特集 ●歴史は逆流するのか
ストーカー規制法違反の典型―道徳教科書
「愛の押しつけ」はやめて!
河合塾講師 川本 和彦
ストーカー規制法第2条第1項目第3号は、規制するストーカー行為の例として「面会、交際その他の義務のないことを行うことを要求すること」を挙げている。
2018年から小学校で、2019年から中学校で教科となった「道徳」であるが、その教科書を読むと、やたらと「愛する」ことを強要しているのに辟易する。
「愛してくれよおおおお」とか何とか言いながらつきまとうストーカーのようだ。ああ、気色悪い。
道徳教科書は、ストーカー規制法違反の典型的事例である。
●自分への愛
諸外国に比べて、日本の若者は自己肯定感が低いとされる。国際機関による各種調査や、自死を選ぶ若者の数をみても、それはかなりの程度事実である。
それを気にしてか、道徳教科書は「自己を肯定しよう」宣言のオンパレードなのだ。
例えば『私たちの道徳 中学校』には「丸ごと自分を好きになる」というタイトルに続いて「自分の良い所を/発見しろと言われても/短所や欠点ばかりが/気になってしまう。 自分の良い所も、/変えたい所も/丸ごとひっくるめて/好きになれたら/自分をもっと輝かせることが/できるはず」という、
詩というにはあまりに稚拙な、標語のようなものが掲載されている。
自分を肯定するということは、何もかもそのまま、ありのままでいいということではない。今の時点で今の自分にできることを精一杯する、ということだ。そうでなければ、ただの開き直りである。
欠点を自覚して克服しようとする努力するからこそ、人間は成長する。ありのままでいいのであれば、そもそも学校教育など不要であろう。どうもこの教科書は、年齢を重ねても成長しない安倍晋三のような国民を量産することが狙いのようだ。日本中が安倍晋三だらけ? もはやホラーだ。
別の箇所では「かけがえのない自他の生命を尊重して」というタイトルに続いて「広く高い空を見上げ/果てしない宇宙を想像してみる/自分はなんと小さい存在なのだろう/しかし/ここに立つ私は「私」しかいない」という標語が登場する。
作者は相田みつをのファンですかね?
個と個性は異なる。個性があろうとなかろうと、個は個としてかけがえがなく尊い。当たり前だ。だが残念なことに、個と個性はしばしば混同される。そして、個性と才能もしばしば混同される。
「あなたはかけがえのない存在だ」と言われ続ける子どもの中には、しばしば自分だけが持つ才能があり、今はそれが隠れているだけだと勘違いする者が出てくる。そういう子は「自分はもっと高く評価されて当然だ」と思いあがる。
始末の悪いことに、愚かな親がそれを応援したりする(そういう親に限って、「お前の子なんだから、才能なんかあるわけないだろう」とこちらが言いたくなるような親なのだ)。
これについては「どんな子でも、誰にも負けない何かを一つは持っている」ことを疑わなかった、日教組的な能天気左翼にも罪があると言える。
一方で、勉強でもスポーツでもギャグでも抜きんでた成果を出せない子どもは、自分なんか生きていても意味がないと決めつける。私は不登校経験者のクラスを担当したことがあり、そういう過去を持つ多くの若者と会ってきた。
道徳教科書は自分を無条件に肯定して肥大化するか、無条件に否定して萎縮するか、このニ者択一を子どもに迫っている。いずれにしてもここでは、自分を愛することは正しいというのが前提となっている。
●家族への愛
まず、道徳教科書が想定する家族構成が偏っている。
『わたしたちの道徳 小学校三・四年』では 「あずさ」さんが以下のように自分の家族を紹介している。
・おじいちゃん:こまっているときは、いつもいっしょになやんでくれる。
・おばあちゃん:元気がないとき、はげまして、おうえんしてくれる
・お父さん:わたしたちのために仕事をがんばってくれている。いろいろな遊びを教えてくれる。お父さんが作ってくれる料理はおいしいよ。
・お母さん:わたしたちのために仕事をがんばっている。食事の用意やせんたくをしてくれる。しかられることもあるけど、何でも話せる。
・お姉ちゃん:勉強や遊びを教えてくれる。けんかもするけど、一緒に遊ぶととても楽しい。
さすがにお母さんは専業主婦ではないらしいし、お父さんも料理くらいはするようだ。ま、お父さんはたまに子どもの好きな料理を一品作るのが好評なのだろうし、家事の主たる担い手は、やはりお母さんのようだ。とはいえ、批判の主たる対象はそこではない。
現在の日本において三世代同居という拡大家族は、圧倒的少数である。最も多いのは夫婦と未婚の子からなる核家族、ではない。単身世帯、一人暮らしが最多なのだ。
ところで、道徳教科書にシングルマザーが登場しては何かまずいのか? 文部科学省的には、シングルマザーという存在が不道徳なのか。腹立つなあ。
次に、家族との付き合い方の描写に疑問がある。
道徳教科書には浜田廣介『泣いた赤鬼』のような古典も載っているが、多くは架空の生徒を対象としたミニ・ストーリーである。
これが実にワンパターン!
主人公の子どもが何か悪い事(といっても行政改革の名目で保健所を減らすといったことではなく、路上で困っている人を助けなかったというレベルのことです)をして、それを話す。そうすると年長者(両親や祖父母、兄姉)が、その過ちを諭す。主人公はハッと反省し、涙を流す。
現実の家族構成メンバーである両親や祖父母は、そんなに人格者なのか?こういう家族だらけであれば、ヘイトスピーチも生活保護者バッシングも起きず、自民党は消滅しただろう。
教科書に出てくる子どもは、親たちの一言だけで一発改心、深く反省する。そんなに素直でいいのだろうか。だが親や教師にとっては都合がいいだろう。支配しやすい国民養成を目指すというなら、これはとてもわかりやすい。家庭内暴力などは、ないことにしたいようだ。
いずれにしてもここでは、家族は愛し合うのが当然だということが前提になっている。
●異性への愛
『私たちの道徳 中学校』に、「好きな異性がいるのは自然なこと」というタイトルがある。その次は例によって詩なのか標語なのかつぶやきなのか、よくわからない文章が続くが、これはくだらないので省略する。
で、このタイトルが大問題だ。「自然」が良くない。断固として良くない。
好きな異性がいるのが「自然」であるのなら、好きな異性がいないのは「不自然」ということになる。本来は同じとは言えない「不自然」と「異常」がしばしば混同されるこの国では、同性愛やアロマンティック(他人に恋愛感情を持つことができない人。他人に性的感情を持つことはある)、アセクシュアル(他人に恋愛感情も性的感情も持たない人)が、異常なことと見なされがちだ。
性的マイノリティを象徴するLGBTは、日本人全体の約7.6%と推計されている。この中には上述のアロマンティックや、アセクシュアルは含まれていない。
一方で日本人に多い苗字である「佐藤」「田中」「鈴木」「高橋」「渡辺」
「伊藤」の合計が、日本人全体の約7.1%である。つまり教室内には性的マイノリティが、少なくとも1人か2人はいる可能性が高い(本人に自覚がないとしても)。
教科書の執筆者は金子みすゞの詩「みんなちがって みんないい」を載せるくらいだから、ダイバーシティつまり多様性の大事さは、頭では理解しているのだろう。残念ながら頭での理解にとどまり、心の想像力が働いていないようだ。
女性と男性が恋愛して結婚して、子を産んで家族を作る。それは悪いことではないが、それ以外の生き方が悪いわけでもない。なるほど、「それ以外の生き方」が見えていない執筆者が教科書を書くと、先に述べた「暖かな三世代同居家族」が家族の例として出てくるわけだな。
いずれにしてもここでは、恋愛の対象は異性であるということが前提となっている。
●郷土への愛
ふるさとの 山に向かひて言うことなし
ふるさとの山は ありがたきかな
『わたしたちの道徳 小学校三・四年』に掲載された石川啄木の短歌である。この学年に限らず、ふるさとを大切にしましょう、自分の故郷を愛しましょうというのは、道徳教科書共通のお題目である。
だが、この愛郷土心も手放しで礼賛するわけにはいかない。
啄木自身が故郷を追われるように東京へ出てきたように、故郷という場はしばしば排他的であり、閉鎖的である。親の暴力や無視にさらされている子に「家族を愛しましょう」と言うのが無茶であるように、排他的・閉鎖的空間で閉塞感を募らせている者に対して、故郷だから無条件に愛しましょうと命じるのはかなり乱暴なことではないだろうか。
姜尚中は「愛郷土心(パトリオティズム)と愛国心(ナショナリズム)は別物である」趣旨のことを、いくつかの著作で書いている。
まったく同じとは言えないが、この2つは地続きなのだという気がする。橋川文三が指摘していたように、パトリオティズムはナショナリズムを補完するものではないか。
愛郷土心そのものは素朴な、自然発生的なものであったのかもしれない。だが近代化の過程でそれは愛国心、具体的には天皇を頂点とする国家への忠誠心に絡めとられていったのだ。小林よしのりが『戦争論』で、日本兵が守ろうとした「国」として彼らが生まれた郷土を描いたのは、偶然ではない。
いずれにしても、ここでも郷土を愛することは当然の前提とされている。
ところで、郷土を「愛する」というのは具体的にはどういうことなのだろう。多くの教科書が、地元の伝統芸能や祭りに参加することや、自然を大切にすることなどを挙げている。だが(私のように)祭りのような、大勢で集まって騒ぐことが嫌いな人間はいる。故郷の自然は守るが、よその自然破壊には平気ということも、あってはならないことだろう。
●国家への愛
1891年(明治24年)3月、国粋主義者である三宅雪嶺は『真善美日本人』を出版した。タイトルだけ見れば、日本が真であり善であり美であることを強調するニッポン万歳の本かと思える。だが三宅がこの本で主張したのは、日本が「真・善・美」の分野で世界に貢献すべきだということなのだ。つまり現実の日本ではなく、これから目指すべき日本について書かれた本なのである。
三宅は翌月、『偽悪醜日本人』を出版している。こちらは三宅が感じた現実の日本についての本である。繰り返すが、三宅雪嶺は国粋主義者である。彼の愛国心は、日本により良いになってほしいという願いそのものであった。これは本当の意味で、「愛国心」と呼べるものかもしれない。
これに比べると、道徳教科書の何と浅薄なことか。日本の美点らしき例が、これでもかとばかり登場するが、根拠不明なものも多い。
『私たちの道徳 小学校五・六年』には、剣道の先生が登場する。剣道の礼について述べ、「これは日本人が昔から大切にしてきた相手を思いやる精神です」と続ける。スリランカから来た女性を死に追いやった入管職員は、非国民らしい(いかん、いかん。我が家では「非国民」は誉め言葉だった)。
日本人だろうとアメリカ人であろうとチェコ人であろうとガーナ人であろうと、思いやりがある人がいればない人もいる。当たり前だ。
『私たちの道徳 中学校』には、「海外で親しまれる日本の文化」として「近代西洋画家にも影響を与えた浮世絵」が登場する。「鬼畜米英」が評価してくれたから喜ぶ、というのは情けないのではないか。
それ以前に大きな問題がある、北斎や広重は偉大だったのかもしれない。しかし現代に生きる私たちが、浮世絵の発展に貢献したわけではない。自分の親が名士だと言って威張るのは間抜けである。まして何百年も昔にいた赤の他人の功績を誇る、というのはもはや哀れだ。「ニッポンすごーい。ニッポンに生まれた自分もすごーい」と言いたいのですね。
虚しいですな。
教室内に外国籍の子がいることが珍しくなくなった現代日本において、「私たち日本人は」ということを強調する無神経さにも、目を向ける必要があるだろう。
●「道徳」廃止とともに
道徳教科書は自分と家族と異性と郷土と国家を、無条件に愛しなさいと命令してくる。「愛とは具体的にどういう心のあり方か」は曖昧なままで、その点極めて杜撰である。
だが杜撰さの陰には巧妙な姦計がある。誉めたかあないが、さすが国家権力だ。
孔子の仁とは、まず肉親を愛するという自然の感情を育み、それを村や国へ広げていく内容を持つ。これに倣ったかどうかは不明だが、いきなり国を愛せというのは無理だと思ったのだろう。愛の対象はまず自分で、次に家族、異性、郷土、国家と広げていく。これはこれで上手いというか、物騒である。
こういう科目は廃止するに限る。ただでさえ学校の先生は忙しいのだから、科目が1つなくなるだけでも、負担が軽くなるのだ。
最後に申し上げておきたいことがある。
道徳という科目の危うさについては、多くの批判がなされてきた。そのほとんどは、この科目の最終目的ともいえる「愛国心養成」への批判であった。それに異論はないが、その前の段階、自分や家族や異性や郷土への愛を強要することへの批判は、愛国心教育批判に比べると影が薄かったように思われる。
本来は逆であるべきだ。まずは自分自身が直接関わる身近な問題に目を向け、その視線を広げていったら国家とぶつかった、というのが批判の筋なのではないか。
それを抜きにして天下国家を論じるのは、「道徳教科書」が好んで取り上げる坂本竜馬と同じである。「日本を洗濯する」ってか?
洗濯する側に自分を置くのは、もうやめましょう。
かわもと・かずひこ
1964年生まれ。新聞記者を経て現職。担当科目は公民科。「劇団1980を支える会」会員。
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