特集●日本を問う沖縄の民意
戦後賠償訴訟の歴史的変遷と現段階
平和条約の解釈と個人請求権の前進で未踏の領域に踏み込んだ
韓国大法院判決
弁護士 髙木 喜孝
1.はじめに
2.第2次大戦中の非人道的行為の被害者の個人請求の勃興―欧米に
おける戦後賠償訴訟
3.東アジアにおける個人の戦後賠償訴訟の展開―日本と日本企業を
被告とする戦後賠償訴訟
4.東アジアにおける被害者の属する国における戦後賠償訴訟
5、結び―国際人道法の確立へ
1.はじめに
筆者は、1992年に結成を呼び掛けられ翌年活動を開始した『戦後補償問題を考える弁護士連絡協議会』(略称「弁連協」、合計全国の約70弁護団で構成された日本における戦後補償賠償訴訟の弁護団の連絡協議会)の事務局主任。弁護団のリストは下記を参照。
弁連協HP http://www.koukun.com/sengohoshou/
中文 http://www.koukun.com/sengohoshou/minjiansuopei/
昨2018年10月30日、韓国大法院の判決が第2次大戦中の韓国人強制労働事件の被害者原告の勝訴判決を出し、東アジアにおける戦後賠償問題に関してついに冷戦構造を打ち破る判決となった。冷戦構造は、第2次大戦後の国際政治の枠組みによりドイツと日本の国際人道法違反の責任を事実上免れさせてきた。
一方、戦後賠償問題に関しては、本来加害国・被害者の属する国双方の世論に依拠するべき問題であるのに、国際法・国際慣習法が一般にはなじみがないので、法律的な争点は理解しにくい面があり、加害国・被害者の属する国の互いに排外的な世論の力に押し流される面も大きい。また、古い大学制度と「ジャーナリズム」による「世論」が崩壊した状況の下では、訴訟という社会的行動方法が孤立無援ながら意外に大きい力量を発揮することもある。
第2次大戦の戦時人道法の下の被害者個人請求権は、戦争において国家がすべてであった時代を克服するべき挑戦であった。
ここではまず、戦争と平和条約による賠償問題の歴史的変遷を概観してその大まかな変化を見ていく。
(1) 現在の国連の大勢
2005年12月16日、国連総会決議(全会一致)
国連総会は「国際人権法及び国際人道法に関する重大な違反の被害者が救済及び賠償を受ける権利に関する基本原則とガイドライン」(Basic Principles and Guidelines on the Right to a Remedy and Reparation for Victims of Gross Violations of International Human Rights Law and Serious Violations of International Humanitarian Law)を採択し、被害者の個人請求権が明確にされた。戦勝国国民・戦敗国国民を問わず、被害者個人の権利が明確にされた。これが現代の国際人道法・慣習法の基準である。人権委員会(当時。現人権理事会)の採択時では全体投票(40:0:13)、日本、中国は賛成。米国、ドイツは棄権。
現代のユーゴスラビアやルアンダなどの臨時国際刑事裁判所の活動と第二次世界大戦のドイツ・日本に対する戦後賠償訴訟の動きが共振・共鳴した結果である。この動向は2003年の常設国際刑事裁判所(ICC)の発足にも連関する。
なお、戦後1949年のジュネーブ4条約の共通条項では、「国際人道法に対する重大な違反行為(拷問或いは非人道的な処遇)による責任を免除することはできない。また、他の加盟国の責任を免除することはできない」(1946年「戦時における市民の保護に関するジュネーブ条約」48条)とされ、これが「戦後」の国連及び国際法の基準となった。
(2) 戦争と平和条約の歴史的回顧の概略
① 戦争と平和条約―ハーグ条約以前
原初的には、戦争と平和条約において、領土の割譲や戦費賠償の条項はあっても、被害者の個人請求権が言及されることはなかったのが実態であった。平和条約の締結によって国民の請求権の問題は解決済みとされた。日清戦争と下関条約、日露戦争とポーツマス条約を想起すればよくわかる。
② ハーグ条約(個人請求権の根拠条約)とベルサイユ条約
この国際慣習法の下の戦争賠償が大きく変化するのは第1次大戦後からである。その基礎となったのは1907年のハーグ条約(付属『陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則』)で、捕虜の人道的取扱、略奪禁止、家の名誉及権利、個人の生命、私有財産並びに宗教の信仰及その遵行の尊重、私有財産の没収禁止などが定められた。軍による占領地住民に対する非人道的行為は禁止され、「交戦当事者」は、「賠償の責を負う」である。戦時における個人被害の請求権に関する国際法の大きなターニングポイントとなった(藤田久一・鈴木五十三・永野貫太郎編著『戦争と個人の権利』日・英版、日評1999年、申恵丰・髙木喜孝・永野貫太郎編著『戦後補償と国際人道法』日・英版、明石書店2005年)。
第1次大戦後のベルサイユ条約では、このハーグ条約が基礎となり、戦勝国側に片面的であるが、ドイツ国に対する個人請求権が明記されることとなった。同条約の付属書には具体的な項目として、「普通人民ノ傷害又ハ死亡」、「残忍、凶暴、又ハ虐待行為(監禁、追放、抑留、退去命令、海上遺棄、又ハ強制労働)」、「俘虜ニ対スル各種虐待」のほか、戦傷病者に対する恩給金なども列挙されていた(「第1付属書」)。
ベルサイユ条約の個人請求権の明記の後、これが先例となり、平和条約において、個人請求権(国民の請求権)が全く無視されることは無くなり、同時に条約における文言の解釈問題も生じることとなる。
また、ハーグ条約のほか戦争捕虜の人道的処遇に関するジュネーブ条約(1929年)等国際法の展開も続いた。
(3) サンフランシスコ平和条約と「国民の請求権の放棄」
ドイツに関しては第2次大戦後、東西に分裂したことから、冷戦下1953年「ロンドン債務協定」により国家間及び個人請求権の問題は東西ドイツ統一まで「棚上げ」された(後述)。
日本に関してはこれもまた冷戦により、ソ連、中華人民共和国は参加しない片面的な平和条約、サンフランシスコ平和条約が締結され、その中で、戦勝国・戦敗国双方の国民の請求権が明確に言及された。「国民の他の請求権」『を放棄する』(14条(b)項)。文言としては、「放棄」(waive)が用いられた。この文言の解釈が後世重大問題となる。
簡潔にこの問題をレビュ-する。サンフランシスコ平和条約の締結交渉の中で、オランダ代表ステッカ-は「オランダ政府は、国民の請求権を放棄することは憲法上できない」と強く主張した。その時の日本代表は「『放棄』により、国民の請求権は実体的には消滅しないが、裁判上請求できなくなる」という説明を加えた。オランダ代表はこの説明に激怒したと伝わっている。また、米国代表のダレスはこの説明に「救済されない権利」と感想を漏らしたとのことである。
この問題により、オランダの強力な反対に平和条約の締結が難航し、日本政府とオランダ政府はサンフランシスコ平和条約とは別個に「吉田・ステッカー書簡」を交換してこの問題に対処し、後に1956年「オランダ国民のある種の私的請求権に関する問題の解決に関する議定書」を締結し、日本政府はオランダに対して1000万ドルを支払った。「ある種の私的請求権」として別途賠償に応じたのである。
要するに、「放棄」条項の文言は、サンフランシスコ平和条約の締結過程において既に一義的ではなかったのである。国民の請求権は条約によって消滅させられるのか、実体的には消滅せず、外交保護権のみの放棄か、その法的効果は何か、冷戦時代には封印されたこれらの問題が、冷戦の終結によって一気に噴出する。そして、言うまでもなく、日本(外務省)は、初めは上記曖昧な解釈を元々含む「放棄」に言及することを回避しつつ、ともかく最後には、サンフランシスコ平和条約の締結時の上記説明を繰り返して行うことになる。
2.第2次大戦中の非人道的行為の被害者の個人請求の勃興―欧米における戦後賠償訴訟
(1) ドイツに対する戦後賠償訴訟の勃興と「強制労働基金」
西ドイツは第2次大戦のユダヤ人に対する迫害に関して戦後「連邦補償法」の制度下において補償を実施してきたが、東ヨーロッパ等「敵国」外国人に対する虐殺、強制労働など人道に反する加害行為に関しては一切補償・賠償を行ってこなかった。冷戦体制の下、「ロンドン債務協定」によって、東西ドイツの統一までドイツに対する戦後賠償問題は「棚上げ」されたのであった。1990年東西ドイツが統一され、翌1991年「4プラス2条約」(米・英・仏、ソ+東西ドイツ、1990年締結)の発効により「ドイツ問題は解決された」と宣言され、戦後賠償問題も「解決された」ものと宣言された。しかし、これは4プラス2か国が当事者である。
当事者でない国においては、これを契機にドイツに対する戦後賠償の個人請求の訴訟が一気に勃興する。中でも戦後米国に移住した多くの東欧出身者は米国において、ドイツ政府及び当時米国進出を急ぐドイツの銀行・大企業を被告に一斉に訴訟を提起した。(日本を被告とした訴訟がこれに同調して米国で提訴される動きもあった。米国では、カルフォルニア州法で戦後賠償問題の時効期間を延長する立法もあり、日本より訴訟の条件が良いとみられた。)
当時のクリントン政権とドイツ社民党・緑の党連立政権は協議し、2000年ドイツ政府と経済界の出資による約5000億円規模の「強制労働基金(「記憶・責任そして未来」基金)」を設立してこの問題に対処し広く補償することになって、米国における訴訟は取り下げられた。
他方、ドイツ国内訴訟では非人道的な行為の被害者の原告が勝訴する例はなく、ドイツを巡る戦後賠償訴訟は、ギリシャやイタリアなど「被害者の属する国の裁判所」へ発展する。
(2) ギリシャとイタリアでの戦後賠償訴訟の展開
ギリシャとイタリアの戦後補償訴訟では、「外国主権免除」(外国国家は被告とはならない)の国際慣習法及び戦後の条約・協定によって国民の請求権放棄条約があるのに、原告勝訴の例が相次いだ。特にイタリアの最高裁においては、ドイツ政府の「外国主権免除」の抗弁及びドイツ・イタリア間の相互の「請求権放棄協定」にもかかわらず、原告勝訴の判決(Ferrini判決)が出された。冷戦体制が崩壊した後、「国民の請求権放棄条約」の解釈は、大きく変化してきた。
① ギリシア
2000年5月4日、ギリシャ最高裁がディストモ(Distomo)村事件につき「外国主権免除」の原則を排除し、原告勝訴判決をした。この件は、今回の韓国大法院の判決と同様ギリシャ国内のドイツ資産の差し押さえまでに発展した(ただし、特別最高裁で覆される)。
戦時中、ドイツ占領軍はレジスタンスに協力したという理由でDistomo村の住民を虐殺した。上記判決は、国際法の原則である「主権免除(=外国国家は被告にならない)」につき、戦時における非人道的な行為に関しては適用されず、裁判に服するとした。戦後賠償訴訟、とくに「被害者の属する国の裁判所における戦後賠償訴訟」で原告勝訴の第1例。但し、ギリシャとドイツの間に国民の賠償請求に関する条約はなかった。
②イタリア
1)2008年10月21日、イタリア破棄院はチビテッラ(Civitella)村事件につき、「外国主権免除」の原則を排除し、ドイツとの間に請求権放棄の協定(1961年)があるにもかかわらず、原告勝訴の判決をした(その他24地方裁判所、2上訴審が当時係属)(2004年3月11日、強制労働事件の上記Ferrini判決)。
国際人道法に対する重大な違反行為については、①外国主権免除を排除、そして②平和条約の国民の請求権放棄は無効とされる。この動向は、国際人道法における被害者個人の権利を優先させる画期的な内容で、未来を切り開く内容である。
2)これに驚いたドイツは、2008年12月23日国際連合の司法機関である国際司法裁判所(ICJ)に提訴(2011年1月12日、ギリシャも訴訟参加)して係争した。国際人道法に関する新旧両思想の争いとなったが、2012年2月3日、外国主権免除を優先させ国際人道法違反を例外としない判決(12対3 )、ドイツは勝訴した。古い思想がなおICJでは優勢であった。Trindade反対意見は、国際人道法に対する重大な違反には「外国主権免除」の原則を排除し、被害者を救済するべきとした。
被害者の属する国の裁判所における国際人道法の前進に、ICJ(2009年2月6日~2012年2月5日小和田所長)が立塞がった。正に現在に至るも冷戦体制の政治的文脈をひきずる現代の国際政治体制の壁である。なお、日本がICJに韓国を提訴する場合、ドイツ―イタリア間とは異なり、韓国は「強制管轄受諾国」ではなく、応訴の義務はないので、応訴しない限りICJの手続きは始まらない。
3.東アジアにおける個人の戦後賠償訴訟の展開―日本と日本企業を被告とする戦後賠償訴訟
(1)日本訴訟の概観
日本と日本企業とを被告とする戦後賠償訴訟は、はじめ韓国人・朝鮮人被害者の補償請求から始まった。しかし、すぐ「補償」から「賠償」へ転換した。法律的争点も日本国内法の適用から、賠償へ展開した。おおよその外観をする。
① 「補償」から「賠償」へ
韓国人・朝鮮人軍人軍属に対する援護法などの適用を請求し、日本国憲法14条違反 国籍・戸籍条項によって援護法の適用から排除するのは憲法違反と主張。但し植民地に対する戦争動員は強制徴兵、強制徴用であり、不法行為であると早期に損害賠償請求へ発展した。
② 植民地戦争動員から占領地住民捕虜虐待問題へ
占領地住民や捕虜に対する虐待等は、ハーグ条約(1907年)やジュネーブ条約(1929年)違反の戦争人道法違反であり、被害者個人の請求権を主張する。極東国際軍事裁判(東京裁判)の他オランダ領インドネシア現地BC級戦犯裁判など、7カ国計49法廷(ソ連と中国を含まない)で刑事裁判は行われたが、新たに被害者個人が賠償を求める民事裁判として勃興。特に広汎な占領地住民である中国人原告による訴訟の勃興が著しい。
③ 慰安婦訴訟
戦時性暴力に対する被害者の勇気ある提訴をきっかけに、戦時性暴力は「人道に対する罪」にあたるとの主張は、ユーゴスラビアなど国連下の臨時国際刑事法廷の実行を経て、国連内世論が支持(人権小委員会のvan Boven報告書、Coomaraswami報告書等)した。
④ 乗り越えられた日本民法の抗弁
日本における戦後賠償訴訟は、当初日本国内法上の争点で争われた。被告日本政府及び日本企業とも、争点が日本法から条約の抗弁、即ち国際法・国際慣習法に展開することを恐れ、回避しようとしていた。
1)「国家無答責」の抗弁
戦後補償訴訟の当初、被告日本政府は「国家無答責の法理」(国家は不法行為の責任を負わない)という無責任な抗弁をくり返した。しかし、さすがに裁判所はそれを退けた。
アジア太平洋戦争韓国人犠牲者訴訟東京高裁判決(2003年7月22日)は次のとおり。
「国の権力作用に伴う不法行動に基づく損害賠償請求訴訟については司法裁判所において民事裁判事項と認めず行政裁判所においても行政事項とは認めず、共にその訴訟を受理しなかったため、その種の損害賠償請求を法的に実現する方法が閉されていただけのことであり、 国の権力作用による加害者行為が実態的に違法性を欠くとか有責性を免除されているものではなかったと解するべきである。いわゆる『国家無答責の法理』は、上記のような訴訟要件としての権利保護適格を否定する解釈が採られていたことによるものにすぎず、行政裁判所が廃止され、公法、私法関係の訴訟を司法裁判所において審理されることが認められる現行憲法及び裁判所法の下においては『国家無答責の法理』に正当性ないし合理性を見出し難い。」
2)「時の壁」-除斥期間-
日本民法には時効のほか20年で不法行為の責任が除斥される規定があり、被告日本国及び加害企業の強力な抗弁であった。「時の壁」と称される由縁である。
しかし、一般民事ではなく戦争に関わる国家の非人道的行為の責任もまた除斥されるというのも不公平・不合理であり、免責するべき理由は薄弱であった。
福岡中国人強制連行強制労働事件福岡地裁判決(2002年4月26日)は、「正義衡平の理念に著しく反しその適用を制限するのが相当である。」と判決し、除斥期間の主張を排除。
3)「時の壁」-消滅時効-安全配慮義務(強制労働に安全配慮義務を認めるか。)と消滅時効の抗弁
強制労働であっても労働契約類似の法律関係の下最低限の安全配慮義務はある。その義務違反に基づく損賠請求。
加害企業の主張する時効の援用が「権利濫用」に当る場合、制限される。「時の壁」の中では比較的突破されやすかった。
西松建設中国人強制連行強制労働事件広島高裁判決(2004年7月9日)は「著しい人権侵害、(被害者の)事故発病のため経済的困難、虚偽事実記載、態度を明確にせず提訴を遅らせた」加害企業が時効を援用するのは「権利濫用」とした。
(2)日本訴訟における条約の抗弁の登場
① 1965年日韓請求権協定
「両締約国は、両締約国及びその国民(法人を含む)の財産、権利及び利益並びに両締約国及びその国民の間の請求権に関する問題が1951年9月8日にサンフランシスコ市で署名された日本国との平和条約第4条(a)に規定されたものを含めて、完全かつ最終的に解決されたこととなることを確認する」(日韓請求権協定第2条1項)
「財産、権利及び利益」並びに「請求権」に関する外交保護権を相互に放棄し、加えて日本国内法の措置法による権利消滅の抗弁。日本国内裁判所では判決の採用するところとなる。
② サンフランシスコ平和条約―国民の請求権放棄条項の解釈
「外交保護権のみ放棄」(かつて日本の「原爆訴訟」で、国民の請求権を放棄した責任を追及された日本政府は、外交保護権のみを放棄したので、請求権は消滅せず、政府に対する損賠請求は棄却されるべきと答弁した。)から米国訴訟での新抗弁(米国政府と並びサンフランシスコ平和条約で「消滅した」と「政府意見書」を提出)を経て、「相手国は請求を拒絶できる」に大転換(オランダ捕虜抑留市民損賠訴訟東京高裁判決2001年10月11日。もっとも前述の通り、この主張は同条約締結交渉において主張されていた)。戦後賠償訴訟は、サンフランシスコ平和条約が戦勝国・戦敗国ともども国際人道法違反の非人道的行為の個人犠牲者を黙殺したことを明示した。
③ 日中共同声明―日中共同声明(第5項「日本国に対する戦争賠償の請求を放棄する」)の抗弁
西松建設中国人強制連行強制労働事件最高裁判決(2007年4月27日)は、「サンフランシスコ平和条約の『枠組み』」という論理を用いて、日中共同声明の上記曖昧な表現について、「中国国民の請求権は放棄された」と判決した。さらに「請求権の『放棄』とは、請求権を実体的に消滅させることまでを意味するものでなく、当該請求権に基づいて裁判上訴求する権能を失わせるにとどまる」と判決した。
中国政府は同判決に対し「違法であり無効である」と抗議したが、「中国国民の請求権は放棄していない」とまでは表明していない。同判決はこの中国政府の声明発出後の態度を同判決の大きな根拠としていた(浅田正彦『日中戦後賠償と国際法』2015年 東信社)。
西松建設最高裁判決により、中国人原告の日本訴訟は終結に向った。
訴訟の他、同判決の付言、「当事者」すなわち日本国政府と加害企業が、「被害の救済に向けた努力をすることが期待されるところである。」に基づく加害企業と和解の動向は、2009年10月及び2010年4月、西松建設との間で和解が成立。2011年以来三菱マテリアルとの和解が交渉中である。この動向が他の強制労働の加害企業約20社に波及するのは必至である(この三菱マテリアルとの交渉の難航した事件が現在北京第1中級人民法院に係属中の事件)。
加害企業との和解は、2000年11月29日、花岡鉱山中国人強制連行事件の和解成立と「花岡平和友好基金」設立、2004年9月29日、大江山中国人強制連行強制労働事件和解成立が先行していた。
なお、中国政府は、「三つの戦争遺留問題」として、慰安婦問題、強制労働、遺留毒ガス兵器(2012年4月、毒ガス兵器禁止条約に基づく遺棄化学兵器処理につき日中両政府がさらに10年延長を申請へ。1兆円を超す規模となると想定されている。)を挙げており、これらの問題は、戦後に遺留された問題として日本政府に対して解決を求めている。これが中国政府の明確な態度というべきであろうか。
4.東アジアにおける被害者の属する国における戦後賠償訴訟
日本訴訟が収束に向かう中、日本訴訟で敗訴した事件につき、被害者の属する国の裁判所に対して訴訟が提起される動向が広がった。加害国裁判所における戦後賠償訴訟の不利を悟り、被害者の属する国の裁判所に希望をつないだ。この動向は前記ヨーロッパの「被害者の属する国における戦後賠償訴訟」の動きに相呼応するものであった。これによって日本と日本企業を被告とする戦後賠償訴訟は新たな展開を迎える。
(1)中国北京第一中級人民法院に係属する強制労働事件
2002年、中華全国律師協会が対日民間索賠訴訟工作指導小組を立ち上げた。民間の戦後賠償訴訟を支援する「指導小組 が正式に立ち上がったが、次々に提訴された事件は受理されないままであった。中国政府の中国裁判所における戦後賠償訴訟に対する態度は明瞭ではない(指導小組は現在活動停止状態)。
2010年9月、新たに「指導小組」外の中国弁護士が山東省高級人民法院へ提訴したが、不受理状態が続いた。政治的な不受理状態としてしかありえない。中国においては、このように「被害者の属する国の裁判所」における訴訟はなかなか始まらなかった。
2014年3月、北京市第1中級人民法院が事件を正式に受理、初めて強制労働事件について訴訟が受理された。但し、審理は実質進行せず、以来5年経過するも裁判所の手続きは訴状の国際送達等に費やされていると言われるが、特段の進捗は無く、実質では停止状態が続く。中国においては「被害者の属する国における戦後賠償訴訟」はなお進捗しない。
(2)韓国
① 三菱重工被告事件
2000年5月釜山地裁に提訴。日韓請求権協定により棄却。
しかし本件が2012年5月24日の大法院判決(下記④参照)に発展する。
② ポスコ裁判
1965年日韓請求権協定は経済的な性格にとどまらず被害者に対する補償を含んでいるから、受益者であるポスコPoscoは、被害者らに対し補償する義務があると原告が主張(ソウル高裁は2009年10月22日、「社会的責任」を果すよう和解勧告。訴訟は敗訴)。
③ 2011年8月30日、韓国憲法裁判所判決
2011年8月30日、韓国憲法裁判所は、原爆被害者と「慰安婦」について、日韓請求権協定に関し両国に解釈の相違がある場合、韓国政府は日本政府と協議する義務があり、その不作為は憲法違反と判決し、韓国政府の外交交渉を促した(実質上日韓条約と日韓請求権協定の見直しに発展する)。
2011年12月、日韓首脳会談で韓国大統領が上記問題を提起したが日本首相は応じなかった。
④ 2012年5月24日、韓国大法院判決(原告勝訴)
2012年5月24日、韓国大法院(最高裁)は、1審・2審敗訴(日本訴訟では最高裁判決で敗訴確定)の徴用工の請求(①広島三菱徴用工被爆者事件、②新日鉄徴用工事件)に対し、
1)反人道的不法行為の被害は日韓請求権協定の範囲に含まれない。
2)本件について原告らは韓国内で請求できなかった客観的な事情があり、消滅時効の主張は不当で信義則に反する権利濫用であり、許容できない。
3)日本最高裁判決は戦争動員を合法視し、韓国憲法の精神に反し承認できない。
と差し戻し判決をした(差戻し審2013年7月10日ソウル高等法院、同月30日釜山高等法院で原告勝訴判決)。
同時に同判決は、「完全かつ最終的に解決された」条項について、外交保護権の放棄にとどまり、日本の国内措置で消滅させられたとしても韓国がこれを外交的に保護する手段を喪失しただけであるとした。これは、西松建設中国人強制連行強制労働事件の最高裁判決が条約の国民の請求権放棄条項により個人の請求権は消滅しないが「裁判上訴求する権能を喪失した」と認定したのと一見似ているが、実際は決定的に異なる認定である。
即ち、同前日本最高裁判決は、文脈上何処の国においても「裁判上訴求する権能を喪失した」(「救済無き権利」)とするのに対し、本判決は、日本の国内措置で消滅させられたとしても韓国がこれを外交的に保護する手段を喪失しただけであるから、韓国裁判所に於いて請求権は消滅していないし、裁判上訴求する権能があるので、認容できるとするのである。東アジアにおいても、被害者の属する国の裁判所における訴訟では、条約の抗弁を超えて、人道法を優先する大きな道が開かれた。
⑤ 「慰安婦問題―日韓政府間合意」と大法院判決及び3つの分岐
2015年年末、「慰安婦問題―日韓政府間合意」が発出され、前記韓国における戦後賠償訴訟の進展に対し、当時の朴政権が日本政府との間で「慰安婦問題―日韓政府間合意」を締結し、この動向を阻止しようと試みたが、「ろうそく革命」の力に退陣を余儀なくされ、圧力から解放された大法院も2018年10月30日、事実上停止されていた判決を出した。
その韓国大法院の判決の内容は次のように分岐している。すなわち同判決は、13名の大法官中多数意見7名(補充意見2名を含む)、個別意見1名、個別意見3名、反対意見2名に分岐しており、実質的には、3つに分岐していた。
1)『多数意見』(13名の大法官中、7名。補充意見2名を含む)
「請求権協定の締結過程とその前後の事情、特に下記のような事情(筆者注―サンフランシスコ講和条約との関係)に依れば、請求権協定は日本の不法な植民地支配に対する賠償を請求するための取り決めではなく、基本的にサンフランシスコ条約第4条に基づき、韓日両国間の財政的・民事的債権・債務関係を政治的合意によって解決するためのものであったと考えられる。」(同判決12頁。頁は同判決の張満界・市場淳子・山本晴太仮訳による。以下同様)
注意するべき点は、同協定の締結過程から見て、「強制動員慰謝料請求権が請求権協定の適用対象に含まれていたとみるのは難しい」(同前15頁)との認定である。前述したイタリアやギリシアの判決は、協定(条約)に含まれているとしても「無効」であるとの判旨であり、これと大きく異なる点に注意するべきである。 本判決『多数意見』には、根本に日本の朝鮮半島の植民地支配そのものが違法であるとの認識がある。その前提の下で、反人道的な不法行為の慰謝料請求権が協定の対象に含まれていたとは認定できないという判決である。(戦争と平和条約の解釈と植民地の戦争動員との間に大きな法的位相の差異がある。)
2)『多数意見』に対する『個別意見』(大法官金昭武、同李東遠、同盧貞姫『判決書』20~32頁)
請求権協定の締結に至るまでの経緯などに照らしてみると、交渉された被徴用請求権は強制動員被害者の損害賠償請求権を含んでいる。しかしながら請求権を消滅させる合意まであったとは認められず、外交保護権の放棄に留まり、請求権は行使できる。
3)『多数意見』に対する『反対意見』(大法官権純一、同盧載淵『判決書』32~42頁)
協定の文言「完全かつ最終的に解決される」とは、外交保護権の放棄に限ると解釈できず、消滅又は権利行使できないので、訴訟によってこれを行使することは制限される。
上記の通り、今回の大法院の判決は大きく分けて3つの分岐に分かれており、戦後賠償訴訟の展開、とりわけ弁連協の言及する「被害者の属する国の裁判所における訴訟」の前進の跡を意見の分岐によって如実に反映しているというべきである。
さらに今回の大法院判決の大きな意味は、これまで述べてきた第2次大戦後の個人の戦後賠償訴訟に対する歴史的な原告勝訴の判決である(植民地に対する戦時動員の非人道的処遇に関する「被害者の属する国の裁判所における戦後賠償訴訟」)とともに、植民地独立と旧宗主国の関係に関してその判旨を明瞭にしていることである。東アジアにおける第2次大戦後の冷戦体制を打ち破った大法院判決は、さらに新たに植民地独立と旧宗主国の関係に踏み込んだ。国際法・国際人道法及び同慣習法にとっては未踏の領域といってよい。
5、結び―国際人道法の確立へ
戦後賠償訴訟は、国際人道法違反の被害者個人を黙殺した第2次世界大戦の戦後平和条約=冷戦体制の見直しの要求である。
日本における戦後賠償訴訟は、アジア太平洋において戦勝国と戦敗国を問わない国際人道法の確立と平和をめざす国際連帯の行動である。
戦時下の人道法違反の行為の被害者は、国家間の条約でその損害賠償請求権を放棄されないという考えは、戦後賠償訴訟の展開とともに次第に有力になってきた。
戦争に関して、国家はすでに万能ではない。国家は現代の国際人道法に劣後する。(2019年5月8日記)
*なお、「戦後賠償訴訟に関する法的解釈の歴史的変遷の諸例」について参考として別途掲載。クリックで表示されます。
たかぎ・よしたか
1946年生まれ。東京大学法学部卒業、同大学院新聞学研究科博士課程単位取得。弁護士、日中法律家交流協会理事長、1992年以来「戦後補償問題を考える弁護士連絡協議会」(『弁連協』)事務局主任。オランダ捕虜・抑留市民賠償訴訟、イギリス他連合国捕虜・抑留市民賠償訴訟担当。著書に『戦後補償と国際人道法 個人の請求権をめぐって』(申恵丰・永野貫太郎と共編著、日・英文 2005年 明石書店)、『在中国人民法院提起的戦後賠償訴訟的法律問題』(中文 2005年)、『戦後補償法 その思想と立法』(今村嗣夫・鈴木五十三と共編著、1999年 明石書店)など。
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