コラム/沖縄発
「復帰50年」――招かれた占領
パレスチナから沖縄を考える
宜野湾市・佐喜眞美術館学芸員 上間 かな恵
4月22日から私が勤める佐喜眞美術館では、「上條陽子とガザの画家たち 希望へ・・・」展を開催している。23年にわたりアートを通してパレスチナと関わってきた上條とガザの画家たちとの交流のなかで実現した展覧会である(6月13日まで)。
1937年生まれの上條は、新人洋画家の登竜門で芸術界の芥川賞ともいわれた安井賞を女性で初めて受賞(1978年)し画家として精力的に活動していた頃、聴神経鞘腫を患い2度の大手術を経て回復。その後、1999年パレスチナでの巡回展に参加する機会を得て、滞在中に聾学校の子どもたちに絵を教えたことを機に絵画指導と子どもたちの作品展開催を活動目的とする「パレスチナのハートアートプロジェクト(PHAP)」を2001年に立ち上げる。ガザ、レバノンのパレスチナ難民キャンプで子どもたちに絵を教える活動を10年続けるが隣国シリアで内戦が始まり活動が中止、2013年再びガザから要請があり、そこで99年に出会った3人の画家と再会し交流が始まった。
その3人の画家がソヘイル・セイレム、モハメド・アル・ハワジリ、ライエッド・イサである。上條が代表を務めるPHAPは、この3人の画家を招へいしガザと日本の画家たちとの交流展を企画。実現は不可能だといわれた困難のなか2019年に奇跡的にビザがおりて3人の来日が実現し、全国各地で巡回展が行われた。ガザの難民キャンプで生まれ育った彼らは、現在もシオニズム思想に基づくイスラエル国家の民俗的排他主義、軍事主義、領土拡張主義による破壊と殺戮が続くガザで7人の仲間と共に現代アートの画廊「Eltiqaエルティカ」を主宰し活動を続けている。これは、昨年6月にNHK日曜美術館で「壁を超える~パレスチナ・ガザの画家と上條陽子~」として特集された。
今回の展示ではパレスチナと沖縄をテーマにした上條の作品と「Eltiqaエルティカ」の7名の画家の作品を展示している。
パレスチナとは
「パレスチナ」という名前の国家はいまだに存在していない。『広辞苑第六版』によると「パレスチナ【Palestina(ラテン)】 (ギリシア語の「ペリシテ人の地」から)西アジアの地中海南東岸の地方。カナンとも称し、聖書に見える物語の舞台。第一次大戦後、オスマン帝国からイギリス委任統治領。以後、シオニズムによるユダヤ移民が進展。1948年イスラエル独立とともにイスラエルとヨルダンとに分割されたが、67年イスラエルはヨルダン川西岸地域とガザ地区を占領。パレスチナ人による国家建設運動も盛ん。」と短くまとめられている。
今回展示をしている画家たちの出身地のガザ地区は、パレスチナ南西端、シナイ半島の北東に接し地中海沿いに長さ約45㎞、幅6~8㎞に延びる細長い365㎢の区域である。面積は種子島とほぼ同じ、沖縄島の面積の30%にあたる土地に約200万人が住む。ちなみに沖縄県全体の人口が約140万人であることを考えると想像を絶する過密さである。イスラエルとの境界線は高さ8mの壁に囲まれ、出入り口は、北のエレツ検問所(イスラエル側)と南のラファ検問所(エジプト側)の2か所のみ。出入国は完全にイスラエル下にあり、パレスチナ人に移動の自由はなく「屋根のない刑務所」と呼ばれている。
1917年イギリスのバルフォア宣言、パレスチナ分割決議、1948年のイスラエル建国宣言、ナクバ(大災厄)、大量のパレスチナ難民の発生と離散、インティファーダ(民衆抵抗)、オスロ合意、ヨルダン川西岸地区とガザ地区の自治分裂など近代ヨーロッパで生まれた反ユダヤ主義と帝国主義という問題が複雑に絡まりあう。私の付け焼刃的な知識ではとても追いつかないので興味のある方は数あるパレスチナ関連の書籍をあたっていただきたいが、ここでは、ジャーナリストのアミラ・ハス氏のことばを、長くなるが紹介したい。彼女の両親はホロコーストの生き残りのユダヤ人であり、彼女自身はイスラエル人でありながら20年以上占領地に身を置き、パレスチナ側とイスラエル側の双方から立体的に“占領”を世界に伝え続けている。
イスラエルの記者、アミラ・ハスがみた沖縄
パレスチナ占領から50年を迎えた2017年秋、来日したアミラ氏(イスラエルの主要日刊紙「ハアレツ」記者)は沖縄、東京、京都、広島各地で母国による“占領”の実態と沖縄取材を通して“パレスチナ”と“オキナワ”の接点を鋭く指摘した。これはドキュメンタリー映画『アミラ・ハス イスラエル人記者が語る“占領”』(監督:土井敏邦、2019年)になっている。
沖縄滞在中は佐喜眞美術館にも来館された。5日間の沖縄滞在では、普天間基地、読谷村、嘉手納基地、高江、辺野古と抵抗の現場に出かけ、人びとに会い、多くのインタビューを行い那覇で講演会を行った。沖縄での印象を各地の講演のなかでこう語っている(※のつく( )内は筆者補足)。
「私が本当に感銘を受け、新鮮な衝撃を受けたのは、人びとが(沖縄戦)について2年前、3年前、5年前に起こったことのように話すことです。戦争が酷いものであるという考えを人びとが守り続けている。72年前に起きた戦争の新鮮な(※であり続ける)衝撃は、似た状況下にある人びとについて想像できる能力を示しています。」「1945年の敗戦後、日本人は記憶を失ってしまった。だからある意味で沖縄は(他の日本人とは)大きな違いがある。沖縄の人にとって単なる記憶ではなく、”過去”が”現在”になっているから。」
「イスラエルは軍事大国だけでなく、世界における軍事技術や諜報技術の輸出大国でもある。それは私たち(※イスラエル)には、武器や技術を試す『実験場(占領地)』があるからであり、パレスチナ占領で実験された軍事・諜報技術を購入する世界がイスラエルのパレスチナへの”占領コスト”を支払っている。」。これをハス氏は、「デラックス占領」と呼ぶ。
「私が認識しておらず本当に驚かされたことは、日本政府が米軍基地の存在にどれだけ融資しているかということです。主権ある国土でです。いかに日本政府が米軍基地を望んでいるか。これは確かに”占領”ですが、日本政府に招かれた占領。それが私の(※沖縄に対する)結論です。」
「イスラエルは、この地域での米国との軍事関係を持つことで力を築いてきました。この地域での米国の同盟国としての役割によってです。イスラエルはこの特権的な立場を維持したかった。それを維持する唯一の方法は、パレスチナ人との恒常的な低火度、つまり激しくない緊張を維持することです。ですから決して権利を与えず、常に何らかの闘争を起こし、そしてパレスチナ人に『妥協』、この言葉さえも間違った言葉ですが”降伏”を強いる、和平ではなく降伏です。これが実際に私たちが直面していることなのです。」と語っている。
ハス氏の言葉を借りれば「復帰50年」は、現在も年間2110億円という巨額の「おもいやり予算」がつぎ込まれている「デラックス占領50年」だ。
読谷村在住の彫刻家・金城実さんを訪ねた時、ハス氏は大変鋭く重い質問を投げかけている。金城さんが書いた「芸術は解放の武器たりうるのか」という立札に対し、
「私の疑問は、人びとに(※芸術が)どれほどの影響力があるかということです。しかし、あなたの話を聞けば影響力はそれほど大きくも深くもない。だからここに(※立札に)書かれている問いの答えはすでに出ています。」
この問いに金城さんは、「なぜやるのか。プライドの問題。沖縄に生まれ、これだけ戦争の悲惨をかいくぐってきた者が負けるか勝つかということを考えて行動を起こさないということは恥ずかしいこと。それが理由。泣くなよ、沖縄。抵抗の元始は必ず深化していくから。」と答えているが、それに対してのアミラさんの言葉は映像のなかにはなかった。
ただ、次に示すことばの数々に、彼女がなぜ金城さんにそのような厳しい問いを投げかけたのか、また金城さんの言葉に対する彼女なりの応答があるのではないだろうか。
「ジャーナリストの仕事を始めたときはまだ希望を持っていました。とても楽観的な仮定です。人は理性的であり、人は事実を知ればその重さを計り、間違っていることや危険なことが理解できるのだと。人は情報を元に行動する。情報が知識を生み、意識が行動を生むのだと。そうではないとわかるのにほんの数年しかかからなかった。」
「知識と情報が人々に不正を知らせ意識させる。だからジャーナリズムは不正に反対する行動を人々にさせる場なのだと。そして悲しい結論は、確かに人々は知る、あるいは人々に知る権利はあるけれど現実は変わらない。知識だけでは、現実や不正義を変えるのに全く足りないということです。」
「イスラエル人は短期的に占領から利益を得ているので、占領が何を示すのか知りたくもないし、知っても気にかけません。25年以上記事を書いてきてたどりついた結論は、イスラエル人が鈍感なのは占領から利益を得ているからだということです。」
ではなぜ書き続けるのか。
「パレスチナ人の中で暮らしているので、彼らとともに生活するなかで経験することを伝える責任がある。またそれより私が目にしていることに恒常的な”怒り”を持って生きています。この”怒り”が自分の『エンジン』であり『ガソリン』です。」
「しかし、自分が持って生きなければならない自分自身の様々な”特権”に対する怒りもある。ユダヤ人である自分を”特権”と関連づけるのは困難です。私は自分自身を過去に迫害され、正義のために闘った不正義に対して抑圧される側にいた民族の一部と捉えています。それが突然、南アフリカの白人のようになっている。私は自分自身の自己認識に対して非常に侮辱と不快を感じます。それはたぶん私のユダヤ人としての少し時代遅れな自己認識、『抑圧される側にいる』という自己認識です。」
ドキュメンタリー映画のなかで印象的だったのは、ハス氏はイスラエルの事を話すときは必ず「私たち」と言うことだ。四半世紀以上、パレスチナ人と生活をともにしていても”特権”を持った自分はパレスチナ人の置かれている状況を頭で理解することはできても絶対に感じることはできない、という姿勢は徹底している。
私の「復帰」断片
1972年の復帰の年は、私は小学校1年生だった。4月入学時にその頃人気のテレビアニメ番組「魔法使いチャッピー」の筆箱をもらい(兄は「ウルトラマンエース」の筆箱)、5月にはピースマークの筆箱、下敷き、バッジをもらった。大人になってからこれは復帰記念の品だったということを知るのだが、当時の私は「一年生ってこんなにたくさんプレゼントをもらえるくらいすごいことなんだ」と感激していた。そしてその頃の私の最大の関心事は、10円なるものでいっせんまちやー(一銭町屋、駄菓子屋)ではいったい何が買えるのか、ということだった。
復帰前からテレビでは、「お母さんといっしょ」やアニメ番組など「日本」の番組も放映されていたし、6チャンネルではアメリカの番組を放送していた記憶がある。復帰前の正月には、お年玉袋にドルが入っていた。幼稚園生の頃にお年玉でもらった1ドル銀貨は、翌年復帰になったので使わなかったのかいまも手元に残っている。
私の家では、「復帰」したので「日本」の文化も知っておいた方がよいと親が思ったのか(父は本部町出身、母は伊江島出身)、お正月(新正)では年越しそばは日本そば、元旦は着物を着せられて、門松立てて、玄関には日の丸、お屠蘇、お雑煮、凧あげ、羽子板(ミスすると墨で顔に×を書かれた)、かるた、福笑いで迎えた。もともと、年越しそばやお雑煮を食べる習慣は沖縄にはなく、ハレの日の汁物はたいてい中味汁かイナムドゥチ汁だ。日本式の真似事のようなお正月も数年だったが、母が生きている間は、年越しそばは日本そば、お雑煮も大和風だったので未だに年越しそばは沖縄そばではなく日本そばでないとどこか落ち着かない。隣近所の幼なじみの両親は、鹿児島と奄美の出身だったので臼での餅つきも体験したこともある。
あれはなんだったのだろう。新しもの、イベント好きの父が率先したのかもしれない。母は、沖縄戦の縮図ともいわれる伊江島での生き残りであり、さらに1948年に起こった死者107名、負傷者70人という沖縄の米軍関係では戦後最大となる「伊江島米軍弾薬輸送船爆発事故」でわずかに生き残った家族・親族も失くしてしまった。誰よりも基地のない沖縄を願っていた母は、「復帰」をどう思っていたのだろうか。私が20歳のときに亡くなった母には、もう聞くことはできないが、きっと「復帰」すれば本土並みに基地縮小が進み、「異民族支配の歴史は終わり、酷い屈辱や差別の歴史からきっぱり訣別される」と、復帰後、母が地元の季刊誌に投稿していたように大きな希望を持っていたに違いない。年越しそばや大和風のお雑煮に、いじらしくも思えるそんな期待を込めていたのだろうか。
返らない「豊潤なおもいやり予算の地」
私は那覇市首里石嶺というところで生まれ育った。生まれる前は首里山川町に住んでいたらしいが、山川から石嶺に引っ越すその日に私が生まれたそうだ。母は熱心なクリスチャンだったので、新しい石嶺の地が旧約聖書「出エジプト記」に記された「乳と蜜の流れる約束の地・カナン」のようであるように、と「カナンの地の恵み」という意味で私は「かな恵」と名付けられた。この聖書の記述を元にシオニストたちは聖書を「不動産の証明書」(アミラ・ハス)として占領を正当化しているが、勤務するところでパレスチナの展覧会が開催され、復帰50年を迎え、5.15を目前にした号のコラムに執筆を依頼されたのもなにかの巡りあわせだろうか。モーセたちは約束の地を目指して40年間荒野を彷徨ったが、50年たっても、母のように多くのウチナーンチュが熱望した沖縄の地は、フェンスに囲まれ「おもいやり予算が流れる豊潤な地」となり未だ返っていないのである。
うえま・かなえ
1965年沖縄県那覇市生まれ。佐喜眞美術館学芸員。沖縄県立芸術大学非常勤講師。共著に『残傷の音 「アジア・政治・アート」の未来へ』(2009年、岩波書店)、『時代を聞く―沖縄・水俣・四日市・新潟・福島』(2012年、せりか書房)、季刊誌「けーし風」コラム「佐喜眞美術館だより」担当。
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