発信●日韓関係修復のための市民提言

日韓関係修復のための日韓市民の提言募集

 (現代の理論編集委員会)

いま、日韓関係が非常に危機的な状態に陥っています。首脳どうしの話しあいすらまともに開くことができない状態がつづいています。こうした事態の解決を政治家だけに任せておけばいいのでしょうか。むしろ、政治家たちは、国内世論の動向を意識してより強硬な手段に訴えるばかりになっていて、解決の道から離れるばかりではないかと危惧します。 

いまは、心ある市民がみずから声をあげて平和と友好の日韓関係を構築するように提言すべきなのかもしれません。有名無名にかかわらず、さまざまな職業、属性をもった一人ひとりの市民が声を寄せることで、現在の対立・敵対の関係を終わらせる知恵を出し合うことができるのではないかと考え、この欄をつくりました。

以下のとおり、市民からの文章を求めます。

1 一人、500~2000字程度。エッセイ、詩、イラストなど形式は問いません。

2 テーマ 「日韓関係をどうするか」「私と韓国(日本)との出会い」「日韓の歴史問題について」など、関連する内容であれば可です。

3 発表方式 ウェブ版現代の理論にコーナーをつくって公開します。転載は自由として、なるべく広く読まれるようにします(内容の変更厳禁)。

4 原稿の送り先:nikkanteigen@gmail.com

(趣旨に反する内容の原稿は、編集委員会の責任で掲載を断る場合があります。責任者・本誌編集委員・黒田貴史)

——日韓関係修復のための市民提言——

いま、わたしたちにできること

桂川 潤(ブックデザイナー、9月16日)

元徴用工の賠償問題に起因する日韓政府の対立、とりわけGSOMIA(日韓軍事情報包括保護協定)を韓国政府が破棄したことをめぐって「リベラル/反リベラル」という図式がゆらいでいます。野党第一党の立憲民主党が安倍政権の外交姿勢を追認するいっぽう、防衛大臣を務めた自民党の石破茂は「わが国が敗戦後、戦争責任と正面から向き合ってこなかったことが問題の根底にある」「戦争責任を自らの手で明らかにしたドイツとの違いは認識しなくてはならない」とブログに記しました(8/23)。リベラルでも何でもない石破氏がまともに見える「日本の異常」を感じざるをえません。

「リベラル」と思っていた知人にひさしぶりに会ったら、「国際法のルールを守らない韓国政府の態度は問題だ」と息巻いています。「韓国政府はいったい何のルールを守らないのか」とたずねたら、知人はちょっと言葉につまって「政府どうしの約束を守らないから」だと。「政府間の約束って1965年の日韓請求権協定でしょう。でも、個人の賠償請求権を国家間の協定によって消滅させることができないのは、国際人権法の常識です(柳井俊二外務省条約局長は「いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではない」と1991年に答弁)。

だから韓国大法院(最高裁)は新日鉄住金に元徴用工への損害賠償を命じました。それを「国際法に照らしてあり得ない判断(安倍首相)」「国際秩序への挑戦(河野太郎外相)」と反発する日本政府の方がおかしい。ドイツでは、強制労働の被害について、政府と企業が共同で基金を設立して被害回復にあたっています。神戸大教授の木村幹氏は、「元徴用工が有する請求権の問題を国際司法裁判所(ICJ)に訴えれば、慰安婦問題などを含めた請求権協定そのものの解釈が議論されることになる。とりわけ重要なのは、慰安婦問題についての国際社会の理解が必ずしも日本政府にとって有利とは言えない状況にあることだ」と指摘しています。国際捕鯨委員会(IWC)を脱退したり、福島原発から出る汚染水の海洋投棄を計画したりと、手前勝手な外交をつづける日本に、国際的な支持が集まるとは思えません。

でも、日本政府とマスコミは、韓国政府が「国際秩序に反する」「約束を守らない」と一方的に決めつけ、情報操作しています。日本の五輪・パラリンピック組織委員会は9月13日、「2020東京五輪で『旭日旗』の使用を禁止する計画はない」という信じがたい方針を表明しました。国際サッカー連盟(FIFA)からも「攻撃的、挑発的」とレッドカードを突きつけられた「旭日旗」を五輪会場で容認するとは、正気とは思えません。「戦争責任」の意識や反省も、「国際社会からどう見られるか」という外交判断も皆無なのです。問題は「対韓国」にとどまりません。夜郎自大のナショナリズムを突き進めば、「満州国」建国をめぐって国際連盟を脱退した時のような、国際的孤立へ行き着くでしょう。

外務省アジア局や条約局に勤務した元・外務官僚の浅井基文氏は、個人ブログで、一連の経緯をあざやかに分析しています。

「安倍政権の重大な誤りは、世界的に過去の戦争責任及び植民地支配にかかわる重大な人権侵害に関する法的責任を認める大きな流れが確立しているのに、これに逆らい、法的権利として確立した個人の尊厳・基本的人権を認めない点にあります。安倍政権がかたくなな姿勢に固執するのは、日本の戦争・植民地支配の責任を認めた場合に天文学的数字の賠償・補償に応じなければならなくなることに対する抵抗があります。

しかし、もっと重大で根本的な問題は、安倍首相を筆頭とする日本の右翼支配層(中心は「日本会議」)が日本の戦争責任・植民地支配責任を否定する歴史認識(聖戦論)に固執していることです。彼らの歴史認識にかかれば、神聖不可侵の天皇に直属する皇軍が従軍慰安婦調達、強制連行などに手を染めることはあり得ず、朝鮮半島の人々は自発的に慰安婦となり、日本内地で契約労働に従事した、とされてしまうのです。

わたしは2014年より、福島原発事故で埼玉県に避難した被災者が提訴した「福島原発さいたま訴訟」を毎回傍聴し、「福島原発さいたま訴訟を支援する会」の会報づくりを手伝っています。国と東電の主張は一貫して「事故は予測不能な“天災”であり、国と東電に過失はない」。では、裁判やADR(国の裁判外紛争解決手続き)で過失責任を否定し続ける東電が、なぜ一方で賠償を支払っているのか。じつは、被害や影響が甚大な原発事故では、速やかな被災者救済という趣旨から、責任問題を棚上げ(「無過失責任」)し、「原子力損害賠償紛争審議会」(原賠審)の指針にもとづいて賠償を行うことが「原子力損害の賠償に関する法律」(原賠法)に定められているのです。 

しかし、原賠審の賠償基準は自賠責保険に準じた最低限の賠償で、対象も金銭換算のできる被害に限定され、原賠審や東電の一方的な審査に委ねられています。事故前の年間被ばく放射線量の上限が、全国一律1ミリシーベルト以下だったのが、事故後に福島だけ20ミリシーベルト以下とされたことに不信感をいだき県外に避難したいわゆる「自主」避難者は賠償の対象とならず、長い年月をかけて培われた産業や文化、地域コミュニティなどの喪失、いわゆる「ふるさと喪失」も、賠償の対象とはなりません。

もちろん原賠法にもとづく賠償は、さらなる提訴を制約するものではありませんが、東電は「賠償は十分に支払った」として、それ以上の賠償にはいっさい応じないのです。掴み金をわたして、「謝罪」も「賠償・補償」もいっさいしない。「責任」はみとめずに、被害は「自己責任」と言いつのる。国と東電の姿勢は、日韓の請求権問題と瓜二つです。

巨額の賠償・補償を頬かむりする以外に手はないと、彼らは腹をくくっています。田中和徳復興相は、原発事故の「自主」避難者に対して「復興庁は担当の役所ではない」と言い放ちました(9/13)。「復興」とは「被災者の存在を消し去ること」なのでしょうか。いま国内外で起こっていることは、共通の根をもっているのです。

インターネットやSNSのヘイト記事へのカウンターを行っている編集者が、「彼らが投げてきた嘘を暴いている間に、また100の嘘が投げかけられる」とやりきれない面持ちで語っていました。圧倒的な量で投げかけられるヘイトやフェイクに立ち向かうのは、たしかに厳しいことです。それでも、最低限の、しかし確かな情報をもって、問題の本質をさまざまな場で訴えていくことが、いま、わたしたちにできることではないでしょうか。

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韓国とわたし

西山 麻夕美(フリー編集・ライター、9月16日)

人生初の海外旅行の行き先は韓国だった。1987年3月、翌年にソウルオリンピック開催を控えていた時期で、都市開発があまり進まないうちに、風土と文化に触れてみたいと思ったのが主な理由だ。ソウルの中心部には、まだ屋台が並び、骨ばったスズメを肴にマッコリを飲み、もの珍しさと日本の屋台と変わらない庶民的な親しみやすさに時間を忘れた。若年の日本人に韓国の人たちは総じて親切で、地方で泊まったホテルのカラフルな枕カバーとオンドルの温もりが頭の隅から離れない。

そして昨年、「1987年 ある闘いの真実」という韓国映画を観たのだ。私が訪れたあの年に、いったいなにがあったの? という思いで。当時の日本はバブル景気の登り坂で、ヤケに陽気な雰囲気だったが、韓国は未だ軍事政権下だったのだ。朴正煕大統領暗殺後を引き継いだ全斗煥が実権を握っていた。そして、この年に大学生拷問死事件(1月)があり、大規模な民主化デモ(6月)に発展していった。わたしの旅行はそのただ中にあったのに、まったく知らないうちに帰国。帰ってからも、彼の地のそれに類するニュースは聞いた記憶がない。30年余り経って、なんてこったい! である。

歳を重ねるにしたがって、身の回りにたくさんの在日の人が暮らしていることに気づいた。もちろん、日本が朝鮮を植民地にしたということは知っていたけれど、大学に入るまで、これほどまでに朝鮮の人たちが日本にたくさんいるなんて、本当に知らなかった。日本の近代化の過程で、朝鮮になにをしたのか。日清だって日露だって、日本軍が半島に出兵して現地で兵站を調達し、推し進めた戦争なのだとわかるまで時間がかかった。

朝鮮政府が清やロシアとのパワーバランスに神経をすり減らし、民衆を顧みない治世(日本も一緒)に乗じて、朝鮮の主権を侵害していったのは明治の中ごろ。日本は、統監府を置き堂々と内政に干渉。そして当の領事(今でいう大使か)が主導する武装集団が李王朝皇帝の妃を惨殺した。テロである。この事件は目撃者も多く、関与した日本人は広島で裁判にかけられたが全員免訴・無罪となった。その後、皇帝の父親を引っ張りだして傀儡政権をつくり、皇帝を勝手に廃位させ、朝鮮軍の武装解除を行って、日本支配への抵抗を無力化した。そして、今の日本がアメリカと結ぶ地位協定のような不平等条約を次々と改定していき、とうとう1910年に併合条約を結んだ。いや、結ばせた。

日本国内では、この年に大逆事件が起こり、戦争反対・社会主義の勢力を徹底的に弾圧したのだ。秋水が生きていれば、きっと朝鮮での苛政を書いたであろうに。そうしたら、民衆は政府がよその国でなにをしたかを、もっと正確に認識できたろうにと思わずにはいられない。併合後は、勝手に制度を変えて土地を強奪し、食べられなくなった多くの民草がトンヘ(日本海ともいう)を渡った。1910年以降、土地を奪い、ことばを奪い、信仰をも奪って日本国民にしておいて、敗戦後は突然国籍をはく奪した。

その10余年後には、日本で暮らす貧しく困窮を極める半島出身者の福利厚生費がもったいないとばかりに、赤十字と一緒になって北朝鮮への帰還事業を進めた。棄民である。これが日本という国なのだ。そんな事情があったから河野談話なのだし、村山談話が出されたのだ。「日本はいつまで謝ればいいのだ?」なんて、盗人猛々しい開き直りである。戦後に生まれた私個人が植民地化への直接の責任はないと考えるものの、政府にはずっと謝ってほしいものである。

今からでもいいから、小中学校でも、高校でも習わなかった歴史をひもといてみたら、きっと今までと違った世界が広がると思う。わたしの場合は、冒頭の映画がきっかけになったわけだ。これは、隣国との関係のみならず、沖縄のこと、原爆のこと、水俣のこと、フクシマのこと、すべて共通する権力の態度である。都合の悪いことは知らせない、ウソもつくし、捏造だって厭わない。無力だと思わされている民草は、ゆめゆめ騙されてはいけない。

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私と朝鮮・韓国との出会い

大槻 小百合(元教員、9月22日)

私は、東京の中高一貫の女子校、それも英国系のミッションスクールという、“静かでのんびりした環境の中、真面目で素直に?”6年間過ごしてしまいました。その後大学で日本の近代史を学びたいと思い、進学しました。

その頃(1960年代後半から70年代前半)は、日本国内で学生運動が盛んでした。当時私は、社会問題に関心はありましたが、自分のこととして捉え行動することは考えられませんでした。もちろん、“アジアの中の日本”という視点で日本の近代史をとらえるなど、全く予想していませんでした。

大学2年の春、仏文科のカリキュラム問題に端を発して大学は封鎖。授業が年末までありませんでした。 

正確な記憶ではないですが、夏まえの約1週間、文学部の教授達全員と大学院生を中心とする学部生たちによる大衆団交が開かれました。いわゆる“新左翼”や“民青”といった政治的なグループの主導ではなかったです。もまれることなく育ってきた私にとっては幸いでした。大学の教室でない場所での“対話集会的大衆団交”は大変刺激的で、大学に対する先入観が少しなくなりました。

授業が再開されるまでの間、私は日本に留学してきた台湾出身(日中国交回復前)や南ベトナム出身(ベトナムが統一される前)の留学生達を支援する人々に偶然出会い手伝いました。その後「出入国管理法案」反対運動、大学卒業後にも続く日立就職差別裁判闘争、在日韓国人政治犯救援活動、80年代の指紋押捺拒否の取り組みなど、就職後も時間の許す限りの範囲でアジア特に朝鮮・韓国に関わり続けました。

私の出会った朝鮮・韓国は、どれも「支援運動」という形で始まりました。歴史的な事実をあまりにも知らないお粗末な日本人の私が、「支援」など本当はおこがましいです。ただ、「知らない・わからない」と避けていくよりは関わることが大切だと思いました。更に、朝鮮・韓国の様々な魅力的な文化の世界にも出会い惹きつけられていきました。大学ではない「学び」の場でしたが、有難い出会いの連続でした。

個人的な話ですが、アジア特に朝鮮・韓国のことを一生懸命に「学ぶ」娘を両親特に父は、心配?していたと後から知りました。

亡くなった私の父は、1945年ビルマで敗戦を迎え、1年間の捕虜収容所生活後帰国。靖国神社でなく千鳥ヶ淵の無名戦士の墓にいつも参拝していました。私たち家族に多くを語りませんでしたが、“戦争のない民主的で豊かな生活をつくりたい”と考えていることは分かりました。父の“戦後民主主義”は、欧米を向いた豊かな生活ではなかったかと思います。

ある日父が私に、“「朝鮮語を習っているなんてお嬢さんは偉いね」と上司が褒めてくれたよ”と、半分父自身を納得させるような、戸惑うような感じで話してくれたことがありました。 

その時父が何を言いたかったのか分かりません。ただ、今になって思うことは、「平和な」世の中になってきて、少し生活が落ち着いてきて、父の中に欧米だけでなくアジアに目を向ける社会の変化を理解しようと考え始めたのかな、とも思います。

結局、私は充分な日本の近代史を勉強しないまま、大学を卒業してしまいました。その後公立の学校の教員になりました。

当時職場には、“選ばれた教師”として満州で仕事をした経験を、少し“誇り”に思っている上司がいました。ただそういう人でも、働きやすい職場や学校運営を考えてはいました。

その職場の上司も私の父も“戦争で苦労した世代”です。その方々の考え方には、共通するものがあるように思います。 

内向き=日本国内向けには皆真面目で勤勉な日本人です。しかし、外向き=欧米諸国にはやや卑屈で、アジアなどの国々に対しては、上から目線で見て付きあったり、またはそれを正当化しようとします。そして、文化や生活の違いを認めるより、生活が“近代化”されているかいないかで優秀さを判断しがちです。

これは、明治以降の学校教育の中の歴史教育が、事実を客観的また正確に記載し教えてこなかったためではないでしょうか。

“アジアの中で明治以降非欧米の小国日本が経済発展し民主的な社会を築いた”と自画自賛する歴史だけを教えるのでなく、世界史的な流れの中での日本を冷静に、謙虚にとらえその歴史を認識することができるようになることが大切だと思います。

それは決して屈辱でもなく、アジアの、世界の中の未来志向の責任ある日本をつくる一歩になると思います。 

発信

  • 日韓関係修復のための市民提言いま、わたしたちにできること(桂川 潤・ブックデザイナ)/韓国とわたし(西山麻夕美・フリー編集・ライター)/私と朝鮮・韓国との出会い(大槻 小百合・元教員)
  

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