特集 ●歴史は逆流するのか
「復帰」50年 沖縄戦後史に立ち返る
生活に入り込む「ソフトな歴史修正」に抗いながら
新聞うずみ火記者 栗原 佳子
「異音」としてのつぶやきを聞く
沖縄現代史研究の第一人者として知られる故新崎盛暉さんは、米軍政下の沖縄の戦後史を総括した「沖縄戦後史」(岩波文庫、1976年、中野好夫氏との共著)でこう記した。<復帰後沖縄の現実をつくり出してきた要因は、実は戦後沖縄の歴史のなかに胚胎していたといえる。したがって、復帰後沖縄の現実について深く考えてみようとすればするほど、もう一度、沖縄戦後史に立ちかえってみる必要が出てくる。そしておそらくそのことが、沖縄問題の将来を見とおす場合にも、必要不可欠のことであろう>。この指摘を思い起こさせてくれたのが謝花直美さんの労作「戦後沖縄と復興の『異音』ー米軍占領下 復興を求めた人々の生存と希望」(有志舎)である。
「沖縄タイムス」記者として30年にわたり沖縄戦、沖縄戦後史を取材してきた謝花さんは2010年、一念発起して1年間休職、大阪大学大学院の門を叩いた。記者活動と並行して研究も深め、18年に博士号を取得した論文を再構成し、昨年この本を上梓した。
時代は沖縄戦から米軍占領初期。生き延びた命をつなぎ、それぞれの場所で「復興」を目指した人々を主人公として描く。生きるために人々はどの場所で、どのような経験を重ねてきたのか。沖縄の戦後史が「島ぐるみ闘争」や「復帰」運動など民衆の抵抗が中心に書かれてきたのに対し、謝花さんは「主流の歴史」の後景にいた人たちに照準を当てている。その人たちは「戦場や占領の傷がそのまま残る場所」にいたのが共通している。
例えば「ミシン業」に従事した女性たち。米軍基地に土地を奪われた本部(もとぶ)の女性たちや「戦争未亡人」たちは生きるために技術を習得し、手内職の「既製品」を露店で立ち売りし、やがて那覇市の「新天地市場」という場を獲得していった。同郷者を呼び合う「共助」。洋裁の講習所は、占領の暴力にさらされる軍労働を逃れた女性たちが自立をめざす居場所でもあり、困窮する「戦争未亡人」らの福祉も担ったという。
移動、労働、食糧などが通底するテーマとなる。1944年10月10日の「十・十空襲」で9割が焼失する被害を受けた旧那覇市は全域がほぼ軍用地として接収され、住民は収容地区から長く帰還できず、離散を余儀なくされていった。特に、いまも故郷のほとんどが那覇軍港の中にある「垣花」地区の人々の軌跡をたどる。旧具志川市の「金武湾(きんわん)区」、那覇軍港で就労した那覇港湾作業隊の「みなと村」。垣花の人々はもともと港湾労働者が多く、軍労働に就くことで移動を強いられた。重い軍労働に参加できない高齢者や女性は収容地区に置き去りにされ、困窮していった。
一方、旧那覇市に隣接した旧真和志(まわし)村(1957年那覇市編入)。53年の「銃剣とブルドーザー」によって、銘苅(めかる)、安謝(あじゃ)、天久(あめく)の人々は住居や農地を押しつぶされた。実はその以前にも、真和志村は「那覇市復興」の陰で何度も縮小を強いられ、農村を基盤とした「復興」は挫折した。「誰かの復興が他者の復興を閉ざす。しかも抗うべき相手は占領下で同様に苦しむ沖縄の人々だった」と謝花さんは冷静に指摘する。
沖縄社会の「復興」は米軍の恒久的な基地建設と共に進み、米軍統治の安定が何より優先された。そんな中、矛盾に抗う「異音」が封じられる事件が起きた。「原爆展」を開いた琉球大学の学生4人が退学処分を受けた53年の「第一次琉大事件」だ。米軍の占領施策に沿って設立された大学で、学生たちは「占領への抵抗」「アカ」とみなされ排除された。米軍による「アカ」指弾は、一方で「米琉親善」への自発的な協力者を生み出し、社会を分断していったという。
「第一次琉大事件」から3年後、沖縄の人々は米軍支配への怒りを爆発させた。56年の「島ぐるみ闘争」だ。分断をくぐりぬけ、それまで米軍の監視を恐れていた人たちも公然と加わった。米軍家庭のメイドだった女性は「生活のために働くけれど、気持ちまでは取られない」とつぶやく。<生活のために拳をあげられたわけではないが、占領下を生き延びるために、ギリギリの地点で自律を選び続けようとした人々。こうした人々の言葉に「島ぐるみ闘争」の胎動を聞き取る必要がある><後に15万人も集まった「島ぐるみ闘争」はこうした場からはじまったといえるだろう>と謝花さんは指摘する。
「穴あきだらけ」の歴史埋める
米軍基地と女性、沖縄戦「集団自決」(強制集団死)の実相を歪曲した教科書検定問題……。謝花さんは新聞記者として、沖縄が置かれた不条理への怒りを文字に込めてきた。沖縄戦、沖縄戦後史の体験者に耳を傾け、声なき声を丁寧に掘り起こしてきた。その謝花さんが大学院で学んだのは、体験を語ってくれた人たちが次々とこの世を去っていくことへの焦りからだったという。歴史に関する新聞報道は聞き書きが主体。当事者がいなくなってしまえば沖縄戦後史も沖縄戦も書けなくなってしまう、と。
1年間の学生生活を終え、沖縄で記事と論文を「行ったり来たり」しながら謝花さんが追求したのは、さまざまな生活の場の体験を聞き取ることだった。最初に選んだのは「琉球人形」。かつて人気を博した土産物だが、いまは店頭に並ぶこともなくなり、記事や先行研究もほとんどなかったという。それでもコツコツ調べているうちに、製作者だった女性たちにたどりついた。占領初期の配給時代(沖縄に通貨経済が復活するのは46年4月である)に少しでも多く食糧を得ようと、米兵向けの土産として、「戦争未亡人」を中心とした女性たちが作り始めたのだという。
連載記事がきっかけで、遺族が保管する人形を那覇博物館に寄贈する橋渡しができた。博物館では初めて「琉球人形」の資料展も開催された。謝花さんは有志舎の著者エッセイで「戦後史の中で抜け落ちていた女性の手仕事の経験を聞き書きし、新聞という手に取りやすい媒体で掲載すること。それは、当事者と遺族を博物館と結び、社会が共有することがなかった女性たちの経験を社会に提示するきっかけとなった。ミシン業についても、南風原文化センターで展示が行われた。こうした過程は、パブリック・ヒストリーを一緒につくる取り組みでもあったと思う」と振り返っている。
垣花地区の人々が軍労働で移動した「金武湾区」はいまはバス停にその名前をとどめるだけで、沖縄でもその存在を知る人は少ない。連載をきっかけに、その集落で育った子どもたちが「語る会」をつくり、体験の記録に取り組んだ。「第一次琉大事件」でも、元学生の退学処分撤回を求め多くの支援者が集まった。撤回はいまもかなわずにいるが、こうした一つひとつの大きな反響こそが、謝花さんの言葉を借りれば「穴あきだらけの歴史」の中に、読者がいまも生きていることを物語っていた。
軍失策が招いた北部の飢餓
本には収録されていないが、「軍失策による飢餓ーー沖縄戦と占領初期の那覇市民の生存」(『日本オーラルヒストリー研究』第17号 2021年10月)もまた「穴あきだらけ」の歴史に迫る鋭い論考だ。沖縄戦の証言などは中南部の激戦地に集中し、北部の被害は見過ごされがちだった。生命に直結するにもかかわらず、戦場体験と比べると食糧の問題は二次的なものとされがちだった。謝花さんは沖縄戦直前から占領初期までの北部地域の地域史を食糧、労働、移動の視点から読み直し、そこから浮かび上がる那覇市民の姿を追った。
北部の沖縄戦はどのような経過をたどったのか。米軍は1945年4月1日に読谷山村(現・読谷村)から沖縄本島に上陸し南北に侵攻を開始。北部の守備に当たった日本軍(支隊長の宇土武彦大佐の名から通称・宇土部隊と呼ばれた国頭支隊)は、拠点とする本部半島を約2週間で制圧された。中南部からの避難民や地元住民が逃れていた山中に日本軍も敗走、ゲリラ戦を展開する。米軍は山中で敗残兵の掃討作戦を実施、同時に民間人の収容を進めるが、日本軍は投降を許さず住民虐殺も頻発した。中南部の避難民は沖縄県が軍の指示で推進した北部(やんばる)疎開による。
政府は45年1月半ば、第32軍の要求をもとに北部疎開のための「沖縄県防衛強化実施要項」を閣議決定した。「戦闘・作業能力のあるものは挙げて戦闘準備戦闘に協力▽60歳以上の老人、国民学校以下児童及び世話する女子は3月末までに疎開▽各部隊は車両・舟艇をもって援助▽その他の住民の中で戦闘に参加しないものは農業・生業に従事し敵上陸直前に北部へ疎開▽県知事は疎開者のために食糧を集積し、居住設備を設ける」などの内容。県は2月、中南部の住民10万人の北部疎開を計画した。北部はもともと耕作地に乏しく、4月に地上戦がはじまると、南部と北部の連絡は途絶え配給も崩壊。中南部の人々は土地勘もない山中での採取生活へとおいやられ、飢えとマラリアなどの病気に苦しめられた。
地域史などには、人々が置かれた厳しい状況が記されている。ソテツの毒処理の経験がなく、子どもを死なせてしまった「町の人」。飢えに苦しみ、幼い子どもと井戸に身を投げた父親。『山猪』と蔑まれ、棒で畑を追い立てられる人々。東村高江では高齢者が集団で置き去りにされていた。大宜味村史には、十数人の女性や子ども、高齢者が横たわる避難小屋に、餓死した母親の傍らで乳房をしゃぶる乳児の姿が記録されている。<死んだ母親は「この子に食べ物を恵んで下さい。母親より」という書付を残していた>。木々の根元には土まんじゅうが並んでいたという。
山中を生き延びても飢餓は続いた。収容地区でも仕事を得なければ十分な配給を受けられず、配給減や停止によって餓死者が続出した。沖縄戦では8万人が北部へ移動し、うち2万人が亡くなったと推定される。だが、いまだに被害者の全数がわからないのが北部の飢餓の実態だという。謝花さんは沖縄戦と占領初期に沖縄島北部で起きた飢餓は、「軍失策による『つくられた飢餓』だった」と結論付けている。
「ヤマトが見たい沖縄」ドラマ
「復帰」50年のこの夏、公開が予定される映画「島守の塔」は沖縄戦中に県知事だった島田叡氏、その右腕だった警察部長の荒井退造氏が主人公だ。島守の塔とは島田氏、荒井氏をはじめ県庁職員が合祀された糸満市摩文仁にある塔の名称である。2人を描いた映画やドラマはこの数年で複数にのぼり、島田氏、荒井氏の出身県である兵庫県と栃木県では、それぞれ顕彰の動きが盛んだ。兵庫では島田氏が生まれ育った神戸市須磨区の寺に「島守の広場」が開設されたばかり。道徳の副読本には島田氏が登場する。
映画「島守の塔」のHPのプロフィールを抜粋する。島田氏は<1925年に内務省に入省。主に警察畑を歩み、1945年1月、沖縄への米軍上陸が必至とみられている状況の中、辞令を受け、県知事として着任する。沖縄戦の混乱により県庁が解散するまでの約5ヶ月間、疎開の促進と食糧確保等、沖縄県民の生命保護に尽力。戦争が激化し、摩文仁の丘に追い詰められた際、県庁組織の解散を命じ、ともに死ぬという部下に「命どぅ宝、生きぬけ」と伝え、逃した>。荒井氏は<1943年、沖縄県警察部長に就任。沖縄が戦場となる危機が迫るなか、戦況を楽観視していたため疎開政策に消極的だった当時の知事に代わり、県民の疎開・保護に尽力した。島田叡が沖縄県知事着任後は二人三脚で奔走し、1945年3月までに県民7万3000人の県外疎開に成功。米軍上陸により県外疎開が不可能となった状況でも島田知事とともに合わせて延べ20万人の命を救ったとされる>
だが、沖縄県が進めた北部疎開では、長距離の移動こそ配給の困難をもたらし、地上戦開始によって配給網は崩壊した。人々は山中に放り出され、敗残兵にわずかな食糧も奪われた。謝花さんも「軍失策による飢餓」で<半年分の食糧の備蓄もできず、食糧増産に頼った沖縄県の北部の配給体制は、地上戦開始直後に瓦解した。地上戦になった場合、人々をいかに生存させるかを沖縄県は想定していなかったと言える>と分析した。
昨年12月、沖縄の「命どう宝!琉球の自己決定の会」が開いた日本「復帰」50年を問う集会「沖縄戦時の知事・島田叡と戦争責任」にZOOMで参加した。名護市教育委員会市史編さん係の川満彰さんは「知事は天皇任命の勅任官。その行動は『国体護持』で一貫し、その範疇で『臣民の保護」政策を練っていました。『国体護持』のため戦える住民は戦場へ送り出し、15歳から18歳の少年少女を鉄血勤皇隊、学徒看護隊、あるいは護郷隊(ゲリラ部隊)として召集する一方で、戦えない住民には北部疎開を促しました。島田は国体護持と住民保護最高責任者という責任を負い自殺。文官の中でも警察幹部歴が長い島田にとって生きるという選択肢はなく、それは荒井警察部長も同じでした。しかし死んで戦争責任は免責されるはずもありません」と強調した。
沖縄近現代史家の伊佐眞一さんは、公人である「大日本帝国政府内務省の官僚」と「公権力を失った一個人」を対比させ「県庁の命令系統など全てが崩壊した後、島田は身の回りをしてくれた人たちに『命を粗末にしないで』と言ったといいます。でも最も肝心な公職の中身とは関係ない人間性や家庭人につながる親近感に焦点をあてると、政治責任はどこかに吹っ飛んでしまう。第32軍の牛島満中将をも免責させることにつながりかねません」と指摘。「米軍に加えて南西諸島で自衛隊のミサイル基地が建設されるなど要塞化が進んでいますが、それを下支えする歴史解釈としても揺るがせにできない問題です」と重ねた。
小さくソフトな「歴史修正」が積み重ねられていくような違和感は「復帰」50年記念を銘打つ朝ドラにも通じる。「沖縄は他の地域より、歴史を扱ううえでデリケートな問題を抱えている。『米軍基地の問題』などは復帰50年にあわせNHKに限らずいろいろな番組が取り上げて放送する。私たちが朝8時から多くの視聴者に観てもらう番組をつくるにあたり、負の歴史ではなく、その時代をたくましく生きてきた家族を通して、今につながる、お茶の間が元気になるような話をつくろうと決めた」。脚本家は琉球新報のインタビューにこう答えていた。
ドラマの前半の舞台は「戦場」と「占領」と「復興」が混在した米軍占領下の北部。なのに、そうした空気感のようなものがほとんど感じられない。
「ヤマトが見たい沖縄」。謝花さんの一言が全てを言い表していると感じる。
新聞うずみ火 2005年10月創刊。14年、第20回平和・協同ジャーナリスト基金賞(奨励賞)受賞。20年、第3回「むのたけじ地域・民衆ジャーナリズム賞」大賞受賞。1部300円。年間購読料は300円×12カ月分で3600円。書店では販売しておらず、「ゆうメール」で送付している。ご購読希望の方は新聞うずみ火(電話 06・6375・5561、FAX 06・6292・8821 Email:uzumibi@lake.ocn.ne.jp ホームページはこちら) へ。
くりはら・けいこ
群馬の地方紙『上毛新聞』、元黒田ジャーナルを経て新聞うずみ火記者。単身乗り込んだ大阪で戦後補償問題の取材に明け暮れ、通天閣での「戦争展」に韓国から元「慰安婦」を招請。右翼からの攻撃も予想されたが、「僕が守ってやるからやりたいことをやれ」という黒田さんの一言が支えに。酒好き、沖縄好きも黒田さん譲り。著書として、『狙われた「集団自決」大江岩波裁判と住民の証言』(社会評論社)、共著として『震災と人間』『みんなの命 輝くために』など。
特集/歴史は逆流するのか
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