コラム/投稿

博士たちの著作権問題

若手研究者はどうか気をつけて下さい

本誌読者 吉元 蕗子

数百ページのなかの1行

前世紀の終わり近く(つまり30年ほどまえ)、知りあいの大学教員からとてもびっくりする話を聞きました。ある若手の研究者が学位をとった論文を出版したところ、とつぜん著作権侵害の申し立てにあって困っているという話。

そういう世界にいるわけではない私にはよく分かりませんが、今の(当時も)研究者は細分化された「専門領域」のなかで研究をつづけているわけですから、とうぜん、同業他者はごく限られた人が同じような仕事をしているのでしょう。

つまり、大まかな社会学やら、法学やら、人類学やらという分類のさらに先の先、刑法の交通事故の傷害事件(信号無視やらなにやら)やブラジルのアマゾンの何とか地域のどこの集落の人びとのフィールドワークのような具合に、それぞれはごく少数の「専門家」が研究に研究を重ねているようです。

参考文献も、一般理論のカントだ、レヴィ=ストロースだ、デュルケムだというレベルから順に下っていけば、最後は同業他者のごく数人の先行研究になっていくのでしょう。その30年近くまえのケースは、たまたま若手研究者がノートに書きとっていた同業他者の一世代まえの人(先行研究者)の論文の一文(一行)を、引用符(出典記載)を忘れて使ってしまったということでした。

生活人の感覚でいえば、「ごめんなさい」ですむような話ではないかと思ってしまいますが、頭のなか(脳のなか?)の数ミリの世界で仕事をしているようなかたたちは感覚がちがうようです。論文を盗用され、名誉が傷ついたといわれてしまい、若手は右往左往したとか。

「末は博士か大臣か」とまでいわれた時代がかつてはあったわけですから、学位をとる=博士になるということはたいへん名誉でもあり、そのことによる社会的・経済的な安定も得られたのでしょう。ところが、昨今では、学位の取得はそのまま安定にはつながらないようです。「オーバー・ドクター」という言葉まで登場して、大学院を出たのに定職にもつけずアルバイトで暮らす博士も大勢いるとか。何とか博士がコンビニで働こうとして履歴書をもっていったら、なんでこんな高学歴者がコンビニで働こうとしているのいるのかと怪しまれて断られたという笑えない話もありました。

であればこそ、ようやく博士論文を仕上げて学位を取得し、出版も実現し、就職先も決まったというのはとても喜ばしい話です。この若手研究者もまさに博士論文が完成し、出版もされ、就職も決まったかたということでした。そんな晴れがましいところにとつぜんもちあがったのが、論文の「盗用問題」です。

一行で和解金

さて、著作権侵害を指摘された若手研究者はどうしたのでしょうか。

もちろん、指摘のとおり、その一行はまったく同じものでした。「盗用」といわれれば、そうもいえなくはないでしょう。

ただ、たとえば、「日本は平和憲法によって国際紛争の解決にあたって武力の行使を禁じられている」という文章をある法律学者Aが書いたとしましょう。他方、Aの後に法律学者Bが、「日本は平和憲法によって国際紛争の解決にあたって武力の行使を禁じられているが、現実には自衛隊という実力部隊を保持している」と書いたとしたら、それは著作権侵害だといえるでしょうか。Bが書いたゴシックの部分はAの文章そのままです。それはAの著作物といえますが、こんな内容(ABいずれも)は研究の結果導き出された特別オリジナルな内容ではなく、日本で義務教育を受けて憲法を学習した人なら中学生でも書ける文章といっていいでしょう。

つまりこのようなごく一般的(当たり前)な記述に特別な保護を与えるかどうかは、判断が分かれることがらです。30年まえの若手・先行研究者のケースも、先行研究者がとくに研究を重ねたうえで見つけた独自の成果というには無理がある部分(内容)ということでした。若手研究者の周辺の人たちのアドバイスは、主張すべきことははっきりいうべきだというのが大半だったそうです。

しかし、若手研究者は、ようやく論文も完成し、出版も実現し、仕事も見つかった状態のなかで争うよりも金銭による和解を選択したそうです。訴訟になれば、えんえんと続いていつ終わるかもわからない、代理人(弁護士)やその他の費用も考えなければなりません。そのうえ、職場でどういういわれ方をするかもわからない。いろいろ考えれば、金で解決も一つの解決法といえなくはないでしょう。なんとも後味の悪い話でした。

同様の問題

じつは、こんな30年もまえのことはすっかり忘れていたのですが、とつぜんこんなことを思い出したのには理由があります。

最近、別の知人から聞いた話です。本を出したばかりの若い研究者が著作権侵害の申し立てを受けているというのです。30年まえと同様のケースなのかはわかりませんが、「盗用された」と主張する側からは金銭要求のような発言も出ているそうです。

若手で、まだ地位も安定していない研究者をねらって、著作権侵害や研究不正窓口への申告をもちだすことでまとまったお金をとろうとしている人がいて、30年まえのような事件は特別なケースにすぎなかったというわけではないようです。一見、著作権侵害の回復のようないわば正義を掲げ、しかし、本音は金をとりやすい若い研究者を対象に金銭要求を押しとおす人たちがいるのでしょうか。研究領域(専門)が細分化されればされるほど、相手も見つけやすいと考えるのは、うがち過ぎでしょうか。

末は博士の人たちも昨今ではあまりにも苦労が多いのでしょう。誰かの論文に自分が書いたものと同じ文章が引用ルールに則っていない個所を見つけたら……。しかし、そんな方法で手にしたお金で何が報われるのか。

本誌の読者にも若い研究者(卵)は多いのではないでしょうか。著作権問題については形式上、細心の注意をはらってほしいと思います。それでも事故はあるかもしれません。こうした問題に巻きこまれて精神的に追いつめられた若い研究者もいるそうです。そのときには、研究者仲間で信頼できる人に相談する、出版社とよく話しあって味方についてもらう、いざとなれば、覚悟して弁護士と相談するなど、けっして一人だけで問題を抱えこまないようにしてほしいと思います。

よしもと・ふきこ

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