すのだろう。沖縄のことわざに「ウイナゴー戦ㇴサチバイ(女性は戦争の先駆け)」というのがある。島尻は辺野古問題では反対派取り締まりの急先鋒である。海上保安庁や警察に働きかけ、反対派住民の人権を蹂躙するのであろう。植民地エリートの尖兵である。

しかし、事態は動きつつある。辺野古に関して、米議会調査局は報告書を提出した。次のような内容が含まれている。

東京と沖縄の論争は新たな段階に入りつつある。激しい政治闘争の局面につながる可能性がある」と懸念を示した。(時事通信、10月7日(水)8時18分配信)

移設反対派が抗議活動をエスカレートさせ、過激な手段に訴えるかもしれない」と警鐘をならした。(同)

「辺野古が唯一」論に揺らぎが始まったのかもしれない。また、「辺野古が唯一の選択肢」との文言が含まれていた条文から、これが削除された形で国防権限法が可決された」(『琉球新報』2015年10月9日)という。国分権限法とは米国の国防予算を決めるために毎年作成される法律である(猿田佐世「辺野古削除が持つ意義」『沖縄タイムス』2015年10月9日)。猿田はこの文言削除のロビー活動について次のように記している。

これまでこの文言を取り除くためロビーイングを、沖縄の国会議員、首長、県議、経済界等の方々が展開してきた。精力的に働きかけた皆さまの努力と、また変化を可能にしたオール沖縄全体の力強さに敬意を表したい。(同)

おわりに

1945年日本は連合国に降服し、翌年には日本国憲法が発布され、主権在民が日本国に新しい政治体制をもたらした。当時の沖縄は米軍の占領下にあり、日本国憲法は沖縄に効力を及ぼさなかった。サンフランシスコ講和条約が発効した1952年4月、第1回立法院議会において新垣金造議員は「主権在琉球人」を発議した。しかし、他の議員たちは自らを「日本人」であるとして新垣金造の政治および人権の主張を潰した。そして、自ら進んで「日本復帰」の迷路に嵌まり込んで行くのである。日本国は沖縄住民の間に反目を植え付け、住民を離反させ植民者の強権を揮い続けるのである。

明治時代の「琉球処分」は「廃藩置県」であったが、昭和の「琉球処分」は天皇メッセージを起点とするサンフランシスコ講和条約による「琉球植民地化」であり、いまに続く。

日本の政治状況を米国の「属国」と指摘する識者が台頭しつつある。日本国が米国の走狗になるのでなく、独立国を取り戻す、あるいは独立を創生する思想と行動の練達が求められる。基地問題は人権問題である。今こそ沖縄の知性たちの思想の錬磨が期待されるのである。「琉球処分」を超えて、「植民地」支配を超えるために。

参考・引用文献

・我部政男 1997 「明治国家の琉球併合――琉球処分の政治過程――」『人文研紀要』(中央大学人文科学研究所) 25-76.

・木山竹治 1925 『松田道之』鳥取県教育会、岩美郡教育会

・西里喜行 2004 「8章 琉球国から沖縄県へ――世替わりの諸相」安里進、他(編著)『沖縄県の歴史』山川出版社 227-254.

・波平恒男 2014『近代東アジア史のなかの琉球併合』岩波書店

・沖縄大百科事典刊行事務局(編)1983『沖縄大百科事典』上中下 沖縄タイムス社

・大城喜信 2013「尚寧王の起請文と薩摩の掟一五ケ条」『うるまネシア』第16号 24-27.

・大城冝武a 2014 『日本植民地国家論』琉球館

・大城冝武b 2014 「虚構の「琉球藩」」 『うるまネシア』第17号 86-95.

・吉田健正 2007 『「軍事植民地」沖縄』高文研

おおしろ・よしたけ

沖縄キリスト教学院大学名誉教授。社会心理学、意味論、マンガ学、戦後沖縄社会思想。著書に『日本植民地国家論』Ryukyu企画(2014)など。論文に「大学生における沖縄の社会状況の認知に関する研究・3」(『沖縄キリスト教学院大学論集』第8号 41-49)など。

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