コラム/百葉箱
小日向白朗の謎(第1回)
日中国交回復で暗躍した日本人馬賊王
ジャーナリスト 池田 知隆
いまから半世紀前の1969年春、中国との国交樹立の道を探っていたアメリカ政府から接触を受けた一人の日本人がいた。戦前、満州(中国東北部)を舞台に日本人馬賊王として活躍していた小日向白朗(こひなた・はくろう)。中国名は「尚旭東(シャン・シュイトン)」といい、中国民衆からは伝説の英雄「小白竜(シャオ・パイロン)」と呼ばれ、「中国全土の総頭目」にまで上り詰めたこともあった。小日向が当時、中華人民共和国の毛沢東と中華民国(台湾)の蒋介石との双方にルートをもち続け、アメリカが小日向から中国との国交に向けての知恵を得ようとしていた。
米中、さらに日中国交樹立という世界史の大きな転換の節目に日本人馬賊王が介在していたことを私は知り、驚いた。それから3年後、日中は国交回復するが、小日向白朗とはいったい何者なのか。昭和の裏面史でどのような人間模様が繰り広げられていたのだろうか。できるだけ探ってみたい。
満州の曠野をピストル一挺で駆けめぐる
小日向白朗は、歴史人物事典等によると
「1900-1982 大正-昭和時代前期の大陸浪人。明治33年1月30日生まれ。大正5年中国にわたる。馬賊に捕らえられ、のちその頭目となる。中国の軍閥戦争にくわわり、満州事変後も特務機関に関係して日本・中国両軍の間で活動、共産ゲリラとも対決した。昭和25年帰国。昭和57年1月5日死去。81歳。新潟県出身。本名は権松。中国名は尚旭東、小白竜」(デジタル版日本人名大辞典)
とある。(写真は昭和9年)
たまたま書棚の奥にあった「ドキュメント日本人6 アウトロウ」(責任編集、谷川健一・鶴見俊輔・村上一郎、學藝書林)が目に留まり、本を開くと、川上音二郎・貞奴、宮武外骨と並び、小日向白朗の『日本人馬賊王』(自伝、抄録)が掲載されていた。目次のわきには「中国・満州の曠野をピストル一挺で駆けめぐり、民・百姓の支えになった馬賊王・小白竜の生涯」との説明書きがあった。不思議なもので、好奇心がムズムズと動き始めると、これを読めと本の方から私に近づいてきた。
小日向の存在を教えてくれたのは、京都に住む映画監督の港健二郎氏である。数年前から小日向を映画化する構想を温めていた。港監督に勧められて『馬賊戦記-小日向白朗蘇るヒーロー』(朽木寒三著、1966年。徳間文庫でも刊行)を読むと、これが実に面白い。小日向の人生遍歴を小説にしたものだが、熱烈なロマンに満ちた波乱万丈の物語で、ページをめくるたびに血沸き肉躍る。幼いころに酔いしれた冒険活劇を読む喜びをひさびさに味わった。
『馬賊戦記』の一部は横山光輝著『狼の星座』(全4巻、講談社)として漫画化されているが、それはまだ目にしていない。だが、いつしか記憶の底から小学生のころに見た映画『夕日と拳銃』(東映、1956年)の一シーンがぼんやりと浮かんできた。
広大な満州の地平線に沈む真っ赤で大きな夕陽。そして拳銃を手に馬にまたがった馬賊の頭目。実在の馬賊の1人、伊達順之助(だて・じゅんのすけ、1892-1948)をモデルにした檀一雄の原作で、主人公を東千代之助が演じていた。東と中村錦之助(のちの萬屋錦之助)の共演による『笛吹童子』『紅孔雀』シリーズに熱狂した子どものころが懐かしく思い出される。
その伊達順之助に比べて、小日向は知る人ぞ知る存在なのだろうが、いまではすっかり歴史に埋もれている。伊達は日本人戦犯として中国で銃殺刑に処せられたが、一方の小日向は敗戦から5年後、台湾から帰国し、日本の政治の裏舞台で暗躍していく。
「仁侠の徒」としての馬賊
そもそも馬賊とはなにか。
歴史の教科書を開けば、昭和初期の満州で馬賊として勢力を誇示し、やがて軍閥を率いて、日本軍によって爆殺された張作霖のことがまず想起させられる。騎馬の機動力を生かして荒し回る「盗賊団」と見られ、日本軍と戦っているイメージが強いが、そう決めつけるわけにはいかない。中国政治史研究者の渡辺龍策氏は「本来の『馬賊』は、たんなる賊ないし匪ではなかった。中央権力の不満と腐敗を要因として発生した民衆的自営組織に根を下ろした武装集団だった」(渡辺著『馬賊-日中戦争史の側面』中公新書)と指摘している。
中国史を大きく特色づけるものとして渡辺氏は「北方の非定住民族と本土の定住民族との闘争」と見ている。その視点からは、馬賊もまたその闘争の過程にその発生の契機をもつという。当時の満州は清朝の衰退によって治安が悪化し、農民のなかで家や職を失った人々の多くは盗賊と化していく。村の存続をかけて村人が本来の「自衛」を越えて、他の村に対抗し、盗賊まがいな行為を行う場合もあった。
やがて農民の自衛組織も「外敵」にたいする抵抗組織から、地域内の悪官僚などからの搾取、略奪から自らを守る組織へとその主要な任務を変えていく。遊撃隊が生まれ、同時にその組織内での「掟」をもつようになり、不法な権力に反抗する「仁侠の徒」的な性格を帯びていく。小日向はいう。
「馬賊、少なくとも正統的な遊撃隊の精神は仁侠の一語である。仁は人をたすけ、侠は、命をすてて人をたすけることと言われた。私は、あるときは単身銃をとって敵と闘い、あるときは百千の配下馬隊をひきいて山野を進軍した。そうして数えきれぬほどおこなった決闘の場にのぞんで、いつも心魂にてっして忘れなかったのが、この『仁侠』の文字であった」(『日本人馬賊王』)
一時は、満州馬賊の頭領となった小日向は7万とも8万ともいわれる配下を引きつれ何度もの修羅場をくぐりぬけていく。
大陸雄飛の夢に誘われて
日本人、小日向白朗がどうして満州馬賊になったのか。自伝の『日本人馬賊王』からたどってみる。
小日向は1900(明治33)年、新潟県・三条の機屋の次男坊に生まれた。16歳の春、東京に出て同郷出身の屑問屋に奉公。当時の欧州大戦の影響で好景気に沸き、子どもながら屑鉄集めで一儲けした。だが、商人として金儲けする気はなく、巷ではやっていた「馬賊の唄」(作詩・宮島郁芳、作曲不詳、大正11年)に魂を奪われていた。
「俺も行くから君も行け
狭い日本にゃ住み飽いた
海の彼方にゃ支那がある
支那にゃ四億の民が待つ」
その頃の小学生は「同胞ここに五千万」という唱歌を歌った。こんな狭い日本に五千万もいる。日本人が一人でも、海外に行くことは御国のためだという信念が次第に小日向の頭の中に刻み込まれた、という。
小日向は儲けた金を旅費にして故郷の両親にも告げず、単身で海を越え、満州に渡った。17歳の春のことだ。たどり着いた奉天(現瀋陽)駅の駅長に「中国語を学ぶには天津か北京に行くほうがいい」と勧められ、天津へ。そこで駐屯軍司令部付の坂西利八郎大佐と知り合い、気に入られた。坂西大佐が少将に昇任して北京に赴任するのについて行き、北京公使館付武官たちの知己を得る。そこには、山中峯太郎原作『敵中横断三百里』(少年倶楽部文庫)の主人公のモデル、建川美次や土肥原賢二、板垣征四郎ら後の日本の戦争責任を負う面々がいて、小日向は可愛がられた。柔剣道から拳銃の打ち方まで訓練をうけ、北京での2年間の修業時代を過ごす。
20歳の春。もう一人前になったと思うや、さらなる冒険心が湧いた。
「よし満蒙を踏破してみよう」
坂西少将から通行手形、拳銃と弾丸、銀貨をもらい、「まるでドン・キホーテのように、サンチョ・パンサーならぬ一人の中国人従者を騾馬に乗せた道案内として」北京を後にして、外蒙古に向けて旅立った。
だが、すぐさま馬賊に襲われ、持ち物すべてが奪われる。奴隷のような下働き、馬賊としての初陣、決死隊に志願して大手柄、草原の恋、関帝廟での死闘……。数多くの戦いで頭角を現していく。馬賊の聖地、千山無量観で道教と中国拳法の修行をつみ、大長老の葛月潭老師より「尚旭東」の名と破魔の銃「小白竜」を授かった。この瞬間、小日向白朗は中国全土の馬賊の総頭目となった。その活躍ぶりは自伝『日本人馬賊王』や『馬賊戦記』に活写されているので、ここでは省く。
日本軍の討伐で滅びゆく馬賊
小日向白朗は、人物辞典で「大陸浪人」と記されているが、それには違和感を抱かざるをえない。私の郷里(熊本県荒尾市)出身の宮崎滔天や玄洋社(福岡)に連なる明治型志士のような大陸浪人とは異なり、小日向に思想などはない。あるのは熱烈な冒険心だ。当時の社会的風潮に乗せられ、大陸雄飛の憧れに基づく行動で、彼が馬賊になったのはほんの偶然の成り行きにすぎない。混乱を極めていた満州という地域で居場所を獲得し、最大限に自己表現を発揮する機会を拡大していった。
数多い馬賊の中からは軍閥として成長するものもあった。当時の中国には徴兵制度などはなく、時の政権に雇われた馬賊が「正規軍・政府軍」であり、馬賊の頭目が勝手に官職や軍の階級を自称したことも少なくなかった。各馬賊は、その時々で連携先を変え、離合集散を常としていた。
満州事変が始まると、馬賊王小日向の前に日本軍が明確な敵として現れてくる。馬賊は満州に住み始めた日本人、関東軍とも衝突していくが、全ての馬賊が抗日姿勢を示したわけではない。日露戦争後、外蒙古の支配を確実にしたソビエトが満州への影響を拡大するために馬賊を使おうとし、関東軍もまた内蒙古・満州地域での共産主義化を食い止めるために馬賊を利用しようとした。こうした日ソ双方の思惑で各馬賊は戦闘部隊としてもてあそばれ、やがて日本軍は徹底的な馬賊の討伐に向かっていく。
「義気千秋」「除暴安良」をモットーにした小日向白朗。義侠心を大切にし、暴力を排して良民を助ける心を支えにしていただけにその悩みは深かった。生死を共にと誓った同志たちが祖国日本の兵士の銃火の中で倒れ、小日向は「血を吐く思いで、この歴史の悲劇に懊悩、慟哭した」と語っている。
さらに小日向は日本軍と中国軍の間に立って、両者の融和に努めたり、日中戦争の前夜、蒋介石との和平工作に当たったりしたことなどはあまり知られていない。日本軍の裏切りで配下の多くの馬賊たちを失うことになるが、小日向は日本軍の下で新たな活躍の場を確保していく。特務機関の役割を担って天津や上海で活動し、日本軍系テロ組織の首領として国府系、共産系テロ組織などとの凄惨なスパイ戦を戦い抜いた。
敗戦後、国民党軍に逮捕され、中国人として国を裏切ったとして漢奸罪で起訴されるが、日本国籍を有していることが認められ、訴追を免れる。台湾に逃れ、幾多の困難を潜り抜けて1950(昭和25)年、日本に帰還した。
中国大陸での小日向の活躍は、著作を通して比較的よく知られている。だが、戦後の日本でどのように生きたのか。それについて小日向はあまり語ってはいない。ただ米中国交樹立に向けてある役割を果たしたことを示す証拠、小日向の弟子たちに語った証言テープは残されている。これから小日向の戦後の謎に迫っていく。(続く)
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〇関連文献
・小日向白朗『日本人馬賊王』(第二書房、1957年)
・朽木寒三『馬賊戦記-小日向白朗蘇るヒーロー』(徳間文庫など、1966年)
・関浩三『日本軍の金塊: 馬賊王・小日向白朗の戦後秘録』(学研パブリッシング、2013年)
・小日向明朗/近藤昌三訳『馬賊王小白竜父子二代 ある残留孤児の絶筆秘録』(朱鳥社、2005年)
・渡辺龍策『馬賊 - 日中戦争史の側面』(中中公新書、1964年)。
・同『馬賊頭目列伝-広野を駈ける男の生きざま』(秀英書房、のち徳間文庫、1987年)
*表記について
歴史的な由来や沿革などから「満洲」ないし「満洲国」が正字表記とされているが、ここでは戦後の日本で一般的に使われている「満州」の表記に統一した。
いけだ・ともたか
一般社団法人大阪自由大学理事長 1949年熊本県生まれ。早稲田大学政経学部卒。毎日新聞入社。阪神支局、大阪社会部、学芸部副部長、社会部編集委員などを経て論説委員(大阪在勤、余録など担当)。2008年~10年大阪市教育委員長。著に『読書と教育―戦中派ライブラリアン棚町知彌の軌跡』(現代書館)、『ほんの昨日のこと─余録抄2001~2009』(みずのわ出版)、『団塊の<青い鳥>』(現代書館)、「日本人の死に方・考」(実業之日本社)など。本誌6号に「辺境から歴史見つめてー沖浦和光追想」の長大論考を寄稿。
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